ホテルの一室で僕とミサキは顔を合わせていた。
なんてことのないビジネスホテルである。
「久しぶり、一週間ぶりだね」
「先生の連絡が来ないからあれは嘘だったと思った」
「ごめん、最近忙しくてさ。なのに中々集中が続かなくって」
ミサキはツンとした態度で接してくる。
この前見たときは学生のときより包帯と傷が減っていたのに、今日はあの頃と同等かそれ以上に傷と包帯が見受けられた。
目の下にはクマがあって髪もボサボサである。ただ化粧はちゃんとされていた。
「別にいいよ。ただ、寂しかった」
「なら今日はその寂しさを埋めてからにするかい。相方が体調不良だと僕も困るからね」
「お願い」
「わかった。何をすればいいかな?」
「何も言わないで手、繋いで」
そう言って片腕を無造作に突き出してくる。傷痕は手のひらや甲すらも侵食していた。
突き出された手を傷が開くことのないように包み込む。自分の手も彼女の手も存外に冷たく冷え切っていた。
手を繋いで無言の時間が続く。
けれどそれは、雪解けのように双方の凍っている壁というものを徐々に溶かしている。
この一週間、消えることのなかった吐き気やめまい、そういったものが体から外に流れ出していく。
ふとミサキを見ると、寝不足気味ではあるものの顔は穏やかに朱色に染まり、表情も徐々に溶けてきていた。
何分ほどそうしていただろうか。もしかしたら1時間以上そうしていたかもしれない。
けれど、一度も退屈や面倒だなと感じることはなかった。
ミサキはいつの間にか目を瞑ってスウスウと寝息を立てている。その寝顔がリスのようで可愛らしい。
流石に体が悲鳴を上げてきたので手をつなぐのを止めて立ち上がる。
伸びと欠伸をして水を飲みに冷蔵庫へと向かう。寝てはいないというのに体の調子はこの一週間で一番良いと言えるほどに安定している。
コンビニで買ったペットボトルの蓋を開けて飲むと、不意にミサキと合コンで再会をして泥酔をした日を思い出した。
あの夜は忘れたくても忘れられないほど印象に残っている。
初めて自分の生徒に自分の過去と本当の自分を見せた時だった。一度、卒業という形で切られた縁が今こうしてホテルで肩を寄せ合う関係になるとは誰が予想できただろうか。
キャップを締めてミサキのそばへと戻ると、彼女は苦しい表情となっていた。
「ミサキ!大丈夫」
「...ん...い、......ない...」
寝言でなにを言っているのかわからないけれど、離していた手を彼女の手の元へと送り、自分はここにいるという事を示すと直ぐにミサキは安堵の表情に戻った。
ミサキ自身が起きるまでこうして手を繋いでいようと決めて二人用のベットに寝そべると、先程まではなかった眠気が襲ってくる。
そうして気づいたときにはミサキと同じベッドで熟睡していた。
目を覚ますと手を繋いだままのミサキが体をこちらに向けていた。
「おはよ。よく眠れた?」
「うん、ちゃんと寝ていたつもりだったけど、憑き物が落ちた気がするよ」
「ならよかった。...一応聞くけど、手は出してないよね」
「親友とサオリに誓って手は出してないよ」
「女といるのに他の女の名前出すんだ。サオリ姉さんだからいいけど」
「別に、僕とミサキは友達でも恋人でも、教師と生徒でもないからね」
「いじわる」
「はは、じゃないとシャーレの先生はやってられないさ」
ほんの少し、ミサキの手を握る力が強くなる。
そうして顔はこちらに向けずに彼女は呟いた。
「先生、今の関係もいつかは終わるのかな。...多分、終わるんだろうね」
「急にどうしたのミサキ?」
「先生が言ってたこと、私なりに考えてみたんだ」
「事実だけは残るってこと?」
「そう。そして出た結論は」
一呼吸を置いたあとミサキは告げる。それに合わせて僕も彼女から感じ取った事を言った。
「「事実も意味を持たないのなら無意味」」
重ね合わさった声に握っていたミサキの手が硬直する。
懐かしい。
その考えは高校の時に通った道だった。そして自分の教え子が同じ結論にたどり着いている。その事実がほんの少しだけ嬉しかった。
「なん...で」
「一緒だよ。僕も同じ事を考えた時期があっただけさ」
「それでも...」
「納得がいかないなら、それだけこの関係に大事にしてるってことで、駄目かな」
「なら...証明をして」
「わかったよ。どうすればいい?」
「何か無意味だと思えないものを私に残して」
そう言うミサキの手は震えていた。
電気をつけていない薄暗い部屋で、いつかの日に似た状態だ。けれど明確に違う部分があるのだとすれば、彼女が縋るものを欲していることだろうか。
「ちょっ、ん」
手を繋いだまま馬乗りになり、ミサキにつけられているマスクを取り外して互いの唇を...。
なんて、触れ合うことはせずにそのまま顔を、息が顔に触れ合う距離で見つめる。少し意地悪だっただろうか。
「ミサキ、君は僕に押さえつけられているけれど、大丈夫かい。このホテルはオートロックで鍵がないと部屋から出ることができないらしいよ」
「それがどうしたの」
少し残念そうにしながらいじけたように言い放つ。
その仕草はあの頃と変わっていない。
「窓も鍵がかかっていて動かないと開けられない...」
「何がいいたいの」
少し警戒をされつつも言葉で作り出した虚像の部屋へと案内をする。
「つまり今ここは密室というわけさ」
「!!」
「君は自分の意思で外に出ようと望んでも、それは僕がいる限りはさせない」
「いや、やめて...」
人が上に乗り体全体が拘束状態であるため、ミサキは顔だけを精一杯動かして部屋の中を視線だけで探索をする。
しかし、目に当たるところでの密室ではないという証拠を発見できていなさそうだった。
唯一この密室から抜け出すことが出来るのは、僕の拘束から逃れることぐらいだろうか。
「お願い、やめて!」
「ミサキは、確か閉所恐怖症だったよね」
「これが君が望んだ無意味と思えないものだよ。...恐怖というね」
いまだ繋がれた手は爪が食い込むほどに固く握られている。もうちょっと力を込めれば血が出てくるかもしれない。
勿論、本気でやっているわけではないが、こんな事をするような人はもう教師と呼べる立場じゃない。
ミサキの目尻には雨粒がたまりはじめている。呼吸も過呼吸に近かった。
「この際、覚えておくといいよ。この世にはろくでもないクズの人間が少なからず存在するってことをね」
「そう、僕みたいな人間が」
そう言って握られている手を乱暴に解放をさせて、ミサキの首元に入れ込んで背中をさする。背中は絹のようにすべすべとしていた。
ミサキは突然の事に反応が追いついていないのか、口を開けて放心している。
「やりすぎちゃったかな。ずっと手を繋いだままでもいいけど、どうせならもっと君を感じていたいからね。意地悪しちゃった」
一通りの言い訳をして、けれど彼女はそんな僕を、拒絶、反抗、侮蔑、そのどんな事もせずにただ受け入れた。
突き放すことだってできただろう。ただそれを彼女はしなかった。ある意味では見抜かれていたからかもしれない。
「...馬鹿」
そうして、気づけば僕とミサキは二人揃って互いのことを抱擁していた。
互いにある不出来な傷をすり合わせるように。
「先生、落ち着いた?」
「ありがとう。ミサキ」
やはり、ミサキと一緒にいると自分が自分でなくなってしまう。
生徒の前で貼り付けていた仮面が、もう二度とあの二人以外に取られることのないものだと思っていた。
「びっくりはしたし、...本当に怖かったけど、逃げ出したら本当の先生には会えないと思ったから」
「いやーわるいことしたなー」
「棒読みじゃ何も伝わらないよ」
「それでも、逃げることなく受け止めてくれて嬉しいよ」
春に咲く桜のように美しく、けれどどこか儚く笑みを見せるミサキは部屋の暗さも相まって光っているように見えた。