踊る裁判(上)
夜に君臨するふたつの影があった。死滅回游という理不尽な盤面を、彼らは独自の歪んだ解釈と圧倒的な武力で蹂躙し尽くした。不当な襲撃者はすべて被告人として定義され、容赦のない巨大な質量によって圧殺された。累積する死の山と引き換えにコガネの告げる無機質な数字はついに大台へと達する。
「現在102ポイント獲得。条件達成だよ、プレイヤー諸君!」
彼らが名実ともに化け物の頂点へと上り詰めた瞬間だった。拠点は東京の片隅に佇む古びた劇場だった。外界の喧騒や降り続く雨から隔絶されたその場所はかつて多くの虚構が演じられ、観客に消費されていった空間。今の二人にはこれ以上なく相応しい舞台装置だった。
劇場の上にある、大きな浴槽。浴槽に満たされた水は透き通るほどに澄んでいる。そして二人が身に纏っているのは汚れ一つない真っ新な黒のスーツだった。だが彼らにはそれが血で汚れているようにしか見えなかった。日車は湯の中にゆったりと身を沈めていた。黒い布地が水を含んで重く肌にまとわりつく。その彼の足の間に北見は座っていた。彼女は日車の頑丈な胸元に自らの背中を預けている。薄暗い空間の中、日車は自分の掌を見つめた。水に濡れた皮膚は白く返り血などどこにも残っていない。しかし指先を曲げるたびにあの真っ二つに折れたペンの感触と、砕けた肉体の生々しい振動が皮膚の裏側からじりじりと這い上がってくる。
「……100点が貯まった」
日車の低い声が、タイルの壁に反響して重く落ちた。
「盤面を書き換える権利を得た。最初の理想通りポイントの譲渡を可能にし、この殺し合いの連鎖を止めるルールを追加する。……手続きとしては、これが最善だ」
彼はそう言いながら、自分の腕の間に収まっている彼女の、濡れた黒髪を見つめた。戦闘中の相互忘却という狂気的な縛りを経てなお、二人はこうして同じ泥濘の中に留まっている。日車がどれほど強大な力を手に入れようとも、その力の根底にあるのは彼女という存在がもたらした絶望のイメージだった。
「だが、不思議だな」
日車は自嘲気味に息を漏らし湯の中に沈んだ自らのガベルの輪郭を思い浮かべた。
「服も着替え水もこれほど澄んでいるというのに。俺の目にはこの水がすべて、今日まで奪ってきた者たちの血で真っ赤に染まっているように見える。君のスーツも俺のこの手も、泥と血まみれのままだ」
日車はそれ以上言葉を続けず、ただ静かに背中に伝わる彼女の微かな鼓動と体温を感じていた。
「ふふふ……」
薄暗い楽屋の静寂に北見の小さな笑い声が溶けていく。それはどこか切なくも狂おしい響きを持っていた。
「そうだね……。私もそう見える。だけど、それでも君のいない世界なんてもう考えられない」
彼女はそう呟くと自らの肩へと回された日車の大きな手をそっと自らの掌で包み込んだ。水の底で確かめるようにゆっくりと指を絡めていく。互いの指先から伝わる確かな体温だけが二人が生きている現実であることを証明していた。手のひらの温もりに安堵したように、北見は再び盤面へと思考を戻す。
「ルールは何を追加しようか、やっぱりー…」
当初から話し合っていたポイントの譲渡について言葉を続けようとした、その時だった。静寂を破り劇場の重い扉が不意に開け放たれる。冷たい外気と共に見知らぬ少年がふらりと足を踏み入れてきた。しかしその少年は舞台の上に鎮座する浴槽とそこに黒いスーツを着たまま浸かっている二人の男女を目にした瞬間、完全に動きを止めた。
「風呂?」
あまりに想定外の光景に少年の顔が純粋な驚きに染まる。その刹那浴槽を満たしていた平穏は一瞬にして霧散した。水面が小さく波立ち、日車の身体が鋭い警戒の硬直を見せる。数多の術師を葬ってきた圧倒的な呪力の気配が、音もなく空気を支配していく。日車は湯気の向こうの少年を射抜くような眼差しで見据え、低く地を這うような声を発した。
「誰だ、そこで何している」
緊迫した空気の中、劇場の舞台裏に張り詰めた沈黙が流れる。少年の戸惑ったような声が張り詰めた空気をわずかに緩ませた。
「あんたたちこそ。ていうか悪い、邪魔だったか?」
黒いスーツを着た大人の男女が揃って湯船に浸かっている。そのあまりに奇妙でどこか尋常でない雰囲気を察したのか、少年は少しきまり悪そうに頭を掻きながら聞き返してきた。衣服の隙間から覗く少年の身体には戦い慣れた者特有の無数の傷跡がある。しかしその表情や物腰には、まだあどけなさが色濃く残っていた。日車の手のひらに込もる呪力の熱が、さらに高まろうとしたその時。彼の足の間にいた北見が重ねられた日車の手を優しく握り直し、その殺気をそっと宥めるように声を上げた。
「大人げないよ、日車くん」
彼女の言葉に日車はわずかに目を見開いたが、促されるようにして視線を落とし練り上げていた力を静かに霧散させた。北見は湯船から目の前に立つ少年をじっと見つめていた。こんな未成年の少年までがあの血塗られた殺し合いの盤面に放り込まれている。その厳然たる事実に彼女の胸の奥は言葉にできない驚きと、鋭い痛みに支配されていた。
少年の姿を見ているとどうしても思い出してしまう。13歳という若さで司法の闇に放り込まれ、ただシステムを回すための部品として生きることを強いられた自分自身の過去を。そしてかつて自分が完璧な嘘によって監獄へと追いやった、あの貧しい少年の泣き叫ぶ声を。
(この世界は、どこまで子供たちに酷なんだろうね……)
虚ろな瞳の奥に悲しみの色を滲ませながらも、北見はいつものようにどこか他者を煙に巻くような柔らかな笑みを唇に貼り付けた。そして手を少年に向けて、穏やかに問いかける。
「私は北見、こっちは日車くん。それで何か用かな、少年」
衣服を濡らす澄んだ水が少年の純粋な瞳を前にして、一瞬だけ本来の透明さを取り戻したかのように見えた。日車は無言のまま北見を背後から支える腕の力を緩めず、少年の次の一言を待った。少年は浴槽の二人に視線を据えたまま、その真っ直ぐな瞳を日車へと向けた。
「あんたが日車なんだな」
その言葉に日車の眉が僅かに動く。すでにこの結界の中で、自分の名前と100点という数字が他の参加者に知れ渡っていることを察した。日車は北見を抱え直すようにして静かに答えた。
「いかにも」
「話がしたい」
少年は一歩前へ踏み出し真っ直ぐに交渉の意志を示した。その淀みのない態度に日車の足の間に座る北見が、少し呆れながらもどこか楽しげに口元を歪めた。
「君。人に名前を聞いて自分は答えないのか?」
北見がそう言って少年をたしなめると、少年はハッとしたように顔を赤くし慌てて頭を下げた。
「あ、悪い!俺、虎杖悠仁!」
虎杖と名乗った少年はバツが悪そうに頭を掻きながらも、すぐに真剣な表情に戻って本題を切り出した。
「えーと端的に、あんた100点持ってるよな。俺たちは死滅回遊を終わらせたい。あ、タンマ。終わらせるってよりは殺し合いの強制を無効にしたい。そのためのルール追加に日車の100点を使わせてくれ」
劇場に少年の真っ直ぐな願いが響く。それはこの血塗られたゲームを根底からひっくり返そうとする、あまりにも純粋な正義の言葉だった。その言葉を聞く日車の瞳は凍りついたように冷たかった。自分たちがどれほどの泥を啜り、どれほどの命を噛み砕いてその100点に辿り着いたか。その数字の裏にある重みをこの少年はまだ知らない。日車は浴槽からゆっくりと背を離し、虎杖を冷徹に見据えた。
「俺も端的に言おう。断る」
ぴしゃりと扉を閉ざすような拒絶の言葉が水面を激しく揺らした。
(やっぱり、この子はプレイヤーなのか。点数を狙う、プレイヤー)
湯船の底に沈む自分の手を見つめながら、北見はどこまでも虚ろな目をしていた。衣服を濡らす澄んだ水が少年の純粋な瞳を前にして、一瞬だけ本来の透明さを取り戻したかのように見えたのも束の間。虎杖が口にした100点という数字が、結局のところ彼もまたこの血塗られた殺し合いの盤面に巻き込まれた当事者であることを残酷に告げていた。日車は北見のその微かな表情の陰りと、虎杖の真っ直ぐすぎる視線を静かに見比べた。彼が虎杖の要求を拒んだのは単なる独占欲からではない。日車はこの狂ったゲームの仕組みを誰よりも冷徹に分析していた。
「突然きたお前をなぜ信じられる?仮にそうだとしても、お前の言う『殺し合いの強制を無効にする』などという大雑把な願いは、このゲームの管理者に拒否されるのがオチだ」
日車は低く淡々とした声で語り始めた。
「俺達はこの血で汚れた点数を使って、確実にこの地獄の隙間をこじ開けるための順番を考えている。命のやり取りを止めるための確実な手順をな」
20人以上の命を奪いその悲鳴を背負って辿り着いた100点だからこそ、不確実な理想論に投じるわけにはいかない。
だが虎杖はその言葉に怯むことはなかった。拳を強く握りしめ溢れんばかりの呪力をその身に宿しながら一歩も退かずに日車を睨みつける。
「言い方を変える。100点を使わせろ!」
少年の剥き出しの意志が楽屋の空気を爆発的に震わせた。その瞬間日車は浴槽からゆっくりと立ち上がった。水を含んで重くなった黒いスーツから、ボタボタと激しく水滴が床へ滴り落ちる。冷気が一瞬にして刺すような殺気へと変貌する。戦闘態勢に入る日車の背中を北見は浴槽の中から見上げていた。相手はまだ自分たちよりも遥かに若い未成年の少年だ。かつて自分がその言葉で人生を狂わせてしまった子供たちの影がどうしても虎杖の姿に重なってしまう。戦うことへの強い躊躇いと乗り気でない感情が、彼女の声音を微かに揺らした。
「私の手は必要かな?日車くん」
かつてのように敵をハメるための冷酷な起訴状を綴る気になれず、ただ確認するように尋ねる北見。日車は振り返ることもなく目の前の虎杖だけを鋭く見据えたまま、短く答えた。
「君は見ていろ」
それは彼女にこれ以上の泥を被せまいとする、日車の頑なな決意でもあった。濡れた黒いスーツを纏った日車の手の中に無機質な武器が音を立てて形を成していく。劇場という閉ざされた舞台の上で、新たな審理の幕が上がろうとしていた。日車の背後にゆらりと浮かび上がったのは、目が完全に縫い合わされた異形の式神だった。虎杖はその圧倒的な威圧感を見上げ思わず息を呑む。
(式神!?)
日車はゆっくりと舞台の段差を降りて虎杖へと近づいていく。床板を踏みしめる足音には一切の迷いも躊躇いもなかった。虎杖は全身の筋肉を緊張させ、日車の一挙手一投足に神経を研ぎ澄ませた。
(日車は100点保持者!最低でも術師を20人殺しているかもしれねえ。それにあの後ろの女性も気になる。無闇には飛び込めない。後手に回るがどんな攻撃でも対応する……!)
相手の能力が分からない以上まずは防御に徹して隙を窺う。虎杖がそう覚悟を決めた、まさにその刹那だった。日車が静かにだが確固たる意志を込めて手を合わせる。
「領域展開」
劇場の空気が、ガラスがひび割れるような音を立てて歪んだ。
「誅伏賜死」
一瞬にして古びた劇場の光景が剥ぎ取られていく。光と闇が反転し二人の周囲を囲んだのは、巨大なギロチンが中央に鎮座する、冷徹で不気味なほどに静まり返った法廷の空間だった。
(しまっ、術式が発動する前に——!)
未知の空間に閉じ込められる恐怖を本能で察知した虎杖は、地面を爆発的に蹴った。呪力を乗せた重い拳を術式が完全に完成する前に日車へと叩き込もうとする。
しかしその拳が日車の顔面に届く寸前、まるで世界そのものに拒絶されたかのように虎杖の身体はピタリと宙で静止した。殴ろうとする意志も拳に込めた爆発的な力も、すべてが透明な壁に吸い込まれるようにして消えていく。
「なっ……!?」
動揺し自らの拳を見つめる虎杖を見下ろしながら、日車は感情の失せた声で静かに告げた。
「ここではあらゆる暴力行為が禁止されている。お互いにな」
「お互い?」
身構えたまま不可解な空間のルールに虎杖が眉を潜めたその時だった。見れば先ほどまで浴槽にいたはずの北見が、いつの間にか日車のすぐ隣に立っていた。水を含んで重くなった黒いスーツを何事もないように纏い、彼女は虎杖に向かってどこか他者を煙に巻くような薄い笑みを浮かべた。
「ああ、私はこの裁判には不参加だから安心しなよ、少年」
彼女の虚ろな瞳がまっすぐな虎杖の姿をじっと見つめている。暴力の消えた奇妙な聖域の中で、三人の視線が静かに交錯した。虎杖は不可解なルールに戸惑いながらも決して警戒を解かずに身構え続けていた。そんな彼に対し日車は酷く事務的な、どこか聞き飽きた定型文を口にするような声で告げた。
「ああ、すまない。言葉の暴力は別だ。ジャッジマン、始めてくれ」
その合図とともに裁判官席にそびえ立つ巨大な式神が動いた。縫い合わされた目から異様な威圧感を放ちながら、ジャッジマンは法廷全体に響き渡る声で罪状を読み上げる。
『虎杖悠仁は18歳未満にも関わらず、2017年7月16日宮城県仙台市のパチンコ店マジベガスに客として入店した疑いがある』
張り詰めていた死合いの空気が、予想外すぎる罪状によって一瞬にして間の抜けたものに変わった。
「あ?」
虎杖の口から間抜けな声が漏れる。てっきり殺し合いに直結するような重罪を突きつけられるとばかり身構えていた彼は、完全に虚を突かれて固まった。そして必死に過去の記憶の糸をたぐり寄せ……数年前の地元の風景が脳裏にフラッシュバックした瞬間、「あ」と、思い当たる節がある声をあげてしまった。
ごまかすように視線を泳がせまごまごと居心地悪そうに頬を掻く虎杖。命懸けの戦場に似合わないあまりにも年相応な少年の反応だった。その様子を日車の隣で見ていた北見が、口元をニヤリと歪める。
「ひゅー、やるぅ」
先ほどまでの虚ろで冷え切っていた雰囲気から一転、彼女は悪びれもなく口笛を吹くような真似をして虎杖を茶化した。未成年のパチンコ店への出入り。この血みどろの死滅回游においてあまりにも平和的でちっぽけなその不良行為が、彼女のささくれ立った心をほんの少しだけ緩ませたのだ。顔を赤くして気まずそうにする虎杖を見下ろしながら、日車は弁護士席から冷静に言葉を続ける。
「ジャッジマンは領域内の者の全てを知っている。だが心配するな、俺にはその情報は共有されない」
日車は手元の虚空から現れた一通の封筒――ジャッジマンから提示された証拠品を片手に持ち、虎杖へと真っ直ぐな視線を向けた。
「判断はあくまで君と俺の主張をもとに下される」
そこにあるのは純粋な言葉と論理による闘争のルール。日車の言葉はこれが呪力による殴り合いではなく、明確なルールに基づいた裁判であるという冷徹な事実を少年に突きつけていた。日車は手元の封筒――中身の見えないその紙切れを軽く振ってみせた。
「この証拠を除いてな」
それは眼前の少年に対する彼なりの慈悲であった。日車は知っている。北見がこの幼さの残る少年を自らの手で裁くことに強い拒否感を抱いていることを。かつて彼女が完璧な嘘で監獄へ送ってしまった少年の面影を、彼に重ねてしまっていることを。
もし彼女がここで公訴執行を発動し、少年を強制的に罪に陥れればこの証拠など一切必要ない。瞬く間に有罪を確定させ相手を排除できるだろう。
だがそれをすればどうなるか。
お互いが同じタイミングで術式を行使しその歯車が噛み合った瞬間、あの雨の夜に結んだ忌まわしい縛りが発動してしまう。互いの顔も名前も忘れ、私情を一切挟まないだだの「弁護士」と「検察官」という記号に成り果ててしまうのだ。
日車はそれが恐ろしかった。自らの正義を歪めてでも隣にいると決めた彼女が、非情なシステムの一部として完全に損なわれてしまうことが何よりも恐ろしかったのだ。だからこそ彼は北見を不参加のままに置き、自分ひとりでこの適正な裁判を進行する道を選んだ。
「いいか。君の目的が何であれ、この領域から無傷で出るにはジャッジマンから無罪を勝ち取る必要がある」
日車は一切の感情を排した声で領域の絶対的なルールを少年に突きつける。提示された罪状に対し自らの言葉で主張を展開し、疑いを晴らさなければならない。法廷の重苦しい空気が虎杖の肩にのしかかる。ジャッジマンの縫い合わされた異様な両目が、ギロチンの下で裁きを待つ少年を無言で見下ろしていた。日車は冷徹な眼差しで言葉を紡ぐのを待つ虎杖を見据えた。
「さあ言い訳をしろ、ジャッジマンの気は長くないぞ」
虎杖は必死に頭を回転させた。事実として店に入ったのは間違いない。だが正当な理由があれば見逃してもらえるかもしれない。彼は数年前の記憶を引っ張り出し、顔を上げて堂々と宣言した。
「俺はパチンコ店マジベガスに入店したが、急な便意でやむを得ずトイレを借りただけだ!」
その苦し紛れの主張が響いた瞬間、日車の隣に立つ北見は思わず片手で顔を覆い「あちゃー」と声に出さんばかりの呆れた表情を浮かべた。自ら入店したという一番の事実をあっさりと認めてしまった上、その言い訳があまりにも稚拙すぎる。百戦錬磨の検事である彼女からすれば被告人が自ら墓穴を掘って飛び込んだようなものだった。対する日車は表情一つ変えることなく、手元の封筒から一枚の紙――ジャッジマンが提示した証拠――を静かに引き抜いた。
「便意、か」
日車は証拠の写真を虎杖の目の前に突きつけた。そこには、景品交換所の前でしっかりと換金をしている虎杖の姿がバッチリと写し出されていた。
「トイレを借りるためだけに立ち寄った人間が、なぜ換金所で現金を受け取っている写真が残っているんだ?」
「あ……いや、それはその……!」
決定的な証拠を突きつけられ完全に言葉に詰まる虎杖。言い逃れの余地などどこにもない。事実と証拠を前に少年の拙い主張は開始わずか数秒で崩れ去った。脂汗を流す虎杖を見下ろしながら、日車はふと冷静な声で言葉を切った。
「いや、判決はまだだったな」
日車のその言葉を合図にするように裁判官席にそびえる巨大なジャッジマンの天秤が、重々しい音を立てて傾き始める。法廷の空気が一気に冷え込み、異形の式神から無慈悲な宣告が下された。
『有罪』
『没収』
判決の言葉が領域内に絶対的なルールとして響き渡る。空間がガラスのように砕け散り、絶対的な法廷の静寂は唐突に終わりを告げた。視界が晴れると同時、そこは再び元の薄暗い劇場の舞台裏へと戻っていた。
領域が解除された直後、虎杖は床を蹴り飛ばすような勢いで日車へと肉薄した。日車もまた瞬時にガベルを具現化し、少年の拳を重い鉄の柄で受け止める。凄まじい衝突音が劇場の壁に反響し水飛沫が舞い上がった。北見は一段高い舞台の上からその攻防を静かに見下ろしていた。彼女は圧倒的な暴力の渦中に身を投じる少年を見つめながら、どこか諦観の混じったような、酷く悲しげな色を瞳に浮かべていた。
(ああ、やっぱりこうなるか)
言葉で殴り合う法廷から結局は血を流す物理的な暴力へと帰結してしまう。それは彼女がアメリカで見てきた救いようのない現実の縮図そのものだった。激しい打撃戦の最中、日車は視界の隅で舞台の上に立つ北見のその悲痛な表情を確かに捉えていた。
(心配するな。適当に痛めつけて、追い出す)
日車は内心でそう呟いた。彼女の手を汚させないために、そして彼女に過去のトラウマをこれ以上見せないために、この戦闘は自分が手短に終わらせる。自分からすればたかだか未成年の少年一人を無力化することなど造作もないはずだった。
ガッ、と鈍い音が響く。
日車の放ったガベルの重撃を虎杖は腕を交差させて真っ向から受け止めた。骨がきしむような衝撃のはずだが、少年は顔を歪めながらも一歩も後ろへ下がらない。
「丈夫だな」
日車が余裕を残した声で言うと、虎杖は息を荒らげながら不敵に前を睨み返した。
「それが取り柄なもんで」
虎杖がそのまま反撃に転じ鋭い回し蹴りを放つ。日車はそれを躱しながら、ふと奇妙な違和感に気づいた。少年の動きは速く、そして重い。だがその拳や蹴りから、呪術師特有のあの黒くまとわりつくようなエネルギーの脈動が一切感じられなかったのだ。
「……呪力が練れなくなっているのか?」
日車の問いに虎杖は忌々しそうに舌打ちをした。
「アンタがやったんだろ」
虎杖は体勢を立て直し再び拳を握り込んで突進してくる。その言葉を聞き、日車の脳内で論理のパズルがカチリと音を立てて組み上がった。
「『没収』の罰は一時的に術式の使用を不可能にするものだ」
日車は迫り来る虎杖の連撃を捌きながら、冷静に術式のルールを口にした。対象が術式を持っていなければ罰は一段階下がり、基礎的な呪力の使用そのものを没収する。つまり目の前の少年には生得術式が刻まれておらず、先ほどの判決によって完全に呪力を奪われている状態だということだ。
日車はガベルを振り抜き虎杖の身体を弾き飛ばした。しかし虎杖は空中で見事に受け身を取り、劇場の床に両足で着地するとすぐさま次の攻撃の姿勢を取った。その常軌を逸した身体能力を目の当たりにし、日車の瞳に隠しきれない驚愕の色が浮かび上がる。
(なぜ……呪力なしで、俺と対等に渡り合える……!?)
日車は現在自身の呪力で肉体を極限まで強化している。並の術師であれば一撃で骨が砕け散るほどの出力を出しているにも関わらず、呪力を一切持たないただの生身の人間がそれに正面から食らいついてきているのだ。日車は眼前の少年の底知れない身体能力に戦慄を覚えながらも瞬時に思考を切り替えた。
僅かな油断でもすれば足元を完全に潰される。もし自分がここで窮地に陥るようなことがあれば舞台の上から見下ろしている北見が黙っていないだろう。彼女はまた己の精神を削り無理やり起訴状をでっち上げて術式を発動させてしまうに違いない。それだけは絶対に避けなければならない。
(彼女の手を汚させないために……俺が、全力で叩き潰す)
日車の瞳にこれまで以上の明確な殺意と覚悟が宿る。彼はガベルの質量を限界まで引き上げ、劇場の空間を圧圧するほどの威圧感を放ちながら虎杖へと容赦のない猛攻を仕掛けた。
「おおおっ!」
虎杖は呪力のない生身の肉体だけで嵐のように降り注ぐガベルの連撃を間一髪で捌き、躱し、時には壁を蹴って劇場の空間を縦横無尽に駆け回る。しかし防戦一方であることに変わりはなかった。
(ヤバイヤバイヤバイ!?)
ギリギリの死闘の中、虎杖の脳細胞がかつてない速度でフル回転する。呪力が練れない今の状態ではいずれスタミナが尽きてジリ貧になるのは目に見えている。だがこの絶体絶命の状況下で、虎杖の野生の勘がひとつの疑問に辿り着いた。
(こんだけの絶対的なルールを強いる無法な能力なら……何か、日車にとって不利な要素が絶対に組み込まれているんじゃないか!?)
相手の術式のモチーフは裁判だ。裁判というシステムのルールに厳格に乗っ取っているのだとしたら、一度の敗訴で全てが終わりというわけではないはずだ。不服があるなら上の舞台へと訴え出る手段が残されている。虎杖は日車が放った渾身の横薙ぎを身を屈めて回避すると、床を爆発的に蹴って大きく後方へ跳躍した。そして日車を真っ直ぐに指差し、劇場の天井を震わせるほどの大声で叫んだ。
「日車ぁ!やり直し、もう一回だ!」
その言葉が響いた瞬間、日車が追撃のために振り上げようとしていたガベルが空中でピタリと止まった。静まり返った劇場に、少年の控訴の宣言がこだまする。一段高い舞台の上からその光景を見下ろしていた北見は驚きにわずかに目を丸くした後、耐えきれないといった様子で肩を揺らした。
「おや、なかなか勘がいいね」
彼女の唇に浮かんだのは純粋な感心の笑みだった。百戦錬磨の術師でさえ気付けず理不尽な判決の前に散っていったというのに。この呪力すら持たない少年は、野生の勘と生き残るための執念だけで日車の術式に隠された救済措置へと見事に辿り着いたのだ。
「二審ってやつだよな、ほら、もう一回!」
虎杖の叫びが劇場の壁を震わせた。空間が再びガラスのように砕け、劇場の風景が反転する。暗く冷たい静寂に包まれた法廷の領域が、三人を再び飲み込んだ。裁判官席には巨大な式神ジャッジマンが先ほどよりも重圧な影を落として鎮座している。
『虎杖悠仁は2018年10月31日渋谷にて大量殺人を犯した疑いがある』
ジャッジマンの縫い合わされた目から放たれた無機質な声が法廷に響き渡る。
空気が完全に凍りついた。
先ほどのパチンコ店への入店という些細な罪とは次元が違う。日車の目が見開かれ張り詰めていた空気がさらに別の、どす黒い何かへと変質していく。
北見は証言台に立つ虎杖の目を真っ直ぐに見つめた。少年の瞳から先ほどまでの熱い闘志や生存への執着が完全に抜け落ちていた。そこにあったのは底なしの絶望と、自らの魂を苛み続ける凄まじい罪悪感だった。かつて彼女がアメリカの法廷で自分の捏造によって絶望の淵へ突き落としてしまったあの少年の瞳と、痛いほどに重なる。
(違う。この子は……)
北見の直感が告げていた。目の前の少年が直接手を下したわけではない。だが少年はそれらすべてを自分の罪として背負い込んでいるのだと。
「……ああ。嘘じゃない」
虎杖は一切の言い訳を口にしなかった。絞り出すような声で自らの心臓を抉るように告げた。
「俺が、殺した」
法廷が静まり返る。日車が証拠を開封して反論を促す間すら与えない完全な自白。ジャッジマンの巨大な天秤が音を立てて絶望的な角度へと傾き始める。少年の自白を受け式神が即座に極刑――『死刑』を宣告しようと、重々しい裁きの槌を振り上げようとした。
その瞬間だった。
「――異議あり!」
北見が身を乗り出し、自らの術式を法廷の空間へと強引に叩き込んだ。公訴執行の呪力がジャッジマンの宣告プロセスに無理やり介入し、法廷の歯車に火花を散らして軋ませる。
(このままじゃこの子は本当に殺される。……日車くんに、これ以上泥を被らせるわけにはいかない!)
彼女が少年を庇いそして日車を救おうと術式を発動させたその刹那。雨の夜、二人が生き残るために交わした忌まわしい縛りが、限界を超えた介入をトリガーにして完全に発動した。
――『忌避権』の自動発動。
二人の間にある利益相反――互いを思いやり、救おうとする馴れ合いを、領域というシステムが呪力的なバグとして処理しないための、最も残酷な縛り。
「検察官、入廷」
パキン、と。
検察席へ北見が移動する。日車と北見の脳内で何かが決定的に断ち切られる音がした。日車の視界から北見遥という一人の女性が持つ温もりや、彼女と分け合った泥の記憶が急速に剥がれ落ちていく。目の前に立っているのはもはや彼が命を懸けて守ろうとした女ではない。ただ法廷の進行を妨げ独自の理屈で罪を立証しようとする名もなき冷徹な検察官の記号だけがそこにあった。
同時に北見の視界からも日車寛見という愛おしい執着の対象が消失した。彼女の目に映るのは自分の手を汚してでも救いたかった男ではない。絶望的な戦場にあってもなお青臭い理想と適正な手続きを捨てきれない、愚直で滑稽な弁護士の姿だけ。お互いを認識するための名前も過去も、感情もすべてが法廷というシステムを維持するためのノイズとして完全に抹消された。
「……検察官。何のつもりだ」
氷のように冷たい声で弁護士が問う。
「被告人の自白のみをもって死刑を確定させるなど、法の精神に反する。この起訴事実には重大な瑕疵があると言っているんだよ、弁護士先生」
検察官もまた、全く見知らぬ相手を嘲るような冷徹な視線を返し自らの術式を練り上げた。少年を中央に挟みかつて互いのために地獄へ落ちると誓い合った二人は見知らぬ敵同士として、絶対的なルールの元に真っ向から激突した。
補足
プロローグでも北見が日車と裁判した時、自分の自白を裏付けする補強証拠を用意していましたが、基本的に自白のみでは有罪にさせられません。
そのため北見から見るとどう見ても冤罪ですし、自白のみで有罪にしたら日車くんが完全に法曹として終わるという確信を抱いて日車の裁判に横入りしてます。
日本国憲法 第38条第3項:「何人も、自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には、有罪とされ、又は刑罰を科せられない。」
刑事訴訟法 第319条第2項:「被告人は、公判廷における自白であると否とを問わず、その自白が自己に不利益な唯一の証拠である場合には、有罪とされない。」