「法を愛するなら、その外側にある呪いという不条理も管理すべきだ」という結論に達して日本の検事資格を取りに来たら、という光の北見ルート
もし日車と北見が司法修習生同期だったら
司法研修所、大教室。
五月蠅いほどの静寂が全国から集まった修習生たちを包み込んでいた。机に並べられた白法規と、独特の重量感を持つ起案用紙。これから始まる長く険しい法曹への道のりを象徴しているかのようだった。
日車寛見は最前列に近い席で背筋を伸ばし、教官の一言一句を逃さぬよう神経を研ぎ澄ませていた。
天才という周囲の評などは彼にとってはどうでもいい雑音に過ぎない。彼を突き動かしているのは、自身が理想とする正義を具現化するための底知れない知識への渇望だった。
ふと背後から微かな音が聞こえた。
紙を捲る、迷いのない音。衣類が擦れる、無駄のない所作。日車は僅かに視線を後方へ流した。そこにいたのは一人の女性だった。
小柄な体躯。しかしそこから放たれる空気は周囲を圧するほどに凛としている。彼女の手元には使い込まれた日本語の六法全書に加え、付箋が幾重にも貼られた英文の法学書が置かれていた。
(熱心だな。だが……)
日車は微かな違和感を覚える。その若々しい横顔に似つかわしくない人生の深淵を覗き見てきたような、静かな落ち着き。彼女がかつて「13歳の検事」として全米を震撼させた神童、北見遥であることをこの時の日車はまだ知る由もなかった。
休憩を告げるチャイムが鳴り、張り詰めていた空気が一気に弛緩する。日車が手元の資料を整理し始めたその時、硬質な音が床を叩いた。一本のペンが日車の椅子の足元まで転がってくる。彼は無言でそれを拾い上げ、椅子を半回転させて彼女へ差し出した。
「これ、落としたぞ」
事務的で一見すれば愛想のない響き。しかしその根底には彼特有の誠実さが滲んでいた。北見は瞳を日車に向け、微かに口角を上げた。
「ああ、済まないな。ありがとう」
彼女はペンをペンケースに収めると、少し申し訳なさそうに眉を下げ日車の顔を正面から見据えた。
「そういえば本当に申し訳ないんだが、席を代わってもらえないだろうか。君、背が高いからね」
彼女は自分の小柄な体を指し、苦笑混じりに続けた。
「私の身長だと君が前にいるとホワイトボードが何も見えないんだ。問題なければ、後で私から教官に許可を取りに行く。全く、事務局も何故こんな配置にしたんだか」
その物言いは丁寧ではあるがどこか人を惹きつける不思議な説得力と、妙な貫禄があった。日車は一瞬彼女の顔を見つめ、それから前方の教官席に目をやった。確かに彼女の座高では、自分の背中はあまりに巨大な壁だろう。
「構わない」
「助かるよ、恩に切る。私は北見、北見遥だ。よろしく頼むよ」
日車は短く「日車だ」とだけ答え、荷物をまとめ始めた。
荷物を入れ替え座席を前後で交換し終えると、二人の視界は少しだけ変わった。日車は自分の前に座ることになった北見の、小さくも不思議と隙のない背中を眺めながら先ほどから気になっていた疑問を口にする。
「それにしても熱心に英文の資料を読み込んでいたようだが……。日本の国内法だけでは足りないような、特別な研究でもしているのか?」
日車の問いに北見は椅子を少しだけ横に回し、肩越しに彼を振り返った。その瞳には単なる学生の知的好奇心とは異なる、実務家特有の鋭い光が宿っている。
「ん?まあな。もともとあっちにいたし、証拠収集も陪審員制度も、日本とはかなりやり方が違うだろう?それに」
彼女は教官の机を顎で示し、いたずらっぽく笑った。
「ここにはガベルがなくて、どうも不思議な感じがするんだ」
「確かに、日本の法廷では裁判官が木槌を叩く光景は見られないな。秩序維持のために物理的な音を鳴らす文化がない」
日車は椅子に深く腰掛け、彼女の言葉を反芻するように頷いた。あっちという言葉に、彼はある種の推測を立てる。
「留学か何かで向こうの法廷を傍聴していたのか?証拠収集の手続きから陪審制の差異まで。修習が始まったばかりのこの段階で、実務の運用にまで考えが及んでいるのは感心する。大抵の者は、目前の起案をこなすだけで精一杯のはずだ」
日車の言葉はお世辞ではない心からの評価だった。彼は自分と同じように、あるいは自分とは異なる角度から法の現場を冷徹に見つめている者の存在を、目前の小柄な女性の中に感じ取っていた。
「君のように広い視野を持つ同期がいるのは、俺にとっても良い刺激になりそうだ」
日車は少しだけ声を低め、本質を突くような視線を彼女に送った。
「不躾だが、君は日本の司法制度に何を求めてここにいる?アメリカの合理的なやり方を知っているなら、この国の前時代的な手続きには、辟易することも多いだろう」
その問いは単なる世間話ではなかった。理想の正義を追い求め、司法の門を叩いた日車寛見という男が、同じ地平に立つかもしれない同志の覚悟を問うような、静かな熱を帯びていた。
「求めて?そんな高尚な理由じゃないさ」
北見は日車の問いかけに対し、肩の力を抜いた様子で小さく笑った。その表情には気負いも、あるいはエリート特有の尊大さも微塵も感じられない。
「ただ知りたかっただけだ。実際やってみたら視野が広がって、いいアイディアが浮かぶかもしれないしな。日本は日本で、わざわざこの制度を採用し続けているということは、何か意味があるはずだろう?まあ司法を愛してるからかな。歴史的背景とか含めて、なぜなのかを考えると非常に興味深くて、私は好きだぜ」
「『なぜこれを採用し続けているのか』……」
日車はその言葉を喉の奥で転がすように繰り返した。法とは往々にして無機質な条文の集積として扱われる。しかし彼女は情緒的な背景までをも、知的好奇心の対象として肯定している。
「確かに非効率に見える慣習の中にも、この国の土壌が生んだ理屈が眠っていることはある。君のように外部の視点を持った人間が、それを面白いと肯定するのは、少し意外だが、悪くない視点だ」
日車がそう答えた時、教壇に教官が戻り午後の講義の開始を告げるチャイムが重々しく鳴り響いた。日車は思考を切り替え筆記用具を手に取った。だが講義が始まろうとする静寂の隙間で、近くの席に座る修習生たちが小声で囁き合っているのが耳に入った。
「なあ、さっきの名前……北見遥って、どっかで聞いたことないか?」
「ああ、そうだ。確かアメリカのニュースだ。数年前、とんでもない天才少女がいたっていう……」
彼らの視線は日車の目の前に座る、あの小さな背中に向けられている。日車は一瞬、眉をひそめてその修習生たちを一瞥した。だがすぐに興味を失ったように教科書へと視線を戻す。過去に彼女が何者であったか、周囲が彼女をどう定義しているか。そんなことは今の彼にとってはどうでもいいことだった。
(面白い女性だ)
日車は、真っ新なノートの端にペン先を置いた。
午後の講義が終わり、大教室には一日の緊張から解放された修習生たちの喧騒が戻った。
北見は周囲の視線を気にする素振りも見せず、淡々と鞄に資料を詰め込んでいた。教室のあちこちでは、彼女の名前をスマートフォンで検索し、「やっぱりあの時の……」「史上最年少の……」と色めき立つ同期たちの姿があったが、彼女にとってそれは背景に流れるノイズに過ぎないようだった。席を立った日車は、雑音を割り込むようにして彼女の背中に声をかけた。
「北見。さっきの講義で教官が言っていた調書の証拠能力についての見解、君はどう思った?」
北見が手を止め、椅子を回して見上げる。日車は真っ直ぐに彼女の瞳を見据え続けた。
「俺は少々、捜査機関側の便宜に寄りすぎていると感じたが……。君ならあっちの基準と比較して、もっと辛辣な意見を持っているのではないかと思ってな」
それは単なる社交辞令ではなかった。日車は彼女の中に眠る異文化の視点という名のメスが、日本の司法制度の歪みをどう切り裂くのかを純粋に渇望していた。
「もし帰り道が同じなら少し話さないか。君の言う司法への愛に基づいた、日本の刑事手続に対する率直な批評を聞いてみたい」
北見は一瞬意外そうに目を瞬かせたが、すぐにその口元にどこか楽しげな笑みを浮かべた。
「いいよ、日車。私も君のその潔癖すぎるくらいの違和感には興味があったんだ」
彼女は鞄を肩にかけ、日車と歩調を合わせるように歩き出す。
「日本の検察官が書く供述調書って、もはや文学の域だろう?あんなに整合性が取れすぎているのは不自然を通り越して芸術的ですらある。ガベルがない代わりに、沈黙と空気が支配するこの国の法廷で、どうやって愛を貫くか、面白いテーマだと思わないかい?」
その言葉は日本の司法が抱える調書裁判という闇を、鮮やかな皮肉で射抜いていた。日車は僅かに目を見開き、それから短く、低く笑った。
「文学、か。皮肉としては最高だな」
空は、いつの間にか夕闇に染まり始めていた。
「『沈黙と空気が支配する法廷』……。言い得て妙だ。叫ぶ者がいないからといってそこに不当な圧力が存在しないわけではない。むしろ誰も声を上げないからこそ、歪みが固定化されていく」
日車は一度足を止め、隣を歩く遥をまっすぐに見つめた。彼女の言葉は彼が日頃から感じていた居心地の悪さの正体を、鮮やかに言語化していた。
「北見、君は面白い表現をする。司法を愛と呼び、調書を文学と断じる。君が今まで見てきたあっちの世界では、もっと泥臭く、もっと生々しい人間が法廷でぶつかり合っていたのか?」
遥は前を見据えたまま、事もなげに言った。
「もはや魂の殴り合いって感じかな。証拠だって向こうは全部出すからね。日本だと出さないこともあるだろう?」
「魂の殴り合い……」
日車はその言葉を喉の奥で転がすように繰り返した。彼の脳裏には整然として、どこか予定調和的に進んでいく日本の法廷の光景が浮かんでいた。白々しいほどに静かなあの空間で、被告人の声だけが虚しく吸い込まれていく光景を。
「証拠の全開示か。理想的だがこの国の実務では検察側に圧倒的な裁量がある。自分たちに不都合な証拠は暗い倉庫の奥に眠らせたまま、陽の目を見ることなく裁判が終わることも珍しくない。それがどれほど防御権を侵害しているか……」
日車は眉間に深い皺を刻んだ。彼が抱く不平等への怒りが、彼女の言葉によって鋭く研ぎ澄まされていく。理不尽が慣習という名で正当化される現状への苛立ちが、言葉の端々に滲んでいた。
「全部出すのが当たり前、か。君のいた環境は随分と潔い場所だったんだな」
日車はふと、歩調を緩めた。
「君の話を聞いていると、まるで実際にその殴り合いのリングに立っていたかのような、奇妙な説得力を感じる。ただの傍聴人や学生の感想にしては、言葉の重みが過ぎる」
二人は駅へ向かう信号待ちで足を止めた。夕陽が差し込む横断歩道の手前、日車は彼女の横顔をじっと見つめた。
小柄な身体。整った目鼻立ち。しかしその視線の先には、自分よりもずっと遠い戦場が見えているのではないか。目の前の彼女が発する、血を流した者特有のリアリティ。
「君は一体、どこでそれを見てきた?」
赤信号に変わる直前の街の騒めきの中で、日車の問いだけが静かに、だが重く彼女に投げかけられた。日車がその核心に触れようとした瞬間、背後でスマートフォンの画面を囲んでいた修習生たちが抑えきれない驚愕の声を上げた。
「おい、やっぱりそうだ!間違いない。ニュースのアーカイブが出てきたぞ……『アメリカ史上最年少、13歳の検事。司法の神童、北見遥』……って、今の前の……!」
その声が日車の鼓膜を叩いた。彼は一瞬、彫像のように硬直した。だが驚愕はすぐに濁流のような思考の整理へと取って代わられた。彼はゆっくりと隣に立つ小柄な女性へと視線を落とした。
「13歳で、検事?」
日車の明晰な脳が今までの彼女の言動――英文の資料、ガベルへの違和感、そして「魂の殴り合い」という言葉――を一気に一本の線で繋ぎ合わせた。
「うん?どうした日車」
北見は周囲のざわめきを察し、隠す様子もなく短いため息をついた。
「ああ、いや。知らなかったのか。こいつは失礼。向こうではみんな、それを前提として話しかけてきていたからな」
悪びれる風もなく、かといって誇る風でもなく、彼女は淡々と事実を認めた。日車は彼女を凝視したまま絞り出すように言葉を継いだ。
「13歳から24歳の今まで、君は『魂の殴り合い』を続けてきたというわけか。合点がいったよ。君の話に混じる、あの奇妙な血の匂いの正体が。それは傍聴席で得られるものではない。返り血を浴びる位置にいた者だけが持つものだ」
日車は一歩北見に詰め寄った。その瞳には、一人の法曹としての深い関心と、あまりに早熟な運命を背負わされた者への祈りに似た同情だった。
「北見、一つ聞かせてくれ。13歳で正義の番人に選ばれた君は、その時、法に救われたのか?それとも法に消費されたのか?」
周囲の喧騒が遠のく。日車の問いは彼女が一人の人間としてどう生きてきたかを暴こうとする、鋭いメスのようだった。
「検事歴11年の君がわざわざこの停滞した日本の司法を一から学ぼうとしている。それが単なる興味だとは、今の俺には到底信じられないな」
北見は日車の真っ直ぐな視線を逸らさなかった。彼女はふっとどこか遠くを見るような、それでいて確固たる意志を宿した瞳で微笑んだ。
「私は法という概念を愛しているんだ、日車。場所が変わればルールは変わる。だが根底にある真実を求める精神は同じはずだろう?」
彼女は一歩踏み出し、青に変わったばかりの信号を渡り始める。
「二つの全く異なるシステムを完璧に使いこなして初めて、私は本当の意味で法を理解したと言える気がするんだ。……君という、この国では稀有なほど真っ当な男に出会えたことも、その理解への一歩かもしれないな」
日車は彼女の背中を追って歩き出した。
「傲慢なまでの純粋さだな。だが嫌いじゃない」
日車は溜息とも感嘆ともつかない息を漏らし、自嘲気味に口元を緩めた。彼は再び歩き出したが今度は北見の隣ではなく、彼女が放った言葉の重みを咀嚼するように半歩後ろを選んで歩いた。
「『二つのシステムを完璧に使いこなす』……。我々修習生がたかだか日本の実務に追いつこうと必死になっている中で、君は最初から司法という概念そのものを俯瞰しようとしているわけか。長年、法廷という名の修羅場に身を置いてなお、法を信じ、愛していると言い切れるその精神。それは執着か、あるいは狂気か」
駅の改札へと続くエスカレーターの前で日車は立ち止まった。昇降機の規則的な機械音が響く中、彼は改めて北見を見下ろす。その視線は、もはや彼女を同期の修習生としては見ていなかった。
「北見、君は真実を求める精神は同じだと言ったが、この国の法廷は真実よりも和や体裁を優先することがある。君が愛する法が、ここではただの空虚な手続きとして機能しているのを目の当たりにした時。その時も同じ瞳で司法を愛せると言えるか?」
彼の問いは日車自身が心の奥底で育て始めていた、この国の司法制度に対する暗い不信感をぶつけるような切実な響きを帯びていた。
「もし君が、その二つのシステムを手にしてもなお、絶望しなかったなら。その時は、俺に本当の法の救いを教えてくれ」
日車はそう言うと初めて対等な友人に接するように、少しだけ不器用な手つきで自らの胸元を指し示した。
「少なくとも今日の講義よりは君との会話の方が、俺には遥かに司法の本質に近いものに感じられた。明日からの実務修習、君がどの配属先になるのか非常に興味が出てきたよ」
北見は日車の重い問いかけを正面から受け止め、ただ静かに微笑んだ。その笑みは予言者のようでもあり、あるいは過酷な戦場を生き抜いた兵士の慈愛のようでもあった。
「いいだろう、日車。絶望の淵でこそ、愛は試されるものだ。明日また教室で会おう」
エスカレーターが二人を別々の階層へと運んでいく。日車寛見は、遠ざかる北見の背中をいつまでも視線で追っていた。
ホームへと滑り込んできた電車の風が、日車のコートを揺らした。喧騒の中、彼はその名前を噛みしめるように呟いた。
「……北見、遥か」
明日から始まる実務修習。そこはもはや、研修所の教室のような守られた場所ではない。泥にまみれた事件、理不尽な検察の主張、そして、組織の論理に押し流される妥協や不条理が渦巻く、文字通りの現場だ。
しかし日車の心象風景は、先ほどまでとは一変していた。今日出会ったあの小さくも圧倒的な司法への愛を掲げる同期の存在。法という概念に純粋な情熱を燃やす彼女の姿が彼の中にある正義の炎に油を注いでいた。その炎は以前よりも一層静かに、そして逃れようのない鋭さを伴って燃え上がっている。
「『法を理解した』と言えるまで、か。俺も、立ち止まっているわけにはいかないな」
彼女が二つのシステムを統括しようとするなら、自分はこの国の歪んだ司法という闇の中で一点の曇りもない鏡となって正義を照らし出してみせる。日車は翻り彼女が消えていった方向とは逆の、下り電車へと向かって力強く歩き出した。
その足取りに、もはや迷いはない。
実務修習の全行程を終え、二回試験という最後の審判を目前に控えた司法研修所には独特の重苦しい空気が漂っていた。
ラウンジに集まる修習生たちの顔には、八ヶ月に及ぶ現場の激務と試験へのプレッシャーによる疲労が色濃く刻まれている。その中で、日車寛見だけは異質な空気を纏っていた。以前よりも削げ落ちた頬、どこか虚無を湛えた瞳。
理不尽な現実を斬り続け、欠け、それでもなお研ぎ澄まされた、危うい刃物のようだった。
窓の外を見つめ冷めたコーヒーを口に運んでいた日車は、聞き慣れた足音に視線を動かした。
「……実務修習、終わったか、北見」
彼はカップを置き、真っ直ぐに彼女を見据えた。
「君の目に、この国の現場はどう映った?俺は、最悪だったよ」
吐き捨てるような言葉。日車の声には理想と現実のあまりの乖離に打ちのめされながらも、辛うじて踏みとどまろうとする執念が滲んでいた。
「検察庁では描かれた筋書き通りに被疑者を追い込む作業を正義と呼び、裁判所では薄い紙切れ一枚の証拠で人生を切り捨てていく。君が言っていた魂の殴り合いなんて、この国のどこにも存在しなかった」
日車は自嘲気味に笑い椅子の背もたれに深く体を預けた。
「だが君は笑っているな。その余裕はどこから来る?この絶望的なまでに硬直したシステムの中で、君は何を見つけたんだ?」
日車は彼女の答えを渇望していた。自分が泥沼としか思えなかったこの国の司法を、北見がどう解釈したのか。
北見は日車の殺気立った視線を柳に風と受け流し、楽しげに口角を上げた。
「取り調べが密室で、面白かったぜ。しかも……自白だ」
彼女はラウンジの椅子に腰掛け、窓から差し込む光を指先で弄んだ。
「証拠を全部出さず、重要なピースが欠けている状況。そこに補強証拠を付けるとしても、その有効性をどこまで担保できるのか客観的には不透明だ。知れば知るほど、不思議な制度だよな」
「不思議だと?それはあまりに優しい表現だな」
「そうかい?米国のシステムが鋼と鋼の衝突なら、日本は霧の中の押し問答だ。霧を晴らすのではなく、霧の中でどれだけ美しく立ち回るかを競っているようにさえ見える」
北見は日車の瞳をじっと覗き込んだ。
「日車、君は霧の中で独り、剣を振り回しすぎた。もっとこの不自由さを楽しめないのかい?ルールが不完全であればあるほど、その隙間にこそ、法を扱う者の腕と愛が試されるんだぜ」
日車は一瞬、言葉を失った。この女は絶望さえもゲームの難易度として楽しんでいる。その強靭な精神構造に、日車はかすかな眩暈とそれ以上の畏敬の念を覚えた。
「『補強法則』も、形骸化していれば意味がない。自白を補強するための証拠さえ、検察側の胸先三寸で取捨選択される。……北見、君はさっき面白いと言ったな」
日車は食い入るような視線で彼女に迫った。
「向こうのオープンな戦場にいた君が、この不透明で、閉鎖的で、ある種神秘性すら持たされている日本の制度をどう解決しようというんだ?」
彼は確信していた。北見遥という女がただの傍観者で終わるはずがないことを。
「二つのシステムを知った君なら、この不思議な制度という名の暗闇に、どんな光を当てる?それとも君もこの国の空気に呑まれて、ガベルのない静寂を愛するようになるのか?」
その問いを聞いた瞬間、北見は「ふふふ」と、鈴の音を転がすような低い笑い声を漏らした。
「君は、いやはや、いいね。とても若いな」
眩しそうに目を細めて日車を見つめる。その瞳は熱弁を振るう彼を肯定しながらも、どこか遠い場所から見守るような慈愛に満ちていた。日車が求めた答えを彼女は口にしない。言葉で説明して理解できるほど、現実という名の怪物は甘くないことを彼女は知っているのだ。
「だが、その眩しさが私は心配だ。そういえば君と連絡先を交換してなかったな」
北見は手元の端末を操作し、日車に向けた。
「これだ。……約束してくれ。何かあったら、私に連絡しなさい。君と同じ公判の担当でさえなければ、力を貸してやるよ」
最後はからかうように、だがその瞳は射抜くように真っ直ぐだった。日車は思わず言葉を詰まらせる。
「……若い、だと?」
心外だと言わんばかりに眉を寄せる。これまで優秀や冷静と評されることはあっても、幼さを示唆する言葉を投げられたことなど一度もなかった。しかし彼女の瞳の奥にある、底知れない経験に裏打ちされた静かな覚悟に触れた瞬間、日車は気づいてしまった。自分が今抱いている憤りが彼女の目には青臭い叫びのように映っているのだと。
「君は、俺がこの国の空気に耐えきれず、自滅するとでも言いたいのか。それとも、君がその何かを肩代わりしてくれると?」
日車は提示された連絡先を見つめ、複雑な表情を浮かべた。彼女が問いに答えなかったのは、不誠実だからではない。今の自分には、彼女の持つ答えを受け止めるだけの土壌がまだ備わっていないのだ。その事実を残酷なまでに突きつけられた気分だった。
「分かった。約束しよう。君の手を借りるような事態にならないことを切に願うが……北見、君という人間は、最後まで底が見えないな」
日車は少しだけ負けを認めるように肩の力を抜き、携帯電話を取り出した。
「公判で敵対することになったら、その時は、容赦はしないぞ。君が愛するその法の解釈で、どちらが正しいか決着をつけよう」
「ああ、望むところだ」
連絡先を保存する指先。日車はこの瞬間に結ばれた細い糸が、いつか自分が直面するであろう絶望の際、唯一の命綱になるかもしれないという奇妙な予感に震えていた。
遥は自分の携帯電話をポケットにしまい、少し真剣な面持ちで日車を見つめた。その瞳の奥には先ほどまでの快活な光とは異なる、底知れない闇と熱が同居していた。
「日車、君は気づいているだろう。この国の司法が空気に支配されているのは、単に人間が臆病だからじゃない。もっと根深い、言葉にするのも悍ましい呪いのようなものが、この国の法を腐らせているんだ」
彼女の声は低く、しかし驚くほど響いた。喧騒がその一瞬だけ遠のき、世界が彼女の言葉を中心に回っているかのような錯覚さえ覚える。
「私はね、九十九という女性に出会って気づかされた。法を愛するならその法の外側にある不条理な力も、法の名の下に管理下に置かなければならないとね。私が日本で検事になるのは、そのための第一歩だ」
遥は日車の肩を軽く叩いた。その手は驚くほど小さかったが、戦場を渡り歩いてきた者特有の確かな重みがあった。
「君が弁護士として絶望し、法に背きたくなった時……あるいは法を捨ててでも守りたい正義に直面した時。その時は私が検察官として君を公訴してやる。法廷というリングで、君の魂を私が引き受けてやるよ」
彼女は不敵に笑った。その背後には日車がまだ知る由もない「特務任務検察官」としての、血生臭くも崇高な使命が揺らめいているようだった。彼女が愛するのはもはや条文という枠組みだけではない。法という祈りが、呪いへと反転するその境界線。そこで戦い続ける者だけが持つ壮絶な覚悟が彼女を包んでいた。
「じゃあな。死ぬまで法を愛せよ、日車」
彼女は今度こそ一度も振り返らずに去っていった。日車は彼女に叩かれた肩に微かな熱を感じながら、その背中が人混みに紛れていくのをいつまでも見ていた。
魂を引き受ける。
その言葉は呪いのように、あるいは祝福のように、彼の胸の奥深くへと突き刺さった。
後にある事件をきっかけに二審判決の不条理に直面し、法そのものを裁くために立ち上がる日車寛見。彼が血のついた木槌を振るうその時、脳裏に去来するのはあの日交わした連絡先と、小柄な検事の不敵な笑みだろう。
法に救われ、法に呪われ、そして法を愛し続ける二人。
日車は重い足取りで、しかし確かな意志を宿して、自分の行くべき道へと歩き出した。
色々補足
アメリカの法廷だとブレイディ法理(既に無くなったらしい)や証拠の全開示制度(民事だけらしい)があるらしいのです。裁判が始まる前に、相手がどんな証拠を持っているか全て見せるみたいなね。
日本ではそういう制度がないので、都合の悪い証拠って伏せることができるのでは…?と思ったのがきっかけ。
また司法修習生って調べると、導入修習、実務実習と集合修習と言うやつをやり、二回試験を突破して初めて弁護士とかになれるんですね。調べた限りのイメージで書いてるので結構捏造かもしれない。
日車と北見は導入修習で知り合ったというイメージです。
特に優秀な人が裁判官や検察に面接を経て行けるらしいですが、北見はすでに検察確約(この年で日米資格持ちなので)、日車は原作通り裁判官への誘い断ってます。
分岐点としては下記のイメージ
連載北見:術式も生まれつき発現しておらず、九十九に会わず、理想と現実との差に摩耗し心が折れてしまった
番外編北見:術式も生まれつき発現していて、九十九に会い、不条理を知っていたからこそ心が折れなかった
ただどちらの北見も根っこは同じなので、日車見てああ眩しいやつだなとか思うのは同じ。北見に死ぬまで法を愛せよって言わせたかった。