出会い
T県、M地方裁判所。古びた法廷特有の埃の匂いが混じる場所で日車寛見はいつものように机に書類を広げていた。彼が担当するのはある強盗致死事件の弁護。被告人は容疑を否認しているが状況証拠はあまりに彼に不利だった。だが日車は諦めていない。諦めるわけにはいかない。調書に記されたわずかな矛盾、それだけが彼の持つカードだった。
「検察官、入廷」
事務官の声に合わせ、向かいの席に一人の女性が姿を現す。
北見遥。13歳で米国で検事となったという異例の経歴を持つ彼女が、なぜこの地方都市の法廷に立っているのか。日車は隣に座る怯えた被告人の背中を軽く叩き、前を見据えた。日車の目に映った彼女は法廷には不似合いな、軽薄とも取れる柔らかな笑みを浮かべていた。
「本日の公判を担当します、北見です。あ、日車先生ですよね?お噂はかねがね」
語尾がわずかに跳ねるような遊びのある声。だがその瞳の奥は驚くほど平坦で、何の色も宿っていない。
裁判が始まると日車は戦慄した。彼が見つけたはずの矛盾は、彼女の冒頭陳述によって、開始数分で合理的な誤差として処理されていく。彼女の言葉は滑らかに、そして鋼のように強固な論理で法廷を掌握し、反論の余地がなかった。
「以上の通り被告人の主張する空白の5分間は、この監視カメラの死角を移動する時間として完全に説明がつきます。これ以外に合理的な疑いの余地はありませんよね?」
遥は日車の方を振り返り、悪戯っぽく首を傾げた。その瞬間日車は感じた。彼女が語っているのは真実ではない。有罪を通すために最適化された完璧な虚構だ。
「……異議があります」
日車が声を絞り出す。彼にとって言葉は人を救うための唯一の手段だった。だが目の前の検事が紡ぐ言葉は日車の言葉を飲み込み、塗りつぶしていく。
第1回公判が終わった後の廊下。日車は、足早に去ろうとする彼女を呼び止めた。
「北見検事。あなたには、あの被告人の助けを求める声が聞こえていないのですか」
日車は真っ直ぐに彼女を見た。まだ希望を捨てていない青臭いほどに純粋な正義感だ。
対する遥は手に持っていた起訴状の束を軽く叩き、日車の視線を真っ向から受け止めた。
日車が投げかけた問いに対し、遥は一瞬だけ足を止めた。しかし振り返ったその顔には先ほど法廷で見せたものと同じ、作り物のように完璧な微笑が貼り付いている。彼女は手に持っていた重厚なバインダーを、まるで退屈な雑誌でも扱うかのように指先で弄ぶ。
「……おや。日車先生、おかしなことをいう」
遥は彼との距離を詰めると、覗き込むように顔を近づけた。至近距離で合うその瞳は空虚さを湛えている。
「声?…あぁ、あの耳障りな音のことですか。あれに耳を貸すなんて、日本の法学部ではそんなロマンチックなことを教えるんですか?」
彼女は小さく吹き出し可笑しくてたまらないといった様子で肩を揺らした。その笑い声は響きに体温が一切こもっていない。
「この世界で人を殺すのも、救うのも、いつだって真実ではなく、よく出来た嘘の方ですよ。いいですか、日車先生」
遥はふっと笑みを消し、日車のネクタイの歪みを直すように指先を伸ばした。それは親愛の情ではなくひどく事務的な手つきだった。
「一体これまで何を学んできたんです?」
それだけ言い残すと彼女は一度も後ろを振り返ることなく、コツコツと無機質な足音を響かせて廊下の奥へと消えていった。残された日車の手元には彼女が去り際に落としていったかのような、一通の補充証拠のコピーがあった。それは日車が喉から手が出るほど求めていた、しかし北見遥の手によって存在しなかったことにされるはずの被告人のアリバイを補強しうる微細なデータだった。
第2回公判。法廷内は日車の放つ鋭い殺気に包まれていた。日車の手元には検察側が提出した決定的な目撃者の供述調書と独自に洗い直した現場の防犯カメラのタイムスタンプを対比させた資料が握られている。
「北見検事、失当です」
日車は法廷の隅々にまで響く声で断じた。
「この供述調書によれば目撃者は午後8時10分に被告人が現場から逃走するのを見たと述べている。しかし検察自らが提出した商店街の防犯カメラ、その8時10分の記録に被告人の姿は一切映っていない。むしろ逆方向のコンビニのレシートが示す時刻と照らせば、被告人はその時現場から2キロ離れた場所にいたことになる。…この調書の信憑性は根底から崩れている」
傍聴席がざわつく。裁判官が手元の書類に目を落とす中、日車は追求の手を緩めない。
「公益の代表者たる検察官が客観的事実と明白に矛盾する調書をあたかも唯一の真実であるかのように読み上げるとは。北見検事、これは単なるミスですか?それとも有罪にするためにあえて事実を伏せたのですか?」
日車の視線は検察席に座る遥を射抜いた。司法の理想を信じる男による、実務的かつ倫理的な痛烈な一撃。
対する遥は椅子に深く背をもたれかけ、ペンを指先で弄んでいる。その表情には焦りも怒りもない。ただ窓から差し込む光を反射する瞳がゆっくりと日車に向けられた。
遥は日車の放った指摘を羽虫でも払うかのような無造作さで受け流した。
「……矛盾?いえいえ、防犯カメラは死角がありますし、全体証拠から見れば合理的な内容でしょう」
彼女は小さく肩をすくめどこか芝居がかった溜息をついて見せた。法廷の重苦しい空気を嘲笑うかのような、軽薄な仮面がそこにはある。
「日車弁護士、木を見て森を見ず、ですよ。被告人が現場にいたという動かしようのない事実。それだけでこの起訴状の柱を支えるには十分だ。…裁判長、検察側は立証趣旨を維持します。無意味な遅延は避けていただきたい」
淀みなく流れるような反論。彼女の声はどこまでも平坦に法廷の論理を塗り替えていく。しかしその饒舌な口調とは裏腹に、彼女の身体は別の反応を示していた。
証言台からは見えない検察席の机の下で、資料を保持している彼女の両手は血の気が引いて真っ白に染まっている。指先は凝視しなければ気づかないほど微かに震えていた。その震えを抑えつけるように遥は指が白木に食い込むほど強くバインダーの端を握りしめている。
だがその震えの原因は敗北への恐怖ではなかった。20年間、誰も踏み込めなかった自分の嘘に、土足で、それもこれほどまでに真っ直ぐな論理で踏み込んできた男への、猛烈なまでの感服だ。
「……以上です。次回の証人尋問へ進むことを提案します」
遥は平然と反論を口にしながらも、自分の完璧な防壁を切り裂こうとする彼の高潔さに喜びを感じていた。だが日車はその一瞬を見逃さなかった。彼女の論理が勝利を収めようとしているこの瞬間に、彼女が強く手を握りしめていることを。
裁判官が次回の期日を調整し始め、法廷に事務的な会話が流れ始める。日車は隣で呆然とする被告人の肩を抱きながら、視線だけは向かい側の検察官を捉えて離さなかった。
閉廷を告げる木槌の音が響き、傍聴人がまばらに退廷していく。事務官たちの片付けの音が静かに反響する法廷で、遥は機械的な手つきで書類を鞄に詰め込んでいた。その背中に日車の鋭い声が投げかけられる。
「北見検事」
遥は肩を震わせることもなく優雅に振り返った。その顔には先ほどまでの冷徹な勝利者の仮面が再び完璧に張り付いている。
「おや、日車先生。まだ何か?敗戦の弁を述べるには少し気が早い気がするが」
彼女は小首を傾げ、挑戦的な笑みを浮かべてみせる。だが日車の視線は彼女の顔ではなく、鞄のストラップを握るその指先に注がれていた。
「先ほどの反論、実に見事な詭弁でした。記憶の減退、些細な相違。法廷という場を維持するためだけの言葉遊びだ」
日車は一歩彼女との距離を詰める。彼は怒っているのではない。むしろ深い悲しみと、ある種の確信を抱いた眼差しを向けていた。
「だがあなたの言葉は、あなた自身の身体を騙せていないようだ」
日車は彼女の白く強張った指先を顎で示した。
「自分の言葉が嘘だと誰よりもあなた自身が分かっているのではないですか。北見検事、あなたは、自分の論理で人が死んでいくのを本当はどんな気持ちで見ているんだ」
法廷の冷たい静寂の中で二人の視線がぶつかり合う。遥の瞳の奥で一瞬だけ、微かな揺らぎが生じた。
日車の指摘が遥の心に直接触れたかのような沈黙が流れた。しかし彼女は即座に口角を吊り上げ、その亀裂を軽薄な笑いで塗りつぶす。
「……ふふ、あははは!おやおや、日車先生」
遥は可笑しくてたまらないといった様子で片手で顔を覆い、指の隙間から日車を見据えた。その瞳には先ほどまでの空虚さを超えた冷ややかな嘲笑が宿っている。
「いや、日車くんと呼ぼうか。あぁ、若いねえ。本当に、眩しいくらいだ」
彼女は一歩踏み出し、日車の胸元に視線を落とした。そこにある弁護士バッジの重みを値踏みする。
「震え?ええ、そう見えたならそうかもしれないね。武者震いか、ただの生理現象だよ」
遥はゆっくりと日車の横を通り過ぎようとして、その肩に指先を軽く滑らせた。
「言葉になど意味はない。あなたが救おうとしているその真実とやらも、私の次の答弁ひとつで明日には塵になって消える。それがこの国の、いいえ、世界の仕組みだ」
彼女は足を止めず、出口へと向かう。
「言葉に意味を求めるのはもうおやめなさい。それは毒にしかならないのだから」
そう言い残した彼女の背中は日車の目には、何千、何万という罪を背負い、止まることを許されない亡霊のように映った。
裁判から数日が経過した夜。日車は思考を整理するため、法廷の喧騒から離れた路地裏のバーにいた。重い木の扉を開けた先、琥珀色の照明に照らされたカウンターの隅に見覚えのある横顔を見つける。北見検事だ。
彼女の前にはチェイサーも置かず、氷一つ入っていないストレートグラスが置かれていた。中身はスピリタス。アルコール度数96%。それは味わうための酒ではない。喉を焼き、脳を麻痺させる劇薬だ。
日車は黙って彼女から二つ離れた席に座った。遥は日車に気づいているはずだが、視線をグラスの縁から外そうとはしない。そこにあるのはただ無機質に酒を流し込む女の姿だった。
「……死に急いでいるように見えますが、北見検事」
日車の静かな声が、グラスの氷が溶ける音よりも重く響く。遥はゆっくりとグラスを置き、焼けるような喉を無視して、薄く笑った。
カウンターの隅、ライトが照らし出す彼女の横顔は知っている姿とはあまりにかけ離れていた。
刺すようなアルコール臭が、二人の間のわずかな空気を支配している。遥はグラスの縁をなぞる指先を止め、焦点の定まらない、濁った瞳をゆっくりと日車に向けた。
「……おや、日車くん、偶然だね。ふふ、君のような人でも、酒は飲むんだな」
その声には日中あんなにも完璧に使いこなしていた声の美しさがなくなっていた。彼女は自嘲気味に口角を歪めると喉を焼く劇薬を再び一口、躊躇いなく流し込んだ。
日車は自分の前に出されたウイスキーのグラスには手を付けず、ただ彼女のその横顔を凝視していた。
「そんな飲み方をする人を放っておくわけにはいかない」
日車は静かに告げた。
「北見検事。あなたは今、何から逃げようとしているんですか。真実を殺し、その重みに耐えきれなくなった、あなた自身ですか」
日車の問いは静かな夜のバーに誠実さを持って響いた。この女は自分自身を騙すことにとっくの昔に失敗しているのだと彼は確信していた。
遥は空になったグラスをカウンターにカチリと置いた。
「真実?……ふふ、あはは。日車くん、君はまだ法廷にそんなものがあると信じているのか」
彼女は身体を折るようにして笑った。潤んだ瞳は今にも涙が溢れ出しそうな、歪な表情を形作る。
「うらやましいな。……本当に、羨ましいよ」
その呟きは酒の熱に浮かされ、彼女の心の奥底から這い出してきた生の言葉だった。法廷で日車を翻弄した完璧な論理も、他人を突き放すための軽薄な仮面も今は形を失っている。日車は言葉を失った。
目の前にいるのは、化物ではなかった。
自分の言葉で世界を塗りつぶし、勝てば勝つほど自分の声を失い、化け物になっていく恐怖に震えているただの一人の女だ。
(これではまるで。いや、そんなはずは…)
日車は喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。
日車は彼女の過去を詳しく知らない。13歳という若さで社会に放り込まれ、何を奪われ、何を殺すことを強いられてきたのか。だが、今隣で震えながら笑う彼女の肩越しに彼は底知れない闇の深さを感じ取っていた。
「北見検事。あなたは一体…」
日車は自分のグラスを遠ざけ、彼女の方へ身体を向けた。嫌悪すべき検察官としてではなく、今にも崩れ落ちそうな一人の人間として、彼は彼女を真っ直ぐに見据えた。
「言葉に意味がないと言うなら、その沈黙は何を語っているんですか。あなたが今日、握りしめていたその手の震えは……何を拒絶していたんです?」
日車の問いかけはもはや詰問のような、切実な対話の始まりだった。遥は差し伸べられた日車の言葉を払いのけるような仕草で遮った。
「……全て、終わった話だ」
彼女の声は先ほどの震えを強引に圧し殺し、硬い響きを取り戻していた。剥き出しになりかけた傷口を塗りつぶしていく。
「それでいいじゃないか。ねえ、日車くん」
彼女は残っていた酒を、一気に喉の奥へと流し込んだ。
「終わったこと。変えられないこと。それが事実だよ。それをどう飾るか、どう片付けるか。それだけが、私の仕事だ」
彼女は空になったグラスを見つめたまま、二度と日車と視線を合わせようとはしなかった。
終わった話。
現在まで彼女が積み上げてきた勝利という名の死山の数々。彼女はその頂に立ち下りる道を見失っている。
(救いなど最初から求めていないのか)
日車は衝撃を受けていた。自分が戦ってきたのは、法というルールに魂を食い破られ、骨だけになった亡霊だったのだととっくに気がついていた。
「いいや。終わらせていいはずがない」
日車はカウンターを叩くようにして立ち上がった。
「あなたが終わった話と呼ぶなら、私はそれを引きずり出してでも今のあなたと対話する。北見検事。明日、法廷で。私はあなたの紡ぐ美しい嘘を、根底から破壊してみせる」
それは彼なりの救済の形だった。
第3回公判。法廷はもはや一つの儀式と化していた。
日車は前回見つけた調書の矛盾をさらに深く穿ち、検察側が些細な相違として切り捨てたはずの空白の時間を論理の杭で一つずつ繋ぎ止めていく。
「北見検事、これがあなたの言う森の正体ですか。根を腐らせ不都合な枝を切り落として作り上げた、美しくも無機質な庭園だ」
日車の糾弾に対し、遥はもはや軽薄な笑みさえ浮かべていなかった。ただ無表情に反論を繰り返す。彼女の言葉は空虚で響きを失っていた。
「……反論は、以上です。裁判長、結審を」
彼女の声は冷たかった。
閉廷を告げる木槌の音が、法廷の冷たい空気に溶けて消えた。今日もまた、北見遥の無敗という記録に新たな一頁が書き加えられた。傍聴席から漏れるため息や事務官たちが向ける畏怖の混じった視線。それらすべてが彼女にとっては使い古された舞台装置に過ぎなかった。
遥は機械的な手つきで書類を鞄に詰め込んでいく。指先はまだ、机の下で白木に食い込ませていた時の強張りを覚えている。
(また勝ってしまった)
自分の言葉が日車寛見という男が必死に手繰り寄せた真実を、いとも容易く解体し磨り潰してしまった。その手触りだけが不快感を伴って脳裏にへばりついている。法廷を後にし誰もいない廊下の窓から差し込む夕光を浴びたとき、彼女はふと自分の右手を透かして見た。日車に指摘されたその手は今はもう震えていない。だが血の通わない陶器のように白く、冷たい。
彼女にとって勝利を重ねることは、自分という人間をさらに透明にしていく儀式だった。勝てば勝つほど、彼女の周りからは本当のことが消えていく。誰も彼女の言葉を疑わず、誰も彼女の嘘を暴こうとしない。世界中が彼女の構築した完璧な虚構を正解として受け入れてしまう。
(日車くん。君の言う通りだ。私はもう自分の声が聞こえない)
胸の奥にあるのはぽっかりした空洞だけだ。彼女は自分の喉元を指先でなぞった。
次に彼と対峙するとき。
この完璧すぎる嘘が彼の正義という暴力によって跡形もなく粉砕されることを。
震えを止めることのできない私の嘘が、ようやく世間に露出することを。
自分に許された唯一の希望として、彼女はそれだけを、暗い歓喜とともに待ち望んでいた。
そして時が過ぎ、運命の日。日車はあの大江事件の弁護を引き受ける。遥は非番の日に吸い寄せられるようにその法廷を訪れていた。傍聴席の隅、目立たぬように座る彼女の目に映ったのは、絶望の淵に立たされた日車寛見の姿だった。
理不尽な判決。
叩きつけられる木槌の音。
法が、正義が、目の前で音を立てて崩壊していく。
(……ああ。彼もこちら側に来るんだ)
遥は自分の胸の奥で安堵と、耐え難いほどの悲しみが混ざり合うのを感じた。彼という光が消えれば、自分の闇もまた正当化される。
そう思おうとした、その瞬間だった。
「やり直しだ」
日車の叫びと共に、法廷の空間が歪んだ。現れたのは巨大な式神ジャッジマン。そして、言葉による対話の一切を拒絶し、罪そのものを物理的に裁く領域――誅伏賜死。
遥は目を見開いた。
彼女がずっと恐れていた言葉の虚構を、彼はその身一つで、あまりに純粋で暴力的な事実へと昇華させてみせたのだ。
言葉を尽くしても届かなかった。論理を積み上げても裏切られた。ならばこの魂の重みそのもので殴りつけるしかない。
日車のその姿はあまりに不器用で、あまりに真っ直ぐな、一つの行動だった。閉廷後血の匂いが漂うかのような静寂の中、日車は一人、証言台の前に立ち尽くしていた。そこに、一人の女が近づいてくる。
コツ、コツと響く足音。それはかつての法廷での軽快な音ではなく、一歩一歩、確かな重みを持った歩み。
「日車くん」
彼女の瞳はこれまでにないほど澄み切っていた。日車が放った暴力、言葉を捨てたその行動の純粋さ。彼女が何十年も前に捨て去らざるを得なかった不条理への怒りそのものだった。
(……ああ。日車くん。君、正気だったんだ。君の覚悟、行動、すべて本当だったんだ)
遥は平然と、そして狂おしいほどの手つきで日車の胸元に手を伸ばした。彼の返り血を浴びたシャツの感触、その奥に流れる確かな鼓動。
(ああ、彼なら私を裁いてくれるのかもしれない。この神の声と言われ化け物と化した私を)
彼女は日車の顔を両手で包み込み、引き寄せた。日車の唇が彼女の唇に触れる。それは救済ではなく呪いの共有だった。彼女の体温、彼女の絶望、そのすべてを肉体的な事実として日車の内側へ流し込もうとする、暴力的で切実なキス。
日車はその暴力に吐き気を覚えながらも、反射的に彼女の腰を強く引き寄せてしまう。たった数秒。だがその瞬間、日車は明確に彼女の地獄を受け入れ、快楽に似た共犯の熱を帯びた。だからこそ彼は自らの感情を殺すように、彼女を力任せに突き飛ばした。
「…ふざけるな」
日車の声は殺意に満ちた唸りだった。彼は自らの唇を拭い、目の前で歪んだ笑みを浮かべる女を睨むような目で射抜いた。突き飛ばされ床に転がった遥は、切れた唇の端を舌でなぞった。痛みがある。鉄の味がする。ああ、素晴らしい。
「あは、いい顔。そうだよ日車くん。私を拒絶して、軽蔑して、そうやって私の存在を君の人生に刻みつけてよ」
彼女は床に這いつくばったまま、獲物を罠にかけた狩人のような歪な歓喜で彼を見上げた。
「お前は俺の何を見て、何を救われた気になっている」
日車は自分の信じていた正義、自らの手で殺した法、そしてその責任を担う覚悟、そのすべてが、彼女の軽薄な接触によって汚されたと感じていた。
「お前が求めているのは救いではない。……ただの逃げだ!」
日車は、右手を高く掲げた。
「北見検事。言葉に意味がないと言うなら、お前のその行動の重さを、法の前で証明してみせろ」
「領域展開――誅伏賜死」
空間が歪み一瞬にして二人を飲み込む。
そこはより厳格で、より冷酷な、日車寛見の正義が支配する聖域。
遥は証言台に立たされていた。向かい側裁判官席には、巨大な式神が遥を凝視していた。日車は弁護士席から遥を見下ろした。彼の目にあるのは、彼女を法的に、そして物理的に断罪するという冷徹なまでの義務感だけだった。
「北見遥はその職権を濫用し、無実の者を裁判にかけ、不当に身体の自由を拘束した。さらには被告人の精神、および人生そのものを死に至らしめた特別公務員職権濫用等致死傷罪を行った疑いがある」
ジャッジマンが喋る。彼女の罪を記した一冊のファイルが、琥珀色の光を放ちながら出現する。日車はジャッジマンから証拠を受け取った。それは彼女のこれまでの人生、13歳で検事になってから今日に至るまで、検察上層部の指示によって合法的にシュレッダーにかけられ、存在しなかったことにされた、数々の事実の記録だった。日車はそのファイルを開き、中身に目を通した。
(……これは)
日車の手が微かに震えた。そこに記されていたのは、彼女の罪ではない。彼女が法という巨大な歯車の中に放り込まれ、真実よりも妥当性と有罪率を優先する組織の描いたストーリーに合わせるためにいかに完璧な虚構を書き続けることを強制されてきたかという、底知れない絶望の歴史だった。
13歳の彼女が泣きながら書いたと思われる、稚拙な字の自供書。その上から無慈悲に押された「不起訴」「秘匿」の真っ赤な印。何度も何度も、彼女が私がやりましたと叫ぶたびに、組織がそれを優秀な検事のキャリアという名のシュレッダーにかけてきた生々しい拒絶の履歴だ。完璧な起訴状の数々は、彼女の喉元に突きつけられたナイフの反射に過ぎなかった。日車は自分の手が血の気が引いていくのを感じた。彼女が求めていたのは死ではない。20年以上誰一人として受理してくれなかった自分の真実を、ただ一人にだけ証拠として認めてほしかったのだ。日車は震える手でファイルを閉じた。彼の目は驚愕と、そして言葉にできないほどの深い悲しみに満ちていた。
「……北見検事。あなたは」
日車は証言台で平然と受け入れようとしている彼女を見つめた。彼が裁こうとしたのは、冷徹な怪物ではなかった。法というシステムに魂を食い破られ、その抜け殻だけが勝利の道を歩み続けてきた、あまりに不憫な犠牲者だった。
日車は手にした証拠の重みに沈黙した。そこに記されていたのは、単なる捏造の記録ではない。その卓越した知性を正義を殺すためのナイフへと研ぎ澄まされていった、あまりに孤独な研磨の歴史だ。証言台に立つ遥は驚くほど透き通った表情を浮かべていた。
「さあ、ここから私の証言なのかな?」
遥は晴れ晴れとした笑みを日車に向けた。その表情には絶望も自分への嫌悪もない。ただ自分を終わらせてくれる存在に出会えたことへの、純粋な歓喜だけが脈打っている。
「日車くん。君ならわかるだろう?私がどれほど美しく、残酷に、完璧な嘘に書き換えてきたか。私はね、この声で何人もの人生をその真実ごと手にかけてきたんだよ」
彼女は一歩、ジャッジマンの審判が下る死線へと足を踏み出す。
「言葉に意味なんてない。でも君が今持っているその証拠だけは私の魂が、最後に残した血痕だ。
さあ、判決を。私をこの化け物の檻から連れ出して」
日車は彼女の言葉を、そしてその笑顔を、耐えがたいほどの痛みとともに受け止めていた。
彼女が求めているのは対等な対話ではない。自分という正義の柱に激突し、粉々に砕け散ることで、ようやく無に帰ろうとしているのだ。
「……北見検事」
日車は証拠のファイルを指が白くなるほど強く握りしめた。彼の背後でジャッジマンの天秤が大きく揺れる。法は彼女を有罪と断じるだろう。だが日車の内にある人間としての心が、彼女をただの犯罪者として切り捨てることを拒絶していた。
「あなたは自分が救われるために、俺に人殺しをさせるつもりか」
日車の声は慟哭に近い響きを帯びていた。遥は、嘲るような、けれどどこか慈しむような眼差しを日車に向けた。
「人殺し……?違うな、日車くん」
彼女は一歩、また一歩と、証言台の縁まで身を乗り出した。その姿は裁きを待つ被告人というより、ようやく聖域に辿り着いた巡礼者のようだった。
「これは私がずっと夢見た裁判だ。嘘偽りのない、0か1かの事実。君の高潔さを見たから、私はここに立っているんだ。君が法を壊してまで貫こうとしたその暴力こそが、私の嘘を暴ける唯一の光だった」
遥は自分の胸元に手を当てた。そこにはもう司法バッジの重みも、検察官としての矜持も残っていない。
「私の言葉は誰にも暴かれなかった。私の嘘は常に正解として世界に受け入れられてしまった。…ねえ、それがどれほど恐ろしいことか、君ならわかるだろう?誰も私を止めてくれなかった。誰も私を人間として扱ってくれなかった」
彼女の笑みは、さらに深く、純粋なものへと変わっていく。
「でも君は違った。君は私の震えを見つけ、私の言葉を疑い、そして今、こうして私の魂の残骸をその手に持っている。
最高じゃないか、日車くん。これ以上の対話が、この世にあるのかい?」
日車は眼前の光景に眩暈を覚えた。彼女は狂っているわけではない。あまりに正気で、あまりに絶望しすぎた結果、自分の死の中にしか生の充足を見出せなくなっている。ジャッジマンの天秤が、音を立てて傾く。
有罪。没収。あるいは――死。
日車は証拠のファイルを握りしめたまま、言葉を失っていた。弁護士として彼女を救うべきか、それとも彼女が望む通りその高潔な手で彼女を終わらせてやるべきか。法廷の冷たい静寂の中で二人の視線が絡み合う。
日車の瞳に映るのは、返り血を浴びた日車の姿を美しいと笑う孤独な怪物の素顔だった。
法廷の空気は、さらに一層の重圧を伴って凍りついた。証言台に立つ遥は日車の持つ証拠を補完するかのように、自らの魂を切り刻む術式開示に打って出た。
「だがそうだな、証拠が足りないというなら手伝ってあげよう。……術式開示だ」
彼女の唇から紡がれるのは、自らを確実に断罪するための精緻な呪いの定義。
「術式名称:公訴執行」
遥の背後に歪な天秤を模した残滓が立ち昇る。それは彼女が積み上げてきた、誰かを被告に仕立て上げ効率的に、そして冷酷に抹殺してきた技術の結晶。
これまで彼女が検事として振るってきたその力は、今、彼女自身を射抜くための銃口へと作り変えられた。
「被告、北見遥。罪状、特別公務員職権濫用等致死傷罪。証拠は……」
彼女は日車を真っ直ぐに見据え、そしてこの上なく清々しい声で告げた。
「私の、自供だ」
「公訴執行」
術式の開示による縛りが、彼女の呪力を爆発的に高め、同時にその身を逃れられぬ被告として法廷に固定する。彼女が自らに課した虚偽告訴の禁止という縛りは、彼女が語る自白を絶対的な真実へと昇華させていた。
「さあ、日車くん。私の罪を裁いてくれ」
日車は絶句した。ジャッジマンの天秤が彼女の自供を受け、決定的に有罪へと振り切れる。日車の脳裏に、彼女が歩んできた地獄が走馬灯のように駆け巡る。
彼女が言葉を捨て、行動に走り、そして今、自らの死を望む理由。彼女にとってこの領域こそが、一生に一度だけ許された嘘のない真実の対話の場だからだ。
(……救えないのか)
日車はジャッジマンから手渡された処刑人の剣を幻視する。彼女は救いを求めているのではない。自分の犯してきた美しすぎる嘘という大罪に相応しい結末を求めている。
「…北見検事。あなたはどこまで、自分を許さないつもりだ」
日車の絞り出すような声が、冷たい法廷に響く。彼は弁護士として彼女の情状酌量を叫びたい衝動に駆られていた。13歳からの強制、組織の圧力、抗いようのない構造的腐敗。だが証言台で晴れ晴れと笑う彼女の姿が、それを拒絶していた。
「日車くん、甘いよ。君が今、私のために流そうとしているその迷いこそが私に対する最大の侮辱だと思わないかい?」
遥は自分の首筋をなぞるように指を動かし、挑発的に笑った。
「これは私の、たった一つの真実なんだ。……さあ、執行を」
ジャッジマンの判決が落とされようとしたその瞬間、法廷の静寂を切り裂いたのは日車寛見の怒号だった。
「ふざけるなっ!!」
日車は手にしていた証拠のファイルを床に叩きつけた。その形相は、正義の番人でも、冷酷な処刑人でもない。弁護士席から飛び出し、証言台に立つ遥のもとへ数歩で詰め寄る。
「……日車、く」
遥の瞳は焦点が定まっていない。術式覚醒による脳の強制的な書き換え。頭蓋の裏側で彼女の正気を焼き切ろうとしている。日車は理解した。今、彼女に言葉は届かない。彼女を縛っているのは、脳を侵食する呪力という名の狂気だ。日車は彼女の肩を掴み、その唇を塞いだ。
「……ッ、ん……!」
柔らかな感触。鉄の味。荒い吐息。暴力的なまでの事実を、彼女のバグだらけの意識に流し込む。嘘も、真実も、法も関係ない。ただここに生身の人間がいるという一点の事実だけが、発狂の淵にいた彼女を現世に繋ぎ止める方法だった。
「裁判は……取りやめだ」
日車は彼女を離すと、肩で息をしながら上空で静止したジャッジマンを睨みつけた。
「没収も、処刑も、クソ食らえだ。お前が背負わされてきた嘘を、なぜ今、俺の手で完成させなければならない!お前をここで殺せば、それこそが組織の望む完璧な幕引きになるんだぞ、北見遥!」
日車は彼女の顔を覗き込み、怒りに震える声で叫んだ。
「自分の死で、自分の罪を美化しようとするな!生きて、そのドロドロとした嘘の中で、私と共に泥を啜れ!それがお前が犯した罪に対する、唯一の本当の罰だ!」
術式が日車の激しい感情の奔流に耐えきれず、ガラスが割れるような音を立てて崩壊し始める。ジャッジマンが霧のように消え、殺風景な現実の法廷の風景が戻ってくる。
遥は証言台にへたり込んだ。
首元のギロチンの冷気は消え、代わりに日車に掴まれた肩の熱と、唇に残る痛いほどの拍動だけが、彼女を現世に繋ぎ止めていた。
「……あはは」
遥の喉から、乾いた笑いが漏れた。目から熱いものが、堰を切ったように溢れ出していた。
「君は。本当に、馬鹿野郎だな」
彼女は顔を覆い子供のように声を上げて泣いた。完璧な起訴状も美しい論理も、すべてをかなぐり捨てて。化け物になってから初めて。彼女の言葉ではなく、一人の男の激昂という名の不条理が、彼女を地獄から引きずり戻した。
日車は泣き崩れる彼女の背中を見つめながら、ただ拳を握りしめて立っていた。