ホテルの薄暗い照明の下、日車寛見は備え付けのデスクで北見遥はベッドに浅く腰掛けたまま、虚空に浮かぶコガネを凝視していた。
「うーん、やっぱり…」
遥はコガネを見ながら考え込んでいる。
「日車くん。私はこれを単なる呪いの類だとは思わない。これは法体系そのものへの広域ウィルス感染。不正アクセスの極致だよ」
日車はペンを止めた。
「ウィルスか。ずいぶん大胆な解釈をするな。確かに我々の脳に直接術式を書き込み、思考や行動を強制的に制限する。これは通信の秘密を侵し、個人の精神というサーバーをハックする行為と言える」
「そう。しかも合意を取ってるツラをしてるのが最高に悪趣味だぜ」
遥は立ち上がりコガネを指差した。
「ルール3……侵入した時点で宣誓したと見なす。これ、中身を読ませる気のない規約に無理やり同意のチェックを入れさせる悪質なポップアップみたいなもんだろ。ああいうの、全部クソだよ。
私たちは自分の足で立ったんじゃない。背中を押されて、地獄にハメられたんだ」
彼女の瞳にかつての法廷で見せた冷徹な光が戻る。
「法を破壊するなら法でやり返してやる。日車くん、私はこの死滅回游を人類の秩序を汚染するウィルスだと定義するよ。そうすることで私の術式はコガネを排除すべき不正な証拠として認識できる」
彼女の術式 公訴執行は対象を罪と定義しなければ始まらない。彼女は死滅回游そのものを起訴しようとしているのだ。
「嫌だな。法をこんな屁理屈の道具に使うなんて。自分の口がドブ川にでも浸かっている気分だよ」
遥はそう言って、汚れたものを吐き出すように舌を出した。日車はしばらく黙考した後、小さく頷いた。
「北見、君の解釈は極めて攻撃的でかつ論理的だ。だが実務的にはそれだけでは足りない」
日車はデスクの上のメモに、太い線で円を描いた。
「このウィルスが既に我々の脳という基幹システムを掌握している以上、単にこれは違法だと叫んでも強制終了はできない。我々に必要なのはこの不正プログラムを隔離し、あるいは利用するための暫定処置だ」
「隔離?」
「ああ。例えばこのコガネというインターフェースを介した情報の送受信。これが監視カメラであり盗聴器であるなら、我々はそれに対して保全命令を出す。システム側の勝手なルール書き換えを阻止し、せめて自分たちの周辺の事実だけは、こちらが管理下に置く必要がある」
日車はコガネを冷めた目で見つめ返した。
「君がこのシステムをウィルスとして公訴するなら、俺はその公判が維持されるまでの間、この不当なルールを逆手に取り、我々の生存権を守るための仮処分を勝ち取ってみせる」
少し丸まった背中で握っているのペンの先を眺め、自嘲気味に言う。
「法の正義が機能しない場所ならシステムの穴を突いて、こちらに有利な特別法を無理やりねじ込むまでだ」
日車はペンを握る手に力を込めた。ミシリ、とペンが音を立てる。彼にとって法の穴を突くという行為は、自らの魂を削る行為に等しかった。
「日車くん、君も相当だね」
遥はベッドに深く沈み込み愉快そうに肩を揺らした。
「弁護士がウィルスを逆利用して脱法を企むなんて、向こうの法科大学院でも教わらなかったよ」
「法律家は与えられた盤面で勝つのが仕事だからな。たとえその盤面が呪いという名のバグまみれだったとしても」
外は激しい雨が降り続いていた。ビジネスホテルの狭いデスクに広げられた、死滅回游の総則。日車はペンの先でそのルール3を何度も叩いた。
「北見、やはりこの条文……致命的な欠陥がある」
「欠陥?ああ、突っ込みどころしかないけど、特にどこだい?」
ベッドに寝そべりポッキーを齧っていた北見が顔を上げる。日車は事務的な手つきでルールの空白を指し示した。
「さっきも話に上がったがルール3だ。侵入した時点で参加を宣誓したものと見做す。ここには侵入した後の座標指定に関する記述が一切ない。法の手続きにおいて出頭場所や送達先が明記されないなどあり得ないことだ」
日車の声は疑念に満ちていた。
「もし侵入後の移動が自由なら場所を指定する必要はない。だがあえて書いていないということは、運営側にプレイヤーを強制的に配置する裁量権があることを示唆している。つまり入り口と出口が直結している保証はどこにもない」
「なるほどね。日本の弁護士さんは慎重だ」
北見はふっと笑みを消し、冷ややかな視線を虚空に向けた。
「私も同感だよ。アメリカの広大な管轄区で、容疑者を効率的に箱へ詰め込む現場を腐るほど見てきた。もし私がこのゲームの設計者なら、仲の良い連中をわざとバラけさせるね。その方が効率よく殺し合ってくれるから」
「……コガネ」
日車が短く呼ぶと羽虫のような式神がふわりと現れた。
「なーに?日車くん。ルール解説なら何度でもするよ!」
「質問だ。結界に侵入した際我々の着地点は誰が、どう決定する?侵入時の相対速度や位置は維持されるのか?」
「あはは!難しいこと聞くねえ!」
コガネは空中でくるくると回り責任を回避するように声を弾ませた。
「ボクはただの窓口だからそんなの決めてないよ!結界が勝手にいい感じにやってくれるだけ!ボクに文句言われても困っちゃうなあ!」
「回答不能、か」
日車が冷たく言い放つと北見も鼻で笑った。コガネが消えた後二人の間に重苦しい沈黙が流れる。
「いやぁ、質問をはぐらかしたね。日車くん、こりゃ大当たりだ」
「ああ。証拠を隠滅しようとする者がよく使う手口だ」
日車はメモに強制転送の蓋然性が高いと書き加えた。
「入った瞬間に離ればなれになる。……その前提で対策を練るぞ。北見」
「了解。地獄の入り口で迷子になるなんて、私のプライドが許さないからね。
だけど物理的なロープなんて、そんな普通のものが役立つとも思えない」
遥はホテルの備え付けのランドリーバッグから引き抜いたビニール製の紐を指先で弄びながら、自嘲気味に笑った。
「ああ。強制転送が空間そのものの書き換えであるなら物質的な結合は無視される。だが北見、我々の手元には、物理法則を無視して事象を固定する術式が既にある」
日車は自らの手の中に現れた木槌——ガベルを凝視した。
「あー、なるほどわかった。日車くん。君のそのガベル、ちょっと貸してくれないかい?」
遥はベッドから立ち上がると日車の傍らに寄り添い、そのガベルの柄を指先でなぞった。
「私の術式 公訴執行には、証拠保全という機能がある。相手の術式の残滓を物証として固定し、逸失を許さない力だ」
「なるほど。俺の持ち物に応用するつもりか」
「そう。私の術式で君のガベルを重要な物証としてあらかじめ実体化し、私の管理下に固定しておく。……法的なロジックはこうだ。
『検察官(私)が確保した重要な証拠(ガベル)を、裁判所(システム)が勝手に廃棄・隠滅することは許されない』」
遥は日車を自分の方へ引き寄せた。企むように笑う。
「この術式の定義が有効である限り、日車くんと私を切り離すことができない。もし転送が私たちを引き離そうとしても私の術式が証拠隠滅の阻止という理屈で、強制的なブレーキをかけるはずだ」
日車は驚いたように目を見開いた。呪術の理などまだ何も知らない。だが彼女の提案する法理的な抜け穴は、あまりに美しく説得力に満ちていた。
「面白い。君が俺をガベルごと証拠として差し押さえるわけか。証拠品に拒否権はない。好きにしろ」
「話が早くて助かるよ。じゃあ、ちょっと失礼」
遥は日車のガベルに手をかけ、自らの呪力を流し込む。
「物証番号001、日車寛見の所有物ガベル。これを本件の不可欠な証拠として保全する。——これでよし」
黒い火花がパチリと爆ぜ、日車の服の端が遥の指先に吸い付くような感覚に変わった。
「物証番号001、か。言葉なんて所詮は嘘を飾るための装飾でしかない。なのに今度はその言葉を使って、君という人間をモノ扱いして縛り付ける。ねえ日車くん、私たちの法は、いつからこんなに薄汚れてしまったんだろうね」
遥はガベルを見つめ、吐き気をこらえるように目を細めた。物理的な紐よりもずっと強固で、呪わしいほどの執着を孕んだ法的な繋がり。赤い糸なんて素敵なものではまったくない。
「まあこれで、入り口で迷子になる確率はぐっと減ったはずだ」
「だが出口で、君が俺という証拠を抱えたまま、敵のど真ん中に放り出されるリスクは残るな」
「その時は君がそのガベルで、私の代わりに異議ありと叫んで物理的に黙らせてくれ」
二人は顔を見合わせ、フッと不敵な笑みを漏らした。まだ呪術師としてのイロハも知らない。だが長年泥を啜りながら磨き上げてきた法だけを頼りに、二人は結界を潜る準備を整える。そのことがなんだかおかしかった。
「証拠品と検察官がセットで地獄の釜に放り込まれるわけか。悪くないね。……ポッキー食べるかい?日車くん」
遥は手を離し、再びベッドに寝そべって空の箱を振った。中身がないことに気づくと、彼女はそれをゴミ箱へ放り投げ、天井を見つめる。
「さて、日車くん。無事に合流できたとして、その後のプランはどうする?19日以内にポイントの変動がなければ、私たちは術式の剥奪——つまり死刑だ。司法を愛する君が、法律外の私刑で点数を稼ぐつもりかい?」
日車はペンを置き、組んだ指の上に顎を乗せた。
「本来、法とは社会秩序を維持するための装置だ。だがこの死滅回游において法は死んでいる。ならば俺たちがすべきことは一つ。この不毛な殺戮ゲームの盤面を、無理やり司法の管理下に引きずり戻すことだ」
日車は手元のメモに「100点」と大きく書き込んだ。
「まずは100ポイントを稼ぐ。そしてルールを追加しこの閉鎖空間に司法制度を再構築する」
ペンを持つ指が、微かに震えていた。日車はそれを隠すように100点と書いた文字を、黒いインクで塗り潰すように何度もなぞっている。その数字の裏側にある20人分の断末魔を幻視する。司法を信じていた頃の彼なら、そんな提案をした自分自身の首を絞めていたはずだ。
「あはは、100点!20人を殺せってことだね。言うじゃないか、日車弁護士」
遥は皮肉たっぷりに笑ったがその瞳には日車と同じ、絶望と諦めの色が宿っていた。
「でもただ殺すんじゃ芸がない。日車くん、私はこの死滅回游を大規模ウィルスだと定義した。なら私たちの行動は私刑ではなく、ウィルスによって狂わされた世界を正すための緊急避難的措置、あるいは公判の維持だ」
彼女は指を一本立て空中に「民法90条」と描き出す。
「コガネの言う宣誓の見なしは強迫による意思表示であり、公序良俗に著しく反している。このゲームの契約そのものがハナから無効なんだよ。無効な契約を無理やり執行しようとするシステムに対し、私は検察官として公訴を提起する」
「なるほど。君が対象を被告人として起訴し、俺の領域で判決を下すわけか。判決が死刑であればそれは殺人ではなく、正当な刑の執行となる」
日車がその意図を汲み取ると、遥は満足げに頷いた。
「そういうこと。相手が誰であろうと関係ない。この結界内で暴力を振るう者はすべて法の平等を乱す不法占拠者だ。私が証拠を保全して逃げ場を奪い、君がガベルを振り下ろす。私たちは、この地獄で裁判所をやるんだよ」
「100点稼ぐまでの間は俺がこの場の暫定的な最高裁判所として、死滅回游の不当なルールに効力停止の仮処分を下し続ける。法が死んでいるなら、そうせざる得ないんだろうな」
日車の言葉は自らも泥を啜る覚悟を決めた男の、重く静かな響きを持っていた。
「……救われないね、私たち」
遥はクスクスと肩を揺らした。
「ずっと嘘で人を裁いてきた化け物と、正義に絶望して人を殺した弁護士が、人殺しの点数で新しい法律を作ろうなんて。ねえ、日車くん。もし100点貯まったら、最初のルールは何にする?私のおすすめはポイント譲渡の許可だね。和解の余地がない法廷なんてただの解体作業場だから」
日車は塗りつぶした100点の文字から視線を外さず、喉の奥から絞り出すように言った。
「……100点が貯まったらまずは司法制度の確立を狙う。第1候補は君の言う通りポイントの譲渡を可能にすることだ。これ以上、無益な殺生を続けたくない。交渉、つまり和解による解決ルートを確保し、このゲームの殺しの連鎖を止める」
日車の声はかつての理想に縋るような、微かな震えを孕んでいた。
「第2候補は結界からの離脱、退場権の確立だ。監禁状態という不当な権利侵害を解消し、非戦闘員の生存権を確保する。そして第3候補は泳者間の情報の開示義務。隠れた殺人鬼を特定し、公判の透明性を上げる」
日車はそこまで一気に語ると、力なく視線を落とした。
「……傲慢だな、俺は。20人の命を奪うことを前提に、正義の真似事をしようとしている」
遥はそんな日車の、少し丸まった背中を黙って見つめていた。
(やっぱりこの人は、きれいなままだ)
日車は絶望しながらも、その魂の根底ではまだ法を捨てきれずにいる。法の穴を突くことにこれほどまで苦悶し、これから奪う命の重さに押し潰されそうになっている。
(それでいいよ。日車くんは、その潔癖な苦悩を抱えたままでいてくれ)
遥は自嘲気味に目を細めた。自分がずっと嘘で人を裁いてきた化け物なら、その汚れをすべて自分が引き受ければいい。日車が判決を下すための汚れた証拠を、もっと効率的に、もっと冷酷に積み上げるのは自分という壊れた検事の役割だ。
「厳しいね。まあ分かったよ」
遥はわざとらしく溜息をつき、濡れた髪をかき上げた。だがその笑みはすぐに消え、自分の指先をじっと見つめた。
「ねえ、日車くん。私たちは今、自分たちの罪を消すために新しい法を捏造している。これって私たちが一番軽蔑していた腐敗そのものだと思わないかい?」
日車はデスクの上のメモを整理する手を止め、静かに答えた。
「否定はしない。だが法とは元来、強者が弱者を統治するための解釈の集積だ。この地獄において俺たちが強者であるというなら、俺たちの解釈こそが法になる。腐拠した法でも法がないよりはマシだ」
「あはは、本当救いようがないね。どうだい、日車くん。死滅回游をウィルスだと定義すれば私たちの人殺しは駆除という名の正当防衛になる。我ながら吐き気がするほど完璧な嘘じゃないか」
遥は自嘲気味に笑った。これまで無数の真実を殺してきたその唇から、また新しい都合の良い真実が紡がれたことへの嫌悪。日車はそれを否定も肯定もしなかった。
「実務上の整合性は取れている。その嘘が俺たちの生存に必要なら、俺はそれを事実にしよう」
日車は彼女が書いた殴り書きのメモを丁寧に折りたたみ、懐に収めた。自白調書を隠し持つ犯人のような手つきだ。
「君が世界を騙す起訴状を書くなら、俺はそれを執行する最後の一人になる。たとえその代償に、この魂が二度と元の形に戻らなくなったとしても」
「じゃあ、いこうか」
北見はベッドから立ち上がった。その足取りは重く、まるで死刑台へ向かう囚人のようだった。二人の間にあるのは愛でも希望でもない。ただ互いの罪を共有しこの狂った世界を自分たちの知る法という言葉で塗り潰そうとする、強固で歪な共犯意識だけだった。
翌朝。
二人は一度も着替えることなく、シワの寄った黒いスーツを纏ったまま、降り止ぬ雨の中、結界へと向かって歩き出した。ホテルを出ると、雨はさらに激しさを増している。かつては眩いほどのネオンが不夜城を形成していた街並みは、今や冷たい飛沫に打たれるだけのコンクリートの残骸と化していた。
日車は無意識にガベルの感触を確かめた。硬く、冷たい。
「日車くん。見てよ。この街、もう呼吸してないぜ」
遥が横倒しになったガードレールを飛び越えながら言った。二人が歩を進める先、かつての繁華街の入り口にあるはずのコンビニエンスストアは半開きの自動ドアが風に煽られ、カタン、カタンと乾いた音を立てている。店内には照明も通っておらず、暗闇の中に賞味期限の切れた弁当や雑誌が散乱している。
「食料を確保するぞ。結界内での補給が保証されていない以上、備蓄は不可欠だ」
日車が淡々と告げ、暗い店内へ足を踏み入れる。遥は棚からポッキーの箱をいくつか掴み取った。日車はミネラルウォーターのボトルと簡易的な保存食を無言でレジ袋へ詰めていく。
作業を終えた日車は誰もいないレジカウンターの前で足を止めた。彼は雨に濡れた指でズボンのポケットから小銭入れを取り出し、商品の代金に相当する小銭を一枚ずつ丁寧にカウンターへ並べ始めた。
「何してるんだい、君は」
遥が呆れたような、どこか切ないものを見るような目で彼を見つめた。
「売買契約の成立には対価の支払いが伴う。たとえ店主がいなくとも払うべきだ」
「あはは!本気かい?警察もいない、裁判所も機能していないって時に、律儀にレジに100円玉を並べるなんて。日車くん、その法はもう死んだんだよ」
遥は暗闇の中で白く細い指でレジの上に並んだ小銭を弾いた。チャリン、と硬貨が床に落ち、虚しい音を立てる。
「わかっている」
日車は落ちた硬貨を見つめることなく、低く答えた。
「だがこの手続きを捨てれば、俺はただの強盗になってしまう。形だけでも、俺は俺を裁くための法を放棄するわけにはいかないんだ」
「頑固だね。でもそういうところが、君らしいよ」
「……」
日車は落ちた硬貨から目をそらした。日車は自分の掌を見つめる。人を殺めた時の重い感触だけが皮膚の裏側にへばりついている。
(こんな端金を並べて、何になる)
内側からどろりとした虚無が這い上がってくる。法を信じていた自分を今の自分があざ笑っている。正直、もうどうでもよかった。法も、正義も、自分の人生さえも。このまま雨に打たれ、泥にまみれて、獣のように誰かを食い殺して終わる。絶望の淵に片足を突っ込んでいた。
だが隣から、どこか苛立たしげな咀嚼音が聞こえた。
「日車くん、行こう。突っ立ってるとその自前のスーツ、安物になっちゃうぜ」
遥のその軽薄な、しかし彼を弁護士という枠組みに強引に繋ぎ止める声。日車は一瞬だけ目を閉じ、内側のドブ川のような虚無に無理やり蓋をした。
(……そうだ。この女が、俺を見ている)
一人なら哄笑しながら結界の中へ消えていったかもしれない。北見遥が俺を綺麗な日車くんとして定義し続けている。その眼差しが彼にとっての呪いであり、同時に最後の枷だった。日車は再び顔を上げた。その表情は先ほどよりもさらに深く、青白い絶望で塗りつぶされている。
「ああ。行こう、北見」
そんな日車の様子を見て、遥は悲しげに笑った。
店を出ると街の静寂はさらに深まっていた。信号機は消灯し、アスファルトの上には誰のものかわからない靴が片方だけ落ちている。法が消えた街、誰も罪を定義しない場所。
「法がない世界って、こんなに寒いんだね」
遥は囁くように呟いた。
「ああ。だから北見、俺たちがやるんだ。泥を啜り嘘を積み重ねてでも、この暗闇の中に、もう一度法を作り直す」
日車の瞳には絶望の裏側に張り付いた、狂気的なまでの使命感が宿っていた。二人の歩みの先、空を割るようにしてどす黒い壁が姿を現した。死滅回游。
「準備はいいかい、日車くん」
遥がその境界線に手をかけようとした時、日車が微かに声を詰まらせ、足を止めた。
「……待ってくれ。北見、これを」
日車が鞄から取り出したのは、不格好に丸められ、幾重にも撚り合わされた布の束だった。ホテルのシーツを彼は出発前に一人で黙々と裂いて用意していたのだ。
「何だい、それ。シーツ?君、まさかホテルからずっとそれを持って歩いてたのか?」
遥が驚いたように目を丸くする。日車は視線を泳がせ、喉の奥で「実務的な予備だ」と短く、吐き捨てるように言った。
「空間転送という未知の事象に対し、術式という不確定要素だけに頼るのはあまりに杜撰だ。物理的な結合に意味がないことは重々承知している。だが……」
「だが?」
「……0.1%でも、君と離れる確率を下げられるなら、試す価値はあると判断した」
日車はそれ以上何も言わず、ひどく無骨な手つきで自分と遥の腰を縛り始めた。
「あはは!日車くん、君ってやつは……!」
遥はこらえきれずに吹き出した。コンビニで小銭を並べていた時も、雨の中を絶望的な顔で歩いていた時も、この男は鞄の中にシーツの紐を隠し持っていたのだ。その不器用で、ひどく必死な正気への執着が、遥にはたまらなく愛おしく、そして残酷に思えた。
「北見。万が一、これら全ての措置が失敗し、離別した場合の合流地点を策定する」
日車は紐を結び終えると、雨に濡れた仙台の地図を脳内に広げるようにして言った。
「電話が繋がるとは思うな。電波塔が機能していても、結界が通信という事象そのものを歪めている可能性がある。合流地点は仙台駅・ペデストリアンデッキだ。あそこなら視界が開けている。もしそこが消失していた場合は、駅前のパルコ周辺で待つ。待機時間は到着から最大3時間だ」
日車の声は、自身の生存よりも事務的な手続きの完遂を優先させているかのように冷徹だった。それはもし彼女を失った時、自分が悲しむ人間ではなく次の手続きを進める機械に成り下がるための、彼なりの防衛策でもあった。
「死ぬなよ、日車くん」
「君こそ。俺を差し押さえた責任を取れ」
二人は合流地点を確認し合うと、最後にもう一度だけ紐の結び目を確認し、漆黒の壁へと体を投げ出した。遥が日車の腕を掴んだ。先ほど交わした証拠保全の契約。指先から伝わる呪力の脈動が、二人の魂を一つの法理で縛り付けている。彼らは一歩、その人智を超えた漆黒の壁の中へと足を踏み入れた。
結界を跨いだ瞬間、世界の色が反転した。視界が歪み平衡感覚が消失する。上も下も判別のつかない混沌の中で、日車は隣にいる北見の手を、文字通り骨がきしむほど強く握りしめていた。
(離すな。ここで離せば俺たちは二度と会えない)
二人を別々の座標へと放り出そうと、目に見えない力で引き裂きにかかる。それに対し北見の術式 公訴執行が、火花を散らして異議を申し立てていた。
「……っ、逃がさない…!この証拠品は、私の管理下にある……!」
遥の悲鳴に近い声が響く。彼女の指先から溢れる呪力が日車のガベルと、そして日車自身を、強引に不可分の事象として固定し続けていた。その代償は彼女の鼻筋を伝い落ちる一筋の鮮血となって現れた。
どさ、という生々しい衝撃と共に、二人は硬いアスファルトの上に叩きつけられた。
「……っ、北見!無事か!」
日車は反射的に腰に結びつけたシーツの紐を確かめた。紐はひどく焼け焦げ千切れかけていたが、肩で荒い息をつく北見遥がいた。
「ああ。なんとか、ね。日車くん、君のガベル……重すぎだよ」
遥は鼻血を手の甲で拭い、ふらつきながら立ち上がった。周囲を見渡した彼女の表情が、凍りついたように固まる。
「……ねえ、日車くん。ここ、どこだい?」
日車も周囲の景色を凝視し、絶句した。二人が入ったのは、岩手の拠点から最も近い仙台結界のはずだった。目の前に広がるのは、決定的に違う場所だ。
「……代々木、か?いや、新宿。東京都庁だ」
日車が絞り出すように言った。仙台結界に足を踏み入れたはずの二人は一瞬にして数百キロ離れた東京のど真ん中、東京第1結界へと移動していたのだ。
「笑えないジョークだ。座標指定がないどころか、広域の強制移送かよ」
遥の声が恐怖で上ずった。
もし、あのまま術式で繋がっていなければ。
もし、日車が無意味だと自嘲したあのシーツの紐がなければ。
自分たちは今頃、一人は東京、一人は仙台、あるいはさらに遠くの結界へバラバラに放り出されていたはずだ。
「もし離ればなれになっていたら二度と会えなかっただろう。この広大な治外法権の中で、互いの消息を追う術はない」
日車の背中を冷たい汗が伝う。自分が足を踏み入れた場所の底知れなさを理解した。法も、距離も、物理法則さえも、ここでは運営側の裁量一つで書き換えられる。
「……日車くん、手が震えてるよ」
遥がそっと日車の腕に触れた。日車は自分の拳が、怒りと恐怖で白くなるほど握りしめられていることに気づいた。
「このゲームの設計者は、我々を人間として扱っていない」
日車は空中に浮遊するコガネを殺意の籠もった眼差しで射抜いた。自分たちはバラバラにならずに済んだ。それは幸運ではない。自分たちの法が辛うじてシステムの暴力に抗っただけだった。
「北見。ここが地獄の底だとしても、俺の手を離すな」
「言われなくても。君という証拠品を失ったら、私はもう誰も裁けなくなっちゃうからね」
二人は歪んだ新宿の街並みの向こうに、自分たちが目指すべき「100点」という名の血塗られた出口を見据えた。