降り止まぬ雨が日車と北見の黒いパンツスーツを容赦なく濡らしている。二人がシーツの紐を解き、泥濘むアスファルトを一歩踏み出したその時だった。
「ひゃはっ!新人かあ?ラッキーだぜ!」
男が地を蹴る。その拳に宿る呪力は剥き出しの暴力そのものだ。日車がガベルを形成するより早く、遥がその射程圏内へと吸い込まれるように踏み出した。
「……手続きに不備があるんじゃあないかい、君」
「ああん!?」
男の拳が遥の鼻先をかすめる。彼女は紙一重で回避しながら、男の全身を網膜に焼き付けるように凝視していた。検事として血生臭い証拠品を数多扱ってきた彼女の脳が、呪術という超常現象を強引に法のテンプレートに当てはめていく。
(待った。今、こいつは術式を発動しようと呪力を練った。それは身体強化の範疇を超えている。この高密度なエネルギー、これ自体が……)
男の二撃目。今度は回避が間に合わない。遥は咄嗟に腕を交差させたが、呪力を纏った衝撃は鉄パイプで殴られたように重く、彼女の細い体はアスファルトの上を無様に転がった。
「っ、は……っ!」
「北見!」
「来るな、日車くん!まだ、立証が終わってないからね……!」
泥水に顔を半分浸しながら、遥は這い上がった。口内を切ったのか鉄の味が広がる。だがその苦痛が彼女の思考を冷徹に研ぎ澄ませた。
彼女の思考が加速する。
軽犯罪法第1条2号。正当な理由なく、刃物、鉄棒その他人の生命を害し、又は身体に重大な害を加えるのに使用されるような器具を隠して携帯していた者。
(そうか、なるほど。わざわざ攻撃されるのを待つ必要なんてない。やはり実際にやらないと気づけないことが多いな)
遥の唇に自嘲気味な笑みが浮かんだ。彼女は男の懐に潜り込み、耳元で冷たい声を囁いた。
「君。今、その右手に力を溜めたな。それは法理において、正当な理由なき用法上の凶器の製造、および携帯だ」
「なっ——」
「公訴執行。罪状、凶器準備携帯。……被告氏名不詳、証拠はその君の武装だ!」
男の拳に溜まった呪力が、目に見えない法理の蓋によって強引に抑え込まれた。呪力減衰による強制的な拘束。
「……っ」
同時に遥の脳に男の殺意が逆流する。相手を起訴する以上、彼女自身がその被害を誰よりも深く認識しなければならない。神経を一本ずつ削り取られるような痛みに耐えながら、遥は膝をついた男の項へトドメを刺そうとした。自分が死滅回遊最初の殺害を背負えば、日車はまだやり直せるかもしれない。そんな、自分勝手で必死な祈りを込めて。
だが現実は甘くない。
「野郎、何しやがった!」
男は呪力を減衰されてもなお鍛え上げられた肉体だけで遥の首を掴み、地面に叩きつけた。呪術の優劣以前の圧倒的な体格差がそこにはあった。
「あ、が……っ」
首を絞められ、視界が火花を散らす。言葉を信じず、事実を渇望してきた彼女が、今まさに暴力という名の絶対的な事実に圧殺されようとしていた。
その時だった。
「……日車くん!?」
遥の視界を塞いでいた男の体が、真横から凄まじい衝撃を受けて吹き飛んだ。日車が遥を突き飛ばすようにして割り込み、男の頭を自らの手で地面に叩き伏せる。
「……ガッ、あ……っ!」
鈍い衝撃音。コガネが「5ポイント獲得」を告げ、日車にポイントが加算される。遥が自ら背負おうとした最初の殺害という事実が、日車の手によって無惨に奪い去られていた。
「何、してるんだい」
尻餅をついた遥が泥を掴んだまま震える声で問う。
「ポイントは俺に入った。トドメを刺したのは俺だ。……君の術式は、あくまでも手続きに過ぎない」
日車は倒れた男から手を離すと血に濡れた指先を雨に晒して洗った。その仕草はあの日のバーで劇薬を煽っていた彼女の姿と、どこか重なるほどに退廃的だった。
「勝手なことを。私は…!」
「……」
日車は振り返り、遥を射抜くような眼差しを向けた。彼女を絶望から引き戻したあの日よりも、ずっと鋭く、激しい怒りに満ちていた。
「北見。君はまた自分一人で完結しようとしているのか?俺の手を汚させずに済まそうとしているだろう」
日車は一歩、遥に歩み寄る。その足取りは重く、だが迷いはなかった。
「ふざけるな。生きて共に泥を啜る。あの日、俺が君にかけた判決を忘れたのか。君が一人で地獄を背負うことは、俺への最大の裏切りだ」
「……っ」
遥は息を呑んだ。日車の瞳の奥にあるのは深い悲しみだった。、日車は彼女を突き放すように手を離すと、再び雨の中へと歩き出した。
「トドメは俺が刺す。君はそれを横で見ていろ」
一人で地獄の底へ先に行くなと言っているような、そんな悲しい声だった。
「……本当に、傲慢だな。日車くん」
遥は地面についた手の汚れを見つめ、笑った。日車が自分の献身を叩き壊し、無理やり共犯者という同じ泥濘に留まらせたこと。その傲慢さが何よりも痛烈で、何よりも愛おしい救済だった。
「はいはい、分かったよ」
遥は泥だらけの裾を翻し、日車の背中を追って、深い闇の中へ消えていった。
その日の夜。崩落したビルの瓦礫の上で日車は膝を机代わりに、一冊の手帳を広げていた。雨は止んでいたが、夜気は刺すように冷たい。日車はその凍える指先でペンを握り、今日処理した術師たちの記録を、寸分の狂いもなく清書していた。
「被告人、氏名不詳。日時、午後2時14分。場所、新宿3丁目。適用法、凶器準備携帯および殺人予備……」
その横顔はもはや術師のそれではない。窓際で深夜まで残業に勤しむ、疲れ切った公務員のそれだった。
「日車くん。こんな瓦礫の上でまで事務作業かい?働きすぎじゃないか、労基に訴えられてしまうよ」
少し離れた場所で遥が瓦礫に腰を下ろしたまま、ひらひらと手を振った。彼女の服は初日の数戦目にして既にボロボロになった。それでもまるで法廷の休憩時間に同僚に話しかけるような、軽薄で柔らかな笑みを浮かべていた。
「これは必要な手続きだ。適正な手続きに基づく刑の執行として記録し続ける限り、法の内側に留まっていられる」
日車は手帳から目を離さずに答えた。ペンの走る音だけが無機質に響く。彼は自分が奪った命を事件番号に置き換えることで、その重みから逃避していた。そうしなければ罪の重圧で潰れてしまうことを本能で理解していた。
「相変わらず理屈っぽいね。でもその事務作業のおかげで私も助かってるよ。起訴状さえあれば、私の術式も厳格な司法手続きにランクアップするし」
遥は自嘲気味に笑い、自分の指先を見つめた。今日日車が横取りした殺人の感触が、まだ脳裏に焼き付いている。
「…ねえ、私の凶器携帯の解釈どうだった?術式そのものを武器と見做すなんて、我ながら嫌らしい検事じゃあないか?」
「法的には有効な拡張解釈だ。君の術式がそれを真実と認めた以上、そこに疑いの余地はない」
「最高の賛辞だね。だけど…」
遥は少しだけ声を落とし、瓦礫の隙間から覗く月を見上げた。
「こうやって全部を法で塗りつぶして、いつまで正気でいられるかな。嘘を真実にするのは私の得意分野だが、自分自身まで嘘で固めるのは、案外疲れるものだよ。なんならそれは私で実証済みさ」
日車のペンが一瞬だけ止まった。手帳に記された文字が、インクの滲みでわずかに歪む。手帳に記された被告人という文字が、自分の罪を指差しているような気がした。
「泥を啜ると決めたんだ。泥を泥として認識できているうちは、まだ大丈夫だ。君は俺がペンを置かないように、ただ隣で起訴状を書き続けてくれ」
「了解。じゃあ次の被告の罪状も、私がとびきり美しく、残酷にデコレーションしてあげるよう。期待していてくれ」
彼女は日車のペンの音を聞きながら、割れた窓から覗く月を見上げていた。
「終わったぞ」
日車が手帳を閉じペンをポケットにしまった。その声は疲れ切った響きを残していた。
「お疲れ様。……じゃあ、ルール通り、かわりばんこに寝ようか」
遥はいつもの軽薄な笑みを貼り付け、立ち上がった。二人が決めたルールは単純だ。一人が見張りをし、もう一人が2時間眠る。それを交互に繰り返す。最初の見張りは日車、遥が先に眠ることになった。
「ここに座るといい。少しはマシだ」
日車は自分が座っていた瓦礫の山の、比較的平らな場所を指差した。
「ありがとう。じゃあ、2時間後よろしく」
遥は躊躇うことなく瓦礫の上に横になった。泥にまみれたジャケットを枕代わりに、目をつぶる。彼女もまた限界だった。日車は彼女から数メートル離れた、窓の手前に陣取った。ここなら部屋全体と窓からの侵入を一望できる。彼はガベルを具現化させ、それを杖のように突いて闇の中を見つめた。1時間が経過した。遥の寝息は瓦礫のきしむ音に混じり、微かに聞こえる。日車は自らの内に湧き上がる殺人の記憶と、それを肯定しようとする法理の狭間で静かに苦悩していた。
(俺は、一体何をしてるんだろうな)
その時だった。
『――見ぃつけたぁ!』
不快な笑い声と共に窓から何かが飛び込んでくる。日車は即座に反応した。ガベルを振り抜き、飛び込んできた物体――呪力で強化された瓦礫を粉砕する。しかし敵は一人ではなかった。壁の隙間から鎌のような武器を持った小柄な女が遥を狙って跳ねる。
「北見!敵だ!」
「……っ、了解!」
遥は跳ね起きたが身体が思うように動かない。先ほどの戦闘で負った打撲が、鉛のように重い。
「被告、氏名不詳!罪状、不法侵入……っ!」
「遅いよお姉さん!」
女の鎌が遥の肩口を掠め黒いジャケットを切り裂く。遥は瓦礫の影に隠れながら、必死に相手の行動を罪に当てはめようと思考を回転させた。だが多対一の乱戦では一人の罪を立証している間に、別の刃が背後から迫る。
「日車くん、多い!裁ききれない!」
「北見、伏せろ!!」
日車は自らの領域を展開する暇も彼女の元へ駆け寄る時間もないことを悟った。彼は感覚的に自らのガベルを巨大化させ、それを遥と敵の間に強引に叩き込んだ。巨大なガベルが遥を、そして敵を瓦礫ごと押しつぶすようにして部屋の奥へ吹き飛ばした。
「……っ、がはっ……!」
遥はガベルの衝撃と崩れ落ちた瓦礫の下敷きになり、肺の空気をすべて吐き出した。視界が白む。
「大丈夫か!」
日車が残りの敵を力任せに排除し、瓦礫の山を素手で退けながら遥を引きずり出した。その手は自分の攻撃が彼女を傷つけたかもしれないという恐怖で、ひどく震えていた。
「あ、はは……。ねえ、日車くん。今の過剰防衛じゃないかい?」
遥は日車の肩を掴み、血の混じった唾を吐き捨てて笑った。その笑みは死の淵を覗いた者特有の、狂気じみた明るさを帯びていた。
「……ああ。後で、君に起訴されるのが楽しみだ」
「君、それすっごくつまらない冗談だね」
日車は彼女を抱きかかえ、部屋の隅の壁が頑丈な場所へと移動した。敵は撃退したが二人の心には、深い戦慄が走っていた。
「かわりばんこに寝るっていうルール、少し修正が必要だよ」
遥が泥のついた袖で額の汗を拭い、荒い呼吸を整える。日車は無言で彼女を放したがその手はまだ微かに震えていた。
「距離を置くのは合理的じゃない。襲撃があった際、コンマ数秒の反応の遅れが致命傷になる。……特に君は、術式の発動にタイムラグがある」
日車はそう言って、遥の隣の壁に背中を預けて座り込んだ。
「そうだけど。でもどうする?交代で寝るにしてもこの狭さじゃ触れずにいる方が難しいよ」
「……こうするしかない」
日車はためらいを見せず自分の足を伸ばすと、その間に遥を座らせるようにして、背後から彼女の肩を大きな腕で包み込んだ。遥の背中が日車の濡れたスーツの胸元にぴたりと重なる。
「……君の体温が低すぎる。そのままでは次の戦闘で思考が鈍る」
「日車くんこそ。指先、冷たくなっているよ?弁護士がそんなんじゃ書類も書けない」
二人はそうやって相手の状態を実務上の懸念として指摘し合うことで、密着する正当性を自分たちに言い聞かせていた。そうでなければ、この極限状態で異性と肌を寄せ合うという不条理を、自らの理性が許さなかったからだ。
日中の殺し合い、脳内に直接書き込まれた呪力の不快感。それらすべてを一時的に忘れさせてくれるのは、皮肉にも自分と同じように罪を背負い、同じように絶望しているこの男の生身の重みだけだった。
「少し、寝る。……1時間後に、交代しよう」
遥の声が日車の胸に吸い込まれるように小さくなる。彼女は日車の腕を枕にするようにして、その体温に潜り込んだ。
「ああ、任せておけ」
日車の視線は割れたドアの隙間から見える暗い廊下に固定されている。だがその腕の力加減は、彼女が苦しくない程度に、しかし決して逃がさないようにと、無意識のうちに調整されていた。暗闇の中、聞こえるのは雨音と互いの心臓の鼓動だけ。
日車は自分の膝の上で丸まっている遥の存在を、一分一秒ごとに事実として確認し続けていた。
(俺は、狂っている。人を殺したその日に、この女の温かさに救われている)
自嘲の念が胸を焼く。だが彼女を抱きかかえる腕を緩めることはできなかった。自分一人では、この夜の深さに飲み込まれ、自分が日車寛見であったことさえ忘れてしまいそうだったから。
1時間後。
遥がゆっくりと目を開け、日車の腕から這い出した。
「交代。寝たまえ、日車くん。次は私が見張ろう」
日車は何も言わず、遥がいた場所に自分の背中を預けた。今度は遥が彼の広い背中を包み込むようにして、背後から日車の肩に腕を回そうとするが、小柄な遥では全く届かない。
「…この姿勢、体格差もあるしちょっと私には無茶じゃあないか?」
「我慢しろ」
日車は遥の細い腕の感触を感じながら、泥のように深い眠りへと落ちていった。