日車は昨夜、遥を救うために無意識に繰り出したガベルの巨大化の感触を反芻していた。彼は壊れた貯水タンクを的に見定め、手元のガベルを凝視する。
「昨日のあれだがあれは出力の調整というより、術式の定義そのものの拡張だったのかもしれない」
日車が呟くと、少し離れた場所で濡れた髪を梳かしていた遥が顔を上げた。
「巨大化のことかい?あれには驚いたよ。おかげで私は肋骨が数本イッたかと思ったけどね」
遥は皮肉を言いながらも、好奇心に満ちた目で日車のガベルを見つめた。
「ねえ、日車くん。そもそもそれってどうやって出しているんだ?物質としてそこにあるのか、それとも君の脳が作り出している幻影か……。壊れたりしないのかい?」
「……壊れはしないな」
日車は実験するように、呪力をガベルに流し込んだ。
「これは俺の術式――誅伏賜死に付随する法の権威の象徴だ。概念的な強度は保証されているが、物質的な質量は俺の意思……いや、呪力の込め方次第で変化する。昨夜はリミッターを外したのかもしれない」
手元のガベルを確かめるように握りしめる。
「そもそもだが一本である必要さえないだろう」
日車が意識を集中させると、彼の周囲に二本、三本と、全く同じ形状のガベルが実体化した。それらは重力に従って地面に落ちる。
「なるほどね。君の脳内では術式の行使と法解釈が完全に同義なんだ。条文を書き換える速度で出力が変わる。法曹としては理想的だけど……ふふ、最悪にイカれてるよ、日車くん」
遥は感心したように地に落ちたガベルを爪先で転がした。
「逆に言えば、この術式のルールそのものが君の預かり知らぬところで書き換わるリスクもあるんじゃないのかい?そんなあやふやな壊れた法廷なんて、私は御免だ」
そんな軽口を遥は叩く。日車の成長に驚きはあったが引け目はなかった。彼女もまた司法の闇に身を投げ、最短距離で正解を叩き出してきた人間だ。
「俺の脳内には既に法廷という領域があるせいだろうな。そこから逆算すれば、ガベルの数やサイズを変えるのは条文の解釈を変更するのとさほど変わらない」
日車は浮遊するガベルを一本ずつ消し、最後の一本を強く握りしめた。
「術式がどれほど便利になろうとこれは本質的には呪いだ。ただの暴力でしかない」
「日車くん。君はまだそんなことを言っているのか」
遥は溜息をつき、彼の隣に歩み寄った。
「暴力だよ。ここはそういう場所だ。でもね、君がそのガベルを一本から百本に増やそうが山のような大きさにしようが私の目には正義に見えるよ。たとえ、世界中の人間がそれを私刑と呼んだとしてもね」
日車が自身の術式の拡張性に活路を見出す傍らで遥は自分の掌をじっと見つめていた。彼女の脳内では、昨日の初戦の光景が繰り返されている。
「でも、助かったよ。君の話を聞いて私の術式の使い道も……いや効率的な運用法が見えてきた」
(……あの時、私は「凶器準備携帯」と言った。相手の呪力を武器と定義し強引に差し押さえた。だけど、もし――)
遥の唇が無意識に歪な弧を描く。彼女には、アメリカの熾烈な司法制度の中で磨き上げた偽証のテクニックがある。それは単なる嘘ではない。膨大な事実の山から自分に都合の良い石だけを選び出し、それを唯一の真実であるかのように陪審員に見せつける構造的な欺瞞だ。
「日車くん。……君の術式が誠実な法の運用だとしたら、私のは徹底的な悪用かもしれない」
遥の声は自嘲と、そして得体の知れない高揚を孕んでいた。
「昨日私は術式を発動するために、相手の攻撃を正面から受け、被害者になろうとした。……あれは私が自分に課した無意識の縛りだ。自分が被害を認識しなければ、起訴は成立しないと思い込んでいた」
遥は瓦礫から立ち上がり、日車に背を向けた。
「証拠は捏造できる。被害者の叫びさえ、私がその場で作り出せるんだ」
彼女はかつて自分が法廷で弄してきた数々のテクニックを思い出す。相手の僅かな挙動を、さも重大な犯罪の予兆であるかのように誇張し、存在しない動機を信じ込ませる。遥の瞳に法廷で証拠の矛盾を突き、被告人を追い詰める時と同じ、冷徹な光が宿る。
「やるのは徹底的な法の適用だよ、日車くん」
彼女は自身の脳をアメリカの法廷で培った冷徹な論理で再構築していく。嘘をつくのではない。たとえ相手がただ立っているだけでも、それを積極的な公務執行妨害の予備的動作と脳内で定義し、自分を100%騙し切る。その瞬間、彼女の背後に冷たい呪力の残滓が揺らめいた。
「……救いようがないな」
遥は吐き気をこらえるように自分の胸元を掴んだ。日車が法の守護者としてガベルを振るうなら、自分はその横で、裁判を有利に進めるために平然と証拠を積み上げる汚れた検事になればいい。
「日車くん、決めたよ」
遥は振り返った。その瞳からは迷いが消え、かつてアメリカや日本の法廷で数多の被告人を絶望に追い込んできた、冷徹で底知れない化け物の光が宿っていた。
「私は君が綺麗なままでいられるように、世界で一番美しい起訴状を書く。相手がまばたきをしただけで逃亡の恐れありと断じてその足を縫い付けてあげるよ。嘘でも、偽証でも、なんでも使ってね」
遥の言葉はかつて日車自身が彼女に叩きつけた「共に泥を啜れ」という呪いへの、最悪な形での回答だった。日車は息を呑み遥の顔を凝視する。その瞳にはかつて自分が救いたかったはずの、そして今まさに自分を救おうとしている化け物の光が宿っていた。
「北見」
日車の喉が、熱い塊を飲み込んだように震える。彼は彼女の肩を掴もうとして、その手が血に汚れていることに気づき、宙で止めた。
――一緒に地獄へ落ちろと叫んだのは、俺だ。
――だが、君が手を染めるのは、俺が許さない。
自分のエゴが自分自身を切り裂いていく。彼女が綺麗なままでいれば自分一人が地獄に取り残される。だが彼女が嘘を武器にすれば、彼女の魂は二度と元には戻らない。
「勝手なことを言うな」
日車の声は低く地這うような拒絶を孕んでいた。だがその瞳の奥には彼女が差し出した共犯という名の毒に、狂おしいほど救いを感じている自分への嫌悪も滲んでいる。
「俺を綺麗に保つために君が汚れるというなら、それはもう俺たちが信じた法でも正義でもない。ただの……共依存だ」
「そうだね。最悪の共依存だよ。――でもそれでいいじゃないか」
遥は日車の震える手を引き寄せた。彼が拒もうとした汚れを、無理やり共有するように自らの手で包み込む。
「今さら正論を言っても仕方ないよ」
遥は無表情になり、だがその瞳には一切の光を宿さず、瓦礫の先を見据えた。
「さあ、いこう。……次の被告人には、とびきり理不尽な罪状を用意してあげないとね」
街を歩きながら、ふと遥は気になった事を日車に尋ねる。
「君のジャッジマン。結局あいつが参照する法の基準は、いつの時代のもの?」
日車は隣で歩みを止め、怪訝そうに彼女を見た。
「わからない。俺の脳内にある現代刑法がベースだとは思うが、あいつの本質は法という概念そのものだ。相手や状況によって明治の旧刑法が適用されるような気もするし、時には江戸時代の公事方御定書に近い裁定を下すこともありえそうだ」
「……最悪だね」
遥は力なく笑い、こめかみを押さえた。
「罪刑法定主義の完全な崩壊だ。あらかじめ定められた法によらなければ罰せられない……その近代法の鉄則が、君の術式には通用しないってこと?もしあいつがハンムラビ法典を持ち出して目には目をと命じたら?あるいは平安時代の慣習法で、不敬罪だと断じたら?私たちは、自分たちが何を根拠に人を裁いているのかさえ、確信が持てなくなる」
「だからこれは呪いなんだ。北見。俺たちは、法という名のルーレットを回しているに過ぎない」
日車の言葉は重く湿っていた。遥はその横顔を見つめ、彼が抱える絶望の正体——自分が愛した法が、怪物に成り果てた姿を共に見ているのだと悟った。
「いたね。あそこだ」
瓦礫の影から遥が指し示した先では数人の逃げ遅れた会社員や学生たちが、呪力を帯びた鎖を操る男に追い詰められていた。泥にまみれ、恐怖に顔を歪めて震えている。
「助けて……!金なら出す、頼むから!」
「はっ、金?そんなもんこの結界じゃ紙クズだ。お前らの命でポイントを稼がせろよ!」
術師が鎖を振り上げ、少年の喉元へ叩きつけようとしたその時だった。遥は走り出す。
(待てばいい。日車くんならあの程度の術師は正当に裁ける。証拠も揃う。起訴も通る。何も歪める必要はない)
——でも。
(その間に、あの子は死ぬ)
日車の背中を見る。このまま正しくやらせ続ければこの人は壊れる。そんな確信が遥にはあった。
「……ああ、そっか」
じゃあ私が間違えればいいんだ。
「――被告人、公務執行妨害および殺人予備。今、この場をもって現行犯逮捕とする」
遥の冷たい声が響いた。彼女は迷うことなく、術師と一般人の間に踏み出す。
「おいおい、邪魔すんなよ」
遥は男が鎖を構えたという事実を、脳内で強引に確定的な殺意に基づく予備動作と変換した。証拠を待つ必要はない。彼女がそうであると決めたからだ。
「――証拠保全」
遥の手が空間を薙ぐ。男が手にしていた呪力の鎖から光り輝く断片が剥ぎ取られ、彼女の掌の中へ収束した。男が呪力を凶器として運用しているという動かぬ証拠の結晶だ。
「なっ、鎖が……!?」
「被告、および凶器の特定完了。私の視界に入った時点で君の黙秘権は消滅しているよ。――公訴提訴!」
遥がその結晶を虚空へ放り投げると同時に背後に立つ日車が重厚な呪力を爆発させた。
「……北見、起訴状は受理した。開廷する。――誅伏賜死」
一瞬にして周囲の風景が巨大なギロチンが鎮座する、あの静謐な法廷へと塗り替えられた。
「な、なんだここは!?出られねえ!」
狼狽える術師を日車は冷徹に見つめる。遥はその横で、検事席に悠然と腰を下ろした。
「ジャッジマン。被告人はそこの一般人に対して殺傷能力のある呪具を不当に誇示し、殺害を企てた。証拠は、私の手元にあるこの呪力の残滓だ」
遥が取得した証拠がジャッジマンへ捧げられる。日車の術式単体ではジャッジマンが証拠を提示するのを待つ必要があったが、遥が証拠を物理的に先取し提出することで、審理のスピードが異常なまでに加速する。
「有罪」
ジャッジマンの宣告が下る。
「没収」
「……がはっ!?」
領域が解け術師は呪力を失いただの男に戻る。しかし、男は狂乱し懐から隠し持っていたサバイバルナイフを取り出した。
「ふざけるな!呪力がねえなら刺し殺してやる!」
遥はその不格好な突進を冷めた目で見つめた。彼女はあえて避けず、男の刃が自分の喉元に迫るのを待つ。
「北見!」
日車の叫びと共に、巨大化したガベルが空を薙いだ。
グシャリ。
法廷の静謐なガベルの音ではない。肉と骨がただの質量によって押し潰される湿った音。男だったものは瓦礫の隙間に吸い込まれるようにして動かなくなった。
「5ポイント獲得」
日車は、呪力で消えゆくガベルを握る右手の震えが止まらなかった。法廷での判決文は紙の上では死刑という二文字で済む。だがここでは砕ける頭蓋の震動として、ダイレクトに肘から肩へと突き抜けてくる。これまで何百人もの被告人の人生を背負ってきた自負があった。だが一人の命を泥に変える感触は何度繰り返してもそれらすべてを塗りつぶすほどに重く、そして軽かった。遥は「正当防衛の成立だね」と震える声で自分たちに言い訳をした。静寂が戻る。震えていた一般人たちが恐る恐る顔を上げた。
「あ、あの……助けてくれて……」
「……」
遥は一瞬彼らの方へ視線を向けた。その瞳には、かつて弱者を守ろうとした少女のような温もりが微かに宿る。しかし彼女はすぐに、それを冷徹な仮面で塗りつぶした。
「勘違いしないで。君たちを助けたんじゃない。……あのアホが私の目の前で法を汚したから、掃除をしただけだよ」
遥は泥だらけの会社員の手元に自分が持っていた未開封のミネラルウォーターを無造作に放り投げた。
「さっさと行きなよ。ここは君たちのいる場所じゃない」
「……あ、ありがとうございます……!」
青年は震える手で水を受け取ったがその瞳に宿っていたのは、「次に自分が裁かれる番かもしれない」という根源的な怯えだった。
彼らは救われたのではない。目の前で起きた法廷という名のリンチに圧倒され、ただ生存を許されたに過ぎない。背中を向けて走り出す彼らの靴音が瓦礫の街に虚しく響く。遥は自分の手が、男の返り血と使いかけのミネラルウォーターの結露で濡れていることに気づいた。遥は自分の指先の震えを隠すように、ボロボロのジャケットのポケットを弄った。
「北見。今の解釈、強引だったな。相手はまだ鎖を振り上げただけだ。現代日本の判例なら殺人予備を立証するのは難しい」
日車が隣に立ち彼女の横顔を覗き込む。遥は肩をすくめ、ボロボロのジャケットを直した。
「ここは日本じゃない。死滅回遊という舞台だよ。あのまま泳がせて君の肋骨がまた折れるのを待つより、予備罪で即決する方が事務効率がいい。……それとも何か?私があいつに殴られるのを待ってから起訴した方が、倫理的に満足だったかい?」
「……いや。合理的だとは思う」
日車は彼女が合理性という言葉で一般人を守ったという事実と、自身の汚れた手法への嫌悪を同時に覆い隠していることに気づいていた。
「私、今の彼らの目にどう映っていたかな」
「法を執行する、ただの検事だ」
日車はそう答え、彼女の肩にそっと手を置いた。その手は、彼女が化け物の仮面の下でどれほど必死に神経を削っていたかを知っていた。だが、その掌に残る死の感触だけは、どうしても隠しきれなかった。
「行こう。時間がないからね」
「わかった」
遥は再び日車の隣を歩き出した。救った命の数だけ彼女の心には偽証という名の苦い泥が、一滴ずつ溜まっていく。崩れたビルの隙間からどろりとした赤黒い夕闇が差し込んでいる。遥はふと自分の隣を歩く日車の歩幅が、朝よりもわずかに重くなっていることに気づいた。
(――私は、君の隣で泥を啜ると決めたはずなのに。結局、君の背中に、さらなる泥を塗りつけているのは私だ)
日車から視線をそらす。遥はポケットの中の使いかけのミネラルウォーターの冷たい結露を指先でなぞった。指先に触れる液体の冷たさが、先ほどまで感じていた男の返り血の熱を表しているようだった。