虚構の法廷   作:森野夜

8 / 11
利益相反の解消の誓い

 

「……被告、氏名不詳。罪状、殺人予備および――」

 

廃ビルの三階。剥き出しの鉄骨の影で北見は低く、ひび割れた声で告げた。彼女の視線の先には呪力で膨れ上がった奇怪な腕を振り回す、呪詛師の男がいる。男の足元には先ほどまで彼が弄んでいたであろう、物言わぬ死体が転がっていた。

 

「公務執行妨害。……今この場をもって、現行犯逮捕とする」

 

遥が指先を男に向けると男の四肢を物理的に縛り上げた。彼女の術式 公訴執行。対象の挙動を法的に定義し、その行動を制限する強制力。だがこの現行犯逮捕には嘘がある。男はまだ、彼女たちに気づいてさえいなかった。先制攻撃として殺人予備という罪状を強引に被せ、術式を成立させたのだ。手続きをショートカットし、殴られる前に殴るための捏造だった。

 

「……誰だ!」

 

男が叫ぶ。その瞬間男の背後から影が伸びた。

日車寛見。

スーツを泥と返り血で汚したその男は、無機質な鉄のガベルを手にし、迷いなく男の頭上へと振り下ろした。

 

「有罪だな」

 

短い宣告。日車が放った一撃は遥の術式によって防御を剥がされた男の頭蓋を、冷酷に粉砕した。嫌な音が雨音に混じり、男は言葉を失って瓦礫の山へと沈んでいく。

 

「5ポイント獲得」

 

「……お疲れ、日車くん」

 

男を打ち倒した後の余韻は、新宿の雨音にすぐさま掻き消された。日車はガベルを消し泥に塗れた手首を無造作に拭う。二人は崩落した壁の隙間、辛うじて雨を凌げる廃ビルの奥へと身を寄せた。日車は返り血を拭うこともせず、手元のガベルを見つめていた。その表情はただひたすらに機能的な処刑人の横顔だ。二人の連携はここ数日で異常なまでの円滑さを手に入れていた。遥が罪状を捏造して敵の初動を縛り、日車がその隙を突いて即決を下す。本来、日車の術式、誅伏賜死は、領域展開を前提とした厳格な裁判プロセスを必要とする。だが遥という検事が外付けの証拠を強引に差し出すことで、彼は法理の枷を外し、圧倒的な効率で敵を排除し続けていた。

 

「効率的だね。死滅回游なんてまともに付き合っていたら命がいくつあっても足りないし」

 

暗い中を伺う等に見渡す。

 

「火は、点けない方がいいな」

 

日車の低い声に遥は黙って頷いた。火を点せばここに獲物がいると喧伝するようなものだ。暗闇の中、コンクリートの冷気だけが彼らの体温を容赦なく奪っていく。

 

「日車くん。これ、食べるかい」

 

遥が震える手でポケットから取り出したのは、雨でふやけ、箱の四隅が潰れたポッキーだった。彼女が事務局のデスクに常備していた、普通のお菓子だ。複雑な証拠資料を読み込み検察側の勝利を盤石にするための、ただの脳への燃料。味わうための菓子ではなく、効率的に血糖値を維持するための錠剤に近い扱いだった。

 

「いや、今はいい。君が食べろ」

 

「そうか」

 

遥は湿った箱をこじ開け、中から一本を取り出した。折れていた。彼女はそれを気にする風もなく口に運ぶ。乾いた音を立てるはずの菓子は湿気を吸って、ひどく頼りない食感になっていた。

 

「君は、なぜこれなんだ。もっと他に栄養のあるものを選べばいい」

 

日車の問いは暗闇の中で微かに響いた。彼が求めているのは正解ではなかった。ただ沈黙が自分たちの精神を削るのを防ぐための言葉だ。

 

「慣れているから。負けられない公判の前はいつもこれだった。噛み砕いている間だけは、自分がシステムの一部になれた気がしたんだ。感情も、迷いも、全部糖分に変わって消えてしまえばいいと思っていた」

 

彼女は二本目を口にする。暗闇で見えるのは窓の外の微光に照らされた彼女の横顔だけだ。濡れた髪が頬に張り付き、その瞳はどこまでも空虚でそれでいて日車という存在を反射している。

 

「日車くんは本当は、こんな泥を啜るような真似はしたくないはずだ。君はもっと綺麗な場所にいるべき人だよ。私が、君を汚してしまったね」

 

「……北見」

 

日車は彼女を遮るようにその名を呼んだ。だがその先に続く言葉が見つからない。彼女が自分を道具と見なし、自分を汚れた存在だと定義して日車を守ろうとしていることに気づいている。その献身が彼には痛ましかった。

 

「君が汚れていると言うなら、俺も同じだ。……俺は、俺の意志でここにいる。君のせいではない」

 

日車が手を伸ばす。彼女の肩に触れようとしてその指先がひどく冷えていることに気づき、彼は手を止めた。

触れてしまえば。

その冷たさを共有してしまえば。

自分の中にある、名前のない執着が、法という名の理性を食い破ってしまう気がした。

 

「少し、休もう。明朝にはまた移動しなければならない」

 

「……そうだね」

 

遥は最後のポッキーを噛み砕き、空になった箱を足元に落とした。泥の中に沈んでいく紙箱は、かつて彼女が守ろうとしたかもしれない日常の、最後の一欠片のように見えた。

沈黙が戻る。

雨音だけが世界の終わりを告げるように鳴り響いていた。

その時だ。

日車が自身の膝の上に置いた右手の違和感に気づいたのは。

 

(……おかしい。指先が、うまく馴染まない)

 

彼は暗闇の中で、見えないガベルを握る形に手を作った。

重い。

呪力の流れが血管に流れ込んだ泥水のように、ひどく不快な感念を伴って滞っていた

 

「……日車くん?」

 

遥が問いかける。日車は先ほど敵を打ち据えたガベルを凝視したまま、動かずにいた。

 

「少し、重い」

 

「え?」

 

「ガベルが重い気がする。北見。……呪力の流れがおかしい」

 

日車はそう呟き、自分の掌を見つめた。自分たちでも気づかないうちに忍び寄っていた腐敗の予兆が、黒い澱みとなって現れ始めていた。彼らが積み上げた効率的な勝利の裏側で、天秤は音を立てて狂い始めていた。

 

「ガベルが、重い……?」

 

遥は眉を潜め、座り込んだまま日車を見上げた。日車は自身の術式の象徴であるその武器を、まるで得体の知れない異物でも見るかのように凝視している。

 

「出力が落ちているのかい?」

 

「いや、呪力そのものの供給に問題はない。だが振るう瞬間に術式が拒絶している感覚がある。まるで歯車に砂を噛まされたような……」

 

日車が空を切るようにガベルを振る。その軌跡には以前のような絶対的な法理の鋭さがなく、残像がわずかにブレていた。遥は自身の内側を探る。彼女の術式『公訴執行』には、強力な縛りが課せられている。

 

虚偽告訴の禁止。

 

彼女は存在しない事実を捏造して相手を起訴することはできない。もし手に何も持っていない人間を銃を隠し持っていると断じれば、術式は即座に解除され彼女自身が術式剥奪に近い重篤な反動を受ける。だが彼女は法廷で真実を殺す方法を学んできた。

 

「私の起訴に問題があると言いたいのか。私は一度だって嘘は吐いていないよ」

 

遥は立ち上がり、泥のついたジャケットを払った。

 

「さっきの男だってそうだ。彼が死体の横に立ち呪力を練っていたのは事実だ。私はその呪力を練るという生理現象を、殺人の着手という法的一段階へと強引に引き上げただけだ。事実は一つも曲げていない。解釈の幅を、針の穴を通すような精密さで操作しているだけだよ」

 

そう、彼女の嘘は構造的だ。

例えば相手がポケットに手を入れた瞬間を「武器の取り出し」と定義する。

例えば相手がこちらを睨んだ瞬間を「加害の意思表示」と断じる。

事象そのものは確かに存在する。その点を繋ぐ線を、自分たちに都合の良い法理で塗りつぶしているに過ぎない。

 

「それが問題なんだ、北見」

 

日車が重い声で応じる。

 

「君の解釈は法理としては成立している。だが俺の術式ジャッジマンは、法の精神を具現化したものだ」

 

日車は一歩、遥に歩み寄った。雨のカーテンが二人の間に冷たい壁を作る。

 

「君が針の穴を通すような詭弁で起訴状を書き、俺がそれを効率がいいからと黙認する。その共謀そのものが、法の公正さを内側から腐らせている。これは適正な手続きではない。ただの私刑のための手続きだ」

 

日車の手の中でガベルが再び激しく明滅した。ジャッジマンからの静かな警告だった。弁護士と検察官が、被告人をハメるために裏で手を握る。法が最も忌むべき利益相反。

 

「君を守るために俺は君の歪な解釈を正しいと信じようとした。その私情が、俺の術式を殺そうとしている」

 

遥の喉が、引き攣るように動いた。彼女が自分を汚れた道具だと定義してまで積み上げてきた勝利。それが皮肉にも日車の正義を汚し、彼を弱体化させていた。

 

「……あはは、笑えない冗談だね」

 

遥は顔を覆い、狂ったように小さく笑った。

 

「私が君を生かすために選んだ手段が、君の首を絞めているっていうのか。やっぱり私は、どこまでいっても救いようがない」

 

視界の端で新宿の雨が、かつてニューヨークの法廷で見上げた高い天井の白さに重なった。北見遥が真実を殺す方法を覚えたのは、検事になって三度目の公判だった。被告人は貧困層の少年。罪状は強盗致死。状況証拠は真っ黒だったが、遥は知っていた。少年のアリバイを証明できる唯一の目撃者が、保身のために沈黙していることを。そして少年が隠し持っていたとされる凶器のナイフが、実際には警察の不適切な捜査によって発見されたものであることを。

 

『北見検事、君の仕事は正義をなすことじゃない。システムを円滑に回すことだ』

 

上司の言葉が、耳の奥でポッキーを噛み砕く音のように乾いて響く。彼女は法廷で目撃者の証言の矛盾を針の穴を通すような論理で突き崩し、警察の不手際を適正な手続きの範囲内として塗りつぶした。

少年は泣き叫び、彼女を化け物と呼んだ。

結果、有罪。システムは守られ彼女のキャリアには勝利の二文字が刻まれた。

その夜彼女は自室で一人、鏡の中の自分を見た。法という名のメスで真実を切り刻み、都合の良い事実だけを繋ぎ合わせた、醜い接合職人だった。

 

(……私は、あの時に一度死んだんだ)

 

真実を愛せなくなった人間はもはや人間ではない。ただの、法を執行するための部品だ。だからこそ、死滅回游という名の狂った法廷で、日車寛見に出会ったとき、彼女は眩しさに目を焼かれた。どんなに泥を啜っても、彼は「正義」という名の輝きを捨てきれずにいたから。

 

(私みたいな汚れきった道具が、彼の隣にいていいはずがない)

 

自分が彼を救う唯一の方法は彼を自分と同じ化け物にすることではない。彼を汚さぬよう自分を徹底的に記号へと落とし込み、彼の正義を代行するシステムになりきることだ。

それなのに日車寛見を、自分の卑怯なテクニックが汚染してしまった。その罪悪感は雨水よりも冷たく彼女の心に浸透していった。

 

「日車くん。だったら、もう一歩踏み込もう」

 

遥が顔を上げた。その瞳にはかつて数多の被告人を絶望の淵に追いやった時と同じ、冷徹で底知れない闇の色が宿っていた。

 

「君が人間としての心を捨てきれないなら、私がそれを切り離してあげる」

 

それは、労りでも献身でもない。日車を生かすためなら、彼の心さえも切除すべきパーツだと断じる、北見遥の絶望的な決断だった。

 

「……切り離すだと?」

 

日車の声が鋭く響く。日車は遥の言葉に単なる比喩ではない呪いの気配を感じ取っていた。

 

「そうだよ。君が言う通り今の私たちは利益相反の状態にある。君が私の捏造、いや、歪な解釈を黙認するのは、私という個人に執着しているからだ。君の法廷に検察官への度を越した便宜が持ち込まれている。これ以上の不公正はない」

 

遥は一歩、また一歩と日車へ歩み寄る。泥にまみれたパンプスの音が、コンクリートの床に不気味に響いた。

 

「君は自分が死ぬことなんて怖くないはずだ。でも、君は私を死なせたくないと思っている。その甘さがジャッジマンの天秤を狂わせているんだよ」

 

「それが人間だろう」

 

「今の私たちはその人間が持つ中途半端な感情のせい、野垂れ死のうとしているんだよ!」

 

遥が叫んだ。雨音を切り裂くほどに鋭い悲痛だった。

 

「君の才能は、こんなところで腐らせていいものじゃない。君は、私を救いたいと言ったね?だったら私の提案を飲みなよ。私たちが適正な手続きを維持して生き残るための、唯一の方法だ」

 

遥は日車の胸ぐらを掴み、その瞳を至近距離で射抜いた。

 

「『忌避権』の自動発動。……これから術式を共有する間、私たちは互いの顔も、名前も、関係も、脳内から抹消する。君の目には記号としての検察官が、私の目には記号としての裁判官が映るだけだ。私たちは、私情というノイズを一切排した純粋な法の執行システムに成り下がる」

 

日車は息を呑んだ。相手を想う心を不純物として強制的に切除する、あまりにも非人間的な縛りだ。日車にとって、北見遥という存在は、この地獄のような死滅回游において唯一、自分が人間であることを繋ぎ止める楔だった。それを自ら引き抜くなど、正気の沙汰ではない。

 

「……さらに、もう一つだ」

 

遥の瞳に、底知れない冷たさが宿る。

 

「君の判断に万が一の私情が混じり、誤判が生じた場合。あるいは君の迷いのせいで公判が維持できなくなった場合。その報いはすべて、私の命で肩代わりする」

 

「却下だ。そんな不当な契約、俺が認めるわけがない……!意思表示の合致がない契約は、縛りとして成立しないはずだ!」

 

日車は自分の内側で渦巻く感情の正体をまだ知らなかった。それを救えなかった者たちへの贖罪だと言い聞かせ、必死に分類しようとしていた。だが彼女が自分を天秤に乗せろと言った瞬間、説明のつかない剥き出しの恐怖が彼の理性を焼き切った。

 

「許されるんだよ。私が、私の全存在を懸けてそれを望んでいるから。日車くん。君が公正でありたいなら、君を迷わせる私を排除する義務が君にはあるはずだ」

 

日車は戦慄し、掴まれた遥の腕を振り払おうとした。だがその時。遥の顔に浮かんだのはかつて見たこともないようなあまりにも寂しく、そして安らかな微笑だった。

 

「……怖いかい?私は怖くないよ。だって、私にはこれくらいしか君を支える方法がないんだから」

 

その瞬間、日車は理解した。これは合理的な提案などではない。彼女にとって自分の命は日車という完成された正義を維持するための安価なスペアパーツに過ぎない。自分のような汚れた人間が彼にそれほど重く思われるはずがないという、彼女なりの謙虚な、しかし致命的な思い込みが、この残酷な毒杯を救済として差し出させていた。

 

「君は、本当に…救いようのない、大馬鹿者だ」

 

日車の目から熱いものが溢れ、雨に流された。拒絶したい。だが拒絶することは、彼女が自身の汚れを代償に編み上げた彼を死なせないための唯一の手続きを棄却することになる。それは彼女の戦う理由そのものを殺すことと同義だった。

 

「わかった。その最悪な提案を俺は受け入れる」

 

日車が震える声で告げ、手元のガベルを空へ掲げた。その瞬間、二人の間に縛りが結ばれた。

 

「うまくいったね」

 

遥が満足げに目を細めた次の瞬間。日車の視界から、彼女の表情が消えた。愛おしいと感じていた鼻筋も、濡れた唇も。日車の視界からはそれら人間を構成する情報が剥ぎ取られていく。視神経が捉えるのは、ただの個体識別番号北見遥、および役割公訴提起官。彼女の吐息はただの排熱音に、その震えはただの物理的な振動へと変換され、日車の心に波紋を立てることはもうない。彼の前に立っているのは、もはや北見遥ではなかった。ただの黒いスーツを纏った検察官だ。

 

「……行こう、検察官殿。次の被告人が、待っている」

 

日車の声から、一切の湿り気が消えた。その隣で、同じく「記号」へと成り果てた遥が、無機質に頷く。

 

「ああ。適正な手続きを執行しよう」

 

新宿の雨音だけが、地獄のような契約を祝うように降り続いていた。のちに、術師として覚醒し、最強の一角へと登り詰めることになる日車寛見。のちにその圧倒的な才能で法の再定義を成し遂げたとき、彼は一人で静かに後悔することになる。

 

(あの時の縛りは、本当は必要なかった。俺はもっと別の形で彼女を救えた。……いや、救いたかったのは法でも彼女でもなく彼女の名前を呼ぶ資格を持っていた、自分自身だったのかもしれない)

 

だがあの新宿の雨の中、未熟で、必死で、お互いを救いたいと願った二人には、それがすべてだったのだ。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。