その夜、日車は自らの脳を冷徹な法理という名のメスで解体していた。暗闇の中彼は一本のガベルを凝視する。北見と結んだ戦闘中の相互忘却という呪わしい縛り。それが成立した瞬間、彼の脳裏にはかつてないほどの呪力のうねりが逆流してきた。
(縛りとは制約。制約とは定義だ)
彼は思考を加速させる。弁護士として一つの条文を数千の判例に照らし合わせその隙間を突いてきた経験が、呪術という非論理的な力を強引に論理の檻へと閉じ込めていく。
(俺の術式 誅伏賜死は法廷というプロセスを前提としている。だがガベルそのものの具現化はあくまで付随する権能に過ぎない。ならば法廷を開かぬまま、この権威の象徴を純粋な質量として定義し直せばどうなる?)
脳が焼けるような熱を帯びる。かつて六法全書を丸暗記した時以上の集中力が彼の神経を一本ずつ呪力へと変質させていった。
(裁判は事実を確認し、罪を確定させるための手続きだ。この結界においては目の前の敵が害悪であるという事実は、もはや立証を必要としない自明の理だ。ならば――)
「……開廷の手続きを、棄却する」
日車が低く呟いた瞬間、彼の周囲の空間が歪んだ。一本だったガベルが細胞分裂を繰り返すように増殖していく。十、五十、百――。それらはもはや法廷の静謐な道具ではない。ただの殺戮のための道具でしかなかった。
(定義の変更。これはガベルではない。俺の呪力を物理的な破壊力へと変換するための、純粋な媒介だ)
死に物狂いの理解。彼は数日で凡百の術師が一生をかけて辿り着く呪力の核心を、法理的な飛躍によって強引に掴み取った。
翌朝。新宿のビル群を縫うように一人の呪詛師が二人の前に立ち塞がった。
「おい、見つけたぜ……」
呪詛師が術式を起動しようとした、その刹那だった。
「被告、氏名不詳……」
隣で北見が起訴状を読み上げようとする。彼女が術式を発動すれば日車は彼女を記号として忘れ、最強の法廷が開かれるはずだ。だが日車はそれを許さなかった。
「……北見。君の出番はない」
日車が右手を軽く薙ぐ。瞬間北見の視界を数百個のガベルが埋め尽くした。
「なっ――!?」
裁判など行われない。ただ巨大化したガベルが空を圧し、増殖した無数の礫が雨あられとなって呪詛師に降り注いだ。
凄まじい衝撃波が新宿のビルを揺らす。呪詛師だったものは術式を叫ぶ暇さえ与えられず、一瞬でコンクリートの粉塵と共に肉塊へと変えられた。
「……っ」
北見は呆然と立ち尽くした。彼女の指先にはまだ起訴状を綴るための呪力が燻っている。だが目の前の敵は、ただの圧倒的な暴力によって文字通り存在を抹消されていた。
「5ポイント獲得」
日車はガベルを消し静かに北見を振り返った。その瞳には戦闘中であっても北見遥という人間を認識している、苦しげな光が宿っている。
「無理に術式を発動する必要はないと言ったはずだ。これなら、縛りは発動しない」
「日車、くん……」
北見の声が乾いた風に攫われていく。日車が一人で強くなればなるほど彼は彼女を記号にせずに済む。彼は彼女を守るために呪術の極致へと駆け上がった。
だが北見は気づいてしまった。日車が自分を忘れまいと抗うたびに、彼が振るう力は法から遠ざかってしまう。ただの呪いへと堕ちていく。そして何より、今の自分には彼の隣で綴るべき言葉がもう一文字も残されていないということに気付いてしまった。日車の圧倒的な強さが彼女の存在意義を粉々に砕いていた。
「……もう一組、来る」
日車の低い声が静寂を切り裂いた。先ほどの轟音を聞きつけ、死肉に群がる獣のように三人の術師がビルの屋上から飛び降りてくる。一人は巨大な蟲のような呪霊を従え、残る二人は呪力で強化された双剣を構えていた。
「被告、氏名不詳。罪状――」
遥が反射的に前に出る。アスファルトを蹴り、彼女の脳が高速で敵の殺意を法的な既成事実へと変換し始める。
(大丈夫、まだやれる。私の術式で彼の攻撃に法的な正当性を与えれば……!)
だが彼女が証拠を定義するより早く、日車の呪力が爆発した。
「下がっていろと言ったはずだ」
日車が指先を弾く。彼の背後からビルを薙ぎ払うほどの巨大なガベルが生き物のような速度で膨れ上がり、迫り来る三人を横なぎに一掃した。
「ア、ガ……っ!?」
呪霊は一瞬で圧殺され、術師たちは紙屑のように瓦礫へと叩きつけられた。そこに法廷の審理はない。あるのはただの効率だ。日車は倒れ伏した彼らに向かって、指を一本下へ向けた。
空中に浮かんでいた数十のガベルが杭のように術師たちの身体を貫き、アスファルトに縫い付ける。
「……っ、は、あ……っ」
遥の喉が、引き攣るように動く。彼女の目は術師としての日車の凄まじい成長を理解していた。だが検事としての彼女の魂は、目の前で起きている惨状を虐殺であると断じていた。
「15ポイント加算。合計、52ポイント」
コガネの無機質な声が響く。彼はただ動かなくなった肉塊を見つめ、ひどく疲れ切った顔で遥を見た。
「怪我はないな。北見」
「……ああ。私は、大丈夫だよ。日車くん」
遥は笑おうとした。いつものように軽薄で、すべてを茶化すような笑みを。だが頬が痙攣して動かない。彼女の起訴状のための言葉は一度も開かれることなかった。
その日の夜。
二人は崩落しかけた廃ビルの上層階にいた。窓ガラスはすべて割れ、吹き込む夜風が骨の芯まで凍えさせる。日車は部屋の隅で膝の上に置いた一冊の手帳を見つめていた。
彼が法の内側に留まるために、命を削るようにして記し続けていた事件記録。
カチッ、カチッ。
ペンをノックする音が静寂の中で不気味に響く。だが日車の指は、一文字も動かなかった。
(……何を書く。被告人の氏名か?罪状か?それとも、俺が今日下した物理的な処置の正当性か?)
脳内にある現代刑法が彼を激しく拒絶していた。今日、自分がやったことは刑の執行ではない。ただの圧倒的な武力による排除だ。もはや言葉を重ねるほどに、自分が法から遠ざかっていくのが分かった。
「……北見。君の言う通りだったな」
日車が、ぽつりと呟いた。
「私の、何がだい」
遥は数メートル離れた場所でボロボロになったジャケットを抱きしめて座っていた。
「俺が強くなればなるほど法は死んでいく。俺の手帳は、もう今日から一歩も進まない」
日車がペンを握る手に、みしりと力がこもった。
その瞬間。
――パキリ。乾いた音がした。
日車が愛用していた安物の、しかし彼にとっては唯一の正義の重みであったペンが彼の呪力に耐えきれず無残に二つに折れた。
黒いインクが日車の白く汚れた掌にどろりと溢れ出す。
「……あ……」
日車は折れたペンを見つめたまま、凍りついた。そのインクは彼が今日殺した人間たちの返り血よりもずっと黒く、ずっと重く、彼の指を汚していた。
「日車くん……」
遥が立ち上がり、彼に歩み寄ろうとする。だが日車はその手を激しく制した。
「君が隣にいると、計算が狂う。来るな」
日車は折れたペンを握りしめたまま、血を吐くような声で言った。
「見ろ、北見。これが俺の正体だ。……俺は、救済という名の言い訳がなければ、人を殺すことさえできない臆病者だった。だが、もう言い訳は書けない。ペンが折れたんだ」
日車は自嘲するように笑った。
「もう俺の隣にいる必要はない。君が俺に付き合う理由は、もうどこにもないんだ。俺はただの強すぎるだけの呪いになった」
「……何、言って」
「帰れ、北見。俺が君をただのポイントとして認識してしまう前に」
日車は立ち上がり遥を突き放すように窓の外へ目を向けた。その背中はそして今にも崩れ落ちそうなほど孤独だった。
「……ふざけないでくれるか」
背後から低く、押し殺したような声が響いた。
「……何?」
「ふざけんなって言ったんだよ、日車!!」
次の瞬間遥が日車の背中に向かって、全力で体当たりをした。泥だらけの拳が日車の胸ぐらを掴み、彼を壁へと力任せに押しつける。
「もう必要ない?逃げろ?……君、自分がどれだけ傲慢なことを言っているか分かっているのか!?」
遥の瞳にはかつてないほどの激しい怒りと、そして隠しきれない絶望が火花を散らしていた。
「離せと言っている、北見。……今の俺には、加減ができない」
日車の声はもはや警告ですらなく、ただの無機質な事実の羅列だった。彼の呪力は意思とは無関係に周囲の瓦礫を細かく震わせている。
「結構じゃないか。壊れた天秤よりただの鈍器の方がよっぽど誠実だよ」
遥は日車の胸ぐらを掴んだまま顔を近づけて嘲笑った。泥と返り血で汚れた彼女の顔はひどく醜く、そして美しかった。
「君が強くなって便利になって、私がいなくても効率的に殺せるようになった。それが何だって言うんだ?鏡を見たことないのか?今の君、ただの性能のいい肉の塊だよ」
「……黙れ」
「一人で全部背負って、聖者気取りで消えようとして。そんなに一人で綺麗に壊れたい?私みたいな汚れ物と一緒にいるのがそんなにプライドに障るのかい、日車先生!?」
遥の言葉が日車の急所を正確に抉る。日車は彼女の腕を乱暴に掴み、壁に叩きつけた。
「いい加減にしろ!俺は、君を元の世界に……!」
「元の世界?証拠を捏造して少年を監獄にぶち込んだあの法廷?それともポッキーを齧りながら嘘の起訴状を書いてたあのゴミ溜めみたいなデスクのことか!?」
遥は背中の痛みなど無視して日車の顔を睨みつけた。
「あっちに戻ったところで私はもう死んでる。それに以前言っただろう、私はこの死滅回遊自体が気に食わなくて参加してるんだ…!」
「北見……!!」
日車の右手が反射的にガベルの形に固まった。凄まじい圧が遥を襲う。だが彼女は瞬き一つせず、日車の喉元に自分の首を差し出した。
「やれよ。ポイントが欲しいんだろ?私を殺せば君の理想の100点に一歩近づく。……できないならその潔癖症、今すぐ捨てろ」
沈黙。
雨音が、二人の荒い呼吸を塗りつぶしていく。日車の手は震えていた。かつて弁護士として弱者を守れなかった時と同じ無力な震えだった。
「……君は、本当に最悪な女だ」
「知ってるよ。君が一人で正義の殉教者になる権利を、永久に棄却してあげる」
遥は日車の汚れたネクタイを締め上げるように整え、歪な笑みを浮かべた。日車は足元に転がっている真っ二つに折れたペンを呪わしそうに見つめた。
「ペンは折れた。もう、何も書けない。法も、正義も、ここにはない」
「いいよ、そんなもの。もう誰も読んでない。君が人を殺して指先が震えて、夜も眠れないっていうなら、私がその横でずっと君がいかに汚い殺人鬼かってことを数えててあげよう。一人で地獄に行けるなんて思わないことだ。君の罪の半分は、私の所有物なんだから」
遥は日車の汚れたネクタイを乱暴に整え、ニヤリと歪な笑みを浮かべた。
「新しい法なんて綺麗なもんじゃない。このクソったれな戦場に相応しい、反吐が出るようなルールを作ろう。君が執行人で私がその嘘を保証する検事。死ぬまでこの席からは立たせないよ、日車くん」
日車はしばらく黙っていたが、やがて力なく、しかし地を這うような低い声で笑い出した。
「……本当に、お前って奴は」
彼は折れたペンの残骸を窓の外の闇へと放り投げた。もはや救いなど求めていない。ただ隣にいるこの救いようのない女の執念だけが、今の彼が唯一事実だと認められる重みだった。
「行くぞ、北見。次の起訴状は血で書くしかなさそうだ」
「了解。とびきり理不尽なのを私が考えてあげるよ」
二人は二度と視線を合わせなかった。ただ、互いの存在を疎ましく思いながらも離れることだけは絶対にできないという絶望的な確信だけを抱いて。新宿の闇の中二つの影は、歪な形で一つに重なりながら歩き出した。
次話あたりからやっと書きたかった虎杖裁判にむかえるとよろこんでいます