入団初日の夕食。広々とした食堂は、新兵たちの熱気と、それを上回るほどの疲労感に包まれていた。
木製の長テーブルには、一切れのパンと薄いスープ。開拓地に比べればマシだが、到底「ご馳走」とは呼べない代物だ。
俺の隣で、ヒストリアがじっと自分のパンを見つめている。だが、彼女は一向にそれに手を付けようとしない。視線は、窓の外の闇――まだ練兵場を走り続けているはずの「芋女」サシャ・ブラウスの方を向いていた。
「……またか。お前、さっきの教官の言葉を忘れたのか。家畜以下の次は、餓死がお望みか?」
俺は額の痣を指先でなぞりながら、わざと冷たく言い放った。キースに叩き込まれた衝撃は、今もズキズキと熱を持って脳を揺らしている。
「あ、ううん……違うの。反省してないわけじゃないんだけど……」
ヒストリアは慌てて首を振った。俺の視線から逃れるようにスープを一口啜ると、決意を秘めたような目で俺を見返す。
「でも、あの子、今日何も食べられないんだよ。走り終わったら、きっと動けなくなっちゃう。……だから、今日だけ。今日だけだから、これを後で届けてあげようと思って。その代わり、スープはちゃんと全部食べるよ!」
「……」
呆れて、溜息すら出なかった。自分という存在の希薄さを埋めるための、一種の自傷行為に等しい。俺は自分のパンを無造作に半分に割ると、それを彼女の皿に放り投げた。
「……食え。倒れられて、俺の仕事が増えるのは御免だ。俺の半分をやるから、お前はそっちをあの「芋女」にでも何にでも取っておけばいい」
「アルフィ……。ありがとう」
不意に、テーブルの向かい側から視線を感じた。小柄な金髪の少年――アルミン・アルレルトが、意外そうな顔をしてこちらを見ていた。
「なんだよ」
「あ、いや……ごめん。アルフレッド、だったよね? 君、すごく合理的な人だと思ってたから、そうやって分け合ったりするのは意外だなって思って」
「……アルミン・アルレルト、だったか。よく覚えてるな」
「アルミンでいいよ。僕、人の名前を覚えるのは得意なんだ。君が教官を前にしても堂々していたのが、すごく印象的だったしね」
その穏やかな会話を切り裂くように、離れたテーブルから怒号が響いた。エレン・イェーガーと、ジャン・キルシュタイン。一触即発の空気。アルミンが心配そうにその様子を見つめている。
「エレンは、僕らの幼馴染なんだ。……彼、シガンシナで、目の前でお母さんを巨人に……。だから、どうしても許せないんだと思う」
「シガンシナ……。あの最前線にいたのか」
アルミンの言葉に、俺は昼間のキースの反応を思い出す。教官が彼らを素通りしたのは、既に地獄を見て、そこから「戻ってきた」者たちの眼光を見抜いたからだ。
ふと横を見ると、ヒストリアがアルミンの隣に座っていた黒髪の少女に声をかけていた。彼女もまた、昼間に教官から無視された「免除組」の一人だ。
「あの……大丈夫? 彼、すごく怒ってるみたいだけど……。……私はクリスタ・レンズ。あなたは?」
ヒストリアの控えめな問いかけに、少女は感情の読み取れない瞳を向け、短く答えた。
「……ミカサ・アッカーマン。いつものことだから、心配ない」
ミカサの視線は、ジャンと対峙するエレンの背中に釘付けになっている。執着、あるいは守護。その異様なまでの専念ぶりは、ヒストリアの「聖女の仮面」とはまた違う、歪な強さを感じさせた。
結局、二人の喧嘩は、手打ちにすることで収まったようで、エレンが食堂を出ていくことで幕を閉じた。彼が背を向けた瞬間、ミカサは会話を打ち切り、弾かれたようにその後を追って食堂を出ていった。まるで、主を追う影そのもののように。
――喧騒の続く食堂で、ヒストリアが窓の外へ視線を向けた。
夜の闇に沈む練兵場。そこには、数分前にようやく罰走を終えたらしい少女の、力ない影が落ちていた。
「あ……」
ヒストリアが弾かれたように席を立つ。その手には手を付けていない彼女自身の一切れのパンが握られている。
「アルフィ、私……ちょっと行ってくるね」
俺は彼女の顔を見ることなく、スープの最後の一滴を啜りながら短く応えた。
「……ああ」
練兵場の隅、土と汗にまみれて倒れ込んでいたサシャ・ブラウスは、ヒストリアの足音に反応して、幽霊のように首をもたげた。
「……あの、大丈夫? 今、これを……」
ヒストリアがパンを差し出そうとした、その瞬間だった。
極限の飢餓状態にあったサシャの鼻腔が、小麦の匂いを捉えた。
「……たべ、もの」
サシャの瞳に、人間のものではない野生の光が宿る。
彼女はフラフラと立ち上がったかと思うと、飢えた狼のような勢いでヒストリアに飛びかかった。
「わっ!? サシャ、ちょっと落ち着い……」
「パン! パンの匂いがします! あなたは神様です! いいえ、それ以上の存在です!!」
サシャはヒストリアの細い肩を掴み、ひったくるようにパンに食らいついた。泥と涙を混ぜながら、獣のようにパンを咀嚼する音が夜の静寂に響く。一気にそれを喉の奥へ流し込んだサシャは、充足感からか、あるいは極限の疲労からか、そのまま白目を剥いてヒストリアの腕の中で気絶した。
「えっ……サシャ? サシャ、しっかりして!」
ぐったりとした「死体」を抱え、ヒストリアが狼狽える。その時、闇の中から低く、冷ややかな声が響いた。
「おい……。お前ら、こんなところで何やってんだ」
現れたのは、そばかすの目立つ、長身の少女――ユミルだった。
彼女は、気絶したサシャと、それを必死に支えるヒストリアを交互に見据え、鼻で笑った。
「見てりゃ、お前……ずいぶんと『良いこと』をしようとしてるみたいだな」
「……えっ?」
「そいつにパンを恵んで、聖母様を演じて満足か? だがな……そりゃ本当にこいつのためにやってるのか。それとも、自分が気持ちよくなるためにやってるのか、どっちだ?」
ユミルの言葉は、容赦なくヒストリアの「仮面」の裏側を抉り取った。
ヒストリアは目を見開き、言葉を失って固まった。自分の献身の根源にある、空虚な承認欲求と、自己犠牲への執着。それを一瞬で見透かされた者の、怯えたような顔。
「何も言えないか。ま、勝手にするがいいさ」
ユミルは吐き捨てると、無造作にサシャを担ぎ上げた。その動きには、粗暴ながらも不思議と迷いがない。
「……あなたも、『良いこと』をするの?」
去りゆく背中に、ヒストリアが震える声で問いかけた。ユミルは立ち止まり、振り返ることなく答えた。
「勘違いするな。私は、こいつに恩を売っておくためにやってるだけだ。いつか役に立つかもしれねえだろ?」
その言葉の真偽は、俺には分からない。だが、ユミルがサシャを運んでいく後ろ姿を、ヒストリアはいつまでも立ち尽くして見つめていた。
(――あいつ、鋭いな……)
植え込みの影で気配を消していた俺は、内心で舌を巻いた。
開拓地では誰にも気づかれなかった、クリスタ・レンズという少女の致命的な歪み。それを、出会って一日の少女が正確に指摘してみせたのだ。
(……待て、おかしいだろ)
そもそも、なぜあの女はこの時間に、この場所にいたんだ。
ヒストリアが食堂でサシャに渡すためにパンを持ち出したのは、近くで話を聞いていたアルミンとミカサの二人くらいしか知らなかったはずだ。それを待ち伏せていたかのように現れたあの女の動きは、まるで最初からクリスタがここに来ると分かっていたかのようだった。
(偶然じゃない。狙って会いに来たな)
ただの訓練兵にしては、ヒストリアを見る目が他とは決定的に違う。まるで、彼女の内側に隠された重い秘密を、外側から叩いて音を確かめているような――そんな不気味な手触りを感じた。
もし彼女が、ヒストリアの素性を知っており、何らかの目的を持って近づいているのだとしたら。
俺は部屋に戻る前に懐のノートを開き、月明かりの下、わずか数行だけを書き殴った。
『〇月〇日。
クリスタ・レンズの動向、及び周囲の状況。
――特に、報告すべき事項なし。』
報告すべきことは山ほどあったが、あえて書かなかった。不自然にヒストリアに近づいてきたあの女の存在を上に伝えれば、彼女は消されるか、あるいはヒストリアが別の場所へ移される。それは、ようやく手に入れたこの均衡を壊すことになる。
(……それに、まだ確定したわけではない。新たな環境で周囲の人間に疑い深くなってしまっているだけかもしれない。不確定な情報を上に報告するべきじゃない)
そう自分に言い聞かせ、俺はノートを閉じ、深く、重い溜息をついた。
地獄への門を潜った初日の夜は、こうして静かに、けれど確実に泥濘へと沈んでいった。