翌日、訓練兵団の選別は、肉体的な「資質」を問う場へと移行した。
立体機動適性訓練。兵士としての最低条件である、身体のバランス感覚を試すための儀式だ。腰の固定具をワイヤーで吊るし、ただ空中で姿勢を維持する。単純だが、これができない者に兵士の資格はない。
ガシャリ、と金属音が響き、訓練兵たちが次々と宙に浮いていく。
「……っ、ふぅ……っ」
隣の班では、ヒストリアがワイヤーに吊り上げられていた。
彼女の身体は、空中で頼りなげに左右に揺れている。重心が定まらず、必死に指先を固めてバランスを取ろうとしているのが見て取れた。それでも、彼女は持ち前の器用さと、何より「ここで脱落してはいけない」という意地で、なんとか水平を保ち続けている。
(危なっかしいな)
俺は彼女を視界の端に捉えながら、自分の番を待った。
やがて俺の身体も宙に浮く。体幹を意識し、手足の力を抜く。その瞬間、身体の芯がスッと一本の糸で繋がったような感覚があった。ピタリと、空中で静止する。
(……お、意外といけるな。悪くない)
監視役という死んだような日々に現れた、自分自身の確かな手応え。ほんのわずかだけ口元が緩みそうになる。
だが、その微かな高揚感は、直後に起きた衝撃音で霧散した。
「――がはっ!?」
派手な衝撃音と共に、一人の男が逆さまにひっくり返った。エレン・イェーガーだ。
昨日、あれほどの大口を叩き、復讐に燃えていた少年が、無様に地面へ頭をぶつけている。周囲から失笑が漏れる中、俺は冷めた目でその様子を眺めていた。
(いや、おかしいな)
エレンの姿勢制御の問題じゃない。
ひっくり返る直前、彼の腰にあるベルトの固定具から、微かな金属の「軋み」が聞こえた。本来、あんな位置で重心が崩れるはずがない。
(固定具の破損……か? あるいは、誰かが仕組んだか)
エレンが必死に再挑戦しようとする姿を見ながら、俺は一瞬だけ思考を巡らせる。これを教官に報告すれば、彼は救われるだろう。だが、すぐに思考を切り捨てた。
(……まあ、どうでもいいか)
彼がここで脱落しようが、巨人の餌食になろうが、ヒストリアの監視には何の影響もない。むしろ、彼女に毒を当てるような熱狂的な少年は、今のうちに消えてくれた方が好都合ですらある。
俺は無関心を装い、ただ宙に浮いたまま、遠くの森へと視線を逃がした。
「アルフィ……すご、いね。ちゃんと止まれてる……」
ふらつきながらも地面に降ろされたヒストリアが、少し青い顔で俺を見ていた。俺はワイヤーが外れると同時に着地し、膝の汚れを払う。
「コツを掴めば誰でもできる。お前は……もう少し飯を食って筋力をつけろ。昨日の半分じゃ足りなかったようだな」
皮肉を投げると、彼女は「そうだね」と力なく笑った。
その笑顔の裏に、昨夜ユミルに指摘された「偽善」の痛みがまだ残っていることを、俺だけは知っている。
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夕食後、湿った夜気が訓練兵舎を包み込む。寝支度を始めた俺の前に、昼間「適性」で無様に転がっていたエレン・イェーガーが、アルミンに連れられて現れた。エレンとは、言葉を交わすどころか正面から顔を合わせるのもこれが初めてだ。
「アルフレッド。突然ごめん」
アルミンの申し訳なさそうな声の隣で、エレンは昨日の勢いはどこへやら、絶望の淵に立たされたような、ひどく追い詰められた顔で俺を凝視していた。
「……お前、昼間の適性訓練、安定してたらしいな。どうやったら体制を崩さずに空中で止まれるのか……コツを教えてほしい。頼む」
絞り出すような声だった。プライドの高そうな少年が、初対面の相手に頭を下げに来る。その必死さは、傍から見ていても痛々しいほどだ。俺は手に持っていた荷物を置き、冷めた目で彼を見据えた。
「コツ、か。……そんなものを聞いたところで、向いていない奴は何をやっても無駄だ。適性がないと分かったなら、今すぐ開拓地に戻ればいい。死ぬよりはマシだろう。なぜ、そこまで兵士にこだわる」
ただの気まぐれだった。この少年の瞳の奥で燻る、執念の正体を確かめてみたくなったのだ。
その瞬間、エレンの目に、濁った、けれど強烈な光が宿った。
「……死ぬよりマシなんて、思わない。俺は、あいつらを……巨人を殺すためにここに来たんだ。ここで終わったら、何のために、あんな……」
エレンの声は微かに震えていたが、それは恐怖ではなく、言葉にできないほどの激しい衝動のせいだった。
「あんな地獄を見て……何もしないまま、また壁の中で家畜みたいに生きていくなんて、俺には死ぬより耐えられないんだよ。そのためなら……俺はなんだってやる。コツでも何でもいい、教えてくれ……ッ!」
剥き出しの熱量が、狭い寝所の一角を焦がすように伝わってくる。
……狂っている。だが、その狂気はあまりにも純粋で、濁りがなかった。この不器用なほどに「本物」の魂は、毒々しいほどに眩しいのだ。
沈黙の後、俺はふっと視線を逸らした。
昨日から、どうも計算が狂い始めている。情を移さないと決めたはずなのに、この真っ直ぐな熱にあてられるのは、ヒストリアの近くにずっといたせいだろうか。
「……コツなんてものはない。だが」
俺は背を向けながら、投げ捨てるように言葉を繋いだ。
「明日、もう一度吊るされる前に、ベルトや部品の点検から始めたらどうだ。『不良品』が混じっていることもあるかもしれない」
エレンが、弾かれたように顔を上げた。
「それ……どういう……」
「……さあな。道具のせいにするのは三流のすることだが、道具の不備に気づかないのは死人のすることだ。それ以上は自分で考えろ」
それだけ言い残し、俺は彼らの返事を待たずにその場を去った。
自席に戻り、ノートを取り出す。ページをめくり、昨日の「特に、報告すべき事項なし」という記述の下に、ペンを置く。
(……俺も、相当に焼かれているな)
何も教えず、突き放していればエレンという異分子を排除できる好機だった。それを、あえて「助言」という形で救ってしまった。
俺は結局、何も書かずにノートを閉じた。
明日の朝、エレンがベルトの不備に気づくかどうか。それを確かめるのは、俺の仕事ではない。
……そう自分に言い聞かせながら、俺は重い瞼を閉じた。