翌朝、全体訓練が始まる前の練兵場で、エレン・イェーガーの再試験が行われたらしい。
俺は見に行かなかった。結果がどうなろうと、俺の知ったことではないからだ。彼が合格すれば監視対象の周囲に「熱」が残り、不合格なら静寂が戻る。どちらにせよ、俺は与えられた役割をこなすだけだ。
食堂の隅で、水を口に含んでいると、騒がしい足音がこちらへ近づいてきた。
「……おい、アルフレッド!」
顔を上げると、そこには息を切らしたエレンが立っていた。後ろにはアルミンとミカサもいる。エレンの顔は、昨日までの悲壮感が嘘のように晴れ渡り、その瞳には強い光が宿っていた。
「……受かったのか」
「ああ! 合格だ。……お前の言った通りだったよ」
エレンは真っ直ぐに俺を見据え、少しだけ照れくさそうに頭を下げた。
「ベルトの固定具が、中でイカれてたんだ。教官がベルトと交換しろって言ってくれて……それで吊るされたら、嘘みたいに安定した。……お前に言われなきゃ、俺、自分の姿勢が悪いんだと思い込んだまま、今頃荷物をまとめてた。ありがとな」
真っ向からの感謝。
この手の「善意」を正面から向けられることに、俺は慣れていない。心臓のあたりが、得体の知れない熱を帯びたようにむず痒くなった。俺はそれを誤魔化すように、わざとらしく鼻を鳴らした。
「……礼を言われる筋合いはない。俺はただ、道具のせいにする三流か、不備に気づかない死人か、どちらかを確認しろと言っただけだ」
視線を茶に向け、冷たく突き放すように応えた。だが、エレンはそんな俺の態度など気にする様子もなく、豪快に笑い飛ばした。
「ははっ、相変わらずだな! でも、助かったのは本当だ。今度は……立体機動で飛んでる時に、お前の背中を追い越してやるからな!」
嵐のような少年が仲間と共に去っていくと、食堂にようやく静寂が戻る。……全く、暑苦しい。
「……アルフィ、嬉しそうだね」
不意に横から声をかけられ、俺は肩を跳ねさせた。
いつの間に寄ってきたのか、ヒストリアが隣に立ち、覗き込むように俺の顔を見ていた。その表情は、春の陽光のような穏やかな微笑に満ちている。
「……どこがだ。不愉快なだけだ」
「ううん、わかるよ。耳の裏、ちょっと赤くなってるもの」
ヒストリアはニコニコと楽しそうに笑いながら、さらに距離を詰めてくる。その無垢な喜びが、余計に俺の動揺を煽った。
「お前じゃないんだから、感謝された程度で喜んだりしない」
俺は吐き捨てるように言い、彼女から視線を逸らした。
突き放すように言った俺の言葉に、ヒストリアはショックを受けるどころか、さらにその笑みを深くした。
それは、初めて言葉を覚えた子供の成長を慈しむ親のような、温かい眼差しだった。
「うん、そうだね。アルフィはそういう人だもんね」
彼女は俺の皮肉を、まるで「照れ隠し」だとでも通したかのように、ますます嬉しそうな顔をした。
(……やめろ、そんな目で見るな)
じっと、逃がさないように俺を見つめてくるその瞳。耐えきれず俺が呻くように言った。
「……なんだよ」
すると、彼女はいたずらが成功した子供のように、肩をすくめてみせた。
「ふふっ、なんでもなーい」
「……なんでもなくないだろ。変な顔して見るな」
「変な顔なんてしてないよ? 私はただ、アルフィが優しい人で良かったなって思ってただけ」
そう言って、彼女は俺の顔のすぐ横で、楽しそうにクスクスと喉を鳴らす。
否定すればするほど、彼女の「全肯定」の沼に引きずり込まれていく感覚。この、自分でも制御できない顔の熱さを、彼女は間違いなく楽しんでいる。
そんな俺たちの様子を数歩後ろで眺めていたユミルが、これ見よがしに大きな欠伸をしてみせた。
「おいおい、朝からご馳走様だねぇ。お前ら、訓練兵舎を愛の巣にするつもりか?」
「えっ!? ユ、ユミル! 違うよ、そんなんじゃないから!」
今度はヒストリアが顔を真っ赤にして慌てる番だった。俺はその隙に、逃げるように食堂の出口へと向かう。
背後から聞こえる彼女の笑い声と、ユミルのからかうような声。
それらを振り切るように歩きながら、俺は熱を持った耳の裏を無意識に指先でなぞった。
情は移さない。壁は崩さない。
そう自分に言い聞かせても、一度溶け始めた鉄の扉は、もう元のようには閉まりそうになかった。