砂塵が舞う練兵場に、鈍い衝撃音と荒い吐息が交錯する。
対人格闘訓練。巨人を相手にする戦場において、人間同士の組み合いが役に立つ場面など想定されていないこの場所では、評価の比重も低い。結果として、この時間は多くの訓練兵にとって「適当に流す」サボり魔たちの温床となっていた。
欠伸を噛み殺しながら適当に組み合う者。そんな連中が太半を占める中で、本気で取り組んでいるのは救いようのない真面目か、あるいは、ただの馬鹿だけだった。
そんな中、俺のペアは長身で影の薄い男、ベルトルト・フーバーだった。
「……よろしく、アルフレッド」
「ああ」
訓練開始の合図と共に、数分間の打ち合いが続いた。ベルトルトの突きは速く、正確だった。俺はそれを最小限の動きで捌き、時にはナイフを掠らせ、時には距離を取る。
だが、数分も組み合っていれば、嫌でも違和感が積み重なっていく。
ベルトルトがナイフを突き出してきた。俺は首をわずかに傾け、最小限の動きでそれをかわす。そのまま流れるように懐へ潜り込み、彼の手首を掴んで捻り上げた。
「……っ!?」
ベルトルトが驚いたように顔を歪める。至近距離で彼の瞳を覗き込んだ瞬間、俺は言いようのない不快感を覚えた。
(……こいつ、何なんだ?)
これまでの数分間の攻防。ベルトルトの動きは、確かに新兵の中では上位に入るだろう。だが、決定的な局面――俺の体勢が崩れ、彼が踏み込めば確実に一本取れるはずの瞬間に、彼はいつも「踏み込み」を止めていた。
まるで、自分の本当の体格や筋力を、周囲の平均値に合わせて無理やり削り取っているかのような不自然さ。そして何より、その視線だ。
俺と対峙しているはずなのに、彼の意識はチラチラと別の場所を彷徨っている。
そこには、教官の鋭い視線を逃れるように、訓練している連中の間をするすると歩き回っているアニ・レオンハートの姿があった。サボっていると悟られないよう、絶えず位置を変えながら、死んだ魚のような目で場を眺めている。ベルトルトの瞳には、そんな彼女への熱を孕んだ心配と、隠しきれない情愛が混じり合っていた。
「……おい」
俺は彼の手首を掴んだまま、耳元で冷たく声をかけた。
「……本気じゃないだろ、お前。その実力も、その視線もだ」
ベルトルトの身体が、一瞬で石のように硬直した。
「え……? 何を……」
「隠し事が多すぎる奴は、動きに出る。……気になって集中できないなら、最初からあっちにペア組んでもらえば良かっただろ」
俺は彼の腕を払い、無造作にナイフを奪い取った。ベルトルトの顔が、みるみるうちに赤く染まっていく。彼は嫌な汗を流しながら、秘密を暴かれた子供のような、あるいは正体不明の天敵に出会ったような目で俺を見つめた。
その時だった。
「……アンタ、随分と目がいいみたいだね」
不意に横から、低く冷めた声が響いた。教官の目から逃げ回っていたはずのアニが、いつの間にか俺たちのすぐ傍まで歩み寄っていた。
「ア、アニ……?」
狼狽えるベルトルトを一瞥もせず、アニは俺だけを見据えている。
「遠くから見てたけど。アンタ、一回もまばたきしてない。相手が動くより先に、もう答えを知ってるみたいな避け方だった」
「……それがどうした。ただの勘だ」
「嘘だね。……試してみる?」
言葉が終わるより速く、アニの右脚が跳ね上がった。一切の予備動作がない、鞭のようなローキック。
(――来る!)
軸足の微かな回転から軌道を読み、紙一重で脚を引く。空を切る音が砂を巻き上げる。アニは着地と同時に回転し、今度は反対側の脚で俺の足首を刈りに来た。
(……速い!)
俺は半歩、後ろへ飛び退く。アニのブーツの先が、俺のブーツの鼻先をわずかに掠め、地面スレスレでピタリと止まった。
「……へぇ。今の、避けれるんだ」
アニがわずかに口角を上げた。猫が獲物を見つけたような、不気味な好奇心がその瞳に宿る。
(不味いな……思わず避けてしまった)
これ以上彼女の興味を引くのは、リスクでしかない。俺は思考を切り替え、探り合いを強制終了させるために話をそらした。
「……いい蹴りだな。今の重心の移し方、相当やり込んでるだろ」
極めて淡々と、事実を指摘する。すると、アニはわずかに眉を寄せ、意外そうに俺を見た。
「……何、急に。褒めて機嫌でも取ろうとしてる?」
「見たままを言っただけだ。お前のような奴が、あそこでサボっているのは勿体ないと思っただけだよ」
「ふーん……。そんなに私のキックが気に入ったんなら……。特別に、やり方でも教えてあげようか?」
挑発的に、けれどどこか楽しげに、アニが距離を詰めてくる。その瞬間、隣にいたベルトルトの顔色が変わった。アニが自分から他人に「教える」と口にした。それは彼にとって、何よりも衝撃的な事実だった。
「……いや、それはいい。俺は俺のやり方でやる」
俺が即座に断ると、アニの瞳からふっと温度が消えた。
「……そう。じゃあ、これも見切ってみなよ」
アニの身体が、爆発的な速度で独楽のように回転した。
放たれたのは、先ほどと同じ軌道のローキック。だが、その速度は段違いだった。
(――しまっ、速す――!)
予備動作を盗む暇さえなかった。視覚がアニの肩の跳ね上がりを捉えた時には、すでに破壊的な衝撃が俺のふくらはぎを打ち抜いていた。
バキッ、という乾いた音が練兵場に響く。
俺の体は軸を失って宙に浮き、横ざまに地面へ叩きつけられた。視界が火花を散らし、砂埃が口の中に入る。
「……ッ! ぐ……っ!」
激痛と共に、俺は理解した。さっきの二撃、アニは俺の実力を測るために「遊んで」いたのだ。今の一撃こそが、彼女の本気。俺の「読み」など、彼女の本気の速度と技術の前には、何の役にも立たなかった。
「……アンタみたいなの、一番嫌いなんだよね」
アニは倒れ伏す俺を一瞥し、完全に興味を失ったように背を向けた。
アニが去っていく背中を見上げながら、俺は砂を吐き出す。すると、ずっと黙り込んでいたベルトルトが、ふらふらと俺のそばに寄ってきた。
「……アルフレッド、大丈夫?」
「ああ。なんとか、首の骨は繋がってる」
俺がむくりと起き上がると、ベルトルトは完全に光の消えた「死んだ目」で、ポツリとこう言った。
「……アニ、君のことが嫌いみたいだね」
「……」
「あんなにハッキリ『嫌い』なんて言われること、そうそうないよ。……よっぽど気に入られなかったんだね……」
なんだ、その妙に満足げで、それでいて哀愁の漂う声は。蹴り飛ばされた俺を心配しているのか、それともアニに嫌われたことを祝福しているのか。彼のあまりにも暗い表情に、俺は痛む首を抑えながら、乾いた笑いが出そうになった。
「アルフィ! 大丈夫!?」
そこへ、慌てた様子でヒストリアが駆け寄ってきた。
「……大丈夫だ。お前こそ、ユミルに振り回されて目を回してないだろうな」
「う、うん。大丈夫だよ。でも……今、アニと何かあったの?」
ヒストリアが俺の腕にそっと触れる。その指先の温もりに、俺の心臓が不必要に跳ねた。
ベルトルトの報われない恋慕。アニの冷徹な殺しの技術。そして、何も知らずに俺を案じる、この少女の柔らかな体温。
(……観察者気取りで、何を見てやがる、俺は)
俺はベルトルトやアニから視線を逸らし、ヒストリアの手を優しくほどいて歩き出した。
嘘を抱えた男女。そして、何も知らずに俺を「優しい」と誤認する少女。
この歪な箱庭で、俺の「目」が捉える情報の多さは、俺を泥濘の淵へとさらに深く引きずり込もうとしていた。