この話にアルフレッドを絡めるにはこうするしか...
朝から、アルフレッドの体調は最悪だった。
喉の奥を焼くような熱と、節々の重い痛み。有能な監視者としてあるまじき失態だが、昨晩の不眠と積もりに積もった心労が、冬期行軍訓練という最悪のタイミングで噴出したらしい。
(……面倒なことになったな)
鉄の仮面を被り直し、彼は一度も眉をひそめることなく雪原に立った。
訓練が始まれば、視界は瞬く間に白一色に染まった。雪山の低い気温が体温を奪い、肺に吸い込む空気は刃物のように冷たい。風邪による発熱で火照った体には、その冷気すら感覚を狂わせる毒でしかなかった。
「アルフィ、大丈夫? 顔色がすごく悪いよ」
隣を歩くヒストリアが、不安げに覗き込んでくる。
「……気にするな。お前こそ、足元を見て歩け」
短く突き放し、彼は意識の混濁を噛み殺した。
数時間後、事態はさらに悪化した。ホワイトアウトに近い状況の中、ヒストリアが隠れた空洞を踏み抜き、バランスを崩したのだ。
「あ――っ!」
「おいっ……!」
反射的に体が動いた。アルフレッドは滑落しかけた彼女の腕を強引に掴み、自分の体の方へと引き寄せる。だが、その代償として体勢を崩し、背中を強打した。
鈍い音と共に、肺から空気が押し出される。肋骨が軋む不快な感触と、後頭部を襲う激しい衝撃。
「アルフィ!? ごめん、私のせいで……!」
「大丈夫だ……。さっさと、立て……」
彼は朦朧とする意識の中で、なおも冷徹な声を絞り出した。
だが、視界が激しく明滅し、雪の白さと闇の黒が混ざり合っていく。
背中の激痛が、風邪による高熱をさらに押し上げ、思考が急速に解けていく。
(……クソ。こんな、ところで……)
監視対象である彼女の無事を確認した瞬間、張り詰めていた一本の糸が、音を立てて切れた。
クリスタが自分の名前を呼ぶ、震えた声が遠のいていく。
アルフレッドの体は、抵抗する力もなく、白銀の泥濘の中へと沈んでいった。
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「アルフィ!!」
ヒストリアが必死に名前を呼ぶ。普段、鉄の仮面のように冷静な彼の顔は、見たこともないほど蒼白だった。
「……ユミル、手伝って! アルフィをソリに乗せるの!」
二人は、意識を失ったアルフレッドを担架代わりのソリに乗せ、再び歩き出した。
―それから、どれほどの時間が経っただろうか。
日は完全に落ち、世界は暗黒と白銀の混濁に包まれた。一歩進むたびに肺の奥が凍りつく。ヒストリアの足取りは、もう限界だった。自分より遥かに体格のいい男を引きずり、膝まで埋まる雪を掻き分けて進む。必死に彼を助けようと、指の感覚がなくなるまでロープを握りしめている。それは、紛れもない真実だった。
だが、その一方で。
意識を失い、自分の肩に重みを預けてくるアルフレッドを感じながら、彼女の心の底には、毒のように甘い「安堵」が広がっていた。
(ああ……やっと、終わるんだ)
生まれてきたことを誰にも望まれなかった自分。その忌まわしい血筋を知りながら、歪な形であれ、自分の傍に居続けてくれた唯一の理解者。彼という強固な「支え」があったからこそ、彼女は今日まで「死」という甘美な出口から目を逸らして歩いてこられた。
けれど今、その重石さえも、こうして雪の中に沈もうとしている。
彼と一緒に、この真っ白な世界で力尽きる。
それは、彼女にとってこれ以上ないほど「美しい幕切れ」に思えた。
「アルフィを助けようとして死んだ、いい子のクリスタ」という仮面を被ったまま、世界で唯一、自分を「ヒストリア」と認識している男と心中できる。その誘惑は、吹き付ける極寒の風よりも鋭く彼女の心を揺さぶっていた。
「置いていこうぜ、クリスタ。……このままじゃアルフレッドだけじゃなく、私たちも死んじまう」
ユミルの冷徹な宣告に、ヒストリアは弾かれたように叫んだ。
「嫌だよ……! ユミルは先に行ってて! 私は、私がアルフィを運ぶから……!」
ヒストリアは止まらない。心中という出口を美化しながらも、彼女は「いい子」としての使命を全うしようと、闇の向こうにある崖へと這い進む。その瞳の奥に混じった救助への執念と、死への耽溺。ユミルはその矛盾を、鋭く射抜いていた。
ユミルは嘲笑するように一歩踏み出し、無理心中じみた足取りで雪を漕ぐヒストリアの腕を、強引に掴んで立ち止まらせた。それまでの冷やかしのような態度は消え、その瞳には獲物の急所を見定めた獣のような鋭さが宿っている。
「……やっぱお前、本気でアルフレッドを助ける気ないだろ」
ヒストリアの胸が跳ねる。
「――ダメだろう。クリスタは『いい子』なんだから。この男が助かるためにはどうするべきか、私に聞いたりする姿勢を一旦は見せとかないと」
ユミルの声が、さらに一段低く沈む。ヒストリアの喉元にナイフを突き立てるような、情け容赦のない指摘だった。
「自分が文字通り死ぬほど良い人だと思われたいからって、アルフレッドまで道連れにして殺しちゃ、それは『悪い子』だろう?」
ヒストリアの動きが完全に止まった。
剥き出しになった自分の醜い願望。死を美化し、唯一自分を見てくれた男さえも「美しい心中」の小道具にしようとしている己の傲慢さ。
「お前を探してたんだよ。内地のとある教会で生活のために金品を借りて回ってた時、偶然、貴族に殺されかけたという妾の子の話を聞いてな」
ユミルは、ヒストリア本人ですら蓋をしていた過去を淡々と語った。そして「この情報は誰にも言わない」と約束する。ヒストリアは、なぜわざわざ自分を探しにやってきたのかと問うた。
「似てたからかもな……」
ユミルの答えに、ヒストリアは震える声で返した。
「私と……私と、友達になりたかったの?」
ユミルは一瞬、目を見開いた。吹雪の中で黄金色に光る瞳が、自分でも気づかなかった「孤独な世界での理解者」を求めていた本心を映し出す。だが、彼女はすぐにそれを否定した。
「は? 違うね。それはない。私とお前は対等じゃない」
偽悪的な態度を取りながらも、ユミルの言葉には熱がこもり始める。
「私は運よく二度目の人生を得た! だがその際に元の名前を偽ったりしていない! ユミルとして生まれたことを否定したら負けなんだよ! 私はこの名前のままでイカした人生を送ってやる! それが私の人生への復讐なんだよ!!」
それは、運命に屈服し、美しい心中を夢見ているヒストリアへの、激しい怒りと共感だった。
「何でその殺意が自分に向くんだよ!? その気合がありゃ、自分の運命だって変えられるんじゃねぇのか!?」
「……できないよ。私には、無理……今だって、ここから助かる方法なんてないでしょ……?」
「助かる方法はある。……私がやっとくから、お前は先行っとけ!」
ユミルはヒストリアを突き飛ばした。雪のクッションが彼女を受け止め、視界からユミルと、ソリに乗せられたアルフレッドの姿が消える。
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数刻後。
視界を塞いでいた猛吹雪が嘘のように凪ぎ、麓の訓練兵団拠点の灯りが見えた時、ヒストリアの膝はついに崩れ落ちた。雪を這うようにして辿り着いた柵のそば、柵に背を預けて退屈そうに空を眺めているユミルの姿があった。
「よお、遅かったな」
「ユミル……! アルフィは……!? アルフィはどうなったの!?」
自分の疲弊など忘れたかのように、ヒストリアは叫びながらユミルに縋りついた。ユミルは視線をゆっくりと彼女へ移すと、鼻で笑って顎で小屋の扉を指した。
「安心しな。あいつなら中で治療を受けてるよ。軍医がついてな。……まったく、タフな男だね。あの状況で生きてるんだから」
その言葉を聞いた瞬間、ヒストリアの目から堰を切ったように涙が溢れ出した。安堵でその場に泣き崩れそうになる彼女を、ユミルは冷めた目で見下ろしている。クリスタは涙を拭い、縋るような目でユミルを見上げた。
「……ユミル。どうやって、あそこからアルフィを降ろしたの? あの断崖を、意識のない人を抱えて降りるなんて……人間には、不可能だよ」
ヒストリアの瞳には、感謝よりも深い、正体のしれない困惑が混じっていた。小屋からは他の訓練兵たちの騒がしい声が漏れ聞こえてくるが、この柵の周辺だけは不気味なほど静まり返っている。
ユミルはしばらく無言でヒストリアを見つめていたが、やがて不敵な笑みを浮かべ、
「いいぞ……お前になら教えてやっても……ただし」
『私が自分の正体を明かした時……お前は、本名を名乗って生きろ』
それが、二人の少女の間で交わされた、命懸けの密約だった。
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