雪山での一件から数日。体調を戻して訓練に復帰した俺を待っていたのは、静養を労う言葉ではなく、104期の「お調子者コンビ」による容赦ない洗礼だった。
食堂の喧騒の中、俺がトレイを持って席に着くのとほぼ同時だった。
「おっ、出たな! 『雪山の眠り姫』! 今日はクリスタのソリなしで、よく自力で食堂まで来れたな!」
隣に座り込んできたコニーが、これ見よがしにニヤニヤしながら俺の顔を覗き込んでくる。背後からはサシャが身を乗り出し、俺の皿のパンを狙いながら声を張り上げた。
「ジャンが言ってましたよ。『あのアルフレッドが白目を剥いて、ユミルに荷物みたく担がれてきた』って!どんだけヒロインなんですか、アルフィちゃんは! 」
「……白目は剥いていない。単に、意識を失っていただけだ」
俺は視線を上げず、淡々とスープを口に運んだ。だが、コニーは待ってましたと言わんばかりに身を乗り出してくる。
「いや、剥いてたね! お前、あの時ガッツリ白目剥いて口半開きだったぞ! 少なくとも俺が見た時は、完全に魂がどっか行ってたぜ」
コニーが机を叩いて爆笑する。その騒ぎを聞きつけて、近くの席にいたエレンやジャンまでもが、こちらをニヤついた目で見ているのがわかった。
「おい、コニー、サシャ。あんまりからかってやるなよ。……まあ、あの「鉄面皮」のアルフレッドが女二人に救い出されたってのは、確かに傑作だけどな」
ジャンの追い打ちに、俺はスプーンを置いた。
何か冷徹な一言で沈黙させるべきだと頭では理解している。だが、吹雪の中で自分を必死に呼んでいたヒストリアの声と、その後に「運ばれていた」という揺るぎない事実は、俺の舌を重くさせた。
何より解せないのは、あの後のことだ。
意識を取り戻した俺の視界に最初に飛び込んできたのは、見たこともないほど顔をぐしゃぐしゃにして泣きじゃくり、俺の胸元に縋り付いてくるヒストリアの姿だった。そしてその傍らでは、なぜかユミルが「手のかかる王子様だよ」と鼻で笑いながら、甲斐甲斐しく彼女の肩を抱いていた。
2人は雪山訓練以前にはなかった「謎の連帯感」で結ばれている。その光景を思い出すだけで、得体の知れない敗北感がこみ上げてくる。
「あ、見ろよ! アルフレッドの野郎、耳まで真っ赤になってやがるぞ!」
「本当だ! わかりやすーい! 図星なんですね!?」
「……違う。赤いのは、まだ熱があるだけだ」
俺は視線を逸らし、短くそう吐き捨てた。自分でも驚くほど、説得力のない言い訳だった。
「はいはい、そういうことにしておいてあげますよー!」
サシャの生温かい相槌に、周囲からまた一つ笑いの輪が広がる。俺は逃げるように食堂を後にしたが、背後からは「おーい、寝ぼけて転ぶなよー!」というコニーの野次がいつまでも追いかけてきた。
ーーーーーーーーーーーーーーー
食堂の騒がしい茶化しから逃れるようにして、俺は一人、夜の馬小屋へと足を向けた。
ここには、同期たちの無責任な笑い声も、俺を「眠り姫」呼ばわりする低俗な野次も届かない。あるのは、乾いた藁の匂いと、馬たちが時折漏らす低い鼻鳴らし、そして夜の底に沈むような穏やかな静寂だけだ。
暗がりの隅、古びた藁の上に腰を下ろす。冷えた夜気が肺を満たし、食堂で火照ったままだった顔の熱を少しだけ奪ってくれた。
「……やっぱりここにいた。アルフィ、また一人で考え事?」
鈴を転がすような、けれどどこか脆さを孕んだ声。ヒストリアだった。彼女は俺の拒絶を待つまでもなく、当然のように隣に腰を下ろした。柔らかな体温が、服越しにも伝わってくる。
「…別に、考え事なんてしていない。お前も,あの後風邪ひいたんだろ。早く寝ろ」
「もう大丈夫だよ。……ねえ、ここに来ると昔のことを思い出すね。私、馬を好きになったのも、アルフィのおかげなんだよ」
彼女は膝を抱え、月明かりが差し込む入口の先を、遠くを見るような瞳で眺めた。
「私、あの牧場にいた頃、本当にお母さんに好かれたくて必死だった。本の中の『良い子』を演じて、いつか微笑んでもらえるのをずっと待ってた。……でも、アルフィはそれを聞いて、すごく呆れた顔をして言ったよね」
その時の光景を思い出したのか、彼女の唇に小さな笑みが浮かぶ。
「『母親に好かれる努力をするより、馬や牛に好かれる努力をした方がまだマシだ』って。覚えてる?」
「……言ったな。あまりに効率の悪い努力をしていたから、つい指摘しただけだ」
「ふふ、本当にひどい言い草。……でもね、アルフィ。あの時、私の中の何かが、ふっと軽くなったんだよ」
彼女の指先が、藁を一本、愛おしそうになぞる。
「お母さんに愛されなくても、私は生きてていいんだって……。今でも馬小屋の匂いを嗅ぐたびに、アルフィのあの言葉を思い出すの。だから……」
不意に、俺の袖口を掴む彼女の指先に力がこもった。
見上げれば、ヒストリアの瞳には、月光を反射した涙が薄く膜を張っていた。
「……もう勝手にいなくなったりしないでね。雪山でアルフィが動かなくなった時、私、あの牧場での孤独を思い出したの。世界から光が消えて、また独りに戻るんだって……。あんな思いをするくらいなら、私、もう……」
その言葉の先を、俺は直感的に「聞いてはいけない」と判断した。
彼女が俺に向けるそれは、信頼でも親愛でもない。もっと暗く、重く、底の見えない「執着」だ。俺という楔が、彼女の空虚な心に深く打ち込まれすぎてしまった。
「……勝手にいなくなるか。俺が先に死んだら、お前、その辺の石ころにでも躓いて無駄死にしそうだしな。そんな無様な死に方を見せつけられるのは御免だ」
鼻で笑いながら、わざと突き放すような冗談を投げる。だが、ヒストリアは気を悪くするどころか、俺の肩に頭を預けたまま「ふふ……」と喉を鳴らして笑った。
「石ころなんて失礼だなあ。……でも、確かにそうかもね。アルフィがいないと、私、自分がどこを歩いてるのかも分からなくなっちゃいそう」
そう言って、彼女は俺の袖口を掴んでいた指先に、ぎゅっと力を込めた。
「だから、私が無様な死に方をしないように、アルフィがずっと見てて。……約束だよ?」
俺は彼女の肩を引き寄せることも、突き放すこともできず、ただ夜の静寂の中に、二人分の重い体温を沈めていった。
「……ふん。お前に約束なんてされなくても、俺の目は節穴じゃない」
俺は視線を逸らし、鼻を鳴らすことでその場の空気を強引に塗り替えた。彼女の言葉を否定もしなければ、甘い約束を返すこともしない。それが今の俺にできる、精一杯の応答だった。
「いいから、病み上がりならさっさと寝ろ。体力を戻しておかないと、明日の立体機動訓練では容赦なく置いていくからな。あの馬鹿どもの茶化しを黙らせるために、俺は最高速度で飛ばすつもりだ」
「……あはは、アルフィらしいね」
ヒストリアは俺の肩に頭を預けたまま、満足そうに小さく笑った。
「うん、頑張るよ。……おやすみなさい、アルフィ」
闇の中で、彼女の微笑む気配がした。
藁の匂い。馬の体温。そして、俺を失うことを何よりも恐れ、俺の隣でようやく「生」を繋ぎ止めている少女。
この歪な箱庭で、俺の「目」は依然として泥濘の中に沈んでいる。
けれど、肩から離れた重みをどこか寂しく感じながら、俺は明日、あの騒がしい奴らの鼻を明かしてやるための算段を、静かに練り始めていた。
お気に入り登録が徐々に増えてきてて本当にうれしいです
感想・評価も増えてほしい...!