アルフィという呼び名が彼女に定着するまで、そう時間はかからなかった。
「アルフィ、見て。今日はお花が咲いてたの」
数日後、俺のところにヒストリアが駆け寄ってきた。その手には、名もなき白い花が握られている。
「……そうか。踏まないように気をつけろよ」
顔も上げずに答える。俺の仕事はあくまで「観察」だ。だが彼女はお構いなしに、一日の出来事を報告しにくるようになった。
「ねえ、お母さんにこれを渡したら、喜んでくれるかな?」
ヒストリアの視線の先――少し離れた木陰に、一人の女が座っていた。アルマ。彼女は一日中、本を読んでいる。実の娘を一度も視界に入れたことがない女だ。
「……やめとけ。無駄だぞ」
「でも、今日はとっても綺麗に咲いてるから」
ヒストリアは俺の制止を聞かず、弾むような足取りで木陰へと向かっていった。
……嫌な予感しかしない。俺は物陰からその光景を注視した。
ヒストリアがアルマの足元に歩み寄り、花を差し出す。何かを懸命に話しかけているようだが、声は聞こえない。
次の瞬間だった。
アルマが、読んでいた本を激しく閉じ、汚らわしい虫を払うような手つきで、ヒストリアの手を激しく振り払った。
白い花が宙を舞い、花びらを散らせながら地面に落ちる。
ヒストリアは力なくその場に座り込み、アルマは一言も発することなく、立ち上がって母屋へと消えていった。
「……あーあ。だから言ったのに」
俺はわざと大きな溜息をつき、呆然としている彼女のもとへ歩いた。
「……アルフィ。私、お母さんに嫌われてるのかな」
「さあな。あいつの頭の中なんて知るかよ」
俺はしゃがみ込み、驚いた衝撃で外れかけている彼女の麦わら帽子を無造作に被せ直してやった。
「……あいつに好かれる努力をするより、そこらの馬や牛に好かれる方法でも考えろ。あいつらなら、エサさえやりゃあお前に懐く。……あいつに愛される奇跡を待つより、よっぽど可能性があるぞ」
「……馬や、牛に? 私、懐いてもらえるかな」
「少なくとも、あっちの女よりは脈がある。……ほら、そろそろどっか行け。俺は忙しいんだよ」
「……ふふっ。変なの、アルフィ。ここ数日、仕事なんてほとんどしてなかったじゃない」
ヒストリアは力なく、けれど少しだけ唇を緩めて笑って去って行った。
その夜、俺は屋根裏の自室で報告書を開いた。
鉛筆の先がノートの上で止まる。いつもなら、監視役と接触した事実を記録する。だが、今日はどうしてもその一文が書けなかった。俺が余計な助言をしたことを親父に知られれば、間違いなく叱責される。
俺は一気に鉛筆を走らせた。
『○月○日。対象、木陰にいた母親に接触を図るも、激しく拒絶される。その後、対象は一人で数時間、呆然と座り込んでいた。……本日も外部、および内部関係者との有意義な接触はなし』
「……嘘じゃねえ。ただの暇つぶしの話し相手なんて、『有意義』じゃねえからな」
自分に言い聞かせ、ノートを閉じた。
これが、俺が初めてついた、ヒストリアに関する「嘘」の報告だった。
明日もまた、彼女はあの空っぽな期待を抱いて、あそこへ行くのだろうか。
その寂しげな姿を思い出し、ペンを握る自分の指先が、少しだけ重く感じられた。