ガスの補給が途絶え、行動を制限され始めていた中。
ユミルは己のガス噴射口を確認し,事も無げに言い放った。
「……いいか、よく聞けアルフレッド。私にはまだ、壁の上まで登り切れるだけのガスが残ってる」
アルフレッドは、自分の装置の残量メーターを一瞥し、それからユミルの顔を凝視した。
「……何が言いたい。一人で逃げ出す許可でも欲しいのか」
「馬鹿を言うな。私がそんな殊勝なタマに見えるかよ」
ユミルは薄く笑い、
「私はこれから壁を登る。上には駐屯兵団の備蓄があるはずだ。そこからガスを奪って、すぐに戻ってくる」
「無茶だ。壁に辿り着く前に巨人に標的にされる。……それに、上の連中がすんなりガスを渡す保証がどこにある」
「だから、賭けなんだよ。……ここにいても、いつか全員でガス欠になって巨人の餌になるのを待つだけだろ。お前の賢い頭使って計算してみろよ。私が戻ってくる可能性に賭けるのが、一番マシな答えのはずだ」
隣で聞いていたヒストリアが、悲鳴に近い声を上げた。
「危ないよ! 一人で壁までなんて!」
ユミルはクリスタを振り返り、一瞬だけ、いつものおどけた表情を見せた。
「おや、クリスタ。もしかして私のことを心配してくれてるのかい? 相変わらず私のクリスタは天使だねぇ! その愛さえあれば、巨人なんて目じゃないよ」
「……っ、そんな冗談言ってる場合じゃないよ!」
ヒストリアが泣きそうな顔で訴える。それを見たユミルは、ふっと笑みを消し、今までにないほど真剣な顔をして彼女の肩を叩いた。
「安心しろ。私は、お前を置いて死ぬ気なんてさらさらない。……地獄の底まで付き合ってやるって決めたんだからね」
ユミルは再びアルフレッドを睨み据え、胸ぐらを掴み顔を寄せる。
「……アルフレッド、クリスタを頼む。私が戻るまで、何が何でもあいつを守れ。もし私がいねえ間にあいつの指一本でも欠けてみろ……地獄の底まであんたを追い詰めて殺してやるからな」
「……言われなくても、こいつを死なせるつもりはない」
アルフレッドは、彼女の「賭け」を静かに受理した。ユミルは満足げに鼻を鳴らすと、一度も振り返ることなく屋根を蹴った。
――ゴォォォォン……。
トロスト区に、遅すぎる「一時撤退」の鐘が鳴り響いてた。ユミルが壁へ向かったのが1時間ほど前。
壁を登るためのガスはもうすでに残っていない。ガスを届けるはずの補給班が任務を放棄して本部に籠城したそうだ。
アルフレッドたちがいる屋根の上は、静まり返った墓場のようだった。
多くの訓練兵たちが、力なく座り込み、ただ自分が食われる順番を待つように壁を見上げている。
ユミルの帰還にすべてを賭けたアルフレッドの「計算」は、ここで完全に潰えた。
(……詰んだな)
ユミルは壁に辿り着く前に巨人に喰われてしまったか,もしくは壁上でトラブルが起きて戻ってこれないのだろう。
「……アルフィ、みんな……もう……」
隣でヒストリアが、絶望に暮れる仲間たちを見渡して声を震わせる。
その声を聞いた瞬間、アルフレッドは憑き物が落ちたような、恐ろしく静かな声で言った。
「……クリスタ。俺のガスを半分持っていけ。……これだけあればお前一人ならギリギリ壁を登りきれる」
「え……? 何、言ってるの……?」
「もう全員が生きて帰れることを望んでいられる状況じゃない。……ここで座って喰われるのを待つよりは、俺が囮になって巨人を引きつける。その隙にお前が壁へ向かえ」
アルフレッドは、本気だった。
あの馬小屋で「無様な死に方をさせない」と約束した。だから、自分がここで盾になり、彼女を安全な場所へ送り届けることこそが、その約束の守り方だと信じ込もうとしていた。
「……」
ヒストリアは、深く、深くうつむいたまま動かない。金色の前髪が影を作り、その表情を完全に隠している。
アルフレッドは、彼女が絶望に打ちひしがれ、声も出せないのだと勝手に解釈した。
彼女の指先が白くなるほど握りしめられていることにアルフレッドは気づかない。
立体機動装置からガスを外すためにヒストリアから目線を切る。
「おい、聞いてるか。時間が惜しい。……早く――」
「……ふざけないで」
遮るような声は、ひどく低く、震えていた。
アルフレッドが顔を上げると、そこには、暗く濁った目で自分を凝視しているヒストリアがいた。最初は消え入りそうだった声が、一言ごとに鋭い熱を帯びていく。
「あの夜、私になんて言ったの……? 私が無様な死に方をしないように、『ずっと見てる』って約束したじゃない……。私の隣で、ずっと見ててくれるんじゃなかったの……?」
彼女の瞳には、あの馬小屋の夜と同じ、暗く重い執着が渦巻いている。
「自分だけここで死ぬことが優しさだと思ってるなら……最低だよ!! あなたがいない世界で、私に一人で生きろって言うの!? またあの孤独に戻れって言うの!? 私にとっては、あなたがいないことの方が、死ぬよりずっと怖いんだよ!!」
最後は、喉を掻き切るような悲鳴だった。
乾いた音が、静寂を切り裂いた。
ヒストリアの手が、アルフレッドの頬を強く叩いていた。
「この馬鹿アルフレッド!!」
屋根の上に響き渡る、彼女の絶叫。その絶叫と共に、彼女の瞳からドロリとした濁りが消え失せ、絶望を焼き払うような苛烈な光が宿った。
ヒストリアは肩を激しく上下させ、大粒の涙を溢れさせながら、アルフレッドの胸元を拳で叩いた。
「私を簡単に死なせないって誓ったなら、こんなところで投げ出さないで! この状況を打破する策くらい、死ぬ気で考えてみせろ!!」
静まり返っていた屋根の上に、ヒストリアの気合が響き渡った。
呆然と座り込んでいたジャンやマルコ、そして名前も知らない同期たちが、弾かれたように二人を見た。
(……おい、今のクリスタか……?)
(あのアルフレッドを怒鳴りつけたのか……?)
場違いな困惑が、死を待つだけだった訓練兵たちの目にわずかな「生」の光を戻す。
アルフレッドは叩かれた頬を押さえ、数秒間、信じられないものを見る目で彼女を見つめていた。だが,頬の痛みと共に、アルフレッドの凍りついていた思考が急速に解凍されていく。
「……ッ、ハ……ハハッ」
アルフレッドの喉から、乾いた笑いが漏れた。
「……あぁ、そうだな。俺が間違ってたよ。そもそも『自己犠牲』なんて俺が一番嫌いな言葉だ」
アルフレッドは立ち上がり、いつものように静かに輝くアイスブルーの目で見渡した。
ヒストリアの叫びで、図らずも全員の意識がこちらに向いている。今、この瞬間が再起動させる唯一の好機だ。
「おい、お前ら。『女神様』は全員での生還をお望みらしい」
「選択肢は二つだ。ここで座って巨人に食われる順番を待つか、巨人の群れをぶち抜いて生き残る可能性に懸けるか。……死に方を自分で選びたい奴は勝手にしろ。だが、一秒でも長く生きたい奴は、俺の指示に従え!」
その言葉に、誰も反論できなかった。
死を待つ静寂の中に、明確な「選択肢」を提示された連中の瞳に、わずかながらの動揺と熱が戻る。その時だった。
「……アルフレッド」
背後からかけられた声は、凍てつくように冷たかった。
振り向けば、そこには先ほどアルミンからエレンの死を聞かされたばかりのミカサが立っていた。光の消えたその瞳を見た瞬間、アルフレッドの心臓が冷たく跳ねる。
(……自暴自棄か。死ぬ場所を探しているような目だな)
彼女が正気でないことは明白だった。だが、今のこの絶望的な戦力差を埋められるのは、目の前の「壊れた怪物」しかいない。アルフレッドは彼女の危うさを理解しながら、それをあえて無視した。
「私が、先陣を引き受ける。……私が道を切り拓くから、あなたたちは後をついてきて」
「……ああ,任せた」
ミカサは無機質な視線をまだ躊躇してる様子の同期たちへ向け、ゆっくりと、けれど屋根の上の空気を凍らせるような声で告げた。
「私は……強い。あなた達より強い……すごく、強い」
一言一言を噛み締めるような、不自然な間。
「……ので、私は……あそこの巨人どもを蹴散らすことができる。例えば……一人でも」
振り上げた刃の先端が、震える同期たちを冷たく指し示す。
「あなた達は……腕が立たないばかりか……臆病で、腰抜けだ。……とても、残念だ。ここで指をくわえたりしてればいい……くわえて、見てろ」
「無茶だミカサ!」
誰かの制止を、彼女は冷酷な真理で踏みつぶした。
「……できなければ、死ぬだけ。でも……勝てば、生きる」
彼女は、エレンに貰ったマフラーを一度だけ強く握りしめた。
「戦わなければ、勝てない」
直後、ミカサは音を置き去りにする速度で、巨人の群れへ突っ込んでいった。その姿に火をつけられたジャンが、怒号と共に後に続く。
「……おい! お前ら!俺たちは仲間に一人で戦わせると学んだか!?」
ジャンの怒鳴り声と共に、訓練兵たちが次々と立ち上がり声を上げて駆け出す。
「ミカサを『弾頭』に一列縦隊! ミカサがこじ開けた穴に滑り込め!!」
アルフレッドの指揮通りに,一つの「槍」のようになって巨人の群れに突っ込んでいく。
屋根を蹴る直前、アルフレッドは自分の背後にぴたりとつくヒストリアを振り返った。
風が吹き抜け、彼女の金色の髪が揺れる。
アルフレッドは、自分の頬を叩いたヒストリアの手を、そして、まだ怒りと涙で潤んでいる彼女の瞳を静かに見つめた。
「……ヒストリア」
アルフレッドは、いつも彼女を呼ぶときの「クリスタ」という偽名ではなく、彼女の本名を口にした。
「…………何?」
ヒストリアが、まだ震える肩を強張らせて彼を睨み返す。
アルフレッドは、熱を持った頬に手を当て、自嘲気味に、けれど今まで見せたことのないほど穏やかな笑みを一瞬だけ浮かべた。
「……ありがとう。」
ヒストリアは、弾かれたように目を見開いて固まった。
数秒の沈黙。
けれど、次の瞬間。ヒストリアはまだ涙で濡れた瞳のまま、彼を安心させるように、花の咲くような笑顔で笑い返した。
その笑顔を見た瞬間、アルフレッドの胸の奥で、折れかけていた最後の芯が鋼のように硬く組み上がる。
「……行くぞ!」
屋根を蹴る二人の影が、ミカサが切り拓いた死地の裂け目へと弾丸のように飛び込んでいく。