「おい、何ニヤついてんだ、クリスタ」
背後から飛んできたジャンの声に、ヒストリアは肩を跳ねさせた。
「に、ニヤついてないよ!」
「こんな地獄みたいな状況で顔隠して震えてたら、普通は泣いてると思うだろ。……何だその反応」
「な、何でもないってば!」
慌てて両手を下ろし、いつもの穏やかな笑みを作る。だが、耳まで赤く染まっているせいで、まるで誤魔化せていない。
アルフレッドはその様子を横目で見て、僅かに眉を寄せた。
(……恐怖による錯乱、ではないな)
そう判断しかけて、すぐに思考を切り替える。
今は、そこに割く時間ではない。
「アルミン」
アルフレッドは、床に膝をついている少年へ声をかけた。
「地下の補給室を奪還すると言ったな。具体的には?」
「う、うん」
アルミンは唾を飲み込み、床に落ちていた木片を拾った。そして埃の積もった床に、簡単な見取り図を描き始める。
「地下の補給室には、三メートル級から四メートル級の巨人が複数入り込んでいる。普通に立体機動で戦うには狭すぎるし、僕たちにはガスもほとんど残っていない。だから、昇降機に射撃班を乗せて、巨人の目を銃で撃つ」
「視界を奪うのか」
「うん。その一瞬に、天井付近で待機していた討伐班が落下して、うなじを削ぐ」
アルミンの声が震えた。
「でも、一体でも仕留め損なえば、射撃班が食われる。失敗したら、たぶん全滅だ」
室内に重い沈黙が落ちる。
誰もが理解していた。
これは希望ではない。
ただ、絶望より少しだけマシな賭けだ。
アルフレッドは静かに頷いた。
「理屈は通っている。それで十分だ」
「十分だって……お前な」
ジャンが顔をしかめる。
「他に選択肢がないなら、それはもう十分な作戦だ」
アルフレッドは補給班へ冷たい視線を向けた。
「机の下で震えているより、よほど建設的だろう」
補給班の兵士たちは、何も言い返せなかった。
アルミンは震える息を整えながら、続けた。
「討伐班は、ミカサ、ライナー、ベルトルト、アニ、ジャン、コニー、サシャ。七人で七体を同時に仕留める」
「俺は?」
アルフレッドが問うと、アルミンは言葉に詰まった。
彼の視線が、アルフレッドの腕に巻かれた白いハンカチへ向く。すでに血が滲み、結び目の周辺が赤く染まり始めていた。
「アルフレッドは……射撃班に回ってほしい。腕を怪我しているし、それに、全体を見て指示できる人が必要だ」
「討伐班の方が確実に戦力になる」
「違う」
ミカサが静かに言った。
全員の視線が彼女に集まる。
「あなたは下に降りない方がいい。怪我をしている状態で攻撃に失敗すれば、それだけで作戦全体が崩れる。上に残って、射撃班の統制を取るべき」
その声に感情は薄い。だが、判断は冷静だった。
ジャンも舌打ちしながら頷いた。
「癪だが、同感だ。お前は上から怒鳴ってろ。そういうの、得意だろ」
「人を性格の悪い指揮官みたいに言うな」
「違うのかよ」
「……否定はしない」
ほんのわずか、室内の空気が緩んだ。
その隙を逃さず、アルフレッドは声を張る。
「聞け。これが失敗すれば全員死ぬ。だが、ここで座っていても全員死ぬ。なら、選べ。巨人の腹に入る順番を待つか、生きるために地下へ降りるかだ」
沈黙。
けれど、その沈黙はもう死を待つだけのものではなかった。
ジャンが刃を握り直す。
「……やるしかねぇだろ」
マルコが頷く。
「うん。やろう」
一人、また一人と、訓練兵たちは立ち上がった。
ヒストリアも銃を受け取る。
その手は震えていた。
だが、銃口は下がらない。
アルフレッドは彼女の隣に立った。
「怖いか」
「怖いよ」
ヒストリアは正直に答えた。
「ユミルも戻ってこないし……みんなも死んでいくし……怖いに決まってる」
「そうか」
「でも」
ヒストリアは、アルフレッドの腕に巻かれた血の滲むハンカチを見た。
「今は、アルフィがここにいるから」
その言葉に、アルフレッドは一瞬だけ息を止めた。
ユミルを心配していないわけではない。
彼女は大事な友人だ。
あの皮肉屋で、乱暴で、誰よりも自分を見てくれていた少女が戻らないことは、確かにヒストリアの胸を締めつけている。
けれど今、彼女の視線の中心にいるのは、目の前のアルフレッドだった。
失いたくない。
置いていかれたくない。
また一人にされたくない。
その感情が、彼女の指先を震わせていた。
「……俺はここにいる」
アルフレッドは短く言った。
「勝手に死なない。勝手にお前を置いていかない」
「本当に?」
「さっき頬を叩かれた痛みが、まだ残っているからな。しばらくは忘れようがない」
ヒストリアは目を丸くし、それから小さく笑った。
「また叩くよ」
「できれば遠慮したい」
「じゃあ、無茶しないで」
「善処する」
「それ、絶対する気ない言い方」
「……努力する」
「うん。それなら少し信じる」
短いやり取りの後、昇降機がゆっくりと下がり始めた。
地下の空気は湿っていた。
鉄と油と、巨人の熱気が混ざったような臭いが鼻を刺す。
やがて、視界の下に補給室が広がる。
巨人たちがいた。
薄暗い空間の中を、七体の巨人がのろのろと歩き回っている。
その奥には、補給用のガスボンベが山積みになっていた。
あと少し。
あと少しで、生き延びられる。
「構えろ」
アルフレッドの声が、地下の湿った空気を裂いた。
昇降機の上に並んだ射撃班が、一斉に銃口を下げる。古びた銃の重みが、恐怖で震える腕にのしかかる。火薬の匂い。軋む木材。下から這い上がってくる巨人の熱気。
補給室の薄暗がりの中で、七体の巨人がのろのろと歩き回っていた。
その奥には、補給用のガスボンベが山積みになっている。
あと少し。
本当に、あと少しなのだ。
あそこへ辿り着ければ、生き延びられる。
けれど、その「あと少し」の前に、巨人がいる。
「……っ」
隣で、ヒストリアの呼吸が浅くなるのが分かった。
アルフレッドは前を向いたまま、小さく言う。
「俺の声だけ聞け」
「……うん」
「息を吸え」
ヒストリアが小さく息を吸う。
「止めろ」
巨人がこちらを見上げた。
白濁した瞳。半開きの口。垂れた唾液。人間を見つけた喜びにも似た、醜悪な表情。
射撃班の誰かが、恐怖で引き金を引きかけた。
「まだだ!」
アルフレッドの鋭い声が飛ぶ。
巨人の顔が近づく。
腕が持ち上がる。
射撃班の足元で、昇降機の床板が嫌な音を立てた。
「まだ……」
狙いが、目に重なる。
「撃て!!」
轟音が、地下に炸裂した。
火薬の煙が一斉に広がり、巨人たちの目から血と蒸気が噴き出す。視界を奪われた巨人たちが、咆哮を上げながら暴れ出した。
その瞬間、天井付近に潜んでいた討伐班が、一斉に落下した。
ミカサの刃が、迷いなく巨人のうなじを裂く。
アニは無駄のない回転で背後へ滑り込み、冷たく正確に肉を削ぎ落とす。
ライナーの重い体が、勢いごと刃を叩き込む。
ベルトルトもその長身に似合わぬ繊細さで角度を合わせ、巨人の急所を深く斬った。
ジャンは歯を食いしばりながら叫び、刃を振り抜く。
「くそがああああッ!!」
一体、また一体と巨人が崩れていく。
作戦は成功した。
そう思った。
だが、次の瞬間。
「……っ、浅い!」
コニーの刃が、巨人のうなじを掠めただけで抜けた。
ほぼ同時に、サシャの刃も肉を裂ききれず、巨人の背中から弾かれる。
「えっ……!?」
仕留め損なった二体の巨人が、視界を潰されたまま暴れた。
巨人の腕が、すぐそばにいたサシャへ向かって振り下ろされる。もう一体の巨人は、着地の姿勢を崩したコニーへ顔を向けていた。
「サシャとコニーだ!」
ベルトルトの叫びが響いた。
「誰か援護!!」
ジャンが怒鳴る。
その声が終わるより早く、二つの影が動いていた。
「どいて」
冷たい声。
ミカサだった。
彼女は床を蹴ると、サシャへ伸びる巨人の腕を横から斬り飛ばした。
勢いを殺さぬまま、巨人の肩へワイヤーを撃ち込み、背後へ回り込む。
一閃。
うなじが裂け、巨人の体が崩れ落ちる。
「ひゃあああああああっ!?」
サシャは腰を抜かし、その場にへたり込んだ。次の瞬間、ミカサの腰に泣きつくようにしがみつく。
「ミカサぁぁぁ!! ありがとうございますぅぅぅ!! 私、今、本当に食べられるかと思いましたぁぁぁ!!」
「……離れて。動きづらい」
「無理ですぅぅぅ! 足に力が入りませんんん!」
ミカサは困ったように眉を動かしたが、無理に振りほどきはしなかった。
一方、コニーの方へ迫っていた巨人には、アニが滑り込んでいた。
彼女は表情一つ変えずに、巨人の膝裏へ刃を入れ、姿勢を崩させる。
巨人が前のめりになった瞬間、アニはその背を足場にして跳び、うなじへ刃を通した。
肉が裂ける。
巨人の体が、コニーの目の前で蒸気を上げながら倒れた。
コニーは尻餅をついたまま、呆然とアニを見上げる。
「……悪いな、助かったよ」
アニは振り返りもせず、刃についた血を払った。
「どうも」
それだけだった。
コニーは数秒間ぽかんとしてから、苦笑する。
「……相変わらず愛想ねえな」
「生きてるなら十分でしょ」
「まあ、そりゃそうだ」
ライナーが大きく息を吐きながら、コニーの襟を掴んで立たせた。
「おい、無事かコニー」
「お、おう……何とか」
「何とかじゃない。今のは完全に死んでたぞ」
「分かってるって……」
ライナーは呆れたように眉を寄せたが、その手は乱暴なようでいて、コニーがふらつかないよう支えていた。
ベルトルトもサシャの方を見て、胸を撫で下ろす。
「よかった……本当に、間に合ってよかった」
「よくねえよ!」
ジャンが怒鳴った。
「一体でも仕留め損ねたら全滅って話だっただろうが! お前ら、肝冷やさせんじゃねえ!」
「す、すみませんんん!!」
「悪かったって!」
サシャとコニーが同時に謝る。
だが、ジャンの怒りは恐怖の裏返しだった。
本当に二人が死にかけたからこそ、声が荒くなる。
マルコがそっとジャンの肩に手を置いた。
「でも、助かった。全員、生きてる」
その言葉に、地下の空気がようやく緩んだ。
巨人はすべて倒れている。
補給室は、奪還された。
一拍遅れて、訓練兵たちの間から震えるような歓声が漏れた。
「やった……」
「成功したぞ……!」
「生きてる……俺たち、生きてる!」
昇降機の上で、射撃班の何人かがその場に座り込んだ。銃を握ったまま泣いている者もいる。
ヒストリアも、張り詰めていた息をようやく吐いた。
「……よかった」
その声は小さい。
だが、心底からの安堵が滲んでいた。
アルフレッドは銃を下ろし、倒れた巨人たちを見下ろす。
「ギリギリだったな」
「うん……」
ヒストリアは頷き、それからすぐに彼の腕を見た。
白いハンカチに、血が滲んでいる。
さっきよりも、少し赤い。
射撃の反動と、緊張で強く銃を握ったせいだろう。傷口が開きかけている。
「アルフィ、腕……!」
「問題ない」
「問題あるよ」
今度の声は、静かだった。
だが、だからこそ強かった。
ヒストリアは彼の腕を両手で取る。血の滲んだハンカチを見つめる目が、じわりと潤んでいく。
「また、そうやって平気みたいに言う」
「本当に大した傷じゃない」
「大した傷かどうかは、私が決める」
「……理不尽だな」
「理不尽でいい」
ヒストリアは、顔を上げた。
さっき、窓を突き破って血を流した人。
屋根の上で、自分だけを逃がそうとした人。
今も自分の傷を軽く扱おうとしている人。
失いたくない。
置いていかれたくない。
その感情だけは、もう誤魔化せなかった。
「アルフィが自分のことを雑に扱うたびに、私、本当に怖くなるんだから」
アルフレッドは返事に詰まった。
ヒストリアは続ける。
「ユミルも心配だよ。戻ってきてほしい。無事でいてほしい。でも……」
そこで一度、言葉が止まる。
ヒストリアは自分でも驚くほど強く、アルフレッドの袖を握り締めていた。
「でも、今ここでアルフィまでいなくなったら、私……たぶん、立っていられない」
地下の喧騒が、遠くなる。
アルフレッドは、彼女の手を見下ろした。
小さな手だった。
震えている。
けれど、離そうとはしない。
「……そうか」
アルフレッドは短く答えた。
「さっきも言ったろ。勝手にいなくなったりしない」
「本当に?」
「ああ」
「また自分を囮にするとか言わない?」
「状況による」
ヒストリアの目が据わった。
「アルフィ」
「……言わない」
「最初からそうして」
「努力する」
「それも信用できない」
「じゃあ、監視していろ」
何気なく出た言葉だった。
だが、言った瞬間、アルフレッドの胸に鈍い痛みが走った。
監視。
その言葉だけは、彼が軽々しく口にしていいものではなかった。
ヒストリアは気づかない。
ただ、少しだけ頬を膨らませて言う。
「うん。見張ってる。アルフィが無茶しないように、ずっと見てる」
その言葉は、温かかった。
だからこそ、アルフレッドには痛かった。
「……それは、心強いな」
彼はそう言って、目を逸らした。
下では、補給班が慌ただしくガスボンベを運び始めている。
訓練兵たちは生き返ったように装備を整え、新しい刃を腰に差していく。
生き残った。
全員ではない。
ここに来るまでに、もう多くの仲間が死んだ。
それでも、今この場にいる者たちは、まだ息をしている。
アルフレッドは新しいガスボンベを受け取り、装置へ装着した。
外ではまだ、黒髪の巨人が咆哮を上げている。
この異常な巨人をどう扱うか。
本部からどう脱出するか。
壁の上へ向かったまま戻らないユミルをどう捜すか。
問題は山積みだった。
だが、少なくとも、盤面は完全な詰みではなくなった。
「クリスタ」
「なに?」
「補給が終わったら、外へ出る。黒髪の巨人の動きを確認しつつ、生存者を回収する」
「……ユミルも?」
「ああ」
ヒストリアの瞳が揺れる。
「……あいつは生きてる」
アルフレッドは、短く言った。
「根拠は?」
「性格が悪い」
「……それ、根拠なの?」
「ああ。ああいう人間は、自分がいないところで勝手に話が終わるのを許さない。戻ってきて、俺に文句を言い、お前を抱きしめて、ついでに補給班を蹴り飛ばすまでは死なない」
ヒストリアはぽかんとした顔で彼を見る。
そして、少しだけ笑った。
「ひどい言い方」
「褒めている」
「ユミルが聞いたら怒るよ」
「怒る元気があるなら生きている証拠だ」
ヒストリアは俯き、胸元を握る指に力を込めた。
「……うん。そうだね」
その声には、不安が残っている。
けれど、折れてはいない。
アルフレッドはそれで十分だと思った。
今は、完全に救えなくていい。
隣にいる。
それだけで、彼女が立っていられるなら。
彼は、血で赤く染まったハンカチを外さないまま、腰の刃を確かめた。