世界一悪い子と監視役   作:クリ坊

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再会

ウォール・ローゼの内側は、安全圏というより、地獄から吐き出された人間を一時的に積み上げておくための場所だった。

 

石畳の上には、座り込んだ兵士たちが点々と転がっている。ある者は自分の両手を見つめ、ある者は膝を抱え、ある者はもう泣いているのか笑っているのかも分からない顔で空を仰いでいた。

 

巨人に食われなかった。

ただそれだけのことを、彼らはまだ「生還」と呼べずにいる。

 

無理もない。

 

人間というものは、死の淵から引きずり戻されても、すぐには日常へ戻れない。死に損なった体だけが壁の内側に運ばれ、心の方はまだ、あの誰かの断末魔が響く瓦礫の街に置き去りにされている。

 

俺も例外ではなかった。

 

ウォール・ローゼの内側へ退いた後も、頭の中には、さっき見た光景がこびりついて離れない。

 

黒髪の巨人のうなじから現れた、エレン・イェーガー。

 

死んだはずの少年。

巨人に食われたはずの少年。

そのはずの人間が、白い蒸気の中から引きずり出された。

 

常識というものは、案外薄い膜でできているらしい。

 

一度破れてしまえば、その向こうから何が出てきてもおかしくない。巨人の中から人間が出てくる。死んだはずの同期が息をしている。ミカサがその理解不能な奇跡を抱きしめて、声もなく泣いていた。

 

エレンを誰にも見られないように壁の内側へ運ぼうとした時、待っていたのは安堵ではなく、駐屯兵団の銃口だった。

 

怒号。

震える指。

恐怖で濁った目。

 

人間は、理解できないものを前にすると、まず武器を向ける。実に分かりやすい。分かりやすくて、救いようがない。

ミカサとアルミンは、エレンを連れてその場を離れ、残された俺たちには、短く、重い命令だけが下された。

 

――今見たことは、正式な命令があるまで口外するな。

 

巨人の中から人間が出てきた。

それも、死んだはずの同期だった。

 

そんなものを見てしまった以上、ただ壁の内側へ戻っただけで安心できるはずがなかった。

 

「……アルフィ」

 

隣で、ヒストリアが小さく呼んだ。

 

彼女はまた、アルフレッドの手を掴んでいた。

 

先ほど、ミカサがエレンを抱きしめて泣いている姿を見てから、この調子だ。小さな指が、手袋越しでも分かるほど強く食い込んでいる。

 

「大丈夫だ。ここまで来れば、少なくとも巨人に食われる危険は下がった」

 

我ながら、慰めにもならない言葉だった。だがヒストリアは、それでも小さく頷いた。

 

「……うん」

 

手は離れない。

 

アルフレッドは何も言わず、そのままにした。

 

泣き言を聞く趣味はない。

誰かを安心させる言葉の在庫も、多くない。

 

それでも、今この手を離せば、彼女の中の何かがまた少し壊れる気がした。

 

だから、離さなかった。

 

「ユミルを探すぞ」

 

その名を出した瞬間、ヒストリアの瞳にわずかな光が戻った。

 

「うん」

 

声にはまだ震えがある。

 

二人は人の流れをかき分け、内側へ戻った訓練兵や駐屯兵たちに視線を走らせた。

 

負傷者。

泣き崩れる兵士。

怒鳴り合う駐屯兵。

担架で運ばれる者。

 

誰もが自分のことで精一杯で、こちらを気にする余裕などない。

 

ヒストリアは何度も周囲を見回した。

 

「ユミル……」

 

その声は、雑踏に飲み込まれそうなほど小さかった。

 

アルフレッドは少し先に、駐屯兵に囲まれた一角を見つける。

 

そこだけ、妙に空気が違っていた。

 

拘束された者を置く場所。

命令違反者や、混乱の中で取り押さえられた兵士たちが集められている場所。

 

その中から、かすれた声が聞こえた。

 

「クリスタ……!」

 

ヒストリアが弾かれたように振り向く。

 

「ユミル!」

 

駐屯兵に囲まれた一角に、ユミルがいた。

 

両手を後ろで縄に縛られ、腰にも逃走防止の縄を巻かれている。服は土埃にまみれ、頬には打たれたような痕があった。それでもいつものように皮肉げに笑おうとして――ヒストリアの顔を見た瞬間、その笑みが崩れた。

 

「……生きてたんだな」

 

「ユミルこそ……! どうして、そんな……!」

 

ヒストリアが駆け寄ろうとする。

 

だが、隣に立っていた駐屯兵が前に出てそれを制した。

 

「近づくな。こいつは命令違反と物資強奪未遂で拘束中だ」

 

「物資強奪……?」

 

ヒストリアの声が震える。

 

ユミルは舌打ちした。

 

「……ガスを持って戻ろうとしただけだよ。上にいた連中に頼んでも、誰も渡そうとしなかった。下に訓練兵が残ってるって言っても、『命令がない』だの『確認が取れない』だの、くだらねぇことばっかり抜かしやがった」

 

「それで、無理やり……」

 

「まあな。失敗したけど」

 

軽口の形をしている。

 

だが、声に力がない。

 

いつものユミルなら、もっと汚く笑う。

相手を馬鹿にし、自分の弱さを笑い飛ばし、ヒストリアの心配すら茶化して誤魔化す。

 

だが今の彼女は、笑い方を忘れたみたいな顔をしていた。

 

「……戻ってこないから、私……」

 

ヒストリアが言いかけた瞬間、ユミルが遮った。

 

「悪かった」

 

その一言で、周囲の空気がわずかに変わった。

 

ヒストリアも固まった。

アルフレッドも、わずかに目を細めた。

 

ユミルが謝った。

それも、茶化しもせず、皮肉も混ぜずに。

 

「悪かった、クリスタ。……約束、守れなかった」

 

ヒストリアは何か言おうとして、言葉を失った。それを見たアルフレッドは一歩前に出た。

 

「壁の上に登った時点で、ガスを使い果たしたんだろう。そこから戻れなかったなら仕方ない」

 

そう言った瞬間、ユミルの目が揺れた。

 

「……違う」

 

「何が違う」

 

「私は……」

 

そこで、ユミルは口を閉ざした。

 

喉の奥で、何かを噛み潰すように。

 

「私は、戻れなかったんじゃない」

 

低い声だった。

 

「戻らなかったんだ」

 

ヒストリアが息を呑む。

 

「ユミル……?」

 

「いや、違うな。戻る手はあった。たぶん、あった。けど、私はそれを使わなかった」

 

意味の輪郭が曖昧すぎる。

 

ただの命惜しさではない。

ただの世間体でもない。

恐怖だけなら、この女はもっと上手く笑って隠す。

 

もっと根の深い何かが、彼女の舌を縛っている。

 

「どういう意味だ」

 

アルフレッドの声が低くなる。

 

「……言えねぇよ」

 

ユミルは自嘲するように笑った。

 

「言えるわけねぇだろ」

 

「ユミル、何を……」

 

ヒストリアが不安げに呼びかける。

ユミルはその顔を見て、苦しそうに目を逸らした。

 

「私はさ、クリスタ。お前のためなら何でもできるみたいな顔してたくせに、いざとなったら、自分のことを守ったんだよ」

 

「そんなこと……!」

 

「あるんだよ!」

 

ユミルの声が荒くなる。

縄で縛られているせいで身動きは取れない。だが、その言葉だけは、逃げ場のない刃みたいにヒストリアへ向けられていた。

 

「お前が下で死ぬかもしれないって分かってた。アルフレッドがどれだけ頭回したって、ガスがなきゃどうにもならねぇって分かってた。なのに私は……自分が終わるのが怖かった」

 

「終わる……?」

 

ヒストリアが呟く。

 

その単語だけが、妙に浮いていた。

 

死ぬ、ではない。

捕まる、でもない。

終わる。

 

アルフレッドは黙ってユミルを見ていた。

 

やはり、何かがある。

 

あの女の中に、今ここで言えない何かが。

 

「お前、何を隠している」

 

ユミルは答えない。

代わりに、挑発するような笑みを浮かべようとして、また失敗した。

 

「……あんたには関係ない」

 

「クリスタの安否より重い秘密なら、関係ある」

 

ユミルの目が鋭くなる。

 

けれど、言い返す言葉は出てこなかった。

 

沈黙。

 

ヒストリアは二人の間で、困惑したように視線を揺らしていた。ユミルの言葉の意味は分からない。だが、彼女が本気で悔いていることだけは分かる。

 

「ユミル」

 

ヒストリアは、槍を構える駐屯兵の目を気にしながら、それでも少しだけ前へ出た。

 

「私、生きてるよ」

 

ユミルの顔が歪む。

 

「……ああ」

 

「アルフィも、コニーも、まだ生きてる」

 

「……ああ」

 

「だから、今はそれでいいんじゃないかな。私は、あなたにまた生きて会えただけで十分だよ」

 

ユミルは何かを言おうとして、できなかった。

 

結局、いつものように茶化すこともできず、ただ小さく息を吐く。

 

「……本当に、天使みたいなこと言いやがる」

 

「今のは怒っていいところ?」

 

「怒らなくていい。褒めてる」

 

「ユミルの褒め方、分かりづらいよ」

 

そのやり取りを聞きながら、アルフレッドは目を細めていた。

 

ユミルは何かを隠している。

 

それは間違いない。

 

だが、今ここで問い詰めても吐くようなものではない。駐屯兵の目もある。ヒストリアもいる。場所が悪すぎる。

 

「……後で聞く」

 

アルフレッドは短く言った。

 

「怖ぇな、教官みたいで」

 

ユミルが苦笑して答えた、その時だった。

 

轟音が、街を震わせた。

 

ドォォォォン!!

 

全員が反射的に振り向く。

 

エレンたちが逃げた方角から、白い煙と蒸気が立ち上っていた。

 

砲声。

 

それを理解した瞬間、場の空気がまた別の色に変わった。

 

「……砲声?」

 

マルコが呟く。

 

「撃ったのか……?」

 

ジャンの顔色が変わる。

 

一瞬の静寂。

 

次に動いたのは、ライナーだった。

 

「行くぞ」

 

短く言い、彼は地面を蹴った。

 

「ライナー!」

 

ベルトルトが叫ぶが、その足はすでに動いている。アニも無言で後を追った。

三人は迷いなく、砲声のした方角へ向かっていく。

 

その速さに、アルフレッドは目を細めた。

 

速い。

速すぎる。

 

ただの仲間を心配する動きにしては、迷いがなかった。あの三人は、何かを確認しに行くように動いた。

 

「クソッ!」

 

ジャンが舌打ちし、立ち上がった。

 

「何なんだよ、今日は本当に……!」

 

そう言って、ジャンもまた音の方角へ消えていった。

 

俺も行くべきか。

 

アルフレッドがそう考えていると、ヒストリアが、アルフレッドの手を強く握った。

 

「アルフィ……」

 

行くのか。

 

そう聞きたいのだと分かった。

 

アルフレッドも、砲声の方向を見つめていた。

 

行くべきだ。

 

情報を得るなら今しかない。

エレン達に何が起きたのか。

駐屯兵が何をしたのか。

 

確認すべきことは多い。

 

だが、アルフレッドは自分の手を握るヒストリアの指を見た。

 

さっきから、ずっと離れていない。

最初は不安に縋る程度だった指先が、今は明確にこちらの骨格を掴みに来ている。

 

アルフレッドは息を吐いた。

 

「俺は行かない」

 

ヒストリアが目を見開く。

 

「……いいの?」

 

「ああ」

 

「でも、アルフィなら……気になるんじゃないの?」

 

「気になる」

 

即答だった。

 

「気になるに決まっている。だが、ライナー、アニ、ベルトルト、ジャンが向かった。状況を見る目は足りている」

 

アルフレッドはヒストリアを見る。

 

「俺の仕事は、今ここだ」

 

その言葉に、ヒストリアの指がわずかに震えた。

 

「……ここ?」

 

「お前と、縄で縛られた厄介者のお守りがあるからな」

 

ユミルが顔をしかめる。

 

「誰が厄介者だ」

 

「お前以外にいるか?」

 

「この状況で私を煽る余裕があるのかよ」

 

「余裕はない。だから確認だ」

 

アルフレッドはユミルへ視線を向けた。

 

「お前は何かを隠している。だが、少なくともクリスタを危険に晒すために隠しているわけではない。今はそう判断する」

 

「……偉そうに」

 

「縄で縛られているお前よりはな」

 

「嫌な奴」

 

「よく言われる」

 

ヒストリアが、小さく息を吐いた。

笑ったのか、泣きそうになったのか、自分でも分からないような表情だった。

 

アルフレッドは砲声のした方角へ視線を戻す。

 

白い蒸気はまだ上がっている。

 

何が起きたのかは分からない。

理解できないことばかりだ。

 

それでも、彼は追いかけなかった。

 

ヒストリアの手が、まだ彼の手を掴んでいる。

 

その手を振りほどかないことを、今の自分は選んだ。

 

「……アルフィ」

 

ヒストリアが小さく呼ぶ。

 

「何だ」

 

「ありがとう。残ってくれて」

 

「礼を言われることじゃない」

 

「言いたかったの」

 

アルフレッドは少しだけ目を伏せた。

 

「そうか」

 

ユミルが、そんな二人を黙って見ていた。

 

いつもなら茶化すはずだった。

クリスタが可愛いだの、アルフレッドが気持ち悪いだの、何かしら言って空気を壊したはずだった。

 

だが今は、何も言えなかった。

 

縄で縛られた手を、ぎゅっと握り締める。

 

自分は何を守ったのか。

自分は何を守れなかったのか。

 

その答えだけが、胸の奥に重く沈んでいた。

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