結論から言えば、俺の心配は杞憂に終わった。
いい意味で予想が裏切られたというべきか。
あの日、震える手で報告書を差し出した俺を待っていたのは、親父の拳でも怒鳴り声でもなかった。
「……父上。今日の、報告です」
俺は声を震わせながら、ノートを差し出した。
見失ったこと。気づいたら意識が逸れていたこと。十歳のガキが必死にひねり出した「無能な言い訳」が、紙面の上で踊っている。
殴られる。あるいは、怒鳴りつけられて今日の飯を抜きにされる。
そう身構えて目を閉じた俺に返ってきたのは、意外なほど静かな沈黙だった。
「……そうか。見失ったか」
親父はノートを閉じると、それを机の上に放り出した。怒鳴り声も、拳も飛んでこない。それどころか、親父の顔には「想定内だ」と言いたげな、妙に冷めた色が浮かんでいた。
「あ、あの……次は、もっとちゃんと見張ります。茂みの奥まで、意地でも追いかけて……」
「いい。深追いしなくていい」
親父の言葉に、俺は呆気に取られた。
「……え?」
「同じようなことがあったら、それ以上は追うな。お前が気にする必要はない。アレが元の場所に戻ってきたのなら、それで十分だ」
親父はそれ以上語るのを拒むように、再び書類に目を向けた。
その横顔には、どこか「諦め」に近い影があった。まるであの不可解な現象を、当たり前の自然現象として受け入れているような……あるいは、その背後にいる「逆らえない力」に平伏しているような。
助かった――。
部屋を出て扉を閉めた瞬間、俺はその場にへたり込んだ。殴られずに済んだ安堵で全身の力が抜ける。だが同時に、喉の奥には苦い泥を飲み込んだような不快感が残った。
親父は、知っているのだ。
あの「空白の時間」に何が起きているのかを。そして俺たち親子は、その巨大な何かの前では、考えることすら許されないただの駒でしかない。
そんな不思議な体験から数日、ひどく穏やかで、世界の歪みが透けて見えるような午後のことだった。
その日のヒストリアは、いつも以上に「石を投げる少年」たちに執拗に追い回されていた。俺が「家畜が小屋から逃げ出してたぞ」と嘘をついて追い払った後も、彼女はしばらく物置の陰で震えていた。
「もう行ったよ。いつまで縮こまってるんだ」
俺が声をかけると、彼女は泥のついた顔を上げて、ポツリと言った。
「ねえ、アルフィ。……あの子たちが投げた石が、もし私の頭に当たって、私が死んじゃったら……誰か、私のことを探してくれるのかな」
「縁起でもないこと言うな。それに、急にいなくなったら誰かが気づくだろ」
「……そうじゃなくて。私の名前を、呼んでくれる人はいるのかなって」
彼女の目は、どこか遠くを見つめていた。
「お母さんは、私を見ない。あの子たちは、私を『変な子』とか『汚い子』って呼ぶ。……私は、ここにいるのに、誰の名前も持っていないみたい」
胸の奥が、嫌な音を立てて疼いた。
親父の仕事を手伝う中で、俺は嫌というほど彼女の本当の名前を聞かされている。
レイス家の私生児、ヒストリア。
現実の彼女は、誰からもその名で呼ばれることを許されず、ただの「居候」として扱われている。
「……一回だけだぞ」
俺はあたりを見回した。親父も、他の使用人もいない。
これは、ただの気まぐれだ。あまりに情けない顔をしているから、少しだけ毒気を抜いてやるだけだ。
そう自分に言い訳をして、俺は彼女の目を見据えた。
「おい、
……ヒストリア」
彼女の動きが、止まった。
大きく見開かれた青い瞳が、ゆっくりと俺を映し出す。
「……え?」
「ヒストリア。それがお前の名前だろ。……俺は知ってる。お前が誰で、なんて名前か。……だから、石をぶつけられて消えたくなっても、勝手にいなくなんなよ。……せっかく覚えた名前なんだからさ」
「……っ」
ヒストリアの顔が、一瞬で赤く染まり、それからボロボロと涙がこぼれ落ちた。
彼女は俺の服の裾をぎゅっと掴んで、声を殺して泣き始めた。
「……呼んで、くれた。……私の、名前……」
「……ああ、一回だけだ。二度と言わないからな。面倒くせえ」
俺はわざとらしく顔を背けたが、裾を掴む彼女の手を振り払うことはできなかった。
自分でも驚くほど、その名前を呼んだ瞬間の感触が、唇に残っている。
レイス家の禁忌。親父への裏切り。
そんな理屈よりも、「お前」と呼んでいた時とは違う、言いようのない重みが胸に残った。
「……アルフィ。……ありがとう。私、頑張るね」
「何をだよ。……さっさと顔洗ってこい」
走り去る彼女の背中を、俺は動かずに見送った。
太陽は傾き、牧場に長い影を落とし始めている。俺は震える手で、胸ポケットに入ったノートに触れた。そこには、彼女を「家畜」のように管理し、一挙手一投足を報告するための冷徹な言葉が並んでいる。
「……本当に、面倒くさい仕事だな、これは」
空を見上げると、残酷なほどに青く、澄み渡っていた。