牧場での毎日は、冷たい霧の中から始まる。
湿った土の匂いと家畜の鳴き声。ここしか知らない私にとって、この場所は世界のすべてで、私を閉じ込める檻のようでもあった。
お母さんは、私を見ない。
あの子たちは、私を汚いものを見るような目で見る。
牧場の人たちは、私をいないものとして扱う。
私は自分が、泥や石ころと同じ、ただの景色の一部だと思っていた。
そんな灰色の景色の中で、アルフィだけが、最初から少しだけ違っていた。
彼と初めて言葉を交わした日のことを、今でもよく覚えている。
あの日も私は、男の子たちに追い回されていた。投げられた石が肩に当たって、痛くて、地面に落ちた本を拾うことさえできずに震えていたとき。
「……あー、面倒くせえ」
そんな声と一緒に、私の前に一人の男の子が立った。
それがアルフィだった。彼はいつも少しだけ機嫌が悪そうな顔をしていて、手元には古びたノートを抱えていた。彼は私を助けるというより、邪魔なものをどけるような手つきで男の子たちを追い払ってくれた。
「……大丈夫か」
私を見下ろした彼の瞳は、冷たい硝子玉のようで、それでいて私のことを、逃さずにじっと見つめていた。
この牧場で、私を「そこにいる人間」として、初めて正面から捉えてくれたのは彼だった。
それ以来、私は彼の姿を追いかけるようになった。彼はいつも柵に腰掛けて、何かを熱心にノートに書き留めている。
「アルフィ、何を書いているの?」
「仕事だ。お前には関係ない」
彼は一度も笑わなかったけれど、私が近づいても、お母さんのように私を突き飛ばしたりはしなかった。
ある日、私がお母さんに勇気を出して花を渡そうとして、泥の中に突き飛ばされたときも。真っ先に駆け寄ってきて、乱暴な手つきで私の麦わら帽子を被せ直し、汚れを払ってくれたのは彼だった。
『あいつに愛される奇跡を待つより、そこらの馬や牛に好かれる方法でも考えろ』
ひどい言葉だと思ったけれど、その声はどこか、私と同じくらい震えているように聞こえた。彼は、お母さんに拒絶された私の悲しみを、誰よりも早く見つけてくれたのだ。
そして、あの日。
大切にしていた本を泥の中に踏みにじられ、自分の存在さえ消えてしまいたいと思った、あの午後。
「……一回だけだぞ。……おい、ヒストリア」
初めて呼ばれた、私の本当の名前。
お母様さえ呼んでくれなかったその響きを、アルフィは、まるでずっと前から知っていたかのように、大切に、重く、口にしてくれた。
(私は、ヒストリア。……ここにいてもいい、名前のある女の子なんだ)
その瞬間、私の世界の色が鮮やかに塗り替えられた。
彼が私の名前を知っていてくれた。それだけで、私はこの残酷な牧場で、もう一度呼吸をすることができるようになった気がした。
「……アルフィ。……ありがとう。私、頑張るね」
私が泣きながらそう言うと、彼はふいっと顔を背けた。夕暮れに近い陽光のせいか、彼の耳のあたりが少しだけ赤くなっている。
「……勝手にしろ。さっさと顔洗ってこい」
走り去る彼の背中を見送りながら、私は胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるのを感じた。
アルフィは、いつも何かと戦っているように見える。
彼がいつも、あのノートに、何が書いているのか私は知らない。けれど、もしあの中に私の名前が書いてあるのだとしたら。
彼のことだからきっと難しい言葉ばかりが並んでいるであろうあのノートの隅っこに、私の名前をたくさん書いてくれていたらいいな。
「ヒストリア」という、彼だけが呼んでくれた名前が、消えない文字で残っていてほしい。
「アルフィ、見て。この馬、今日はとっても大人しいの。……よしよし、いい子だね」
厩舎で馬の鼻先を撫でながら、私は期待を込めて彼の方を振り返った。
けれどアルフィは、持っていたノートをパタンと閉じると、私を試すような、少しだけ意地悪な目をしてこっちを見た。
「……おい、馬の世話してるときにこっち見てんなよ。そんなに油断して目を離してると、頭からガブリとかじられても知らねえぞ?」
「えっ……!? あ、……え?」
私が慌てて馬から飛び退いて頭を押さえると、アルフィは「ひっかかった」と言いたげに、唇の端を少しだけ吊り上げた。
……彼は、ほんのちょっとだけ、意地悪なところもあるみたい。