世界一悪い子と監視役   作:クリ坊

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その日

世界が壊れたという報せは、逃げ惑う鳥の群れのように、ざわついた空気と共に届いた。

 

「壁が、……ウォール・マリアが破られたんだって」

 

牧場の大人たちが震える声で囁き合っている。

最初は誰も信じなかった。人類の誇りである壁が、大きくてもたかだか十数メートルの巨人に壊せるはずがないと。だが、数日が経つにつれ、情報の断片は凄惨な輪郭を結んでいった。超大型巨人と鎧を纏った巨人の出現。蹂躙されるシガンシナ区。そして、避難民という名の絶望がシーナのすぐ近くまで押し寄せているという事実。

 

ここウォール・シーナの内側でも、空気が焦げ付くような殺気と混乱が満ちていた。家畜たちは落ち着きなく鳴き喚き、かつてない不穏な沈黙が牧場を包む。だが、そんな混乱の中でも、ヒストリアの母親であるアルマだけは、相変わらず木陰で本を読み、まるで別の世界の出来事であるかのように無関心を貫いていた。

 

「アルフィ。みんなが、世界が終わっちゃうって言ってる。……私たち、どうなっちゃうの?」

 

震える声で尋ねてきたヒストリアに、俺は何も答えられなかった。ただ、胸ポケットにある監視用のノートを強く握りしめることしかできなかった。俺たちガキには、世界の終わりなんて想像もつかない。ただ、日常が少しずつ歪んでいく足音だけが、不気味に響いていた。

 

しかし、巨人の恐怖よりも先に、俺たちの元へ「特定された現実」がやってきた。

陥落から数日後。見たこともないほど上質な服を着た小太りの男――ロッド・レイスが、数人の黒服の男たちを引き連れて牧場に現れたのだ。

 

親父が、見たこともないほど青ざめた顔で俺の肩を強く掴んだ。

 

「アルフレッド、お前も来い。レイス卿がお呼びだ」

 

「……俺を? なんで?」

 

「いいから来い!」

 

親父の手は、折れそうなほど小刻みに震えていた。母屋の奥まった一室に連れて行かれると、そこには冷徹な目で書類を検分するロッド・レイスがいた。

 

「ほう、この少年が報告書の主か」

 

ロッドは俺を一瞥すると、親父の前に分厚い革袋を放り出した。中からは、俺のこれまでの人生をあざ笑うような、重苦しい金貨の音が響く。

 

「この少年も同行させる。あの子を大人しく従わせるには、使い慣れた『鎖』が必要だ。……いいな、お前は息子を私に売ったのだ。二度と親面をして現れるなよ」

 

親父は一度も俺の目を見ることなく、震える手でその金を受け取ると、逃げるように部屋を出ていった。俺は今日この瞬間、親に売られ、ロッド・レイスという怪物の「所有物」になったのだ。

 

―その後、ロッドは「慈父」の仮面を被り、ヒストリアの待つ場所へと移動した。

「アルフィ、大変! お母様が、お母様が連れて行かれちゃう!」

血相を変えて駆け寄ってきたヒストリアは、整列する黒服の男たちに怯えて立ち尽くした。

 

ロッド・レイスは、そんな彼女に優しく微笑みかけてみせた。

 

「安心しなさい、ヒストリア。君を迎えに来たんだ。……ああ、そうだ。一人では寂しいだろうと思ってね」

 

ロッドは芝居がかった仕草で、俺の肩に手を置いた。

「そこの少年を、君の『世話役』として連れていくことにしたよ。君の唯一の友達だろう? 彼も一緒なら、新しい生活も心強いはずだ」

 

「……アルフィも、一緒に来てくれるの?」

 

ヒストリアの瞳に、パッと光が宿った。彼女は、ロッドが俺を金で買ったことを「自分を想っての、お父さんの慈悲」だと信じ込んだ。俺は吐き気を堪えながら、彼女を安心させるために嘘を吐くしかなかった。

 

「……ああ。一緒に行くよ、ヒストリア」

 

 

 

 

―だが、馬車が向かった先は、温かな屋敷などではなかった。

不気味に静まり返った森の奥で、俺たちの行方を阻んだのは、中央憲兵団――ケニー・アッカーマンたちだった。

 

「レイス卿。議会の命だ。王家の『穢れ』は、ここで清めさせてもらう」

 

長身の男、ケニーがナイフを弄びながら近づいてくる。ロッドは、先ほどまでの「父親の顔」を瞬時にかなぐり捨て、恐怖に顔を歪めて叫んだ。

 

「……私は、この女とは無関係だ! 知らん、勝手にしろ!」

 

その言葉が、アルマの死刑宣告だった。

 

「……お前さえ、産まなければ」

 

最期にその呪詛を娘に遺し、彼女の命は断たれた。

 

次は、ヒストリアの番だった。

ケニーのナイフが、震える彼女の首筋に当てられる。

 

「待て! この子は……!」

 

俺が思わず前に出ようとした瞬間、ロッドがそれを遮るように冷たく言い放った。

 

「その少年も、私とは無関係だ。ただの牧場の小僧に過ぎない。……ケニー、提案がある。この娘に別の名を与え、ここよりずっと遠い地で慎ましく生きるのであれば、見逃してやってはどうか」

 

「……いいだろう。名前を決めろ」

 

ロッドは地面に伏したままの彼女を見下ろし、無感情に言い放った。

 

「今日からお前は『クリスタ・レンズ』だ。これまでのすべてを忘れろ。二度と自分をヒストリアと名乗るな」

 

馬車へ戻るよう促すロッド・レイスの横を通り過ぎようとした、その時だった。

彼は俺にだけ聞こえるような、地を這うような低い声でボソリと告げた。

 

「報告書は、引き続き送れ。……あの子のすべてを、私に知らせるんだ。いいな」

 

俺は返事もせず、ただノートを握る手に力を込めた。

 

 

開拓地へ向かう馬車の荷台の中、目の前には、名前を奪われ、魂が抜けたようになった少女。

遠ざかっていく牧場を見つめながら、俺は隣で震える彼女の手を、誰にも見えないように、外套の下で強く握りしめた。

 

「面倒くせえ。本当に、最悪な人生だよな、俺たちは」

 

独り言のように呟いた言葉に、彼女からの返事はない。

ただ、握り返してくる手の力が、痛いほど強かった。

 

(……クソ食らえだ。世界も、神様も、あいつらも)

 




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