世界一悪い子と監視役   作:クリ坊

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開拓地の女神様

牧場を追放されてから辿り着いた北の開拓地は、絶望をそのまま形にしたような場所だった。

見渡す限りの荒れ果てた土地、凍てつくような冷たい風、そして何より、希望を奪われた大人たちの淀んだ空気。ウォール・マリアを失い、家も家族も失った難民たちは、ただ死を待つように泥を掘り返していた。

 

そんな地獄のような環境の中で、彼女は変わった。……いや、壊れた。

 

「アルフィ、おはよう。今日もいいお天気だね」

 

泥だらけの手で、刃の欠けた鍬を抱えながら、彼女――「クリスタ・レンズ」が微笑む。

かつて牧場で、本当の名前を呼ばれて泣いていたヒストリアはもういない。そこにいるのは、誰にでも優しく、自分を後回しにしてでも他人のために尽くす、不自然なほどに「良い子」の少女だった。

 

「……おい。お前、さっきから自分の分のパンをあっちのガキにやってただろ。また倒れても知らねえぞ」

 

俺の言葉に、彼女は困ったように眉を下げ、それでいて聖母のような笑みを浮かべた。

 

「えへへ、いいの。私より、あの子の方がお腹が空いてそうだったから。私は、まだ大丈夫だよ」

 

その笑顔を見るたび、俺の胃の奥は焼け付くような不快感に襲われた。

彼女は今、牧場で読んでいた本の中の「優しい女の子」を命がけで演じている。そうすることでしか、自分の存在価値を見出せないのだ。……誰かに「良い子だね」と必要とされることでしか、自分が生きていていい理由を見つけられない。

 

俺はロッド・レイスの命令に従い、夜な夜な報告書を書き続ける。

 

『○月○日。対象は「クリスタ・レンズ」としての役割を完璧に遂行している。周囲の難民たちからの信頼は厚い。だが、その精神は以前にも増して摩耗している。』

 

夜、配給された薄いスープを啜りながら、クリスタが隣に座ってきた。

外では冷たい風が小屋の隙間を鳴らしている。

 

「……なんだよ」

 

「……ねえ、アルフィ。私、ちゃんとできてるかな? 良い子でいられてる?」

 

彼女の瞳は、笑っているのに少しも輝いていない。まるで底の見えない深い沼のようだ。

俺はスープの皿を置き、逃げ場を塞ぐように彼女の目をまっすぐに見返した。

 

「ああ、できてるよ。お前は最高に『良い子』で、反吐が出るほど完璧な女神様だ。……気味が悪いぐらいにな」

 

「ふふ、ひどいなあ」

 

彼女は小さく笑った。その瞬間、彼女の手が、テーブルの下で俺の袖を微かに掴んだ。

牧場で、本当の名前を呼んだあの日のように、細く震える指先。

 

「でも、アルフィがそう言ってくれると、なんだか安心するの。……私を、ちゃんと見ててくれる人がいるって思えるから」

 

心臓が痛い。

俺は「見てる」んじゃない。俺は「監視」してるんだ。

お前のその歪な成長も、壊れていく心も、全部を記録してレイス家に報告するために。

 

「……見てるよ。それが俺の『仕事』だからな」

 

今の彼女は、あまりに脆い。他人を救うために自分を削り、誰かの笑顔を補給路にして、かろうじて立っている。その危うい均衡が崩れたとき、彼女は陽炎のように、ふっとこの世界から消えてしまうのではないか。

だから、俺は目を離せないでいた。

監視という名目で、彼女の指先が震えていないか、その瞳の奥にまだ「ヒストリア」の欠片が残っているか、一秒たりとも逃さずに視界に収めておく必要があった。

一度でも瞬きをして、視線を逸らしてしまったら、次に見たときにはもう彼女はどこにもいない――そんな強迫観念が、俺の脳裏を離れなかった。

 

 

 

 

 

そんなある日の、開拓作業の休憩中だった。

 またしても彼女は、自分の配給である僅かなパンを、母親を亡くしたばかりの子供に差し出そうとしていた。

 

「……おい、いい加減にしろ」

 

 俺は彼女の腕を、乱暴に掴んだ。

 

「アルフィ……。でも、この子、昨日から何も食べてないの……」

 

「お前も朝から水しか飲んでねえだろ。その状態で、午後からの岩運びをやるつもりか?」

 

「大丈夫だよ。私は、平気だから」

 

彼女はいつもの、不自然に澄んだ笑顔で俺の手を振り払った。その笑顔の裏にある強烈な「死への願望」と「他者に必要とされたいという飢え」を、俺は苛立ちと共に感じ取っていた。

 

案の定、午後の作業が始まってすぐだった。大きく振り上げた鍬が、地面を叩く前に力なく落ちた。膝から崩れ落ちた彼女の体を、俺は悲鳴が上がるより早く抱きとめていた。顔は土色で、唇は白く乾ききっている。

 

「ちっ……だから言ったんだ……!」

 

俺は彼女を背負い、人目のない小屋の裏まで走った。誰かに見つかればサボりだなんだと面倒なことになる。だが、それ以上に、このまま彼女が消えてしまうことなど、俺自身が許せなかった。

 小屋の影に彼女を寝かせ、隠し持っていた水を口に含ませる。数分後、微かに目を開いた彼女が、弱々しく俺の名前を呼んだ。

 

「安心しろ。誰もいない。……お前、本気で死ぬ気か?」

 

「……ごめん……なさい。私……ちゃんと、良い子に……」

 

「そんなもん、もういい」

 

俺はあたりを鋭く見回し、誰もいないことを確認すると、彼女の耳元に顔を寄せた。世界で俺だけが知っている、彼女の「本当の姿」を呼び覚ます。

 

「……聞け、ヒストリア」

 

彼女の体が、びくんと震えた。

 

「パンを他人にやって良い子だと思われて喜ぶ『クリスタ』なんて奴はどうでもいい。俺がずっと見てなきゃいけないのは、飯を食わずに倒れるような、バカで不器用な『ヒストリア』なんだよ」

 

「……っ」

 

「死にたきゃ勝手に死ねばいい。だが、俺が側にいながら、そんな偽物の笑みを浮かべたまま消えるのは絶対に許さない。……いいか、ヒストリア。飯を食え。生きて、俺にずっと面倒をかけ続けろ」

 

名前を呼ばれた瞬間、彼女の虚ろだった瞳に、大粒の涙が溜まった。「良い子」の仮面が剥がれ落ち、そこにはただ、お腹を空かせた、寂しくて仕方がない少女の顔があった。

 

「……ひっ、……ヒストリアって、呼んで……くれた……」

 

「ああ、呼んだよ。誰も見てねえよ。だから、今だけはヒストリアに戻って泣け」

 

彼女は俺のシャツを掴み、声を殺して泣きじゃくった。俺は彼女の背中を支えながら、自分の心臓が痛いほど速く打っているのを感じていた。幼馴染として放っておけないだけだ、と自分に言い聞かせながら、その実、俺自身が一番「ヒストリア」という存在に依存し始めていることに、気づかないフリをしていた。

 

「……面倒くせえ。本当にお前は、手がかかるんだよ」

 

泥だらけの開拓地で、俺たちはまた一つ、二人だけの秘密を積み重ねた。

 彼女は「良い子」という嘘を。俺は「ただの幼馴染」という嘘を。

 いつか自分を焼き尽くす炎になるとも知らずに、俺たちは冷たい風の吹く最果ての地で、お互いの体温だけを頼りに生き永らえていた。

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