洗礼
訓練兵団への入団式。それは軍隊としての規律を叩き込む場であると同時に、新兵たちの精神を徹底的に破壊し、再構築するための「通過儀礼」でもあった。
教官が新兵を一人ずつ怒鳴りつけ、恐怖を植え付けることで、過去の自分を否定させ、ただの「兵士」という駒へ作り替える。地獄を生き抜くために必要な、残酷な洗脳だ。
土埃が舞う練兵場に、教官キース・シャーディスの怒号が地鳴りのように響き渡る。肺の奥まで凍りつくような威圧感。左右の列からは、あまりの恐怖に嗚咽を漏らす者や、空ろな返声を絞り出す者の声が聞こえていた。
「貴様ッ! 何しにここへ来た!!」
死神のような眼光が、俺の前で止まった。
「――この残酷な世界から、決して目を背けないためです」
放った言葉は、練兵場の喧騒に紛れて消えてしまいそうなほど、静かで、平坦なものだった。
キースの眉がピクリと跳ねる。彼は俺の顔を覗き込むようにして、低く地を這うような声で問い直した。
「……名は」
「クィンタ区出身、アルフレッド・ローマイヤーです」
スラスラと口をついて出たのは、彼女とも事前に打ち合わせを済ませておいた偽りの経歴だ。実際には足を踏み入れたこともない、地図上の西の果て。
キースは無言のまま、俺の瞳の奥を暴こうとするかのようにじっと見つめてきた。周囲の新兵たちは、教官を真っ向から睨みつける俺の姿を見て、「とんでもなく肝が据わった奴だ」と戦慄したかもしれない。
数秒の沈黙。キースがふっと瞬きをし、顔を正面から外した――そう思った瞬間だった。
視界が激しく火花を散らす。
鈍い衝撃。キースの硬い額が、俺の額を正面から打ち据えていた。脳を直接揺さぶられるような衝撃に視覚が歪むが、俺は歯を食いしばり、よろめく足を地面に踏み留まらせた。
(――っ、このクソジジイ……ッ!)
思わず内心で激しく毒づく。脳震盪一歩手前の衝撃に意識が飛びそうになるが、俺は歯を食いしばり、よろめく足を地面に踏み留まらせた。わざわざ目線を外した後に不意打ちとは、趣味が悪いにも程がある。
「声が小さいぞ、ローマイヤー!! そんな細い声で、兵士としての気概を示せるものか!!」
耳をつんざくような怒号が至近距離で炸裂し、激しい呼気が顔に叩きつけられる。
額の痛みに鼓膜の痺れ。キースは吐き捨てるようにそう言うと、俺への興味を断ち切ったかのように隣へと歩を進め、すぐに標的を移した。
その瞬間、ヒストリアが息を呑む気配がした。彼女は、額を押さえて耐える俺のことを、今にも声を上げそうなほど心配そうに見つめていたのだ。
「他の者の心配をする余裕があるようだな!! 貴様は何者だ!!」
キースの怒声が、鋭いナイフのようにヒストリアへ突き立てられた。
彼女は弾かれたように正面を向き、公に心臓を捧げる「敬礼」姿勢をとった。だが、俺にだけは分かった。彼女の肩が、肺に空気を送り込むことすら躊躇うほどに強張っている。
「クィンタ区出身……クリスタ・レンズです!」
事前に俺と合わせた通りの嘘を叫ぶ。だが、必死に絞り出したであろうその声は、広場に響く怒号の中では、あまりにも細く、頼りなげだった。
開拓地での数年間、彼女が磨き上げてきた「女神」の微笑みも、この圧倒的な暴力の気配の前では、防波堤としての役目を果たしきれていない。自分の正体を知らない連中に、偽りの名前と、存在しない故郷を叫ばなければならないという「嘘」の重さが、彼女の喉を締め上げているのだ。
「貴様もかッ! 貴様ら揃いも揃って、そんな情けない喉で巨人が殺せると思っているのか!!」
キースの容赦ない一喝が、彼女の頭上に降り注ぐ。ヒストリアは身体を震わせ、今にも壊れそうな表情で教官を見返した。キースは、彼女の瞳の奥にある「何か」――怯えの裏に隠された、空虚な深淵を見定めようとするかのように、じっと睨みつけた。
「……そうか。家畜以下の面だ、貴様」
吐き捨てるようにそう言うと、教官は次の獲物へと歩を進めた。まだ何も経験していない他の連中に比べれば、俺たちの「通過儀礼」は随分と短いものだった。
通過儀礼は、その後も続いた。
内地への安全な切符を求めて頭突きを食らう者。家畜以下の存在だと罵られる者。王への忠誠を示すが、その忠誠を否定される者。罵声と衝撃音が飛び交う混沌とした練兵場を、俺は額の痛みに耐えながら観察し続けた。
そこで、俺はある違和感に気づく。
キースが数人の訓練兵の前で足を止めながら、一言の問いも発することなく、まるでそこには誰もいないかのように素通りしていくのだ。
鋭い眼光を宿した小柄な少女。
彫像のように静かに佇む大柄な男。
そして、瞳の奥に剥き出しの殺意を湛えた少年の顔。
(――あれは、既に地獄を見てきた奴らだ。それも、最前線で)
幼少期から鍛えられた観察眼が、彼らの纏う空気が他とは決定的に違うことを告げていた。洗礼という名の虚飾を必要としない、完成された兵士の目。キースは彼らの瞳の中に、今さら揺らぐことのない地獄の残像を見たのだろう。
今は坊主頭のバカが逆の手で敬礼し、教官に頭を掴み上げられている。そんな張り詰めた空気を、文字通り一撃で粉砕する音が響いた。
シャクッ、という、この場に似つかわしくない軽快な音。
キースが目を止めた先、一人の少女が、あろうことか蒸した芋を堂々と口に運んでいた。
俺の隣でヒストリアが信じられないものを見るような目で固まり、広場全体が静まり返る。キースが地を這うような声で問い詰めた。
「……おい貴様……。何をやっている」
地を這うようなキースの声。しかし、少女はそれが自分に向けられたものだと思っていないのか、芋を口に含んだまま、不思議そうに左右をきょろきょろと見渡し始めた。まるで「誰か怒られてるな」とでも言いたげな顔で、もぐもぐと咀嚼を続けている。
「貴様だ!! 貴様に言っているんだ!! 何者なんだ貴様は!!」
キースが猛然と距離を詰め、少女の至近距離で咆哮した。そこでようやく事態を察した彼女は、目を見開いて「うぐっ」と喉を鳴らすと、口内の芋を強引に飲み込んだ。
「ウォール・ローゼ南区ダウパー村出身! サシャ・ブラウスです!」
喉に詰まらせかけながら叫ぶサシャ。キースが眉間に深い皺を刻んで問い詰めた。
「サシャ・ブラウス……。貴様が手に持っているそれは何だ」
「蒸した芋です! 厨房に丁度いいのがあったので、つい!」
あまりにも堂々とした供述。広場全体が絶句した。隣のクリスタは、もはや恐怖を通り越して呆然とした表情で彼女を見つめている。
「貴様盗んだのか……。なぜ今食べた」
「冷めてしまったら元もこうもないので。今食べるべきだと判断しました」
彼女は、当然であり、さもそれが常識であるかのような堂々とした顔で語っていた。流石の教官も初めての出来事のようで、困惑しているように見えた。
「……。いや…分からないな。なぜ芋を食べた」
「……それは、人は何故芋を食べるのかという問いでしょうか?」
少女は至って真面目な顔で、あろうことか教官に問いを返した。キースの額に青筋が浮き、怒りが臨界点に達するのが見える。追い詰められたサシャは、何を血迷ったか芋を半分に割り、教官に差し出した。
「……半分、どうぞ」
差し出されたのは、明らかに全体の三分の一にも満たない、セコすぎる欠片だった。
「……貴様、死ぬまで走れ。倒れても止まるな」
「……そしてお前は今日、飯抜きだ」
飯抜きだと言われた後、彼女はこの世の終わりであるかのような絶望した顔でその場で崩れ落ちていた。
(……救いようのない馬鹿か。もしくは、俺たちの想像も及ばないほどの狂人か)
俺の長年鍛えてきた観察眼をもってしても、彼女を測ることができなかった。
あの日、少女が夕暮れまで練兵場を半泣きで走り続ける姿を、俺は遠くから眺めていた。この地獄のような厳しい環境において、彼女のような存在は、最大の毒か、あるいは救いになるのかもしれない。
ローマイヤー(Lohmeyer)はロー(Loh)が森、マイヤー(meyer)は農場主・管理人といった意味を持つドイツ語の姓です!
管理人という意味が結構監視役であるアルフレッドに合うかなと思って決めました。あと進撃っぽい響きな気がするので!
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