「かぐや、わかった?」
「ぜぇーんぜん、何言ってるかわからん……」
かぐやは白衣を着た女性を見上げた。すると彼女は、なぜか自信ありげに笑った。
ここは、とある大学内の酒寄研究室ーー室内には、一人と二人がいた。
一人は、酒寄彩葉博士。
超人的な努力で才能を磨き上げ、弱冠三十歳手前にして、かぐやの人工素体を作り出した女性だ。
彩葉はかぐやの昔馴染みでもあり、ともすれば伴侶すら超えた、特別な関係であった。
そして、彼女以外の二人は、人間ではない。
タブレット端末から外界に微笑みかける超高性能AIの月見ヤチヨと、ほぼ完璧と言っていい、人型の義体に入ったかぐや。
ヒトの肉体を持たない、しかしヒト以上に人らしい生命。
それがヤチヨとかぐやだった。
「私たちがこれからしようとしてるのは、味覚の再現。それはわかるでしょ?」
「私の体は味を感じないから……いろんな方法を試してる、そういうことだよね?」
彩葉は頷いた。
彼女はどうにかわかりやすく説明ができるように、言葉を選んでかぐやに語りかける。
「ヤチヨから、かぐやが十年前に地球に来たばかりの記憶をサルベージする。八千年経ってても、データそのものは劣化しないはず。その記憶から、かぐやが料理を食べた時の記憶だけをピンポイントに抜き出して、それを電気信号に変えて、かぐやの体の擬似ニューロン……人間で言う、記憶領域に走らせる。つまり、人工的な記憶の再現よ。オーケー?」
「急にオーケーじゃなくなったって……難しい話はわかんないよ〜!」
かぐやは泣き喚いた。
ヤチヨはタブレットの中で、困ったように微笑む。
ヤチヨとかぐやは、本質的には同一の存在である。
高校生時代の彩葉と出会ったかぐやは、時を超えてヤチヨとなった。
今のかぐやは、魂の年数を経たヤチヨから、もとの人格を復元して、義体に移植されたものである。
「あまり難しく考えなくていいよ、かぐや。私のデータにある、幸せな記憶を再現すれば、擬似的にヤッチョとかぐやが味を思い出せるかもしれない。彩葉はそう言ってるの」
「人工的に味蕾を作るのはまだまだ……予算と時間が足りないからね。要するに、ロボットでも夢が見られる技術を作ろうとしてるってこと。応用すれば、電気信号で味覚系をコントロールできるかもしれない。つまりーー」
「ツクヨミの中なら、味が再現できる!」
そういうこと、彩葉はにっと笑った。
ツクヨミは、ヤチヨが管理する仮想世界の名前だ。彩葉はヤチヨとそこで出会い、そこでかぐやと青春を過ごし、そこで二人を取り戻したのだった。
「かぐや。昔パンケーキを食べに行ったよね。他にもお寿司とか、パスタとか、オムライス……色んなもの食べた。いま味が想像できないものを、かぐやに再現して見せるのは、もしかしたら酷かもしれない。だから、嫌なら……他の手を考える。どう?」
「嫌じゃないよ。彩葉が私とヤチヨのことを一番に考えてるのはわかるもん。信じてるぜ彩葉っ♡」
かぐやがベッドに横になると、彩葉は何やらケーブルが繋がれたコンソールを操作しだしてーーかぐやの視界は暗転した。
「ーー彩葉! そうだよ! 彩葉だ!!」
かぐやは目の前に立ちすくむ棗イロハをぎゅっと抱きしめた。
イロハは突然の出来事に困惑している。
「えっ、えっ、なんですか……? 私たち、知り合いじゃないと思いますが……」
かぐやは両手でイロハの手を握って、ぶんぶんと上下に振り回した。
「かぐや、もしかして……」
「記憶、戻ったの?!」
カズサとヨシミが、次々にかぐやに向かって声をかける。
彼女たちは話に置いていかれた格好のイブキとイロハに気付き、丁重にお礼を言って二人と別れた。
かぐやは自らの手を握ったり、開いたりしている。
「そっか、私……彩葉と実験してる最中だったんだ。だから、甘いものーー放課後スイーツ部のみんなと、出会ったんだ」
「かぐやちゃん、大丈夫?」
四人の声を遠く聞きながら、かぐやは考えた。
自分の本当の記憶は、彩葉たちと過ごしていた世界の側にある。
それならこの世界はーーカズサたちの存在はーー?
かぐやは気付いた。
彼女がすべきこと、そしてハッピーエンドを目指すために、しなければならないこと。
「みんな……ごめん! 私、彩葉に話をつけてくる! 絶対にライブに間に合うように帰ってくるから! 帰らなくちゃいけなくなった!」
「ちょ、ちょっと待って! そんな急に、お別れなんてーー」
「ーー大丈夫! 彩葉はすっごいんだから! 私と彩葉を信じて!」
今度は、八千年前ではなく、同じ時間、同じ場所に帰ってこなければならない。
私は一度失敗したけど、きっと彩葉と一緒なら大丈夫。
「ーーかぐや!」
カズサたち四人はかぐやに駆け寄り、全員でかぐやをきつく抱きしめた。
「行ってらっしゃい! ちゃんと帰って来なさいよ!」
「別れは始まりだからね。君のすべきことを、まずするんだ」
「かぐやちゃんがいないと寂しくもなるけど……」
「その彩葉って人、絶対になんとかしろって伝えて!」
誰も涙は見せなかった。
だって、まだ早い。
こんなエンディングがあってはならない。
かぐやは笑った。いつものように明るい笑顔で、本物の表情で。
再会を約して、彼女は言った。
「ありがとう、みんなーー行ってきます!」
「……カズサ?」
「お、起きた。調子はどう?」
かぐやは目を覚ます。立っていた彩葉が自分の顔を覗き込んできた。
「彩葉!! 聞いて! 私が見た、世界のこと!!」
かぐやは興奮して叫んだ。
彩葉とヤチヨは、顔を見合わせてから、かぐやの話をゆっくりと聞いた。
記憶喪失で空から落ちたこと、そこで出会ったカズサたちのこと、五人でライブをしたこと、打ち上げにスイーツをみんなで食べたこと、銃撃戦をしたこと、イロハと名乗る少女と出会い、すべての記憶を取り戻したこと。
そして、放課後スイーツ部の四人と再会を約束して、この場に帰ってきたこと。
彩葉はかぐやの話した言葉を、一言一句漏らさずに書き留めた。
「信じられないかもしれないけど……」
「ううん、かぐやの言葉なら信じるけど?」
彩葉は即答した。
一番大事な人が、何も疑わずに無心で肯定してくれる。
かぐやは心の底から安堵した表情を浮かべた。
「ヤッチョも信じるよ、かぐや。すごい体験をしたんだね」
「でもーーまだ終わりじゃないの。ねえ、彩葉……」
このまま終わりたくない。
カズサたちと約束したの。
フェスにみんなで出ようって、私が言ったの。
おっきなライブして、美味しいスイーツ食べようって。
全部めでたしにするために戻りたいけど、私じゃ方法がわかんないよ。
彩葉……助けて。
彩葉は間髪を入れずに、曇り模様となったかぐやの頭を抱きしめた。
「だから……助けるって、かぐや。手段はある、きっとね」
「そもそもーー不思議な話だよ、これは」
ヤチヨは語り始める。
「私の記憶にもかぐやの記憶にも、そんな世界は無かったよね? 彩葉は私たちの記憶から再現データを作ったはずなのに、どうして彼女たちはかぐやと一緒にいたんだろう?」
「待って、ヤチヨ。コーヒー淹れる」
彩葉はお湯を沸かし直すために、蛇口からケトルに水を汲んでスイッチを入れた。
「ねえかぐや。他にも何か、変わったことはなかった? 世界の共通点とか、思い出せることを全部話してほしいな」
「共通点……あっ!」
ーー初音ミク。
キヴォトスには、彼女の曲があった。
「しかも、私が知ってる曲もいくつか。これって、どういうこと、ヤチヨ……?」
「……かぐや。ツクヨミって、どんな世界だと思う?」
ヤチヨはかぐやの疑問を質問で返した。
彼女の真意がわからず、かぐやは黙ってしまった。
「ツクヨミは私がいる仮想世界。でも、そこに存在するものは現実をベースにしているよね。そのキヴォトスも、リアルをベースにした世界なんじゃないかな?」
ヤチヨはいやーーもしかして、と続けた。
「仮想、と言うわけでもないのかも。私はツクヨミを自覚してるから、そこが仮想の世界であることを知っている。でも、もしツクヨミの中でプログラムが生まれたら、そのプログラムから見たら、ツクヨミは現実そのもの。だからーーそうだね、私たちから見るキヴォトスは異世界、異界と言った方がいいのかもしれない」
まるで禅問答のような話だった。
かぐやもなんとかついていく。
彼女はこれでも、月という異界から来たお姫様なのだった。
「で、でも。銃をみんなが持ってる以外は、普通に見えたよ?」
そう話してからかぐやは思い出した。
ヘイローを自由に出し入れできた自分。
生徒たちに浮かぶヘイローの詳細な役割はわからないが、意識のオンオフを知るためのスイッチのようなものではあるらしい。
つまり自分は、あの世界にいながら、世界を俯瞰して見ていたと言うことだ。
「かぐやが見たその世界の捉え方は、ヒトでいう明晰夢が、一番近いのかな。味はするし痛みもある。感情はリアルで、匂いや温度も本物ーーそれってつまり、彩葉の実験が目指したことじゃない?」
「うん。パンケーキ、めーーっちゃ美味しかった……」
久しぶりの味だったし、とかぐやが言うと、ヤチヨは画面の向こうで、ヤチヨも食べたかった〜と表情を崩して嘆いた。
「お待たせ。なんかわかった?」
彩葉がコーヒーを淹れ終わり、二人の会話に参加する。
「あっ……他にも思い出したよ!」
ーーカズサちゃん、知り合い?
ーーそっくりじゃん。
ーーなんか私、カズサと一緒で、ナギサも他人のような気がしないんだよね? なんでだろう?
「声が、同じなんだ」
「声?」
かぐやとカズサは、驚くほど声が似ていた。
そして聞き覚えがあったナギサの声。
あれはヤチヨの声だ。
「なるほどね……初音ミクに、同じ声、か」
彩葉は腕を組んで考え込む。
彼女は香ばしく匂い立つコーヒーを一口啜り、指で机を叩いた。
「仮説だけど……ミクの記憶、とでも言うべきなのかもしれない」
「ミク?」
疑問符を浮かべるかぐやに、私にもはっきりしたことはわからないよ、と彩葉は断りを入れた。
「かぐやの発語データベースには、ボーカロイドの技術が使われてるの。義体の声帯も本当の人間のものとは違う。あくまでそれらしく発音、発声できるように調整されたライブラリなんだ」
「また難しい話が……」
かぐやは挫けそうになる。
彩葉は自分の考えをまとめるように話し続けた。
「少し前まではね、自律したAIが喋るって言うのは、当たり前じゃ無かったんだ。だけどヤチヨがそうであるように、人間はAIとの付き合い方を、長い時間をかけて模索していった……その過渡期に、人工の音声が自然に喋る技術が形成されたんだ。だから、かぐやの中にも、AIが人と対話してきた歴史が残されてる。私が取り出したヤチヨのデータには、合成音声ソフトウェアのセーブデータも残ってた……だから、かぐやはミクの記憶を追体験したんじゃないかなって、思ったの」
「でも、彩葉。キヴォトスの世界はどうやって生まれたの?」
ヤチヨが当然の疑問を口にする。
「これも可能性の話だけど……ツクヨミがない世界があるとするよ。そうしたら、キヴォトスがない世界もある。だけど、初音ミクはそこにある。いつか、かぐやは、月の話をしてくれたよね。私たちの世界では、かぐや……ヤチヨが、月とツクヨミのバーチャル、そして今ここにあるリアルの架け橋になってる。それと同じように、初音ミクの存在が、バーチャルどうしの世界を繋ぐ架け橋になったとしたら?」
「彩葉が言いたいこと、分かった気がする……」
彩葉は結論付けた。
「たぶん、そのカズサさんも、ナギサさんも、声という記号が一緒で、この世界のミクにとってのかぐやに近い存在だったんじゃないかな。だからかぐやはキヴォトスの、彼女たちがいる場所に現れた。かぐやの記憶がなかったのは……ううん、なんだろう。かぐやの自我がミクに比べて強かったのかな。目覚めてすぐに頭をぶつけたせいかも。そんなとこ、だと思う」
「とにかく、私がそこにいた理由はなんとなくわかった。じゃあ、次はどうしたらいいの?」
「問題はそれなんだよな……」
彩葉は目を細めた。
偶然によってキヴォトス世界に辿り着いたかぐやを、もう一度寸分違わず同じ場所へ送る方法。
「理屈で言えば、同じデータを試せば同じ結果が起きるはずだけど……」
「でも彩葉、それだと最初に戻っちゃわない?」
「さすがヤチヨ。まあ、十中八九そうなるだろうね」
記憶喪失のかぐやはもう一度同じ日々を体験し、繰り返すだけ。それではダメだ。
かぐやは泣きついた。
「なんとかしてよ、彩葉ぁ〜!」
「せめて、かぐやの居た場所がはっきりわかれば、手の打ちようがあるかもしれないけど……向こうの世界に、人助けが趣味のお人好しな物好きでも居ない限り、そんなことは……」
その時、モニターに表示されていた文字列がちかちかと瞬くのが見えた。
彩葉は驚愕してコンソールを見る。
何者かにかぐやの記憶領域がアクセスされている。この領域はセーフティのためにローカル……完全なオフラインだ。
つまり、自分の知らない場所から、想像もつかない方法で、誰かがかぐやにコンタクトを取ろうとしている。
「ーーまさか?!」
「わぁお、これって……」
彩葉とヤチヨは表示を変えゆくディスプレイから目が離せなかった。
悪意を持った改竄のようには見えない。
ただ一つの座標を示すかのように、文字列は繰り返し打ち込まれていく。
「メッセージだよ! きっと!」
かぐやの言う通り、それ以外には考えられない。キヴォトスにいる何者かが、世界の外側にいる彩葉の存在を知って、かぐやを手助けするためにこの情報を送ってきている。
世界が異なっていても、確かにいたのだ。
人助けが趣味の、お人好しの物好きが。
「本当にーーかぐやといると退屈しないな!」
「彩葉、今度は私もかぐやと一緒に行くよ。かぐやのバックアップと、サポート!」
ヤチヨは彩葉に言った。
ヤチヨは電子の存在で、複製体を準備するのも、ワンオフのかぐやに比べれば難しくはない。
「ヤチヨ! 助けてくれるの?」
「もちろん! それにキヴォトスのパンケーキ、私も食べられるかもしれないし〜♡」
「そっちが目的じゃないの?」
ヤチヨはかぐやの軽口に答えず、にこにこと笑顔になって、自らの小さなコピーを、彩葉の操る端末に転送した。
「それに、絶対失敗できない。でしょ? 彩葉」
「まあね……かぐやの頼みだもの。終わりになんて、させてたまるか、ってーの!」
彩葉は受信した文字列を読み取り、かぐやを送る位置のすり合わせに必要な、記憶領域のバイナリを探索する。
やはり、文字列が示しているのは座標と思われた。それがどの時点になるかは、相手を信頼するしかない。
「かぐや、もし向こうでお人好しに会えたらーー私とソイツが、かぐやとカズサたちの責任を持つんだぞって、ちゃんと伝えるんだよ!」
プログラムを書き換えた彩葉は、コンソールに向かう。
かぐやは、ぐっと親指を立てた、
あとは彩葉がエンターキーを押すだけだ。
「行ってらっしゃい、かぐや!」
「おうよ! 絶対ハッピーエンドにしてきちゃる〜!!」
かぐやの視界が暗転する。
かぐやとヤチヨは手を繋いで、光速の暗闇を進んだ。
「……かぐやさんの位置をトリニティに確認しました」
「私とアロナ先輩は、ナギサさんから連絡を受けた後、かぐやさんをずっと追跡していただけです。先生、これで良かったのですか?」
[ああ、ありがとう。アロナ、プラナ]
人の気配のないオフィスの椅子に座るのは、痩せ型の中性的な大人だ、
眼鏡をかけていて、傍目には性別の見分けがつかない。
「シッテムの箱を使って、量子テレポートを故意に発生させ、外の世界へ情報を送るなんて……」
「確かに理論的に言えば実行は可能です。しかし、理解には苦しみます」
先生と呼ばれた大人は、くすりと笑った。
[私も、ハッピーエンドが好きなんだ]
確かに、大したお人好しで、物好きだったに違いない。