TALES OF THE ABYSS Re:Birth 作:ばっしー171
六年目の春は、静かに来た。
雪解けの水が石畳の隙間を流れ、冷たい風の中へ土の匂いが混じり始める。空は高く、朝の光は冬より柔らかい。
本部では兵士たちが新しい任務表へ文句を言い、神官たちは書類に追われ、食堂では保存食の数で言い争っている。
けれどアリエッタにとって季節の移ろいは曖昧だった。
大切な人が笑っている日が、良い日。
会えない日が、悪い日。
それだけだった。
そして最近、“悪い日”が少し増えていた。
---
旧療養区画の廊下は静かだった。
元々使われなくなった棟を整えただけの場所で、人の出入りも少ない。足音だけがやけに響く。
アリエッタは慣れた足取りで、一番奥の部屋へ向かった。
扉の前で止まり、耳を寄せる。
小さく、長引く咳。
それだけで胸が縮む。
扉が開いた。
ティアが薬湯の盆を持って立っていた。
「……来てたの」
アリエッタは頷く。
ティアは少し迷うような顔をしたあと、声を潜めた。
「今日は少し熱があるの。長くは話せないわ」
アリエッタの肩がわずかに落ちる。
「……でも、顔を見るくらいなら大丈夫」
道を開けられ、アリエッタは静かに部屋へ入った。
---
窓辺の椅子に、イオンが座っていた。
白い毛布を膝へかけ、本を開いている。
以前より痩せた。
以前より白い。
以前より、呼吸が浅い。
それでも笑った顔だけは変わらない。
「アリエッタ」
その声だけで目の奥が熱くなる。
イオンが差し出した細い手を、アリエッタは両手で包んだ。
「……きょう、さむい」
「そうですね」
「おそと、はる」
「ええ。春です」
イオンは微笑む。
「あなたは季節をよく見ていますね」
アリエッタは首を横に振った。
見ているのは季節ではない。
この人だけだ。
イオンが咳き込む。
アリエッタの身体が強張る。
「大丈夫ですよ」
「……うそ」
「少しだけです」
「……うそ」
イオンは困ったように笑った。
「あなたには敵いませんね」
ティアが薬湯を置く。
「時間よ」
アリエッタは動かなかった。
イオンが優しく言う。
「また来てください」
首を振る。
また、では足りない。
それでもアリエッタは、ゆっくり手を離した。
離した指先へ、イオンがそっと触れる。
「大丈夫」
何が大丈夫なのか分からない。
でも昔から、その声は安心する声だった。
---
部屋を出たアリエッタは、胸の中にぽっかり空いたものを抱えたまま廊下を歩いた。
戻ってきた。
でも前とは違う。
生きている。
でも以前のようには会えない。
そんなことばかりだった。
角を曲がったところで誰かとぶつかりそうになる。
「うお」
ルークだった。
寝癖だらけの頭。口にはパン。片手には書類束。
「……前見ろよ」
先に文句を言う。
アリエッタはじっと見上げた。
寝癖。眠そうな目。雑な軍服。口元のパン屑。
何だか少し安心した。
「……にいさま」
「その呼び方やめろって言ってんだろ」
だが声は弱い。
「ていうか朝から何してんだ」
「……イオンさま」
ルークの顔つきが少し変わる。
「……そっか」
それ以上は聞かず、パンを半分にちぎって差し出した。
「やる」
アリエッタは受け取らない。
「何だよ」
「……たべかけ」
「そこ気にすんのかよ!」
奥の部屋からティアの声。
「うるさい」
「俺じゃねえ!」
アリエッタの肩が小さく震える。
笑っていた。
ルークはため息をつき、もう一度差し出す。
今度は受け取った。
「じゃ、俺仕事」
数歩進んで振り返る。
「……また来る」
「……へや?」
「違う! その、ここ通るし!」
言い訳が下手だった。
アリエッタは小さく頷いた。
---
春が深まるにつれ、ルークは忙しくなっていった。
街道警備。資材護送。村落対応。研究区画補助。
朝から晩まで呼び出されている。
「赤髪のやつ!」
「はいはい」
「北門の護送班!」
「今行く!」
「終わったら訓練場!」
「休ませろ!」
そんな日々だった。
アリエッタは、中庭からそれをよく見ていた。
本人に気づかれない場所から。
---
ある日、ルークが肩に荷袋を背負って戻ってきた。
額に汗。右腕に浅い切り傷。裾は泥だらけ。
「……最悪だ」
アリエッタが近づく。
傷口を見る。
「かすり傷だ」
さらに近づく。
「……平気だって」
無言で見つめられ、ルークが視線を逸らす。
「……薬草、あとでくれ」
アリエッタは頷いた。
その夜、ルークの部屋の取っ手には薬草と包帯の包みがぶら下がっていた。
「……だから言ってけって」
文句を言いながら、少し嬉しそうだった。
---
数日後、雨の中でルークは兵士に肩を借りて戻ってきた。
左足首を腫らしている。
アリエッタは走った。
「転んだだけだ」
「……うそ」
「本当だ」
「……かっこわるい」
「うるせえ!」
兵士たちが笑う。
アリエッタはルークの腕を掴んだ。
「……いく」
「どこへ」
「ティア」
「それは嫌だ」
拒否権はなかった。
---
ティアの部屋で湿布を巻かれながら、ルークは情けない声を上げていた。
「痛っ!」
「情けない」
「足場悪かったんだよ」
「言い訳も情けない」
横でアリエッタが薬草を刻んでいる。
「……何で手際いいんだよ」
「あなたより賢いから」
ティアが即答した。
アリエッタは少し笑った。
「今笑ったろ」
視線を逸らされた。
---
そして、もう一人の“イオン”。
東棟の小部屋にいる、白い衣の少年。
アリエッタはその扉の前だけ足が遅くなった。
怖かった。
何が怖いのか、自分でも分からない。
ある日、イオンへそのことを話した。
「……もうひとり、いる」
「ええ」
「……にてる」
「似ていますね」
「……こわい」
イオンは静かに微笑んだ。
「私も少し怖かったですよ」
「……イオンさまも?」
「ええ。でも、顔が同じでも中身は別です」
好きなもの。苦手なこと。泣く理由。
「もし会えたら、見てあげてください」
「……」
「私ではない、その子を」
---
夕方、中庭でルークが木剣を振っていた。
そこへ東棟の扉が開き、白い少年が出てくる。
レプリカイオンだった。
「お、出てきたのか」
「……ご、ごめんなさい」
「何で謝るんだよ」
柱の影から見ていたアリエッタへ、ルークが気づく。
「そこにいるんでしょ」
引っ張り出された。
「……やだ」
「何が」
「……にてる」
「似てるな。でも違うだろ」
少年がおずおずと尋ねる。
「……ぼく、あなたに嫌われていますか」
胸が痛んだ。
「……ちがう」
「では……」
「……わからない」
ルークが吹き出した。
「お前ほんと容赦ねえな」
少年はきょとんとし、それからふっと笑った。
イオンとは違う笑い方だった。
そこでアリエッタは気づく。
本当に別人なのだと。
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それから、少しずつ日常は変わっていった。
レプリカイオンが中庭へ出るようになる。
アリエッタがその隣へ座る。
ルークが木剣を磨きながら文句を言う。
ティアが呆れて見ている。
以前より、騒がしかった。
以前より、温かかった。
---
一方、シンクは春が嫌いだった。
風がぬるい。
空が明るい。
誰もが少し浮かれている。
自分には関係ない。
旧療養区画の一室。
鍵はない。拘束具もない。
それでも部屋の隅から動かなかった。
扉が開く。
「飯」
ルークだった。
「何でまたお前なんだ」
「俺が聞きてえよ」
盆を置く。
「食え」
「いらない」
「じゃあ置いとく」
「帰れ」
「そうする」
本当に帰りかけ、シンクが舌打ちする。
「待て」
「何だよ」
「……水」
「言えばいいだろ」
「うるさい」
「性格終わってんな」
少しだけ、腹の底が軽かった。
---
その後、静かに扉が開く。
アリエッタだった。
毛布と小皿を置き、壁際へ座る。
「……何しに来た」
「……いる」
「見れば分かる」
「……そう」
会話にならない。
魔物がのそのそとシンクの膝へ乗った。
「来るな」
追い払わない。
アリエッタが小さく笑う。
「……すかれた」
「最悪だ」
---
夕方、ルークが来て固まった。
「何でいるんだよ」
「……ここ、すき」
「意味分かんねえ」
シンクは鼻を鳴らす。
「うるさいのが来た」
「誰がだ」
「お前だ」
「喋れるじゃねえか」
アリエッタが小皿を押す。
干し果実が一つ。
シンクはそれを半分に割り、一つをアリエッタへ返した。
ルークが目を見開く。
「……え」
「うるさい」
アリエッタは受け取る。
「……ありがと」
「別に」
ティアが入口で腕を組んでいた。
「進歩ね」
「気配どうなってんだお前ら」
シンクは少しだけ口元を歪めた。
笑ったのかもしれなかった。
---
春の終わり。
アリエッタは気づき始めていた。
イオンさまだけが世界ではないこと。
誰かを待つ時間があること。
誰かに薬草を置いていくこと。
似ているけれど別の誰かがいること。
捨てられた者同士、言葉がなくても通じること。
そして。
自分の居場所は、少しずつ増えていることを。
---
春の終わりが近づく頃だった。
本部の空気は少し緩み、兵士たちの顔にも余裕が戻り始めていた。街道警備も安定し、研究区画ですら珍しく静かだった。
だからこそ、その報告はよく響いた。
山麓の村で家畜被害。
見張り小屋二棟損壊。
負傷者三名。
原因――大型魔物。
「ライガ種か」
詰所で報告書を見たルークが呟く。
隣の兵士が肩をすくめた。
「爪痕からしてクイーン級らしい」
「でけえのか」
「でけえし硬いし速い」
「最悪じゃねえか」
「だからお前も行く」
「何でだよ!」
周囲が笑う。
ルークは机へ額を打ちつけた。
---
出立準備の中庭。
槍兵三名、弓兵二名、補助一名。
そしてルーク。
荷袋を締めながら文句を垂れている。
「最近ほんと雑に使われてねえか俺」
「便利だからでしょ」
ティアだった。
壁にもたれて腕を組んでいる。
「褒めてねえな」
「褒めてない」
そこへアリエッタが来た。
魔物を連れている。
報告板へ視線が向いた瞬間、足が止まった。
紙に書かれた文字。
ライガクイーン討伐。
その肩が目に見えて震える。
ティアが気づいた。
「……アリエッタ?」
アリエッタは報告板を見つめたまま、小さく声を漏らす。
「……だめ」
ルークが振り返る。
「何が?」
「……だめ」
顔色が白い。
呼吸が浅い。
ティアの表情が変わる。
知っていた。
人に捨てられ、魔物に育てられた少女の過去を。
その魔物の名を。
「……ライガクイーン」
ティアが低く呟く。
アリエッタの目から涙が零れた。
答えだった。
---
出立は一刻遅れた。
ティアが強引に同行をねじ込み、アリエッタも連れていくことになった。
兵士たちは難色を示したが、ルークが押し切る。
「事情あるなら置いてけねえだろ」
本人は深く分かっていない顔だったが、それで十分だった。
山道は急だった。
まだ雪の残る陰地。湿った土。細い獣道。
アリエッタは一言も喋らない。
ただ時折、空気の匂いを確かめるように顔を上げる。
「……分かるの?」
ティアが小声で聞く。
アリエッタは頷いた。
「……いる」
ルークが前方から振り返る。
「何が」
「……おかあさん」
兵士たちの空気が凍る。
ルークだけが普通に聞き返した。
「母親?」
ティアが額を押さえた。
「あとで説明する」
---
夕方前、獣道の先で見張り小屋の残骸が見つかった。
木材は引き裂かれ、柱には巨大な爪痕。
兵士の一人が唸る。
「間違いなくクイーン級だ」
その時だった。
山の奥から、低い咆哮が響く。
空気が震え、鳥が一斉に飛び立つ。
アリエッタの足が止まり、次の瞬間、走り出していた。
「おい!」
ルークが追う。
木々を抜けた先、開けた岩場。
そこにいた。
巨大な獣。
黒金のたてがみ。
傷だらけの前脚。
片目に古い裂傷。
それでも山そのもののような威圧感。
ライガクイーンだった。
兵士たちが槍を構える。
「討て!」
その声より早く、アリエッタが前へ出た。
「だめ!」
今まで聞いたことのない大きな声だった。
皆が止まる。
ライガクイーンもまた、動きを止めていた。
黄金の片目がアリエッタを見る。
長い沈黙。
アリエッタは震えながら、一歩ずつ進んだ。
「……おかあさん」
兵士が怒鳴る。
「戻れ!」
ルークが腕を広げて制した。
「待て!」
「何故だ!」
「……分かんねえ。でも待て!」
その声に兵士たちは躊躇した。
アリエッタはさらに近づく。
ライガクイーンは唸らない。
牙も剥かない。
ただ、ゆっくりと頭を下げた。
大きな鼻先が、アリエッタの額へ触れる。
その瞬間、アリエッタが崩れるように泣いた。
「……おそかった」
肩が震える。
「……ひとりに、して、ごめん」
ライガクイーンは静かに喉を鳴らした。
慰めるような、低く柔らかな音だった。
---
ティアが傷へ気づく。
前脚、腹部、肩。
深い裂傷がいくつもある。
古いものと新しいもの。
そして痩せていた。
「……追われてたのね」
近くの岩陰から、小さな影が三つ現れる。
幼いライガの子供たちだった。
兵士が呻く。
「子連れか……」
ルークの顔つきが変わる。
家畜被害。
村への接近。
守るために降りてきたのだ。
「……これ、討伐で終わらせていい話か?」
兵士の一人が苦い顔をする。
「だが被害は出てる」
「分かってる」
「なら――」
ルークは苛立ったように頭を掻いた。
「分かってるけど、分かんねえんだよ!」
ティアが小さく言った。
「成長したわね」
「今それ言うか?」
---
夜は早かった。
焚き火の火だけが小さく揺れ、周囲の木々を赤く照らしていた。
兵士たちは交代で見張りにつき、誰も大声を出さない。
少し離れた岩場に、ライガクイーンが伏せている。
アリエッタはその傍から離れない。
子供たちは警戒しながらも、彼女の周囲で丸くなっていた。
ルークは焚き火の前で腕を組む。
「……討伐任務、だったよな」
兵士の一人が頷く。
「そのはずだ」
「はずって何だよ」
誰も槍を握り直せなかった。
---
深夜。
子供ライガの一匹が唸った。
森の奥から人の気配。
次の瞬間、矢が飛んできた。
木へ突き刺さる。
山賊だった。
家畜被害の混乱に紛れ、山道の荷を狙っていた連中らしい。
五人、六人。
粗末な装備だが夜襲には十分危険だった。
「面倒くせえ!」
ルークが剣を抜く。
兵士たちも応戦する。
ティアは譜術の詠唱へ入った。
その時、山賊の一人が子供ライガへ槍を向けた。
アリエッタの顔色が変わる。
走り出す。
「危ねえ!」
ルークが叫ぶより早く、ライガクイーンが立ち上がった。
満身創痍の巨体が咆哮する。
山そのものが怒鳴ったような声だった。
前脚が振るわれ、槍ごと山賊が吹き飛ぶ。
残りは恐慌して逃げ出した。
だが、その代償にライガクイーンの脚が崩れる。
膝をつき、地面へ倒れ込んだ。
---
夜明け前。
空は群青色だった。
ライガクイーンの呼吸は浅い。
子供たちは不安げに鳴き、母の周囲を回っている。
アリエッタはその頭を抱えていた。
「……だめ」
声が震える。
「……まだ、いかないで」
ライガクイーンの片目が開く。
黄金の瞳。
鼻先が持ち上がり、アリエッタの肩を押す。
一度。二度。
離れろと言うように。
「……やだ」
しがみつく。
「……また、ひとりになる」
その言葉に、ルークの胸が痛んだ。
ライガクイーンは周囲を見る。
ティア。ルーク。兵士たち。子供たち。
そしてアリエッタ。
最後にもう一度、アリエッタの額へ鼻先を触れた。
優しく。
低く喉を鳴らす。
送り出す音だった。
---
ライガクイーンは最後の力で立ち上がった。
ふらつきながら、子供たちへ吠える。
短く、鋭く。
命令だった。
子供たちは泣くように鳴きながらも、山奥へ走る。
ライガクイーンはその後ろ姿を見届ける。
そして一歩、また一歩と森の奥へ向かった。
「待って!」
アリエッタが叫ぶ。
動こうとする。
だがルークが腕を掴んだ。
「……行くな」
「やだ!」
「行くな!」
初めて怒鳴った。
アリエッタが止まる。
ルークの手も震えていた。
「……あれは、お前に見せたくねえ」
アリエッタは泣きながら森を見る。
ライガクイーンの背が、朝靄の中へ消えていく。
最後まで振り返らなかった。
母親だった。
---
帰路。
兵士たちは討伐失敗とは書かなかった。
“群れを山奥へ追い返し、被害収束見込み”
誰からともなく決まった。
ルークは肩をすくめる。
「珍しくまともじゃねえか」
兵士が笑う。
「お前のせいでな」
その横でアリエッタは歩いていた。
泣き腫らした目のまま。
それでも、自分の足で。
---
山から戻った翌日、本部はいつも通りだった。
朝鐘が鳴る。
兵士が走る。
食堂が騒がしい。
誰かが怒られている。
昨日、山で一つの命が終わったことなど、世界は気にしていないようだった。
アリエッタはそれが少し腹立たしくて、少し安心でもあった。
世界まで止まってしまったら、本当に何もなくなる気がしたからだ。
---
旧療養区画の中庭。
アリエッタは石段へ座り、膝に魔物を乗せていた。
いつもなら何匹も寄ってくる小さな魔物たちも、今日は少し距離を取っている。
悲しんでいる者のそばには、静かにいるべきだと知っているようだった。
アリエッタはぼんやり空を見た。
山の朝焼け。
最後に見た背中。
振り返らなかった大きな背。
胸がまた痛くなる。
そこへ足音が近づいた。
「……いた」
ルークだった。
片手に包みを持っている。
「探した」
アリエッタは視線だけ向ける。
「……なんで」
「昼飯」
「……いらない」
「俺が食う」
「……」
「でも一人で食うとティアがうるせえ」
「……なんで」
「知らねえよ」
ルークは隣へ座り、包みを開いた。
焼きパンと干し肉。
少し焦げている。
「食堂のおばちゃんがくれた」
「……かわいそうって?」
「違う。俺がしつこかった」
アリエッタは少しだけ口元を動かした。
笑いそうになって、やめた。
ルークはパンを半分にちぎって差し出す。
「ほら」
「……いらない」
「昨日から何も食ってねえだろ」
「……」
「見りゃ分かる」
受け取らない。
ルークはため息をつき、自分で一口かじった。
それから残りをまた差し出す。
「これで食べかけ問題も解決だ」
アリエッタは思わず吹き出した。
小さく。涙声で。
「……ばか」
「知ってる」
ようやく、パンを受け取った。
---
しばらく二人で無言のまま食べる。
風が吹き、草が揺れる。
ルークが先に口を開いた。
「……泣いたか」
アリエッタは頷く。
「……いっぱい」
「そっか」
「……にいさま、つかんだ」
「は?」
「……おかあさんのとこ、いくの」
ルークは頭を掻いた。
「ああ……悪かった」
アリエッタは首を横に振る。
「……ちがう」
「じゃあ何だよ」
少し黙り、やがて小さく言った。
「……ありがとう」
ルークが固まる。
「は?」
「……とめてくれて」
「……」
「……さいご、みたら、こわれてた」
ルークは返せなかった。
あのまま追っていたら、森の奥で倒れる姿を見ていたかもしれない。
それを見せたくなかった。
ただそれだけだった。
「……別に」
ようやく出た言葉は短かった。
アリエッタは少しだけ笑う。
「……にいさま、やさしい」
「違う」
「……やさしい」
「違うって」
耳が赤い。
分かりやすかった。
---
その日の夕方。
オリジナルイオンの部屋。
アリエッタは椅子の横へ座っていた。
イオンは静かに話を聞いている。
ライガクイーンのこと。
山でのこと。
最後の背中のこと。
途切れ途切れの言葉でも、一つずつ頷いてくれた。
「……立派なお母様ですね」
アリエッタの目にまた涙が浮かぶ。
「……うん」
「あなたを守り、子供たちを守り、最後に送り出した」
イオンは微笑んだ。
「とても、あなたらしい方です」
アリエッタはその意味を考える。
まだよく分からない。
でも嫌ではなかった。
「……イオンさま」
「はい」
「……わたし、また、ひとりになるとおもった」
イオンは首を横に振る。
「ならなかったでしょう?」
アリエッタは思い返す。
ティアがいた。
ルークがいた。
魔物たちがいた。
シンクも、少しだけいた。
「……うん」
「それが答えです」
---
夜。
療養区画の廊下。
レプリカイオンが本を抱えて歩いていた。
角でアリエッタと鉤合わせる。
少年が慌てて頭を下げた。
「ご、ごめんなさい」
「……ぶつかってない」
「すみません」
「……あやまりすぎ」
困ったように笑う少年へ、アリエッタは干し果実を一つ差し出した。
「……あげる」
「ぼくに?」
「……うん」
受け取る手が震えていた。
「ありがとうございます」
アリエッタは頷く。
もう、この子を見ると胸が痛むだけではない。
守らなければと思う気持ちがあった。
---
その頃、中庭ではルークが木剣を振っていた。
アリエッタが近づく。
「何だよ」
少し迷ってから口を開く。
「……にいさま」
「その呼び方は――」
「……でも」
遮るように続けた。
「……にいさまじゃなくても、だいじょうぶ」
ルークが止まる。
「は?」
アリエッタは自分でも驚くほど、まっすぐ言えた。
「……ひとりじゃ、ないから」
風が吹く。
ルークはしばらく黙っていた。
やがて木剣を肩へ担ぐ。
「……強くなったな」
少し考えて、アリエッタは頷く。
「……うん」
「でも」
「?」
「まだ泣きそうな顔してる」
「……うるさい」
ルークが笑う。
アリエッタも、少し遅れて笑った。
---
六年目の夏は唐突に始まった。
朝から暑い。
石畳は陽を吸い、壁は熱を持ち、兵士たちは訓練開始十分で文句を言い始める。
「暑い!」
「まだ始まったばかりだ!」
「死ぬ!」
「死なん!」
毎年の光景らしい。
アリエッタは日陰の柱にもたれ、その騒がしさを眺めていた。
少し前までなら近づかなかった場所だ。
今は、少しだけ平気だった。
---
中庭ではルークが木剣を振っている。
汗だくで、真顔で、でも時々手元が雑になる。
「集中しなさい」
ティアが腕を組んで見ていた。
「してる!」
「してない」
「してる!」
「足」
次の瞬間、足払いされてルークが転ぶ。
「笑うな!」
周囲が笑う。
見慣れたやり取りだった。
アリエッタは小さく笑う。
その横へ白い影が座った。
レプリカイオンだった。
「……こんにちは」
「……うん」
「今日は、暑いですね」
「……あつい」
「会話が成立してる……」
少し離れた場所からカンタビレが感心したように呟いた。
いつの間にかいた。
「気配」
アリエッタが言う。
「消してた」
「……やめて」
「善処しまーす」
しない顔だった。
---
そこへ、元気すぎる声が響く。
「何この暑さ! 人が住む気温じゃないんですけど!」
黒いツインテールを揺らしながら、少女が荷物を抱えて飛び込んできた。
アニスだった。
「誰!?」
ルークが叫ぶ。
「こっちの台詞です!」
アニスは周囲を見回し、レプリカイオンを二度見した。
「イオン様!?」
「違います」
ティアが即答する。
「違うんですか!?」
「色々あるのよ」
「説明雑すぎません!?」
カンタビレが笑い転げる。
空気が一気に騒がしくなった。
アリエッタはその様子を見ていた。
少し前なら、きっと逃げていた。
今は違う。
うるさい。
でも嫌ではない。
---
昼。
簡易卓を囲み、皆で食事になった。
ルークが肉を奪い、ティアが制裁し、アニスが文句を言い、カンタビレが勝手に人の皿から取る。
レプリカイオンはその速さについていけず、ただ目を丸くしていた。
アリエッタは無言で、自分の果物を一つ彼の皿へ置く。
「……いいんですか」
「……たべるのおそい」
「え?」
「……なくなる」
ルークが吹き出した。
「正論だな」
また騒ぎになる。
アリエッタは、今度ははっきり笑った。
皆が一瞬だけ止まり、彼女を見る。
「……なに」
ルークが先に笑う。
「いや、笑うじゃねえか」
「……わらう」
「知ってる」
ティアの表情が少しだけ柔らかくなった。
---
夕方。
オリジナルイオンは窓辺から中庭を見ていた。
アニスが走り回り、ルークが怒鳴り、ティアが呆れ、アリエッタがその輪の中にいる。
以前なら部屋の隅にいた少女が。
今は、輪の中で笑っている。
イオンは目を閉じ、小さく息を吐いた。
「……良かった」
後ろからティアが答える。
「ええ」
薬を持ってきたところだった。
「あなたのおかげです」
「違うわ」
ティアは窓の外を見る。
「本人が歩いたのよ」
---
夜。
中庭の石段。
人の気配が減り、風だけが残っていた。
アリエッタは一人で座っている。
そこへルークが来た。
「何してんだ」
「……いる」
「そうかよ」
隣へ座る。
少し沈黙。
ルークが空を見る。
「今年、変だったな」
「……うん」
「イオン増えるし」
「……うん」
「山行くし」
「……うん」
「お前喋るし」
「……うるさい」
ルークが笑う。
「……ここ、嫌じゃねえか」
アリエッタは周囲を見る。
石畳。
古い壁。
騒がしい中庭。
窓辺の灯り。
少し考えて、首を横に振った。
「……すき」
「へえ」
「……みんないる」
ルークは何も言わない。
アリエッタは続けた。
「……むかし、せかい、ひとりだった」
「……」
「……つぎ、ふたりだった」
イオンと自分。
「……いま」
中庭を見る。
「……たくさん」
風が吹く。
ルークは照れくさそうに鼻を擦った。
「そっか」
アリエッタは空を見上げる。
母はもういない。
失ったものもある。
戻らない時間もある。
それでも。
ここには今がある。
自分で選んだ場所がある。
六年目は終わる。
拾われるだけだった少女が、
初めて、自分の足で輪の中へ入った年だった。
そして遠く、誰にも見えない場所で。
一人の少年の傷だけが、まだ静かに膿んでいた。
七年目は、もう始まりかけていた。
アリエッタ編でした。最後はほのぼの。ずっとこんな感じが続けばいいのに。