TALES OF THE ABYSS Re:Birth   作:ばっしー171

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Episode 0-7 空いた隣席、少しずつ増える居場所

 

六年目の春は、静かに来た。

 

雪解けの水が石畳の隙間を流れ、冷たい風の中へ土の匂いが混じり始める。空は高く、朝の光は冬より柔らかい。

 

本部では兵士たちが新しい任務表へ文句を言い、神官たちは書類に追われ、食堂では保存食の数で言い争っている。

 

けれどアリエッタにとって季節の移ろいは曖昧だった。

 

大切な人が笑っている日が、良い日。

会えない日が、悪い日。

 

それだけだった。

 

そして最近、“悪い日”が少し増えていた。

 

---

 

旧療養区画の廊下は静かだった。

 

元々使われなくなった棟を整えただけの場所で、人の出入りも少ない。足音だけがやけに響く。

 

アリエッタは慣れた足取りで、一番奥の部屋へ向かった。

 

扉の前で止まり、耳を寄せる。

 

小さく、長引く咳。

 

それだけで胸が縮む。

 

扉が開いた。

 

ティアが薬湯の盆を持って立っていた。

 

「……来てたの」

 

アリエッタは頷く。

 

ティアは少し迷うような顔をしたあと、声を潜めた。

 

「今日は少し熱があるの。長くは話せないわ」

 

アリエッタの肩がわずかに落ちる。

 

「……でも、顔を見るくらいなら大丈夫」

 

道を開けられ、アリエッタは静かに部屋へ入った。

 

---

 

窓辺の椅子に、イオンが座っていた。

 

白い毛布を膝へかけ、本を開いている。

 

以前より痩せた。

以前より白い。

以前より、呼吸が浅い。

 

それでも笑った顔だけは変わらない。

 

「アリエッタ」

 

その声だけで目の奥が熱くなる。

 

イオンが差し出した細い手を、アリエッタは両手で包んだ。

 

「……きょう、さむい」

 

「そうですね」

 

「おそと、はる」

 

「ええ。春です」

 

イオンは微笑む。

 

「あなたは季節をよく見ていますね」

 

アリエッタは首を横に振った。

 

見ているのは季節ではない。

この人だけだ。

 

イオンが咳き込む。

 

アリエッタの身体が強張る。

 

「大丈夫ですよ」

 

「……うそ」

 

「少しだけです」

 

「……うそ」

 

イオンは困ったように笑った。

 

「あなたには敵いませんね」

 

ティアが薬湯を置く。

 

「時間よ」

 

アリエッタは動かなかった。

 

イオンが優しく言う。

 

「また来てください」

 

首を振る。

 

また、では足りない。

 

それでもアリエッタは、ゆっくり手を離した。

 

離した指先へ、イオンがそっと触れる。

 

「大丈夫」

 

何が大丈夫なのか分からない。

 

でも昔から、その声は安心する声だった。

 

---

 

部屋を出たアリエッタは、胸の中にぽっかり空いたものを抱えたまま廊下を歩いた。

 

戻ってきた。

でも前とは違う。

 

生きている。

でも以前のようには会えない。

 

そんなことばかりだった。

 

角を曲がったところで誰かとぶつかりそうになる。

 

「うお」

 

ルークだった。

 

寝癖だらけの頭。口にはパン。片手には書類束。

 

「……前見ろよ」

 

先に文句を言う。

 

アリエッタはじっと見上げた。

 

寝癖。眠そうな目。雑な軍服。口元のパン屑。

 

何だか少し安心した。

 

「……にいさま」

 

「その呼び方やめろって言ってんだろ」

 

だが声は弱い。

 

「ていうか朝から何してんだ」

 

「……イオンさま」

 

ルークの顔つきが少し変わる。

 

「……そっか」

 

それ以上は聞かず、パンを半分にちぎって差し出した。

 

「やる」

 

アリエッタは受け取らない。

 

「何だよ」

 

「……たべかけ」

 

「そこ気にすんのかよ!」

 

奥の部屋からティアの声。

 

「うるさい」

 

「俺じゃねえ!」

 

アリエッタの肩が小さく震える。

 

笑っていた。

 

ルークはため息をつき、もう一度差し出す。

 

今度は受け取った。

 

「じゃ、俺仕事」

 

数歩進んで振り返る。

 

「……また来る」

 

「……へや?」

 

「違う! その、ここ通るし!」

 

言い訳が下手だった。

 

アリエッタは小さく頷いた。

 

---

 

春が深まるにつれ、ルークは忙しくなっていった。

 

街道警備。資材護送。村落対応。研究区画補助。

 

朝から晩まで呼び出されている。

 

「赤髪のやつ!」

 

「はいはい」

 

「北門の護送班!」

 

「今行く!」

 

「終わったら訓練場!」

 

「休ませろ!」

 

そんな日々だった。

 

アリエッタは、中庭からそれをよく見ていた。

 

本人に気づかれない場所から。

 

---

 

ある日、ルークが肩に荷袋を背負って戻ってきた。

 

額に汗。右腕に浅い切り傷。裾は泥だらけ。

 

「……最悪だ」

 

アリエッタが近づく。

 

傷口を見る。

 

「かすり傷だ」

 

さらに近づく。

 

「……平気だって」

 

無言で見つめられ、ルークが視線を逸らす。

 

「……薬草、あとでくれ」

 

アリエッタは頷いた。

 

その夜、ルークの部屋の取っ手には薬草と包帯の包みがぶら下がっていた。

 

「……だから言ってけって」

 

文句を言いながら、少し嬉しそうだった。

 

---

 

数日後、雨の中でルークは兵士に肩を借りて戻ってきた。

 

左足首を腫らしている。

 

アリエッタは走った。

 

「転んだだけだ」

 

「……うそ」

 

「本当だ」

 

「……かっこわるい」

 

「うるせえ!」

 

兵士たちが笑う。

 

アリエッタはルークの腕を掴んだ。

 

「……いく」

 

「どこへ」

 

「ティア」

 

「それは嫌だ」

 

拒否権はなかった。

 

---

 

ティアの部屋で湿布を巻かれながら、ルークは情けない声を上げていた。

 

「痛っ!」

 

「情けない」

 

「足場悪かったんだよ」

 

「言い訳も情けない」

 

横でアリエッタが薬草を刻んでいる。

 

「……何で手際いいんだよ」

 

「あなたより賢いから」

 

ティアが即答した。

 

アリエッタは少し笑った。

 

「今笑ったろ」

 

視線を逸らされた。

 

---

 

そして、もう一人の“イオン”。

 

東棟の小部屋にいる、白い衣の少年。

 

アリエッタはその扉の前だけ足が遅くなった。

 

怖かった。

 

何が怖いのか、自分でも分からない。

 

ある日、イオンへそのことを話した。

 

「……もうひとり、いる」

 

「ええ」

 

「……にてる」

 

「似ていますね」

 

「……こわい」

 

イオンは静かに微笑んだ。

 

「私も少し怖かったですよ」

 

「……イオンさまも?」

 

「ええ。でも、顔が同じでも中身は別です」

 

好きなもの。苦手なこと。泣く理由。

 

「もし会えたら、見てあげてください」

 

「……」

 

「私ではない、その子を」

 

---

 

夕方、中庭でルークが木剣を振っていた。

 

そこへ東棟の扉が開き、白い少年が出てくる。

 

レプリカイオンだった。

 

「お、出てきたのか」

 

「……ご、ごめんなさい」

 

「何で謝るんだよ」

 

柱の影から見ていたアリエッタへ、ルークが気づく。

 

「そこにいるんでしょ」

 

引っ張り出された。

 

「……やだ」

 

「何が」

 

「……にてる」

 

「似てるな。でも違うだろ」

 

少年がおずおずと尋ねる。

 

「……ぼく、あなたに嫌われていますか」

 

胸が痛んだ。

 

「……ちがう」

 

「では……」

 

「……わからない」

 

ルークが吹き出した。

 

「お前ほんと容赦ねえな」

 

少年はきょとんとし、それからふっと笑った。

 

イオンとは違う笑い方だった。

 

そこでアリエッタは気づく。

 

本当に別人なのだと。

 

---

 

それから、少しずつ日常は変わっていった。

 

レプリカイオンが中庭へ出るようになる。

アリエッタがその隣へ座る。

ルークが木剣を磨きながら文句を言う。

ティアが呆れて見ている。

 

以前より、騒がしかった。

 

以前より、温かかった。

 

---

 

一方、シンクは春が嫌いだった。

 

風がぬるい。

空が明るい。

誰もが少し浮かれている。

 

自分には関係ない。

 

旧療養区画の一室。

 

鍵はない。拘束具もない。

 

それでも部屋の隅から動かなかった。

 

扉が開く。

 

「飯」

 

ルークだった。

 

「何でまたお前なんだ」

 

「俺が聞きてえよ」

 

盆を置く。

 

「食え」

 

「いらない」

 

「じゃあ置いとく」

 

「帰れ」

 

「そうする」

 

本当に帰りかけ、シンクが舌打ちする。

 

「待て」

 

「何だよ」

 

「……水」

 

「言えばいいだろ」

 

「うるさい」

 

「性格終わってんな」

 

少しだけ、腹の底が軽かった。

 

---

 

その後、静かに扉が開く。

 

アリエッタだった。

 

毛布と小皿を置き、壁際へ座る。

 

「……何しに来た」

 

「……いる」

 

「見れば分かる」

 

「……そう」

 

会話にならない。

 

魔物がのそのそとシンクの膝へ乗った。

 

「来るな」

 

追い払わない。

 

アリエッタが小さく笑う。

 

「……すかれた」

 

「最悪だ」

 

---

 

夕方、ルークが来て固まった。

 

「何でいるんだよ」

 

「……ここ、すき」

 

「意味分かんねえ」

 

シンクは鼻を鳴らす。

 

「うるさいのが来た」

 

「誰がだ」

 

「お前だ」

 

「喋れるじゃねえか」

 

アリエッタが小皿を押す。

 

干し果実が一つ。

 

シンクはそれを半分に割り、一つをアリエッタへ返した。

 

ルークが目を見開く。

 

「……え」

 

「うるさい」

 

アリエッタは受け取る。

 

「……ありがと」

 

「別に」

 

ティアが入口で腕を組んでいた。

 

「進歩ね」

 

「気配どうなってんだお前ら」

 

シンクは少しだけ口元を歪めた。

 

笑ったのかもしれなかった。

 

---

 

春の終わり。

 

アリエッタは気づき始めていた。

 

イオンさまだけが世界ではないこと。

誰かを待つ時間があること。

誰かに薬草を置いていくこと。

似ているけれど別の誰かがいること。

捨てられた者同士、言葉がなくても通じること。

 

そして。

 

自分の居場所は、少しずつ増えていることを。

 

---

 

春の終わりが近づく頃だった。

 

本部の空気は少し緩み、兵士たちの顔にも余裕が戻り始めていた。街道警備も安定し、研究区画ですら珍しく静かだった。

 

だからこそ、その報告はよく響いた。

 

山麓の村で家畜被害。

見張り小屋二棟損壊。

負傷者三名。

 

原因――大型魔物。

 

「ライガ種か」

 

詰所で報告書を見たルークが呟く。

 

隣の兵士が肩をすくめた。

 

「爪痕からしてクイーン級らしい」

 

「でけえのか」

 

「でけえし硬いし速い」

 

「最悪じゃねえか」

 

「だからお前も行く」

 

「何でだよ!」

 

周囲が笑う。

 

ルークは机へ額を打ちつけた。

 

---

 

出立準備の中庭。

 

槍兵三名、弓兵二名、補助一名。

 

そしてルーク。

 

荷袋を締めながら文句を垂れている。

 

「最近ほんと雑に使われてねえか俺」

 

「便利だからでしょ」

 

ティアだった。

 

壁にもたれて腕を組んでいる。

 

「褒めてねえな」

 

「褒めてない」

 

そこへアリエッタが来た。

 

魔物を連れている。

 

報告板へ視線が向いた瞬間、足が止まった。

 

紙に書かれた文字。

 

ライガクイーン討伐。

 

その肩が目に見えて震える。

 

ティアが気づいた。

 

「……アリエッタ?」

 

アリエッタは報告板を見つめたまま、小さく声を漏らす。

 

「……だめ」

 

ルークが振り返る。

 

「何が?」

 

「……だめ」

 

顔色が白い。

 

呼吸が浅い。

 

ティアの表情が変わる。

 

知っていた。

 

人に捨てられ、魔物に育てられた少女の過去を。

 

その魔物の名を。

 

「……ライガクイーン」

 

ティアが低く呟く。

 

アリエッタの目から涙が零れた。

 

答えだった。

 

---

 

出立は一刻遅れた。

 

ティアが強引に同行をねじ込み、アリエッタも連れていくことになった。

 

兵士たちは難色を示したが、ルークが押し切る。

 

「事情あるなら置いてけねえだろ」

 

本人は深く分かっていない顔だったが、それで十分だった。

 

山道は急だった。

 

まだ雪の残る陰地。湿った土。細い獣道。

 

アリエッタは一言も喋らない。

 

ただ時折、空気の匂いを確かめるように顔を上げる。

 

「……分かるの?」

 

ティアが小声で聞く。

 

アリエッタは頷いた。

 

「……いる」

 

ルークが前方から振り返る。

 

「何が」

 

「……おかあさん」

 

兵士たちの空気が凍る。

 

ルークだけが普通に聞き返した。

 

「母親?」

 

ティアが額を押さえた。

 

「あとで説明する」

 

---

 

夕方前、獣道の先で見張り小屋の残骸が見つかった。

 

木材は引き裂かれ、柱には巨大な爪痕。

 

兵士の一人が唸る。

 

「間違いなくクイーン級だ」

 

その時だった。

 

山の奥から、低い咆哮が響く。

 

空気が震え、鳥が一斉に飛び立つ。

 

アリエッタの足が止まり、次の瞬間、走り出していた。

 

「おい!」

 

ルークが追う。

 

木々を抜けた先、開けた岩場。

 

そこにいた。

 

巨大な獣。

 

黒金のたてがみ。

傷だらけの前脚。

片目に古い裂傷。

 

それでも山そのもののような威圧感。

 

ライガクイーンだった。

 

兵士たちが槍を構える。

 

「討て!」

 

その声より早く、アリエッタが前へ出た。

 

「だめ!」

 

今まで聞いたことのない大きな声だった。

 

皆が止まる。

 

ライガクイーンもまた、動きを止めていた。

 

黄金の片目がアリエッタを見る。

 

長い沈黙。

 

アリエッタは震えながら、一歩ずつ進んだ。

 

「……おかあさん」

 

兵士が怒鳴る。

 

「戻れ!」

 

ルークが腕を広げて制した。

 

「待て!」

 

「何故だ!」

 

「……分かんねえ。でも待て!」

 

その声に兵士たちは躊躇した。

 

アリエッタはさらに近づく。

 

ライガクイーンは唸らない。

 

牙も剥かない。

 

ただ、ゆっくりと頭を下げた。

 

大きな鼻先が、アリエッタの額へ触れる。

 

その瞬間、アリエッタが崩れるように泣いた。

 

「……おそかった」

 

肩が震える。

 

「……ひとりに、して、ごめん」

 

ライガクイーンは静かに喉を鳴らした。

 

慰めるような、低く柔らかな音だった。

 

---

 

ティアが傷へ気づく。

 

前脚、腹部、肩。

 

深い裂傷がいくつもある。

 

古いものと新しいもの。

 

そして痩せていた。

 

「……追われてたのね」

 

近くの岩陰から、小さな影が三つ現れる。

 

幼いライガの子供たちだった。

 

兵士が呻く。

 

「子連れか……」

 

ルークの顔つきが変わる。

 

家畜被害。

村への接近。

 

守るために降りてきたのだ。

 

「……これ、討伐で終わらせていい話か?」

 

兵士の一人が苦い顔をする。

 

「だが被害は出てる」

 

「分かってる」

 

「なら――」

 

ルークは苛立ったように頭を掻いた。

 

「分かってるけど、分かんねえんだよ!」

 

ティアが小さく言った。

 

「成長したわね」

 

「今それ言うか?」

 

---

 

夜は早かった。

 

焚き火の火だけが小さく揺れ、周囲の木々を赤く照らしていた。

 

兵士たちは交代で見張りにつき、誰も大声を出さない。

 

少し離れた岩場に、ライガクイーンが伏せている。

 

アリエッタはその傍から離れない。

 

子供たちは警戒しながらも、彼女の周囲で丸くなっていた。

 

ルークは焚き火の前で腕を組む。

 

「……討伐任務、だったよな」

 

兵士の一人が頷く。

 

「そのはずだ」

 

「はずって何だよ」

 

誰も槍を握り直せなかった。

 

---

 

深夜。

 

子供ライガの一匹が唸った。

 

森の奥から人の気配。

 

次の瞬間、矢が飛んできた。

 

木へ突き刺さる。

 

山賊だった。

 

家畜被害の混乱に紛れ、山道の荷を狙っていた連中らしい。

 

五人、六人。

 

粗末な装備だが夜襲には十分危険だった。

 

「面倒くせえ!」

 

ルークが剣を抜く。

 

兵士たちも応戦する。

 

ティアは譜術の詠唱へ入った。

 

その時、山賊の一人が子供ライガへ槍を向けた。

 

アリエッタの顔色が変わる。

 

走り出す。

 

「危ねえ!」

 

ルークが叫ぶより早く、ライガクイーンが立ち上がった。

 

満身創痍の巨体が咆哮する。

 

山そのものが怒鳴ったような声だった。

 

前脚が振るわれ、槍ごと山賊が吹き飛ぶ。

 

残りは恐慌して逃げ出した。

 

だが、その代償にライガクイーンの脚が崩れる。

 

膝をつき、地面へ倒れ込んだ。

 

---

 

夜明け前。

 

空は群青色だった。

 

ライガクイーンの呼吸は浅い。

 

子供たちは不安げに鳴き、母の周囲を回っている。

 

アリエッタはその頭を抱えていた。

 

「……だめ」

 

声が震える。

 

「……まだ、いかないで」

 

ライガクイーンの片目が開く。

 

黄金の瞳。

 

鼻先が持ち上がり、アリエッタの肩を押す。

 

一度。二度。

 

離れろと言うように。

 

「……やだ」

 

しがみつく。

 

「……また、ひとりになる」

 

その言葉に、ルークの胸が痛んだ。

 

ライガクイーンは周囲を見る。

 

ティア。ルーク。兵士たち。子供たち。

 

そしてアリエッタ。

 

最後にもう一度、アリエッタの額へ鼻先を触れた。

 

優しく。

 

低く喉を鳴らす。

 

送り出す音だった。

 

---

 

ライガクイーンは最後の力で立ち上がった。

 

ふらつきながら、子供たちへ吠える。

 

短く、鋭く。

 

命令だった。

 

子供たちは泣くように鳴きながらも、山奥へ走る。

 

ライガクイーンはその後ろ姿を見届ける。

 

そして一歩、また一歩と森の奥へ向かった。

 

「待って!」

 

アリエッタが叫ぶ。

 

動こうとする。

 

だがルークが腕を掴んだ。

 

「……行くな」

 

「やだ!」

 

「行くな!」

 

初めて怒鳴った。

 

アリエッタが止まる。

 

ルークの手も震えていた。

 

「……あれは、お前に見せたくねえ」

 

アリエッタは泣きながら森を見る。

 

ライガクイーンの背が、朝靄の中へ消えていく。

 

最後まで振り返らなかった。

 

母親だった。

 

---

 

帰路。

 

兵士たちは討伐失敗とは書かなかった。

 

“群れを山奥へ追い返し、被害収束見込み”

 

誰からともなく決まった。

 

ルークは肩をすくめる。

 

「珍しくまともじゃねえか」

 

兵士が笑う。

 

「お前のせいでな」

 

その横でアリエッタは歩いていた。

 

泣き腫らした目のまま。

 

それでも、自分の足で。

 

---

 

山から戻った翌日、本部はいつも通りだった。

 

朝鐘が鳴る。

兵士が走る。

食堂が騒がしい。

誰かが怒られている。

 

昨日、山で一つの命が終わったことなど、世界は気にしていないようだった。

 

アリエッタはそれが少し腹立たしくて、少し安心でもあった。

 

世界まで止まってしまったら、本当に何もなくなる気がしたからだ。

 

---

 

旧療養区画の中庭。

 

アリエッタは石段へ座り、膝に魔物を乗せていた。

 

いつもなら何匹も寄ってくる小さな魔物たちも、今日は少し距離を取っている。

 

悲しんでいる者のそばには、静かにいるべきだと知っているようだった。

 

アリエッタはぼんやり空を見た。

 

山の朝焼け。

最後に見た背中。

振り返らなかった大きな背。

 

胸がまた痛くなる。

 

そこへ足音が近づいた。

 

「……いた」

 

ルークだった。

 

片手に包みを持っている。

 

「探した」

 

アリエッタは視線だけ向ける。

 

「……なんで」

 

「昼飯」

 

「……いらない」

 

「俺が食う」

 

「……」

 

「でも一人で食うとティアがうるせえ」

 

「……なんで」

 

「知らねえよ」

 

ルークは隣へ座り、包みを開いた。

 

焼きパンと干し肉。

 

少し焦げている。

 

「食堂のおばちゃんがくれた」

 

「……かわいそうって?」

 

「違う。俺がしつこかった」

 

アリエッタは少しだけ口元を動かした。

 

笑いそうになって、やめた。

 

ルークはパンを半分にちぎって差し出す。

 

「ほら」

 

「……いらない」

 

「昨日から何も食ってねえだろ」

 

「……」

 

「見りゃ分かる」

 

受け取らない。

 

ルークはため息をつき、自分で一口かじった。

 

それから残りをまた差し出す。

 

「これで食べかけ問題も解決だ」

 

アリエッタは思わず吹き出した。

 

小さく。涙声で。

 

「……ばか」

 

「知ってる」

 

ようやく、パンを受け取った。

 

---

 

しばらく二人で無言のまま食べる。

 

風が吹き、草が揺れる。

 

ルークが先に口を開いた。

 

「……泣いたか」

 

アリエッタは頷く。

 

「……いっぱい」

 

「そっか」

 

「……にいさま、つかんだ」

 

「は?」

 

「……おかあさんのとこ、いくの」

 

ルークは頭を掻いた。

 

「ああ……悪かった」

 

アリエッタは首を横に振る。

 

「……ちがう」

 

「じゃあ何だよ」

 

少し黙り、やがて小さく言った。

 

「……ありがとう」

 

ルークが固まる。

 

「は?」

 

「……とめてくれて」

 

「……」

 

「……さいご、みたら、こわれてた」

 

ルークは返せなかった。

 

あのまま追っていたら、森の奥で倒れる姿を見ていたかもしれない。

 

それを見せたくなかった。

 

ただそれだけだった。

 

「……別に」

 

ようやく出た言葉は短かった。

 

アリエッタは少しだけ笑う。

 

「……にいさま、やさしい」

 

「違う」

 

「……やさしい」

 

「違うって」

 

耳が赤い。

 

分かりやすかった。

 

---

 

その日の夕方。

 

オリジナルイオンの部屋。

 

アリエッタは椅子の横へ座っていた。

 

イオンは静かに話を聞いている。

 

ライガクイーンのこと。

山でのこと。

最後の背中のこと。

 

途切れ途切れの言葉でも、一つずつ頷いてくれた。

 

「……立派なお母様ですね」

 

アリエッタの目にまた涙が浮かぶ。

 

「……うん」

 

「あなたを守り、子供たちを守り、最後に送り出した」

 

イオンは微笑んだ。

 

「とても、あなたらしい方です」

 

アリエッタはその意味を考える。

 

まだよく分からない。

 

でも嫌ではなかった。

 

「……イオンさま」

 

「はい」

 

「……わたし、また、ひとりになるとおもった」

 

イオンは首を横に振る。

 

「ならなかったでしょう?」

 

アリエッタは思い返す。

 

ティアがいた。

ルークがいた。

魔物たちがいた。

シンクも、少しだけいた。

 

「……うん」

 

「それが答えです」

 

---

 

夜。

 

療養区画の廊下。

 

レプリカイオンが本を抱えて歩いていた。

 

角でアリエッタと鉤合わせる。

 

少年が慌てて頭を下げた。

 

「ご、ごめんなさい」

 

「……ぶつかってない」

 

「すみません」

 

「……あやまりすぎ」

 

困ったように笑う少年へ、アリエッタは干し果実を一つ差し出した。

 

「……あげる」

 

「ぼくに?」

 

「……うん」

 

受け取る手が震えていた。

 

「ありがとうございます」

 

アリエッタは頷く。

 

もう、この子を見ると胸が痛むだけではない。

 

守らなければと思う気持ちがあった。

 

---

 

その頃、中庭ではルークが木剣を振っていた。

 

アリエッタが近づく。

 

「何だよ」

 

少し迷ってから口を開く。

 

「……にいさま」

 

「その呼び方は――」

 

「……でも」

 

遮るように続けた。

 

「……にいさまじゃなくても、だいじょうぶ」

 

ルークが止まる。

 

「は?」

 

アリエッタは自分でも驚くほど、まっすぐ言えた。

 

「……ひとりじゃ、ないから」

 

風が吹く。

 

ルークはしばらく黙っていた。

 

やがて木剣を肩へ担ぐ。

 

「……強くなったな」

 

少し考えて、アリエッタは頷く。

 

「……うん」

 

「でも」

 

「?」

 

「まだ泣きそうな顔してる」

 

「……うるさい」

 

ルークが笑う。

 

アリエッタも、少し遅れて笑った。

 

---

 

六年目の夏は唐突に始まった。

 

朝から暑い。

 

石畳は陽を吸い、壁は熱を持ち、兵士たちは訓練開始十分で文句を言い始める。

 

「暑い!」

 

「まだ始まったばかりだ!」

 

「死ぬ!」

 

「死なん!」

 

毎年の光景らしい。

 

アリエッタは日陰の柱にもたれ、その騒がしさを眺めていた。

 

少し前までなら近づかなかった場所だ。

 

今は、少しだけ平気だった。

 

---

 

中庭ではルークが木剣を振っている。

 

汗だくで、真顔で、でも時々手元が雑になる。

 

「集中しなさい」

 

ティアが腕を組んで見ていた。

 

「してる!」

 

「してない」

 

「してる!」

 

「足」

 

次の瞬間、足払いされてルークが転ぶ。

 

「笑うな!」

 

周囲が笑う。

 

見慣れたやり取りだった。

 

アリエッタは小さく笑う。

 

その横へ白い影が座った。

 

レプリカイオンだった。

 

「……こんにちは」

 

「……うん」

 

「今日は、暑いですね」

 

「……あつい」

 

「会話が成立してる……」

 

少し離れた場所からカンタビレが感心したように呟いた。

 

いつの間にかいた。

 

「気配」

 

アリエッタが言う。

 

「消してた」

 

「……やめて」

 

「善処しまーす」

 

しない顔だった。

 

---

 

そこへ、元気すぎる声が響く。

 

「何この暑さ! 人が住む気温じゃないんですけど!」

 

黒いツインテールを揺らしながら、少女が荷物を抱えて飛び込んできた。

 

アニスだった。

 

「誰!?」

 

ルークが叫ぶ。

 

「こっちの台詞です!」

 

アニスは周囲を見回し、レプリカイオンを二度見した。

 

「イオン様!?」

 

「違います」

 

ティアが即答する。

 

「違うんですか!?」

 

「色々あるのよ」

 

「説明雑すぎません!?」

 

カンタビレが笑い転げる。

 

空気が一気に騒がしくなった。

 

アリエッタはその様子を見ていた。

 

少し前なら、きっと逃げていた。

 

今は違う。

 

うるさい。

 

でも嫌ではない。

 

---

 

昼。

 

簡易卓を囲み、皆で食事になった。

 

ルークが肉を奪い、ティアが制裁し、アニスが文句を言い、カンタビレが勝手に人の皿から取る。

 

レプリカイオンはその速さについていけず、ただ目を丸くしていた。

 

アリエッタは無言で、自分の果物を一つ彼の皿へ置く。

 

「……いいんですか」

 

「……たべるのおそい」

 

「え?」

 

「……なくなる」

 

ルークが吹き出した。

 

「正論だな」

 

また騒ぎになる。

 

アリエッタは、今度ははっきり笑った。

 

皆が一瞬だけ止まり、彼女を見る。

 

「……なに」

 

ルークが先に笑う。

 

「いや、笑うじゃねえか」

 

「……わらう」

 

「知ってる」

 

ティアの表情が少しだけ柔らかくなった。

 

---

 

夕方。

 

オリジナルイオンは窓辺から中庭を見ていた。

 

アニスが走り回り、ルークが怒鳴り、ティアが呆れ、アリエッタがその輪の中にいる。

 

以前なら部屋の隅にいた少女が。

 

今は、輪の中で笑っている。

 

イオンは目を閉じ、小さく息を吐いた。

 

「……良かった」

 

後ろからティアが答える。

 

「ええ」

 

薬を持ってきたところだった。

 

「あなたのおかげです」

 

「違うわ」

 

ティアは窓の外を見る。

 

「本人が歩いたのよ」

 

---

 

夜。

 

中庭の石段。

 

人の気配が減り、風だけが残っていた。

 

アリエッタは一人で座っている。

 

そこへルークが来た。

 

「何してんだ」

 

「……いる」

 

「そうかよ」

 

隣へ座る。

 

少し沈黙。

 

ルークが空を見る。

 

「今年、変だったな」

 

「……うん」

 

「イオン増えるし」

 

「……うん」

 

「山行くし」

 

「……うん」

 

「お前喋るし」

 

「……うるさい」

 

ルークが笑う。

 

「……ここ、嫌じゃねえか」

 

アリエッタは周囲を見る。

 

石畳。

古い壁。

騒がしい中庭。

窓辺の灯り。

 

少し考えて、首を横に振った。

 

「……すき」

 

「へえ」

 

「……みんないる」

 

ルークは何も言わない。

 

アリエッタは続けた。

 

「……むかし、せかい、ひとりだった」

 

「……」

 

「……つぎ、ふたりだった」

 

イオンと自分。

 

「……いま」

 

中庭を見る。

 

「……たくさん」

 

風が吹く。

 

ルークは照れくさそうに鼻を擦った。

 

「そっか」

 

アリエッタは空を見上げる。

 

母はもういない。

失ったものもある。

戻らない時間もある。

 

それでも。

 

ここには今がある。

 

自分で選んだ場所がある。

 

六年目は終わる。

 

拾われるだけだった少女が、

 

初めて、自分の足で輪の中へ入った年だった。

 

そして遠く、誰にも見えない場所で。

 

一人の少年の傷だけが、まだ静かに膿んでいた。

 

七年目は、もう始まりかけていた。

 




アリエッタ編でした。最後はほのぼの。ずっとこんな感じが続けばいいのに。
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