TALES OF THE ABYSS Re:Birth   作:ばっしー171

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Episode 08-B 旅立ちの前夜

地下保管庫は、相変わらず埃の匂いがした。

 

古い木箱。壊れた棚。使われなくなった備品。

 

誰にも必要とされなくなったものばかりが積み上がっている。

 

その中央の机に、白い仮面が置かれていた。

 

シンクはそれを見下ろしている。

 

触れてはいない。

 

だが、目が離せなかった。

 

「似合うと思うよ」

 

ヴァンが暗がりから言う。

 

「黙れ」

 

即答だった。

 

ヴァンは笑う。

 

「元気そうで何よりだ」

 

「殺すぞ」

 

「その気力があるなら安心だ」

 

シンクは舌打ちした。

 

この男には怒りが通じない。

 

それが腹立たしい。

 

「……聞きたいことがある」

 

ヴァンは椅子へ腰掛ける。

 

「どうぞ」

 

「俺は何だ」

 

沈黙。

 

短い問いだった。

 

だが重い。

 

ヴァンはすぐには答えなかった。

 

代わりに机の引き出しから古びた書類束を取り出す。

 

封印印付きの研究記録。

 

シンクの眉が寄る。

 

「何だそれ」

 

「知りたいなら、入口くらいは見せよう」

 

数枚めくる。

 

無機質な文字列。

 

素体番号。適合率。生存時間。精神安定性。

 

そして、赤い印。

 

失敗。廃棄候補。

 

シンクの呼吸が止まる。

 

「……何だよ、これ」

 

「研究資料だ」

 

「誰の」

 

ヴァンは静かに答えた。

 

「お前たちの」

 

世界が一瞬遠のく。

 

紙の文字が揺れる。

 

失敗。

廃棄。

候補。

 

たったそれだけで、自分の人生が説明された気がした。

 

「……ふざけるな」

 

「ふざけていない」

 

「こんな紙切れで!」

 

拳が机へ叩きつけられる。

 

書類が散る。

 

ヴァンは動じない。

 

「紙切れではない。記録だ」

 

「黙れ!」

 

シンクの声が保管庫へ響いた。

 

「俺は生きてる!」

 

「そうだ」

 

ヴァンの声だけが静かだった。

 

「だから価値がある」

 

その言葉は慰めではない。

 

純粋な評価だった。

 

それが余計に胸を刺した。

 

「……じゃあ、あいつは何だ」

 

シンクの喉から絞り出される。

 

「ルークだよ」

 

「名前じゃねえ!」

 

ヴァンは少しだけ目を細めた。

 

来たか、と言うように。

 

「気づいているんだろう?」

 

「何に」

 

「似ていることに」

 

シンクの背筋が冷える。

 

顔。

 

声。

 

雰囲気。

 

説明できない違和感。

 

会うたびに胸の奥がざわつく理由。

 

「……あいつも、同じなのか」

 

ヴァンは即答しない。

 

それが答えだった。

 

「お前と無関係ではない」

 

シンクの視界が赤くなる。

 

---

 

その頃、中庭。

 

ルークはアニスに追いかけ回されていた。

 

「返してください!」

 

「嫌だ!」

 

「それ私の財布です!」

 

「じゃあ何で俺の荷袋に入ってんだよ!」

 

「しまった!」

 

ティアがため息をつく。

 

「馬鹿しかいないの?」

 

アリエッタが少し笑う。

 

レプリカイオンも肩を震わせる。

 

いつもの光景。

 

温かく、馬鹿馬鹿しく、眩しい場所。

 

地下では、別の世界が進んでいた。

 

「……同じなら、何で違う」

 

シンクの声は低かった。

 

「何であいつは笑ってる」

 

「何であいつは祝われる」

 

「何であいつには全部ある」

 

ヴァンは答えない。

 

ただ聞いている。

 

「何で俺は、こんな所にいる」

 

最後の一言だけ、少し幼かった。

 

怒りより先に、傷だった。

 

ヴァンはゆっくり立ち上がる。

 

「環境だ」

 

「……は?」

 

「選ばれた場所。育てられた場所。与えられた言葉」

 

一歩近づく。

 

「人は、同じ素材でも別物になる」

 

シンクの目が細くなる。

 

「じゃあ俺はハズレか」

 

「違う」

 

ヴァンは首を横に振る。

 

「お前は、削られた」

 

その言葉だけが、妙に真実味を持って響いた。

 

---

 

「……あいつは知ってるのか」

 

「何を」

 

「自分のことだよ」

 

ヴァンは少し間を置く。

 

「知らない」

 

シンクの拳が震える。

 

知らない。

 

何も知らず、笑っている。

 

何も知らず、愛されている。

 

何も知らず、自分を傷つけている。

 

「……ふざけるな」

 

また同じ言葉だった。

 

だが今度は怒りの向きが違う。

 

世界へ。

ルークへ。

自分へ。

 

ヴァンは仮面へ視線を落とす。

 

「真実は、人を選ばない」

 

「……」

 

「知る資格も、知らぬままいる罪も」

 

シンクは何も返せない。

 

---

 

その夜。

 

部屋へ戻ったシンクは鏡の前に立っていた。

 

小さく、曇った鏡。

 

映る顔を見る。

 

自分の顔。

 

だが、そう思えない。

 

ルークの笑った顔が重なる。

 

祝われる姿が重なる。

 

自分の輪郭が曖昧になる。

 

拳で鏡を殴った。

 

割れた。

 

破片に顔が増える。

 

どれも自分で、どれも自分ではない。

 

「……クソ」

 

血が垂れる。

 

その赤だけが、本物に見えた。

 

---

 

翌朝。

 

中庭でルークが声を上げた。

 

「おいシンク! 手どうした!」

 

包帯だらけの拳。

 

シンクは立ち止まりもしない。

 

「転んだ」

 

「拳から!?」

 

「うるさい」

 

「お前最近それしか言わねえな!」

 

アリエッタが心配そうに見る。

 

ティアは表情を曇らせる。

 

シンクだけが前を向いて歩く。

 

もう振り返れない気がしていた。

 

---

 

地下保管庫の机の上。

 

白い仮面の横に、新しい紙が置かれていた。

 

そこには一行だけ記されている。

 

適合進行中

 

ヴァンはそれを見て、静かに微笑んだ。

 

---

 

七年目の初夏は、妙に晴れの日が多かった。

 

空は高く、風は乾き、石畳は昼になると熱を持つ。

 

誰かが笑っている声がする。

訓練場では怒鳴り声がする。

食堂からは香ばしい匂いが流れてくる。

 

世界はいつも通り回っていた。

 

シンクだけを置いて。

 

---

 

最近、アリエッタはシンクの部屋へ来る回数が増えていた。

 

何か理由があるわけではない。

 

ただ来る。

 

食事を置く。

毛布を直す。

魔物を置いていく。

少し座る。

 

それだけだ。

 

その日も、扉が開いた。

 

「……いる」

 

「見れば分かる」

 

シンクは窓際に座ったまま答える。

 

アリエッタは盆を机へ置いた。

 

「……たべる」

 

「いらない」

 

「……たべる」

 

「命令するな」

 

「……ろくしんしょう」

 

シンクが初めて振り向く。

 

「は?」

 

アリエッタは少し胸を張った。

 

新しい外套を着ている。

 

まだ着慣れていないせいで、どこか子供が背伸びしているようだった。

 

「……えらい」

 

数秒の沈黙。

 

シンクは吹き出しかけ、すぐ不機嫌な顔へ戻る。

 

「だから何だ」

 

「……たべろ」

 

「権力の使い方が最悪だな」

 

それでも盆へ手を伸ばした。

 

アリエッタは少し満足そうだった。

 

しばらく無言で食べる音だけが続く。

 

魔物が足元で丸くなる。

 

窓から風が入る。

 

アリエッタがぽつりと言った。

 

「……さいきん、ねてない」

 

「寝てる」

 

「……うそ」

 

「寝てる」

 

「……かお、わるい」

 

「お前に言われたくない」

 

「……かわいい」

 

「喧嘩売ってんのか?」

 

珍しく、シンクの声に棘が薄かった。

 

アリエッタは少し安心する。

 

六年目の頃みたいに戻れるかもしれない、と。

 

---

 

その日の夕方。

 

アリエッタは裁縫道具を持って再び現れた。

 

「……何しに来た」

 

「……なおす」

 

シンクの上着の裾が裂けていた。

 

いつ裂けたのか本人も覚えていない。

 

「いらない」

 

「……やる」

 

「勝手に決めるな」

 

だがアリエッタはすでに針へ糸を通していた。

 

器用とは言えない手つき。

 

それでも真剣だった。

 

シンクは舌打ちしながら座り直す。

 

「……遅い」

 

「……うるさい」

 

「雑」

 

「……うるさい」

 

「曲がってる」

 

「……うるさい」

 

少し前の二人なら、これだけで終わっていた。

 

だが今は違う。

 

シンクの中には、言葉にできない苛立ちが積もっている。

 

---

 

「……何で来る」

 

唐突だった。

 

アリエッタの手が止まる。

 

「……?」

 

「何で毎回来るって聞いてんだ」

 

「……いるから」

 

「答えになってない」

 

アリエッタは少し考える。

 

「……ひとり、いや」

 

シンクの目が揺れる。

 

だが次の瞬間、冷たく細まった。

 

「誰が」

 

「……シンク」

 

「勝手に決めるな」

 

「……でも」

 

「でもじゃない」

 

声が強くなる。

 

アリエッタが肩を震わせた。

 

「お前はもう違うだろ」

 

「……?」

 

「六神将様だ。皆に必要とされて、居場所もあって」

 

吐き出すように続く。

 

「俺の部屋で同情ごっこか?」

 

空気が凍った。

 

---

 

アリエッタは意味を理解するのに数秒かかった。

 

それから、小さく首を横に振る。

 

「……ちがう」

 

「何が」

 

「……ともだち」

 

シンクの拳が震える。

 

「やめろ」

 

「……シンク」

 

「やめろ!」

 

机が蹴り飛ばされた。

 

皿が割れる。

 

魔物が驚いて逃げる。

 

アリエッタが立ち上がる。

 

目を見開いていた。

 

シンク自身も、ここまで声を荒げるつもりではなかった。

 

だが止まらない。

 

「お前は選ばれた側だ!」

 

その一言だけが、本音だった。

 

「俺と同じ顔して近づくな!」

 

「……ちがう」

 

「同じだ!」

 

「……ちがう!」

 

初めて、アリエッタも叫んだ。

 

部屋が静まり返る。

 

彼女の目には涙が浮かんでいた。

 

「……わたし、シンク、すき」

 

シンクの呼吸が止まる。

 

「……ともだち」

 

「……」

 

「……だから、くる」

 

まっすぐすぎる言葉だった。

 

傷つける計算も、慰める技術もない。

 

ただ本音だけ。

 

だからこそ、シンクには痛かった。

 

---

 

「……出てけ」

 

低い声だった。

 

アリエッタは動かない。

 

「出てけ」

 

二度目。

 

今度は少し震えていた。

 

アリエッタは唇を噛み、裁縫道具を抱える。

 

落ちた糸巻きを拾い、割れた皿を見て、何も言えず扉へ向かった。

 

出る直前、振り返る。

 

「……また、くる」

 

「来るな」

 

即答だった。

 

アリエッタはそれ以上何も言わず、部屋を出た。

 

---

 

廊下。

 

ティアが立っていた。

 

最初から聞こえていたのだろう。

 

アリエッタの泣き顔を見ると、何も聞かず肩へ手を置いた。

 

「……失敗した」

 

「いいえ」

 

ティアは静かに言う。

 

「届いてるわ」

 

「……?」

 

「だから、痛いのよ」

 

アリエッタにはよく分からなかった。

 

ただ胸が苦しかった。

 

---

 

部屋の中。

 

シンクは床へ座り込んでいた。

 

散らばった皿。こぼれた食事。裂けた空気。

 

机の上には、縫いかけの上着。

 

不格好な縫い目が途中で止まっている。

 

それを見た瞬間、息が詰まった。

 

「……クソ」

 

何に対してか分からない。

 

自分か。

アリエッタか。

世界か。

 

拳を振り上げる。

 

だが、縫いかけの布へは下ろせなかった。

 

---

 

その夜、地下保管庫。

 

ヴァンは扉の音だけで誰が来たか分かった。

 

「ずいぶん早かったね」

 

シンクは何も言わず、白い仮面を掴み上げる。

 

そして初めて、自分の顔へ当てた。

 

---

 

白い仮面は、思っていたより冷たかった。

 

額へ触れた瞬間、石のような冷気が肌へ走る。

 

シンクはそれを顔へ当てたまま、動かなかった。

 

地下保管庫には灯りが一つ。

 

薄暗い橙の光が、白い面だけを浮かび上がらせている。

 

ヴァンは少し離れた場所で黙って見ていた。

 

急かさない。

褒めない。

止めもしない。

 

それが逆に腹立たしかった。

 

「……何なんだよ、これ」

 

仮面越しにくぐもった声が響く。

 

ヴァンは答える。

 

「境界だ」

 

「は?」

 

「昨日までのお前と、明日からのお前を分けるものだ」

 

シンクは鼻を鳴らした。

 

「詩人か」

 

「残念ながら現実主義者だよ」

 

---

 

仮面を外す。

 

白い面に、自分の指の跡が残っていた。

 

「俺は変わらねえ」

 

「そうかもしれない」

 

ヴァンは肩をすくめる。

 

「だが、周囲の見方は変わる」

 

長机へ一枚の外套が置かれる。

 

黒を基調とした戦装束。

鋭い意匠。

六神将位階章。

 

「着ろって?」

 

「提案だ」

 

「命令だろ」

 

「今は違う」

 

ヴァンの目が細くなる。

 

「自分で選べ」

 

その言葉だけは、一貫していた。

 

---

 

シンクは外套を睨む。

 

選ぶ。

 

その言葉は嫌いだった。

 

選ばれたことなどなかったから。

 

捨てられ、使われ、余り物として生きてきた。

 

それでも今、初めて自分へ差し出されている。

 

腹立たしいほど魅力的だった。

 

「……着たら何だ」

 

「六神将だ」

 

「肩書に興味ねえ」

 

「なら権限と言い換えよう」

 

ヴァンは淡々と続ける。

 

「自由に動ける。命令できる。欲しい情報へ手が届く」

 

少し間を置く。

 

「そして、ルークへ近づける」

 

シンクの瞳が揺れた。

 

---

 

その頃、中庭。

 

ルークは木剣を振っていた。

 

妙に荒い。

 

ティアが腕を組んで見ている。

 

「集中してない」

 

「してる」

 

「してない」

 

「してるって」

 

「心ここにあらず」

 

ルークが舌打ちする。

 

「……アリエッタ泣いてた」

 

ティアは少し黙った。

 

「ええ」

 

「シンクと何かあったんだろ」

 

「そうね」

 

「何なんだよあいつ」

 

木剣を振り下ろす。

 

鈍い音。

 

「最近ずっと変だ」

 

ティアは視線を逸らさない。

 

「あなたも鈍いままね」

 

「は?」

 

「そのままでいなさい」

 

「意味分かんねえ」

 

分からなくていい、とティアは思った。

 

まだ今は。

 

---

 

地下保管庫。

 

シンクは外套を手に取った。

 

重い。

 

布の重さではない。

 

意味の重さだった。

 

「……名前は」

 

「好きに名乗るといい」

 

「今の名前じゃ駄目か」

 

ヴァンは静かに答える。

 

「それは、お前が誰かに与えられたものだろう?」

 

胸の奥がざらつく。

 

確かにそうだ。

 

誰が付けたのかも曖昧な呼び名。

 

本名ですらない気がする。

 

「……なら」

 

仮面を見下ろす。

 

空っぽの顔。

 

叫びも泣き顔も隠せる顔。

 

「シンクでいい」

 

ヴァンは微笑んだ。

 

「理由は?」

 

「どうでもいい」

 

少し間を置く。

 

「……沈む音だ」

 

それが本音だった。

 

深く、暗く、誰にも届かず沈んでいく音。

 

ヴァンは否定しない。

 

「いい名だ」

 

---

 

シンクは外套へ袖を通した。

 

思ったより馴染む。

 

腹が立つほどに。

 

仮面も付ける。

 

視界が狭まる。

 

息がこもる。

 

だが、不思議と楽だった。

 

自分の顔を見られない。

 

ルークと比べられない。

 

誰かの失敗作の顔を隠せる。

 

「……悪くない」

 

初めて自分から言った。

 

ヴァンは頷く。

 

「歓迎しよう。六神将」

 

その言葉に高揚はない。

 

あるのは、静かな覚悟だけだった。

 

---

 

翌日。

 

本部内通路。

 

兵士たちがざわついていた。

 

「新しい六神将?」

 

「誰だあれ」

 

「仮面だぞ」

 

黒い外套を翻し、シンクが歩く。

 

誰も顔を知らない。

 

誰も声を知らない。

 

ただ道だけが開く。

 

それが妙に気持ち悪く、少しだけ心地よかった。

 

角を曲がったところで、ルークと鉢合わせる。

 

「……は?」

 

ルークが足を止める。

 

「誰だお前」

 

シンクの心臓が跳ねる。

 

仮面の下で呼吸を整える。

 

「通れ」

 

低く、抑えた声。

 

ルークは眉をひそめる。

 

「何かムカつく声だな」

 

思わず笑いそうになった。

 

だが堪える。

 

「どけ」

 

肩をぶつけるように通り過ぎる。

 

ルークが振り返る。

 

「待てよ!」

 

止まらない。

 

背中越しに聞こえる声だけが、妙に遠かった。

 

---

 

その夜。

 

自室。

 

シンクは仮面を外し、鏡の前へ置いた。

 

隣に自分の顔。

 

並べて見る。

 

どちらが本物か分からなかった。

 

「……これでいい」

 

誰へ言うでもなく呟く。

 

だが胸の奥は、少しも軽くなっていなかった。

 

---

 

旧療養区画。

 

アリエッタは縫いかけの上着を抱えていた。

 

昼間、誰もいない部屋の前へ置いてきたものだ。

 

返されていた。

 

丁寧に畳まれて。

 

その上へ、六神将位階章だけが置かれていた。

 

意味は分からない。

 

でも、遠くへ行ったことだけは分かった。

 

アリエッタは静かに泣いた。

 

---

 

ヴァンは窓辺で夜空を見ていた。

 

一つ駒が進んだ。

 

次は、赤い駒だ。

 

「さあ」

 

誰にも聞こえない声で呟く。

 

「物語を始めよう」

 

---

 

七年目の終わりは、静かだった。

 

冬が近い。

 

風は冷たく、石畳は夜になると白く息を返す。

 

本部の空気もどこか張り詰めていた。

 

命令系統の整理。

人員再配置。

各地との連絡強化。

上層部の密会。

 

誰も理由を言わない。

 

だが、何かが始まる前の匂いだけは誰にでも分かった。

 

---

 

ルークは、その“何か”が気に入らなかった。

 

訓練場でも、食堂でも、巡回中でも、妙に周囲がよそよそしい。

 

話しかければ誤魔化される。

 

聞けば濁される。

 

ティアに至っては露骨だった。

 

「何か知ってんだろ」

 

「知っていても、今は言わない」

 

「あるんじゃねえか」

 

「ええ」

 

「言えよ!」

 

「嫌よ」

 

「何でだよ!」

 

「あなたが面倒だから」

 

「理由になってねえ!」

 

ティアは少しだけ視線を逸らした。

 

本当の理由は別にある。

 

言えないのだ。

 

まだ。

 

---

 

アリエッタは、最近よく夜に起きていた。

 

眠れない。

 

夢を見る。

 

森の奥へ消える母の背中。

泣いている自分。

そして、仮面の少年の背中。

 

どちらも振り返らない。

 

その夜も目が覚め、毛布を抱えて廊下へ出た。

 

静かな旧療養区画。

 

だが、遠くで誰かの足音がした。

 

軽く、迷いのない足音。

 

シンクだった。

 

黒い外套。仮面。荷袋。

 

アリエッタの喉が鳴る。

 

「……シンク」

 

足が止まる。

 

ゆっくり振り向く。

 

仮面の奥から視線だけが向いた。

 

---

 

「……どこ、いく」

 

「任務だ」

 

「……うそ」

 

即答だった。

 

シンクは少し黙る。

 

「……鋭くなったな」

 

「……いかないで」

 

声が震えていた。

 

「……ここ、いる」

 

「無理だ」

 

「……なんで」

 

シンクは答えない。

 

答えられない。

 

ここにいれば、自分はずっと輪の外だ。

 

笑う彼らを見て、腐っていく。

 

それが分かってしまった。

 

「……ここにいても」

 

低い声だった。

 

「俺は誰にもならない」

 

アリエッタの目から涙が落ちる。

 

「……いるだけで、いい」

 

その一言だけで、胸が裂けそうになる。

 

だからこそ、首を振った。

 

「お前にはな」

 

---

 

そこへ足音が響く。

 

「……何してんだ」

 

ルークだった。

 

寝起きの顔。上着も雑。髪も乱れている。

 

だが目だけは鋭かった。

 

「やっぱりお前か」

 

仮面の男を見て眉をひそめる。

 

「最近うろついてる六神将」

 

シンクは黙る。

 

ルークはアリエッタの涙に気づいた。

 

顔つきが変わる。

 

「泣かせたのか」

 

「……関係ない」

 

「あるだろ」

 

一歩前へ出る。

 

「何なんだよお前」

 

答えない。

 

「シンクのこと知ってんのか」

 

肩が揺れそうになる。

 

「最近あいつ消えてんだよ」

 

黙る。

 

「お前と関係あるのか」

 

呼吸が浅くなる。

 

ルークはさらに近づく。

 

「何とか言えよ!」

 

---

 

シンクは笑った。

 

乾いた、小さな笑いだった。

 

「……その顔」

 

「は?」

 

「いつまで、自分のものだろうな」

 

ルークの動きが止まる。

 

意味が分からない顔。

 

昔からそうだ。

 

何も知らず、何も失わず、何も分からないまま中心にいる顔。

 

腹が立つ。

 

羨ましい。

 

憎い。

 

「何言って――」

 

言い終わる前に、シンクは身を翻した。

 

走る。

 

回廊を抜ける。

 

夜風が仮面の隙間へ刺さる。

 

「待て!」

 

ルークが追う。

 

だが一瞬遅い。

 

曲がり角、外壁、搬入口。

 

そこにヴァンがいた。

 

闇の中で、穏やかに。

 

「時間通りだ」

 

「……うるさい」

 

シンクは吐き捨てる。

 

ヴァンは笑う。

 

「では行こう」

 

---

 

搬入口へ着いたルークが見たのは、開いた扉だけだった。

 

冷たい外気が流れ込む。

 

誰もいない。

 

拳を壁へ叩きつける。

 

「クソッ!」

 

アリエッタが追いつき、泣きながら立ち尽くす。

 

ルークは振り返る。

 

「……あいつ、誰だ」

 

アリエッタは首を振る。

 

言えない。

 

言葉にならない。

 

ティアも来た。

 

二人を見るなり、全てを察した顔になる。

 

「……遅かった」

 

「知ってたのか!?」

 

ルークが怒鳴る。

 

ティアは静かに受け止める。

 

「ええ」

 

「何で止めなかった!」

 

「止められたと思う?」

 

その一言で、ルークは言葉を失う。

 

ティアの瞳には、怒りより深い諦めがあった。

 

---

 

旧療養区画。

 

オリジナルイオンは窓辺で夜明け前の空を見ていた。

 

「行ってしまいましたか」

 

ティアが頷く。

 

「ええ」

 

「……残念です」

 

レプリカイオンは不安そうに俯いている。

 

「ぼく、何かできたでしょうか」

 

「あなたは何も悪くない」

 

ティアは即答した。

 

だが、誰にも何もできなかったのだと、自分自身へ言っているようでもあった。

 

---

 

山道。

 

シンクは振り返らない。

 

本部の灯りが遠ざかる。

 

輪の中の光が、小さくなる。

 

胸は苦しいままだ。

 

仮面の下で、歯を食いしばる。

 

それでも足は止めない。

 

止めたら戻りたくなる。

 

ヴァンが隣で言う。

 

「後悔しているかい」

 

「してない」

 

即答だった。

 

少し間を置いて、続ける。

 

「……でも、ムカつく」

 

ヴァンは笑った。

 

「それでいい」

 

---

 

七年目は終わる。

 

拾われかけた少年が、

自分で敵になることを選んだ年。

 

そして世界は、本編へ続いていく。

 

ルークはまだ知らない。

 

自分の顔の意味を。

去った少年の正体を。

この夜が、全ての始まりだったことを。

 




次から本編スタートかも
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