TALES OF THE ABYSS Re:Birth   作:ばっしー171

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Episode 0-1 送り出す手、進む足(4/20改訂)

魔弾の教官

 

ルークが初めてその女を見た時、最初に思ったのは「怖そう」だった。

 

強そう、ではない。綺麗だとか、冷たそうだとか、そういう感想より先に、怖い、が来た。

 

ユリアシティの外れ。神託の盾の訓練区画。乾いた風が砂を巻き上げる、殺風景な場所だった。石壁は高く、地面は踏み固められ、空気は乾き、華やかなものは何一つない。公爵家の屋敷で見慣れた庭園とも、磨かれた廊下とも、あまりに違う。

 

その真ん中に、女はいた。

 

背筋を伸ばし、黒い髪を揺らし、微動だにせずこちらを見る。立っているだけで場の空気が引き締まるような、そんな女だった。

 

その隣で、ヴァンが穏やかに笑っている。

 

「リグレット。今日からこの子を頼む」

 

女――リグレットは、わずかに視線を落とした。まだ幼いルークを値踏みするように、一度だけ上から下まで見る。その目に露骨な嫌悪はなかったが、甘さもなかった。

 

「……随分と、面倒そうなものを置いていくのね」

 

「手厳しいな」

 

「事実でしょう」

 

ヴァンは肩をすくめる。

 

「しばらく預かってくれ。基礎だけでいい」

 

「基礎、ね」

 

リグレットはもう一度ルークを見る。

 

ルークは睨み返した。怖いと思ったことを悟られたくなかった。

 

「……何だよ」

 

リグレットの眉がほんの少しだけ動く。

 

「口は達者そうね」

 

「お前に言われたくねえ」

 

ヴァンが小さく咳払いした。

 

「ルーク」

 

「だって――」

 

「ここでは、その調子で損をする」

 

優しい声音だった。だが、逆らえない声でもあった。

 

ルークは唇を尖らせ、顔を背ける。

 

リグレットはそれを見て、呆れたように息を吐いた。

 

「甘い坊やね」

 

その一言が、妙に腹立たしかった。

 

「甘くねえよ」

 

「そう」

 

あまりにもあっさり流されて、余計に腹が立つ。

 

ヴァンはルークの頭を軽く撫でた。

 

「ルーク。しばらくここで学べ」

 

「どれくらいだよ」

 

「まずは立つところからだな」

 

「立つくらいできる!」

 

「どうかしら」

 

口を挟んだのはリグレットだった。

 

「坊や。立つ、というのはただ倒れないことじゃないわ」

 

そう言って、彼女はルークの足元を一瞥した。

 

「重心が甘い。肩が上がっている。視線が泳いでいる。そんな立ち方、外では三歩持たない」

 

ルークは言い返そうとして、言葉に詰まった。

 

図星だったからではない。ただ、あまりにも迷いなく断じられたことに、気勢を削がれたのだ。

 

リグレットは踵を返す。

 

「来なさい」

 

「は?」

 

「今日からここが、あなたの訓練場よ」

 

ヴァンが去っていく背中を見送りながら、ルークは小さく歯を食いしばった。

 

置いていかれる、という感覚は嫌いだった。

 

だが、ヴァンが振り返って笑う。

 

「頑張れ、ルーク」

 

その言葉だけで、泣き言を飲み込んでしまった自分が、少し悔しかった。

 

最初の一日は、最悪だった。

 

木剣も持たせてもらえない。譜銃も見せてもらえない。走れと言われ、走れば遅いと言われ、止まれば立てと言われ、立てば姿勢が悪いと叩かれる。

 

「背筋」

 

「うるせえ」

 

「視線」

 

「見てるって」

 

「重心」

 

「分かんねえよ!」

 

そのたびに、リグレットの木の棒がルークの肩や膝や腰を軽く叩いた。痛いほどではない。だが鬱陶しい。

 

「その程度も分からないなら、分かるまでやりなさい」

 

「何でこんなことしなきゃなんねえんだよ!」

 

「生きるためよ」

 

即答だった。

 

「大袈裟だろ」

 

「大袈裟ではないわ」

 

その声音に冗談はなかった。

 

ルークは口を閉ざすしかなかった。

 

日が傾く頃には、脚が震えていた。息も荒い。手のひらは汗で濡れている。ユリアシティの庭で遊んでいた時の疲れとは、種類が違った。

 

地面へ座り込むと、すぐに木の棒が肩へ当たる。

 

「立ちなさい」

 

「無理」

 

「無理かどうかは、立ってから言いなさい」

 

「鬼かよ……」

 

「よく言われるわ」

 

全く悪びれない。

 

仕方なく立ち上がる。膝が笑った。リグレットはその様子を見て、少しだけ目を細める。

 

「倒れていないなら、まだ終わりじゃない」

 

「終われよ……」

 

「終わらない」

 

その日、ルークは初めて、誰かに本気で「嫌いだ」と思った。

 

そして同時に、嫌いだと思っても関係なく続く時間があることを知った。

 

数日後、ルークは泣きながら走っていた。

 

泣いているつもりはなかった。けれど、風に晒された頬がやけに熱いことと、鼻の奥がつんとすることに気づいていた。

 

悔しかったのだ。

 

思ったよりできない。思ったより遅い。思ったより弱い。

 

屋敷の中では誰もそんなこと言わなかった。ヴァンは優しかったし、テオドーロも厳しくはあっても、ここまで容赦はしなかった。だから余計に、突きつけられる事実が痛かった。

 

「足を止めるな」

 

背後から声が飛ぶ。

 

「止めてねえ!」

 

叫ぶと、呼吸が乱れた。途端に速度が落ちる。

 

「今、落ちたわよ」

 

「うるせえ!」

 

「口を使うなら脚を使いなさい」

 

本当に腹が立つ女だ、とルークは何度目か分からないことを思った。

 

走り終えた後、地面へ倒れ込んだルークの視界に、逆さまの空が映った。

 

青い。高い。憎たらしいほど綺麗だ。

 

その視界を遮るように、リグレットの顔がのぞき込む。

 

「吐く?」

 

「……吐かねえ」

 

「そう」

 

水筒が差し出された。

 

少し意外だった。だが奪うように受け取り、一気に飲む。

 

「……ぬるい」

 

「贅沢ね」

 

「冷えてる方がうまいだろ」

 

「生きてるだけで十分よ」

 

本気でそう思っている顔だった。

 

ルークは口をつぐむ。

 

その時だけ、少しだけ、違う場所に来たのだという実感があった。

 

二週間目に入った頃、ようやく木剣を持たされた。

 

嬉しかった。

 

これでようやく“訓練らしい訓練”ができる、と思った。

 

その期待は、すぐに粉々になった。

 

「振りが大きい」

 

「当てるにはこれくらい――」

 

「殺されるわよ」

 

「っ」

 

「隙を見せすぎる」

 

「……」

 

「脚と手が繋がっていない。腕だけで振るな」

 

一つ言い返すたびに、二つ返される。

 

打ち込めば流される。踏み込めば転ばされる。悔しくて突っ込めば、さらに簡単に崩される。

 

最後には木剣を取り落とした。

 

カラン、と乾いた音が鳴る。

 

ルークは息を荒げたまま、それを見つめた。

 

「……くそ」

 

「拾いなさい」

 

「分かってる」

 

拾おうとした手が、震えている。

 

疲労か、怒りか、悔しさか。

 

たぶん全部だった。

 

その様子を見下ろしながら、リグレットは淡々と告げた。

 

「怒るのは勝手よ」

 

「じゃあ怒らせんな」

 

「でも、怒ったまま振るうな」

 

ルークが顔を上げる。

 

リグレットの目は変わらず静かだった。

 

「感情で振る剣は浅い」

 

「……分かったようなこと言うな」

 

「分かっているから言ってるの」

 

その返しがあまりにも揺るがなくて、ルークはそれ以上何も言えなかった。

 

譜銃を初めて見せられたのは、それから少し経ってからだった。

 

訓練場の片隅。陽が傾き始め、石壁の影が長く伸びている時間だった。

 

黒く、無機質で、どこか冷たい金属の塊。

 

リグレットはそれを片手で持ち上げる。

 

「これが譜銃よ」

 

ルークの目が少しだけ輝く。

 

「やっとそれっぽいの出てきたな」

 

「それっぽい?」

 

「武器っぽい」

 

「今までの訓練は武器じゃなかったの?」

 

「そういう意味じゃねえよ」

 

リグレットは小さく鼻を鳴らし、譜銃を差し出した。

 

「持ってみなさい」

 

ルークは両手で受け取る。

 

思っていたより重い。ずっしりとした金属の塊が掌に沈む。

 

「……こんなもんなのか」

 

「何だと思っていたの」

 

「もっと軽いかと」

 

「軽ければ扱いやすい、というものでもないわ」

 

リグレットはルークの手元を見ながら続ける。

 

「譜銃は玩具じゃない。詠唱を短縮し、術式を固定し、引き金一つで放つための道具よ」

 

「詠唱?」

 

「譜術を使う時、本来は術式を組む必要がある。その一部を肩代わりするのが譜銃」

 

ルークは眉を寄せた。

 

「分かりづれえ」

 

「簡単に言うと、考える時間を減らすための武器よ」

 

「最初からそう言え」

 

「雑」

 

すぐに返ってくる一言に、ルークは顔をしかめる。

 

リグレットは的の前に立つ。

 

「よく見なさい」

 

構え。呼吸。視線。

 

無駄が一つもない。

 

乾いた音が響き、的の中心に穴が開く。

 

ルークは思わず目を見開いた。

 

「すげえ……」

 

その小さな呟きに、リグレットは少しだけ目を細めた。

 

「褒めるの?」

 

「今のは……その、まあ……すごかった」

 

「そう」

 

ほんの僅かだったが、口元が緩んだ気がした。

 

だが次の瞬間には、もういつもの顔に戻っている。

 

「じゃあ、やってみなさい」

 

「今の見た後でかよ!?」

 

当然、当たらなかった。

 

一発目は明後日の方向。二発目は的の枠。三発目に至っては、引き金を引くタイミングで目を閉じた。

 

「……っ」

 

悔しさで耳まで熱くなる。

 

「話にならないわね」

 

「最初からできるかよ!」

 

「できるとは言っていない」

 

リグレットはルークの後ろへ回る。

 

肩を押さえ、腕の角度を直し、足の位置を少しずらす。

 

「力みすぎ」

 

「ち、近い――」

 

「黙りなさい」

 

ぴしゃりと言われて、ルークは固まる。

 

「撃つ前から外すな」

 

「は?」

 

「当てようとしすぎるな。狙うなとは言わない。でも、“当てたい”と焦るな」

 

耳元で落ちる声は静かだった。

 

「外さない位置で撃ちなさい」

 

その言葉は後々まで残ることになる。

 

何日も何日も、ルークは譜銃を撃った。

 

当たらない。ずれる。焦る。怒る。外す。

 

その繰り返し。

 

それでも少しずつ、腕の振れは減り、引き金を引く呼吸は整っていった。

 

ある日、夕暮れの訓練場で、ふと静かな瞬間があった。

 

風が止み、砂も舞わず、空気が張る。

 

ルークは構える。

 

呼吸を整える。

 

視線を固定する。

 

リグレットの声はない。

 

ただ、自分の鼓動だけが聞こえた。

 

引き金を引く。

 

乾いた音。

 

的の中心が抉れた。

 

ルークは目を見開いた。

 

「……あ」

 

自分でも信じられない、という顔だった。

 

リグレットがゆっくりと的を見て、それからルークを見た。

 

沈黙が長い。

 

褒められるか、どうか。

 

それが妙に気になった。

 

やがてリグレットが口を開く。

 

「……今のは良かったわ」

 

たったそれだけだった。

 

だが、その一言で、喉の奥が熱くなった。

 

嬉しい、と思ったのを悟られたくなくて、ルークは顔を逸らす。

 

「……当然だろ」

 

「そう」

 

リグレットはそれ以上何も言わない。

 

けれど、その日だけは帰り道の足取りが軽かった。

 

数日後、ルークは初めて任務へ同行した。

 

とはいっても前線ではない。後方支援に近い、小さな哨戒任務だった。

 

それでも、実戦は実戦だ。

 

訓練場の空気とは違う。音が違う。臭いが違う。風の冷たさまで違った。

 

緊張で喉が渇く。

 

リグレットは前を歩きながら、振り返らずに言う。

 

「離れるな」

 

「分かってる」

 

「分かっていない顔をしてるわ」

 

言い返す余裕はなかった。

 

敵との接触は突然だった。

 

森の縁。足音。短い怒号。譜銃の音。

 

何が起きたか理解するより先に、人が倒れた。

 

赤い。生臭い。土に沈む音がやけに近い。

 

ルークは足を止めた。

 

呼吸が詰まる。

 

倒れた男は、もう動かなかった。

 

吐き気が一気にこみ上げる。

 

物陰へ駆け込み、胃の中身を吐いた。

 

喉が焼ける。

 

目の奥が痛い。

 

背後で足音が止まる。

 

リグレットだった。

 

慰めの言葉はない。

 

背中をさすることもない。

 

しばらくそのまま吐き終えるのを待ってから、静かに言った。

 

「見るだけで吐くなら、撃つ側になるな」

 

ルークは顔を上げる。

 

涙と吐き気でぐしゃぐしゃのまま、睨み返す。

 

「……っ」

 

何か言い返したかった。けれど言葉にならない。

 

リグレットは続ける。

 

「ここで吐くことは恥じゃない」

 

「……」

 

「でも、次に立てないなら向いていない」

 

その目は厳しかった。

 

優しさがないのではない。優しさで済ませないのだ。

 

ルークは歯を食いしばる。

 

悔しい。怖い。吐き気がする。帰りたい。

 

それでも。

 

「……立つ」

 

絞り出すように言う。

 

リグレットはわずかに頷いた。

 

「なら来なさい」

 

その一言で、ルークはもう一度立ち上がった。

 

その夜、足が震えて眠れなかった。

 

人が死ぬところを見た。

 

自分がいる場所は、そういう場所なのだと知った。

 

翌日、訓練場で木剣を握る手が少し重かった。

 

それでも、リグレットは何も変えなかった。

 

立たせる。走らせる。撃たせる。転ばせる。

 

いつも通り。

 

そのいつも通りが、逆にありがたかった。

 

特別扱いされないことが、救いになる夜もあるのだと、ルークはまだ知らなかった。

 

ティアが様子を見に来たのは、その少し後だった。

 

訓練場の端。風の強い夕方。ルークは木剣を握ったまま地面へ座り込んでいた。髪は汗で張りつき、腕は上がらない。頬には砂がついている。

 

「……ひどい顔」

 

聞き慣れた声に、顔を上げる。

 

ティアだった。

 

ほんの少し背が伸びて、髪も前より長くなっている。けれど、その目元は知っている頃のままだった。

 

「お前……」

 

「何、その顔」

 

「別に」

 

「全然別じゃないわ」

 

ティアはルークの隣へしゃがみ込む。

 

腕の痣、裂けた手のひら、荒い呼吸を見て、眉をひそめた。

 

「やりすぎじゃないの?」

 

その問いに答えたのは、背後に立っていたリグレットだった。

 

「足りないわよ」

 

ティアが振り返る。

 

「リグレット」

 

「心配しすぎ」

 

「してない」

 

「そう」

 

そのやり取りを見て、ルークは少しだけ気が抜けた。

 

ティアがむっとした顔でこちらを見る。

 

「……でも、ちゃんと立ってるのね」

 

「当たり前だろ」

 

「前ならもっと文句言ってたわ」

 

「今も言ってる」

 

「そういうことじゃない」

 

ティアは少しだけ笑った。

 

ルークは顔を背ける。

 

そのやり取りを、リグレットは黙って見ていた。

 

しばらくして、ティアが去った後、彼女はぽつりと言った。

 

「少しは格好をつけたい相手がいるのね」

 

「は?」

 

「別に」

 

「何だよ、それ」

 

「そういう年頃かと思っただけ」

 

ルークは耳まで赤くなった。

 

「違う!」

 

「そう」

 

全く信じていない声だった。

 

その日の訓練は、やけに集中できなかった。

 

冬の夜、リグレットは一人で書類を整理していた。

 

任務記録。訓練報告。支給物資の確認。灯りの下で淡々と紙をめくる手が、あるところで止まる。

 

ルークの名があった。

 

初日。姿勢不良。基礎体力不足。反抗的。集中力散漫。

 

最近。持久力改善。判断速度向上。譜銃基礎良好。感情制御不安定だが成長傾向。

 

鼻で笑う。

 

「……嫌になるわね」

 

誰に聞かせるでもない独り言だった。

 

情を移すつもりはなかった。移していい立場でもなかった。

 

ホドを知っている。失ったものを知っている。ヴァンに従う意味も知っている。

 

それでも、立ち上がるたびに目を逸らさない少年を見ていると、どこかで線が揺らぐ。

 

「面倒な坊や」

 

そう呟いて、書類を閉じた。

 

年の終わり、訓練場。

 

冷たい風が砂を転がしていく。

 

ルークは的へ向けて最後の一発を放った。

 

乾いた音。

 

中心を穿つ。

 

以前なら偶然だった。今は違う。

 

積み重ねた結果だった。

 

「終わりじゃないわよ」

 

横に立つリグレットが言う。

 

「分かってる」

 

「次がある」

 

「それも分かってる」

 

ルークは譜銃を下ろし、少しだけ笑った。

 

「でも、前よりはマシだろ」

 

リグレットはしばらく黙り、それから頷いた。

 

「ええ」

 

それは褒め言葉というには短く、評価というには静かだった。

 

けれど、ルークには十分だった。

 

最初にこの女を見た時、怖いと思った。

 

今も怖い。

 

腹も立つ。

 

厳しいし、面倒だし、容赦もない。

 

けれど。

 

その背中を見て進むことに、もう迷いはなかった。

 

リグレット編は終わらない。

 

終わらないまま、次の年へ繋がっていく。

 

基礎とは、終わってからも残るものだからだ。

 

そしてルークは、この年に初めて知った。

 

怖い大人に鍛えられることは、決して悪いことばかりではないのだと。

 

---

 

神託の盾本部の廊下は、朝から騒がしかった。

 

兵士の足音。訓練区画へ向かう号令。物資搬入の台車が石床を鳴らし、遠くでは誰かが怒鳴っている。秩序立っているようで、どこか雑多な音の集まりだった。

 

その中を、ティアは一人で歩いていた。

 

幼い足取り。小さな背中。だが、その瞳だけは年齢に似合わぬ静けさを宿している。

 

この場所には慣れている。

 

けれど、好きにはなれなかった。

 

ここにはヴァンがいる。リグレットがいる。兵士たちがいる。そして――ルークがいる。

 

それだけで十分な理由になる。

 

だが同時に、この場所は時折、息苦しかった。

 

誰も知らない未来を知っていること。誰にも言えない記憶を抱えていること。幼い身体の中に、終わった世界の重みだけが残っていること。

 

それを口にできる相手は、いない。

 

「その顔、探し物してる顔だね」

 

声に、ティアは足を止めた。

 

振り返る。

 

誰もいないと思っていた窓際の長椅子に、少女が座っていた。

 

いつからそこにいたのか分からない。

 

自分とそう変わらぬ年頃。脚を揺らし、陽の光の中でにこにこと笑っている。柔らかな髪が肩で跳ね、表情はくるくるとよく動く。

 

だが、その気配は薄かった。

 

兵士たちが行き交うこの廊下で、ここまで近づかれて気づかなかったことに、ティアはわずかに警戒する。

 

少女はそんな視線など気にせず、ひらひらと手を振った。

 

「こんにちは」

 

「……こんにちは」

 

「迷子じゃないね、その顔は」

 

「違うわ」

 

「じゃあ会いたい人がいる顔」

 

ティアは少し黙った。

 

少女は目を細める。

 

「当たり?」

 

「……あなた、誰」

 

少女は胸を張った。

 

「カンタビレ!」

 

「名前を聞いているのだけれど」

 

「だから名前!」

 

「変わった名前ね」

 

「そっちも十分変よ」

 

即答だった。

 

ティアはため息をつく。

 

この手合いは苦手だ、と本能が告げている。

 

だが、ただ騒がしいだけではない。

 

こちらの表情、間、視線の流れを見て言葉を選んでいる。思いつきのようでいて、妙に的確だ。

 

「ティア、でしょ?」

 

「……どうして」

 

「さっき兵士さんが呼んでた」

 

にこりと笑う。

 

本当かどうか分からない。

 

半分は本当で、半分は別のところから拾っている顔だった。

 

「で、誰に会いに来たの?」

 

「……知り合いよ」

 

「男の子?」

 

「ええ」

 

「好きな子?」

 

「違うわ」

 

即答だった。

 

「早っ」

 

「違うもの」

 

「ふーん」

 

カンタビレは椅子から飛び降りる。

 

「“そう思いたい相手”って感じかな」

 

ティアは眉をひそめた。

 

「何それ」

 

「否定が早い時って、大体そうなんだよね」

 

「……あなた、嫌い」

 

「ありがとう!」

 

会話が成立しない。

 

それでも、不思議と不快ではなかった。

 

悪意がない。裏表も少ない。だが、見えている範囲が広い。

 

未来を知る自分とは別の意味で、人を見る目を持っている。

 

「訓練区画にいるんでしょ?」

 

「……どうしてそう思うの」

 

「歩く速さが、途中から少しだけ上がった」

 

ティアは完全に黙った。

 

カンタビレはにこにこしたまま言う。

 

「行こ!」

 

「は?」

 

「その知り合い、見に行くんでしょ?」

 

「あなたまで来る必要は――」

 

「あるよ」

 

「ないわよ」

 

「あるの」

 

押し切られた。

 

そのまま半ば引きずられるように歩き出す。

 

途中、兵士たちがすれ違いざまにカンタビレへ気安く声をかける。

 

「おう、また潜り込んでるのか」

 

「今日は正面から入ったよ!」

 

「それもどうなんだ……」

 

ティアは横目で見る。

 

「……あなた、何者なの」

 

「伝令補助、雑用手伝い、時々おつかい、時々内緒のお願い係」

 

「最後が一番怪しいわ」

 

「気のせい気のせい」

 

全く気のせいではない。

 

訓練場が見えてきた。

 

乾いた地面。石壁。朝の光。

 

その中央で、ルークが木剣を振っていた。

 

汗だくで、息を荒げ、何度倒されても立ち上がっている。向かい合うのはリグレットだった。

 

「そこまで!」

 

木剣が弾かれ、ルークが転ぶ。

 

「くそっ!」

 

「立ちなさい」

 

「今立つ!」

 

「遅い」

 

「うるせえ!」

 

いつもの調子だった。

 

ティアは胸の奥が少しだけ緩むのを感じた。

 

ちゃんといる。

 

生きている。

 

怒っている。

 

それだけで、十分だった。

 

隣でカンタビレがじっと見ている。

 

「へえ」

 

「何よ」

 

「あの子、三回倒されても呼吸の戻し方が早い」

 

ティアはそちらを見る。

 

「……分かるの?」

 

「少しだけ」

 

「あなた、本当に何者なの」

 

「かわいい女の子」

 

「質問に答えてない」

 

カンタビレは笑ったまま、さらに続ける。

 

「でも、まだ力みすぎ。怒るたびに肩が上がる」

 

図星だった。

 

ティアは思わず訓練場へ視線を戻す。

 

確かに、ルークは腹を立てるたびに動きが荒くなる。

 

「それを直してるんだ、あの怖い教官」

 

リグレットを指さした。

 

「……あなた、見えてるのね」

 

「見てるだけだよ」

 

その言い方だけ、少しだけ年相応ではなかった。

 

「がんばれー!」

 

突然カンタビレが手を振った。

 

ティアはぎょっとする。

 

「やめなさい!」

 

訓練場のルークがこちらを見た。

 

「……あ?」

 

最悪だった。

 

リグレットの視線まで飛んでくる。

 

数秒の沈黙。

 

そしてリグレットが口を開く。

 

「見学なら静かにしなさい」

 

「はーい!」

 

「返事だけは良いわね」

 

「褒められた!」

 

「違うわ」

 

ルークは地面に座り込んだまま、こちらを睨んでいる。

 

「……何でお前まで増えてんだよ」

 

「知らないわよ!」

 

「友達?」

 

カンタビレが元気よく答える。

 

「今なった!」

 

「なってない!」

 

綺麗に声が重なった。

 

兵士たちの笑い声が起こる。

 

ティアは顔をしかめたが、少しだけ肩の力が抜けていた。

 

帰り道。

 

カンタビレが前を向いたまま言う。

 

「ティアって、寂しい顔するね」

 

足が止まりかけた。

 

「……何の話」

 

「さっき、あの子見た時だけ安心した顔だった」

 

ティアは答えない。

 

答えられなかった。

 

カンタビレは振り返らずに続ける。

 

「大丈夫。秘密にしとく」

 

「……別に秘密じゃないわ」

 

「じゃあもっと難しいやつか」

 

そう言って笑う。

 

ティアは小さく息を吐いた。

 

この少女はうるさい。

 

軽い。

 

遠慮がない。

 

でも、多分。

 

思っていたより、ずっと油断ならない。

 

その日から、カンタビレは何かとティアの隣へ現れるようになった。

 

足音もなく。

 

気づけばそこにいて、勝手に喋っている。

 

黙っている少女と、喋り続ける少女。

 

相性が良いのか悪いのか、誰にも分からない。

 

ただ一つ確かなのは。

 

ティアが少しだけ、一人でなくなったということだった。

 

---

訓練場へ向かう朝だった。

乾いた風が砂をさらい、いつも通り兵士たちの号令が飛ぶ。木剣の打ち合う音、譜銃の整備音、怒鳴り声。聞き慣れた喧騒だった。

ルークは肩へ木剣を担ぎながら歩く。

 

「今日こそ一本取ってやる」

 

誰に、とは言わない。

言うまでもなくリグレットだった。

その時だった。

本部の空気が、不意に変わった。

ざわめきが静まり、人の流れが左右へ割れていく。兵士たちは姿勢を正し、口数を減らし、通路へ視線を向けていた。

 

「……何だ?」

 

近くの兵士へ尋ねると、小声で返ってくる。

 

「総長殿がお戻りだ」

 

ヴァンか、とルークは思った。

だが兵士は続けた。

 

「お方もご一緒だ」

 

通路の奥から、白い衣が見えた。

年若い少年だった。

雪のように淡い衣。静かな足取り。儚いほど整った顔立ち。柔らかな眼差しの奥に、不思議な強さだけが宿っている。

その隣には、幼い少女の姿もあった。

ルークは思わず足を止める。

自分とそう変わらぬ年頃に見えるのに、周囲の誰もが頭を垂れていた。

 

「……誰だよ、あれ」

 

リグレットがいつの間にか背後へ立っていた。

 

「導師イオン様よ」

「導師?」

「あなたにはまだ早い言葉ね」

「何だそれ」

 

ルークは白い少年を見つめた。

相手もまた、こちらへ視線を向ける。

ほんの一瞬だけ、目が合った。

それだけで、騒がしい朝の音が遠のいた気がした。

ヴァンのような圧はなく、

リグレットのような鋭さもない。

なのに、なぜか目を逸らせなかった。

イオンは小さく会釈した。

ルークは反射的に背筋を伸ばしていた。

その様子を見て、リグレットがわずかに口元を緩める。

 

「次の訓練相手は、少し違うわよ」

「は?」

「剣でも銃でもないものを学びなさい」

 

通路の先で、白い少年は静かに歩いていく。

その背は細く、頼りなく見えた。

それでも誰より重いものを背負っているように、ルークには見えた。

一年目が終わる。

立つことを覚えた少年は、次に“人の上に立つ者”を知る。

 




舞台がユリアシティからダアトへ移りました。今回はティア視点。
4/20 序盤の描写・設定整合性を見直し、全面改稿しました。
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