TALES OF THE ABYSS Re:Birth 作:ばっしー171
魔弾の教官
ルークが初めてその女を見た時、最初に思ったのは「怖そう」だった。
強そう、ではない。綺麗だとか、冷たそうだとか、そういう感想より先に、怖い、が来た。
ユリアシティの外れ。神託の盾の訓練区画。乾いた風が砂を巻き上げる、殺風景な場所だった。石壁は高く、地面は踏み固められ、空気は乾き、華やかなものは何一つない。公爵家の屋敷で見慣れた庭園とも、磨かれた廊下とも、あまりに違う。
その真ん中に、女はいた。
背筋を伸ばし、黒い髪を揺らし、微動だにせずこちらを見る。立っているだけで場の空気が引き締まるような、そんな女だった。
その隣で、ヴァンが穏やかに笑っている。
「リグレット。今日からこの子を頼む」
女――リグレットは、わずかに視線を落とした。まだ幼いルークを値踏みするように、一度だけ上から下まで見る。その目に露骨な嫌悪はなかったが、甘さもなかった。
「……随分と、面倒そうなものを置いていくのね」
「手厳しいな」
「事実でしょう」
ヴァンは肩をすくめる。
「しばらく預かってくれ。基礎だけでいい」
「基礎、ね」
リグレットはもう一度ルークを見る。
ルークは睨み返した。怖いと思ったことを悟られたくなかった。
「……何だよ」
リグレットの眉がほんの少しだけ動く。
「口は達者そうね」
「お前に言われたくねえ」
ヴァンが小さく咳払いした。
「ルーク」
「だって――」
「ここでは、その調子で損をする」
優しい声音だった。だが、逆らえない声でもあった。
ルークは唇を尖らせ、顔を背ける。
リグレットはそれを見て、呆れたように息を吐いた。
「甘い坊やね」
その一言が、妙に腹立たしかった。
「甘くねえよ」
「そう」
あまりにもあっさり流されて、余計に腹が立つ。
ヴァンはルークの頭を軽く撫でた。
「ルーク。しばらくここで学べ」
「どれくらいだよ」
「まずは立つところからだな」
「立つくらいできる!」
「どうかしら」
口を挟んだのはリグレットだった。
「坊や。立つ、というのはただ倒れないことじゃないわ」
そう言って、彼女はルークの足元を一瞥した。
「重心が甘い。肩が上がっている。視線が泳いでいる。そんな立ち方、外では三歩持たない」
ルークは言い返そうとして、言葉に詰まった。
図星だったからではない。ただ、あまりにも迷いなく断じられたことに、気勢を削がれたのだ。
リグレットは踵を返す。
「来なさい」
「は?」
「今日からここが、あなたの訓練場よ」
ヴァンが去っていく背中を見送りながら、ルークは小さく歯を食いしばった。
置いていかれる、という感覚は嫌いだった。
だが、ヴァンが振り返って笑う。
「頑張れ、ルーク」
その言葉だけで、泣き言を飲み込んでしまった自分が、少し悔しかった。
最初の一日は、最悪だった。
木剣も持たせてもらえない。譜銃も見せてもらえない。走れと言われ、走れば遅いと言われ、止まれば立てと言われ、立てば姿勢が悪いと叩かれる。
「背筋」
「うるせえ」
「視線」
「見てるって」
「重心」
「分かんねえよ!」
そのたびに、リグレットの木の棒がルークの肩や膝や腰を軽く叩いた。痛いほどではない。だが鬱陶しい。
「その程度も分からないなら、分かるまでやりなさい」
「何でこんなことしなきゃなんねえんだよ!」
「生きるためよ」
即答だった。
「大袈裟だろ」
「大袈裟ではないわ」
その声音に冗談はなかった。
ルークは口を閉ざすしかなかった。
日が傾く頃には、脚が震えていた。息も荒い。手のひらは汗で濡れている。ユリアシティの庭で遊んでいた時の疲れとは、種類が違った。
地面へ座り込むと、すぐに木の棒が肩へ当たる。
「立ちなさい」
「無理」
「無理かどうかは、立ってから言いなさい」
「鬼かよ……」
「よく言われるわ」
全く悪びれない。
仕方なく立ち上がる。膝が笑った。リグレットはその様子を見て、少しだけ目を細める。
「倒れていないなら、まだ終わりじゃない」
「終われよ……」
「終わらない」
その日、ルークは初めて、誰かに本気で「嫌いだ」と思った。
そして同時に、嫌いだと思っても関係なく続く時間があることを知った。
数日後、ルークは泣きながら走っていた。
泣いているつもりはなかった。けれど、風に晒された頬がやけに熱いことと、鼻の奥がつんとすることに気づいていた。
悔しかったのだ。
思ったよりできない。思ったより遅い。思ったより弱い。
屋敷の中では誰もそんなこと言わなかった。ヴァンは優しかったし、テオドーロも厳しくはあっても、ここまで容赦はしなかった。だから余計に、突きつけられる事実が痛かった。
「足を止めるな」
背後から声が飛ぶ。
「止めてねえ!」
叫ぶと、呼吸が乱れた。途端に速度が落ちる。
「今、落ちたわよ」
「うるせえ!」
「口を使うなら脚を使いなさい」
本当に腹が立つ女だ、とルークは何度目か分からないことを思った。
走り終えた後、地面へ倒れ込んだルークの視界に、逆さまの空が映った。
青い。高い。憎たらしいほど綺麗だ。
その視界を遮るように、リグレットの顔がのぞき込む。
「吐く?」
「……吐かねえ」
「そう」
水筒が差し出された。
少し意外だった。だが奪うように受け取り、一気に飲む。
「……ぬるい」
「贅沢ね」
「冷えてる方がうまいだろ」
「生きてるだけで十分よ」
本気でそう思っている顔だった。
ルークは口をつぐむ。
その時だけ、少しだけ、違う場所に来たのだという実感があった。
二週間目に入った頃、ようやく木剣を持たされた。
嬉しかった。
これでようやく“訓練らしい訓練”ができる、と思った。
その期待は、すぐに粉々になった。
「振りが大きい」
「当てるにはこれくらい――」
「殺されるわよ」
「っ」
「隙を見せすぎる」
「……」
「脚と手が繋がっていない。腕だけで振るな」
一つ言い返すたびに、二つ返される。
打ち込めば流される。踏み込めば転ばされる。悔しくて突っ込めば、さらに簡単に崩される。
最後には木剣を取り落とした。
カラン、と乾いた音が鳴る。
ルークは息を荒げたまま、それを見つめた。
「……くそ」
「拾いなさい」
「分かってる」
拾おうとした手が、震えている。
疲労か、怒りか、悔しさか。
たぶん全部だった。
その様子を見下ろしながら、リグレットは淡々と告げた。
「怒るのは勝手よ」
「じゃあ怒らせんな」
「でも、怒ったまま振るうな」
ルークが顔を上げる。
リグレットの目は変わらず静かだった。
「感情で振る剣は浅い」
「……分かったようなこと言うな」
「分かっているから言ってるの」
その返しがあまりにも揺るがなくて、ルークはそれ以上何も言えなかった。
譜銃を初めて見せられたのは、それから少し経ってからだった。
訓練場の片隅。陽が傾き始め、石壁の影が長く伸びている時間だった。
黒く、無機質で、どこか冷たい金属の塊。
リグレットはそれを片手で持ち上げる。
「これが譜銃よ」
ルークの目が少しだけ輝く。
「やっとそれっぽいの出てきたな」
「それっぽい?」
「武器っぽい」
「今までの訓練は武器じゃなかったの?」
「そういう意味じゃねえよ」
リグレットは小さく鼻を鳴らし、譜銃を差し出した。
「持ってみなさい」
ルークは両手で受け取る。
思っていたより重い。ずっしりとした金属の塊が掌に沈む。
「……こんなもんなのか」
「何だと思っていたの」
「もっと軽いかと」
「軽ければ扱いやすい、というものでもないわ」
リグレットはルークの手元を見ながら続ける。
「譜銃は玩具じゃない。詠唱を短縮し、術式を固定し、引き金一つで放つための道具よ」
「詠唱?」
「譜術を使う時、本来は術式を組む必要がある。その一部を肩代わりするのが譜銃」
ルークは眉を寄せた。
「分かりづれえ」
「簡単に言うと、考える時間を減らすための武器よ」
「最初からそう言え」
「雑」
すぐに返ってくる一言に、ルークは顔をしかめる。
リグレットは的の前に立つ。
「よく見なさい」
構え。呼吸。視線。
無駄が一つもない。
乾いた音が響き、的の中心に穴が開く。
ルークは思わず目を見開いた。
「すげえ……」
その小さな呟きに、リグレットは少しだけ目を細めた。
「褒めるの?」
「今のは……その、まあ……すごかった」
「そう」
ほんの僅かだったが、口元が緩んだ気がした。
だが次の瞬間には、もういつもの顔に戻っている。
「じゃあ、やってみなさい」
「今の見た後でかよ!?」
当然、当たらなかった。
一発目は明後日の方向。二発目は的の枠。三発目に至っては、引き金を引くタイミングで目を閉じた。
「……っ」
悔しさで耳まで熱くなる。
「話にならないわね」
「最初からできるかよ!」
「できるとは言っていない」
リグレットはルークの後ろへ回る。
肩を押さえ、腕の角度を直し、足の位置を少しずらす。
「力みすぎ」
「ち、近い――」
「黙りなさい」
ぴしゃりと言われて、ルークは固まる。
「撃つ前から外すな」
「は?」
「当てようとしすぎるな。狙うなとは言わない。でも、“当てたい”と焦るな」
耳元で落ちる声は静かだった。
「外さない位置で撃ちなさい」
その言葉は後々まで残ることになる。
何日も何日も、ルークは譜銃を撃った。
当たらない。ずれる。焦る。怒る。外す。
その繰り返し。
それでも少しずつ、腕の振れは減り、引き金を引く呼吸は整っていった。
ある日、夕暮れの訓練場で、ふと静かな瞬間があった。
風が止み、砂も舞わず、空気が張る。
ルークは構える。
呼吸を整える。
視線を固定する。
リグレットの声はない。
ただ、自分の鼓動だけが聞こえた。
引き金を引く。
乾いた音。
的の中心が抉れた。
ルークは目を見開いた。
「……あ」
自分でも信じられない、という顔だった。
リグレットがゆっくりと的を見て、それからルークを見た。
沈黙が長い。
褒められるか、どうか。
それが妙に気になった。
やがてリグレットが口を開く。
「……今のは良かったわ」
たったそれだけだった。
だが、その一言で、喉の奥が熱くなった。
嬉しい、と思ったのを悟られたくなくて、ルークは顔を逸らす。
「……当然だろ」
「そう」
リグレットはそれ以上何も言わない。
けれど、その日だけは帰り道の足取りが軽かった。
数日後、ルークは初めて任務へ同行した。
とはいっても前線ではない。後方支援に近い、小さな哨戒任務だった。
それでも、実戦は実戦だ。
訓練場の空気とは違う。音が違う。臭いが違う。風の冷たさまで違った。
緊張で喉が渇く。
リグレットは前を歩きながら、振り返らずに言う。
「離れるな」
「分かってる」
「分かっていない顔をしてるわ」
言い返す余裕はなかった。
敵との接触は突然だった。
森の縁。足音。短い怒号。譜銃の音。
何が起きたか理解するより先に、人が倒れた。
赤い。生臭い。土に沈む音がやけに近い。
ルークは足を止めた。
呼吸が詰まる。
倒れた男は、もう動かなかった。
吐き気が一気にこみ上げる。
物陰へ駆け込み、胃の中身を吐いた。
喉が焼ける。
目の奥が痛い。
背後で足音が止まる。
リグレットだった。
慰めの言葉はない。
背中をさすることもない。
しばらくそのまま吐き終えるのを待ってから、静かに言った。
「見るだけで吐くなら、撃つ側になるな」
ルークは顔を上げる。
涙と吐き気でぐしゃぐしゃのまま、睨み返す。
「……っ」
何か言い返したかった。けれど言葉にならない。
リグレットは続ける。
「ここで吐くことは恥じゃない」
「……」
「でも、次に立てないなら向いていない」
その目は厳しかった。
優しさがないのではない。優しさで済ませないのだ。
ルークは歯を食いしばる。
悔しい。怖い。吐き気がする。帰りたい。
それでも。
「……立つ」
絞り出すように言う。
リグレットはわずかに頷いた。
「なら来なさい」
その一言で、ルークはもう一度立ち上がった。
その夜、足が震えて眠れなかった。
人が死ぬところを見た。
自分がいる場所は、そういう場所なのだと知った。
翌日、訓練場で木剣を握る手が少し重かった。
それでも、リグレットは何も変えなかった。
立たせる。走らせる。撃たせる。転ばせる。
いつも通り。
そのいつも通りが、逆にありがたかった。
特別扱いされないことが、救いになる夜もあるのだと、ルークはまだ知らなかった。
ティアが様子を見に来たのは、その少し後だった。
訓練場の端。風の強い夕方。ルークは木剣を握ったまま地面へ座り込んでいた。髪は汗で張りつき、腕は上がらない。頬には砂がついている。
「……ひどい顔」
聞き慣れた声に、顔を上げる。
ティアだった。
ほんの少し背が伸びて、髪も前より長くなっている。けれど、その目元は知っている頃のままだった。
「お前……」
「何、その顔」
「別に」
「全然別じゃないわ」
ティアはルークの隣へしゃがみ込む。
腕の痣、裂けた手のひら、荒い呼吸を見て、眉をひそめた。
「やりすぎじゃないの?」
その問いに答えたのは、背後に立っていたリグレットだった。
「足りないわよ」
ティアが振り返る。
「リグレット」
「心配しすぎ」
「してない」
「そう」
そのやり取りを見て、ルークは少しだけ気が抜けた。
ティアがむっとした顔でこちらを見る。
「……でも、ちゃんと立ってるのね」
「当たり前だろ」
「前ならもっと文句言ってたわ」
「今も言ってる」
「そういうことじゃない」
ティアは少しだけ笑った。
ルークは顔を背ける。
そのやり取りを、リグレットは黙って見ていた。
しばらくして、ティアが去った後、彼女はぽつりと言った。
「少しは格好をつけたい相手がいるのね」
「は?」
「別に」
「何だよ、それ」
「そういう年頃かと思っただけ」
ルークは耳まで赤くなった。
「違う!」
「そう」
全く信じていない声だった。
その日の訓練は、やけに集中できなかった。
冬の夜、リグレットは一人で書類を整理していた。
任務記録。訓練報告。支給物資の確認。灯りの下で淡々と紙をめくる手が、あるところで止まる。
ルークの名があった。
初日。姿勢不良。基礎体力不足。反抗的。集中力散漫。
最近。持久力改善。判断速度向上。譜銃基礎良好。感情制御不安定だが成長傾向。
鼻で笑う。
「……嫌になるわね」
誰に聞かせるでもない独り言だった。
情を移すつもりはなかった。移していい立場でもなかった。
ホドを知っている。失ったものを知っている。ヴァンに従う意味も知っている。
それでも、立ち上がるたびに目を逸らさない少年を見ていると、どこかで線が揺らぐ。
「面倒な坊や」
そう呟いて、書類を閉じた。
年の終わり、訓練場。
冷たい風が砂を転がしていく。
ルークは的へ向けて最後の一発を放った。
乾いた音。
中心を穿つ。
以前なら偶然だった。今は違う。
積み重ねた結果だった。
「終わりじゃないわよ」
横に立つリグレットが言う。
「分かってる」
「次がある」
「それも分かってる」
ルークは譜銃を下ろし、少しだけ笑った。
「でも、前よりはマシだろ」
リグレットはしばらく黙り、それから頷いた。
「ええ」
それは褒め言葉というには短く、評価というには静かだった。
けれど、ルークには十分だった。
最初にこの女を見た時、怖いと思った。
今も怖い。
腹も立つ。
厳しいし、面倒だし、容赦もない。
けれど。
その背中を見て進むことに、もう迷いはなかった。
リグレット編は終わらない。
終わらないまま、次の年へ繋がっていく。
基礎とは、終わってからも残るものだからだ。
そしてルークは、この年に初めて知った。
怖い大人に鍛えられることは、決して悪いことばかりではないのだと。
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神託の盾本部の廊下は、朝から騒がしかった。
兵士の足音。訓練区画へ向かう号令。物資搬入の台車が石床を鳴らし、遠くでは誰かが怒鳴っている。秩序立っているようで、どこか雑多な音の集まりだった。
その中を、ティアは一人で歩いていた。
幼い足取り。小さな背中。だが、その瞳だけは年齢に似合わぬ静けさを宿している。
この場所には慣れている。
けれど、好きにはなれなかった。
ここにはヴァンがいる。リグレットがいる。兵士たちがいる。そして――ルークがいる。
それだけで十分な理由になる。
だが同時に、この場所は時折、息苦しかった。
誰も知らない未来を知っていること。誰にも言えない記憶を抱えていること。幼い身体の中に、終わった世界の重みだけが残っていること。
それを口にできる相手は、いない。
「その顔、探し物してる顔だね」
声に、ティアは足を止めた。
振り返る。
誰もいないと思っていた窓際の長椅子に、少女が座っていた。
いつからそこにいたのか分からない。
自分とそう変わらぬ年頃。脚を揺らし、陽の光の中でにこにこと笑っている。柔らかな髪が肩で跳ね、表情はくるくるとよく動く。
だが、その気配は薄かった。
兵士たちが行き交うこの廊下で、ここまで近づかれて気づかなかったことに、ティアはわずかに警戒する。
少女はそんな視線など気にせず、ひらひらと手を振った。
「こんにちは」
「……こんにちは」
「迷子じゃないね、その顔は」
「違うわ」
「じゃあ会いたい人がいる顔」
ティアは少し黙った。
少女は目を細める。
「当たり?」
「……あなた、誰」
少女は胸を張った。
「カンタビレ!」
「名前を聞いているのだけれど」
「だから名前!」
「変わった名前ね」
「そっちも十分変よ」
即答だった。
ティアはため息をつく。
この手合いは苦手だ、と本能が告げている。
だが、ただ騒がしいだけではない。
こちらの表情、間、視線の流れを見て言葉を選んでいる。思いつきのようでいて、妙に的確だ。
「ティア、でしょ?」
「……どうして」
「さっき兵士さんが呼んでた」
にこりと笑う。
本当かどうか分からない。
半分は本当で、半分は別のところから拾っている顔だった。
「で、誰に会いに来たの?」
「……知り合いよ」
「男の子?」
「ええ」
「好きな子?」
「違うわ」
即答だった。
「早っ」
「違うもの」
「ふーん」
カンタビレは椅子から飛び降りる。
「“そう思いたい相手”って感じかな」
ティアは眉をひそめた。
「何それ」
「否定が早い時って、大体そうなんだよね」
「……あなた、嫌い」
「ありがとう!」
会話が成立しない。
それでも、不思議と不快ではなかった。
悪意がない。裏表も少ない。だが、見えている範囲が広い。
未来を知る自分とは別の意味で、人を見る目を持っている。
「訓練区画にいるんでしょ?」
「……どうしてそう思うの」
「歩く速さが、途中から少しだけ上がった」
ティアは完全に黙った。
カンタビレはにこにこしたまま言う。
「行こ!」
「は?」
「その知り合い、見に行くんでしょ?」
「あなたまで来る必要は――」
「あるよ」
「ないわよ」
「あるの」
押し切られた。
そのまま半ば引きずられるように歩き出す。
途中、兵士たちがすれ違いざまにカンタビレへ気安く声をかける。
「おう、また潜り込んでるのか」
「今日は正面から入ったよ!」
「それもどうなんだ……」
ティアは横目で見る。
「……あなた、何者なの」
「伝令補助、雑用手伝い、時々おつかい、時々内緒のお願い係」
「最後が一番怪しいわ」
「気のせい気のせい」
全く気のせいではない。
訓練場が見えてきた。
乾いた地面。石壁。朝の光。
その中央で、ルークが木剣を振っていた。
汗だくで、息を荒げ、何度倒されても立ち上がっている。向かい合うのはリグレットだった。
「そこまで!」
木剣が弾かれ、ルークが転ぶ。
「くそっ!」
「立ちなさい」
「今立つ!」
「遅い」
「うるせえ!」
いつもの調子だった。
ティアは胸の奥が少しだけ緩むのを感じた。
ちゃんといる。
生きている。
怒っている。
それだけで、十分だった。
隣でカンタビレがじっと見ている。
「へえ」
「何よ」
「あの子、三回倒されても呼吸の戻し方が早い」
ティアはそちらを見る。
「……分かるの?」
「少しだけ」
「あなた、本当に何者なの」
「かわいい女の子」
「質問に答えてない」
カンタビレは笑ったまま、さらに続ける。
「でも、まだ力みすぎ。怒るたびに肩が上がる」
図星だった。
ティアは思わず訓練場へ視線を戻す。
確かに、ルークは腹を立てるたびに動きが荒くなる。
「それを直してるんだ、あの怖い教官」
リグレットを指さした。
「……あなた、見えてるのね」
「見てるだけだよ」
その言い方だけ、少しだけ年相応ではなかった。
「がんばれー!」
突然カンタビレが手を振った。
ティアはぎょっとする。
「やめなさい!」
訓練場のルークがこちらを見た。
「……あ?」
最悪だった。
リグレットの視線まで飛んでくる。
数秒の沈黙。
そしてリグレットが口を開く。
「見学なら静かにしなさい」
「はーい!」
「返事だけは良いわね」
「褒められた!」
「違うわ」
ルークは地面に座り込んだまま、こちらを睨んでいる。
「……何でお前まで増えてんだよ」
「知らないわよ!」
「友達?」
カンタビレが元気よく答える。
「今なった!」
「なってない!」
綺麗に声が重なった。
兵士たちの笑い声が起こる。
ティアは顔をしかめたが、少しだけ肩の力が抜けていた。
帰り道。
カンタビレが前を向いたまま言う。
「ティアって、寂しい顔するね」
足が止まりかけた。
「……何の話」
「さっき、あの子見た時だけ安心した顔だった」
ティアは答えない。
答えられなかった。
カンタビレは振り返らずに続ける。
「大丈夫。秘密にしとく」
「……別に秘密じゃないわ」
「じゃあもっと難しいやつか」
そう言って笑う。
ティアは小さく息を吐いた。
この少女はうるさい。
軽い。
遠慮がない。
でも、多分。
思っていたより、ずっと油断ならない。
その日から、カンタビレは何かとティアの隣へ現れるようになった。
足音もなく。
気づけばそこにいて、勝手に喋っている。
黙っている少女と、喋り続ける少女。
相性が良いのか悪いのか、誰にも分からない。
ただ一つ確かなのは。
ティアが少しだけ、一人でなくなったということだった。
---
訓練場へ向かう朝だった。
乾いた風が砂をさらい、いつも通り兵士たちの号令が飛ぶ。木剣の打ち合う音、譜銃の整備音、怒鳴り声。聞き慣れた喧騒だった。
ルークは肩へ木剣を担ぎながら歩く。
「今日こそ一本取ってやる」
誰に、とは言わない。
言うまでもなくリグレットだった。
その時だった。
本部の空気が、不意に変わった。
ざわめきが静まり、人の流れが左右へ割れていく。兵士たちは姿勢を正し、口数を減らし、通路へ視線を向けていた。
「……何だ?」
近くの兵士へ尋ねると、小声で返ってくる。
「総長殿がお戻りだ」
ヴァンか、とルークは思った。
だが兵士は続けた。
「お方もご一緒だ」
通路の奥から、白い衣が見えた。
年若い少年だった。
雪のように淡い衣。静かな足取り。儚いほど整った顔立ち。柔らかな眼差しの奥に、不思議な強さだけが宿っている。
その隣には、幼い少女の姿もあった。
ルークは思わず足を止める。
自分とそう変わらぬ年頃に見えるのに、周囲の誰もが頭を垂れていた。
「……誰だよ、あれ」
リグレットがいつの間にか背後へ立っていた。
「導師イオン様よ」
「導師?」
「あなたにはまだ早い言葉ね」
「何だそれ」
ルークは白い少年を見つめた。
相手もまた、こちらへ視線を向ける。
ほんの一瞬だけ、目が合った。
それだけで、騒がしい朝の音が遠のいた気がした。
ヴァンのような圧はなく、
リグレットのような鋭さもない。
なのに、なぜか目を逸らせなかった。
イオンは小さく会釈した。
ルークは反射的に背筋を伸ばしていた。
その様子を見て、リグレットがわずかに口元を緩める。
「次の訓練相手は、少し違うわよ」
「は?」
「剣でも銃でもないものを学びなさい」
通路の先で、白い少年は静かに歩いていく。
その背は細く、頼りなく見えた。
それでも誰より重いものを背負っているように、ルークには見えた。
一年目が終わる。
立つことを覚えた少年は、次に“人の上に立つ者”を知る。
舞台がユリアシティからダアトへ移りました。今回はティア視点。
4/20 序盤の描写・設定整合性を見直し、全面改稿しました。