TALES OF THE ABYSS Re:Birth 作:ばっしー171
リグレットに預けられた一年が終わった。
立ち方を覚えた。倒れ方を覚えた。譜銃の扱いを覚えた。怒りのまま振るえば浅くなることも、恐怖を隠しても呼吸には出ることも知った。
剣の握り方は理解した。
撃つ角度も覚えた。
倒れない足も、痛みに耐える呼吸も、少しずつ身体へ刻み込まれていた。
だが。
世界のことは何も知らなかった。
誰が上にいて、誰が下にいるのか。
何を守れば正しく、何を捨てれば間違いなのか。
人が剣を抜く理由と、抜かずに済ませる方法。
そういうものは、一つも知らなかった。
その終わりに、ルークは一人の少年と出会う。
白い衣を纏い、兵士たちが道を開ける中を静かに歩く少年。
導師イオン。
自分とそう変わらぬ年頃に見えるのに、周囲の大人たちは皆、頭を垂れていた。
強そうには見えない。
怖くもない。
怒鳴りもしない。
なのに、誰より重い場所に立っているように見えた。
その隣には、小さな少女がいた。
長い髪で顔の半分を隠し、イオンの袖を握っている。
兵士たちの視線を嫌うように、身体ごと彼の背へ隠れていた。
ルークは思わず言った。
「何だ、あれ」
近くにいた兵士が慌てて肘で突く。
「声がでかい」
「聞こえてねえだろ」
「聞こえる聞こえないじゃない」
兵士は顔を青くした。
「導師様だぞ」
「だから何だよ」
理解できなかった。
年齢も近い、身体も細い、どう見ても自分の方が強い。
それなのに、誰も逆らわない。
その理屈が分からなかった。
数日後。
礼拝区画へ呼び出されたルークは、理由を知る。
「お話ししたかったのです」
白い机。整えられた書物。柔らかな光。
香の匂い。磨かれた床。静かな空気。
訓練場とは何もかもが違った。
その隣には、あの少女がいた。
アリエッタだった。
華奢な身体をイオンの衣の陰へ半分隠し、長い髪の奥からルークを窺っている。
ルークが一歩近づくと、少女はびくりと肩を震わせ、イオンの袖を掴んだ。
「大丈夫ですよ、アリエッタ」
イオンが柔らかく言う。
少女は返事をしない。
ただ、さらに半歩隠れた。
「……何だこいつ」
「失礼ですよ」
イオンがたしなめる。
「彼女は、私の大切なお友達です」
ルークには意味が分からなかった。
「で、何で俺が呼ばれたんだ」
「学んでいただこうかと」
「帰る」
「座ってください」
「嫌だ」
「却下です」
どこかで聞いた返しだった。
ルークは顔をしかめながら椅子へ座る。
イオンは書物を開いた。
「今日は各国の成り立ちからです」
「長い」
「短くすると誤解します」
「もう誤解してる」
イオンは小さく笑った。
最初の数日は退屈だった。
毎朝訓練前に呼ばれ、書物を読まされる。
歴史。制度。各国情勢。神託。導師の役割。
眠い。
難しい。
つまらない。
「何でこんなの覚えなきゃなんねえんだよ」
机へ突っ伏すルークへ、イオンは穏やかに言った。
「剣だけでは守れないものがあるからです」
「またそれっぽいこと言う」
「本当です」
「例えば?」
「飢えた村へ兵士百人を送っても意味はありません」
「……?」
「必要なのは食料です」
ルークは黙る。
「争う二人を斬って黙らせても、別の争いが起きます」
「……」
「必要なのは、争わずに済む形を作ることです」
ルークは頬杖をついた。
「面倒だな」
「ええ」
イオンはあっさり頷いた。
「とても面倒です」
その素直さに、少しだけ毒気を抜かれた。
ある日、イオンは盤を持ち出してきた。
石を置き、陣地を取り合う遊戯だった。
「勝てば今日は勉強を減らします」
「最初からそう言え!」
ルークは飛びついた。
十分後、負けた。
二十分後、また負けた。
三十分後、机へ突っ伏した。
「何でだよ!」
「怒ると盤面が見えなくなるからです」
「うるせえ!」
「でも真っ直ぐ進むので読みやすいです」
「嫌な言い方すんな!」
イオンはくすりと笑う。
アリエッタが隅で肩を揺らしていた。
笑っているらしい。
「お前も笑うな!」
アリエッタはすぐイオンの背へ隠れた。
「お前ら感じ悪いな」
「仲が良いですね」
「どこがだ!」
礼拝区画へ通うことは、いつしか日常になっていた。
朝、訓練前にここへ寄る。
文句を言う。
勉強を押しつけられる。
負ける。
腹を立てる。
訓練へ向かう。
その流れが自然になっていた。
イオンは身体が弱かった。
長く話すと咳き込み、階段を上るだけで息が乱れる日もある。
それでも人前では背筋を伸ばし、穏やかな笑みを崩さない。
ある日、咳き込むイオンへルークが言った。
「休めばいいだろ」
イオンは少し驚いた顔をした。
「難しいですね」
「何でだよ」
「私が休むと、安心する人と、不安になる人がいます」
「意味分かんねえ」
「私もです」
笑っていた。
だが、その笑みの奥に妙な疲れがあった。
ティアは時々、その様子を遠くから見ていた。
未来で知っているイオン。
病に蝕まれ、利用され、誰より優しいまま壊されていく少年。
今はまだ笑っている。
それが痛かった。
「……変えられるかしら」
「何を?」
隣にいつの間にかカンタビレがいた。
「あなた足音立てなさいよ」
「才能だから無理」
相変わらずだった。
カンタビレは礼拝区画を覗き込む。
「へえ。あの白い子、笑うの上手いね」
ティアは眉をひそめる。
「何それ」
「泣かない人の笑い方」
その一言だけで、ティアは返せなくなった。
秋。
地方の揉め事の仲裁報告が届いた。
兵士たちがどう動くか議論する中、イオンは静かに資料へ目を通していた。
「お前、腹立たねえのか」
ルークが問う。
「何がですか?」
「争ってばっかの奴らに」
イオンは少し考えた。
「腹は立ちます」
「立つのかよ」
「人ですから」
「じゃあ怒れよ」
「怒って解決するなら、毎日怒っています」
ルークは鼻を鳴らす。
イオンは続けた。
「人は争います」
「……」
「欲しがります。奪います。傷つけます」
静かな声だった。
「ですから、止め続けるしかありません」
「終わらねえじゃねえか」
「ええ」
イオンは頷く。
「終わらないことも多いです」
「じゃあ何でやる」
「誰かがやらないと、もっと酷くなるからです」
ルークは黙った。
それは剣より面倒で、剣より強い理屈に思えた。
その日の帰り際。
ルークはふと聞いた。
「お前さ」
「はい」
「何でそんなに平気なんだ」
「何がですか?」
「色々だよ」
イオンは少しだけ考えた。
そして、穏やかに笑う。
「平気に見えるなら、上手くできています」
ルークは言葉を失った。
初めてだった。
この少年が、笑うために笑っているのだと気づいたのは。
礼拝区画の隅では、アリエッタが黙ってイオンの袖を握っていた。
その手だけが、少し強く震えていた。
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礼拝区画の隅では、アリエッタが黙ってイオンの袖を握っていた。
その手だけが、少し強く震えていた。
ルークはその震えが気になった。
だが理由までは分からない。
「……何だよ」
少女は答えない。
長い髪の奥からこちらを見て、すぐ逸らす。
「感じ悪いな、お前」
アリエッタはさらにイオンの背へ隠れた。
「仲良くなれそうですね」
イオンが穏やかに言う。
「一生ならねえ」
即答だった。
その日を境に、ルークは少しだけ礼拝区画を見る目が変わった。
静かな場所。
退屈な場所。
勉強を押しつけられる場所。
そう思っていた。
だが今は違う。
ここには、訓練場とは別の緊張がある。
誰も怒鳴らない。
誰も剣を抜かない。
それでも、息苦しい何かが漂っていた。
数日後。
イオンは礼拝の途中で咳き込んだ。
一度ではない。
二度、三度と続く。
白い布へ口元を当て、呼吸を整えようとするが、肩の揺れが止まらない。
兵士たちは視線を逸らした。
侍従たちは慣れた手つきで椅子を運ぶ。
誰も驚かない。
そのことに、ルークは妙な苛立ちを覚えた。
「おい」
礼拝後、思わず声をかける。
「本当に大丈夫か」
イオンは水を飲み、少し笑った。
「ええ。少し疲れただけです」
「嘘くせえ」
「よく言われます」
「じゃあ休め」
「難しいですね」
「またそれか」
イオンは窓の外へ目を向けた。
「私が倒れると、安心する人と困る人がいます」
「意味分かんねえって」
「私もです」
同じ答えだった。
だが、前より少しだけ寂しそうに見えた。
その夜。
ティアは礼拝区画の外廊下で、一人立ち尽くしていた。
扉の向こうから、咳が聞こえる。
短く。
押し殺したような音。
未来で何度も聞いた音だった。
「……早い」
思わず漏れる。
本来より進行が早い。
モースが動いている。
そう確信していた。
「顔こわいよ」
背後から声。
カンタビレだった。
梁の上から逆さに覗き込んでいる。
「あなた本当に気配消すの好きね」
「好きじゃなくて得意」
ティアは扉へ視線を戻す。
「助けたいの」
「白い子を?」
「ええ」
「じゃあ早くしないと」
カンタビレは笑わない。
「壊れる人って、急に壊れるから」
その言葉は、妙に現実的だった。
秋の終わり。
地方視察に同行したルークは、初めてイオンが民衆と向き合う姿を見る。
貧しい村だった。
井戸は浅く、畑は痩せ、子供の服は擦り切れている。
村人たちは導師を前に跪いた。
イオンはすぐ近くまで歩み寄り、膝を折って同じ目線になる。
「今年の収穫はどうでしたか」
「厳しゅうございます」
「水路の修繕は?」
「手が足りませぬ」
「分かりました」
穏やかに頷く。
責めない。
偉ぶらない。
ただ、聞く。
その姿をルークは黙って見ていた。
帰り道、荷車の中で言う。
「お前、ああいうの得意なんだな」
イオンは首を傾げた。
「得意でしょうか」
「少なくとも俺なら無理だ」
「怒ってしまいますか?」
「面倒くせえ」
イオンは少し笑った。
「私も面倒だと思っています」
「思ってんのかよ」
「でも、困っている人へ面倒だと言うのは違います」
ルークは鼻を鳴らす。
「やっぱ面倒な奴だなお前」
「よく言われます」
その帰路、イオンはまた咳き込んだ。
今度は長かった。
袖口へ滲んだ赤を、ルークだけが見た。
「……おい」
イオンはすぐ布を畳んだ。
「見なかったことにしてください」
「できるか」
「では、秘密にしてください」
「もっと無理だ」
それでもルークは誰にも言わなかった。
言えば何かが壊れる気がした。
礼拝区画へ戻ると、アリエッタが駆け寄ってきた。
イオンの袖を掴み、顔色を確かめるように見上げる。
イオンは頭を撫でた。
「大丈夫ですよ」
少女は首を横へ振る。
初めてだった。
はっきり否定の意思を見せたのは。
「……喋れんのか?」
ルークが呟く。
アリエッタは睨んだ。
「喋れそうだな」
そのままイオンの背へ戻っていった。
冬。
モースの出入りが露骨に増えた。
礼拝の予定。
面会者の選別。
導師の体調管理。
全て善意の顔で手を伸ばしてくる。
イオンは逆らわない。
否、逆らえない。
ルークはそれが気に入らなかった。
ある日、回廊でモースとすれ違う。
老人は穏やかに微笑んだ。
「おや、ヴァン殿のところの」
「……誰だよ」
周囲の兵士が青ざめる。
モースは怒らない。
ただ目だけが冷えた。
「元気な少年ですな」
去っていく背を、ルークは睨み続けた。
その夜、礼拝区画で言う。
「あのジジイ嫌いだ」
イオンは困ったように笑う。
「言葉遣い」
「で、お前は?」
少し沈黙。
「……苦手です」
それが限界の本音だった。
ルークは舌打ちする。
「だったら嫌いって言えよ」
「立場があります」
「知らねえよ」
「知ってください」
珍しく少し強い口調だった。
その直後、イオンは咳き込む。
立ち上がろうとして膝が折れた。
ルークが反射的に支える。
軽かった。
驚くほど。
「……お前」
イオンは苦しげに息を整え、それでも笑った。
「鍛えていませんから」
「そういう話じゃねえ」
ルークの声は荒かった。
怒っていた。
何に対してかは、やはり分からない。
その頃から、アリエッタはルークを見る目を少し変えた。
まだ近づかない。
まだ喋らない。
だが、イオンが倒れた時に支えたことを覚えていた。
礼拝区画の隅。
小さな魔物へ餌をやっていたルークの足元へ、干し果実が転がる。
見ると、アリエッタが離れた場所に立っていた。
「……お前が投げたのか」
返事はない。
だが、もう一つ転がってきた。
「何だこれ」
感謝か。
牽制か。
分からなかった。
「変な奴らだな、ほんと」
少しだけ笑ってしまった。
年の瀬が近づく。
雪の降る夜。
礼拝区画の灯りが遅くまで消えない日が増えた。
ティアは知っていた。
時間がない。
モースは、もう隠していない。
イオンを“都合よく終わらせる日”が近い。
そしてイオン自身も、それを理解していた。
ただ一人。
静かに受け入れるように。
その姿が、ティアには何より腹立たしかった。
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雪の降る夜。
礼拝区画の灯りが遅くまで消えない日が増えていた。
誰も口にはしない。
だが皆、気づいていた。
導師イオンの体調が、限界へ近づいていることを。
そして、その限界が自然のものだけではないことを。
礼拝区画の奥室。
寝台へ身を預けたイオンは、浅い呼吸を繰り返していた。
額には汗。
唇は白い。
それでも侍従が入ってくると、無理に身体を起こそうとする。
「そのままで」
ティアが押し留める。
イオンは小さく笑った。
「癖になっているようです」
「やめてください」
「何をです?」
「そうやって、自分を後回しにすること」
イオンは答えなかった。
窓の外を見た。
積もる雪。
静かな夜。
「綺麗ですね」
「話を逸らさないで」
「怒っていますか?」
「ええ」
「良かった」
ティアは眉をひそめる。
「何が」
「怒ってくれる人が、まだいる」
その言葉に、返す声が出なかった。
イオンは疲れたように目を閉じる。
「皆、私には優しいのです」
「……」
「でも、優しいまま諦めていく」
静かな声だった。
「それが一番、寂しい」
ティアは拳を握った。
未来でもそうだった。
誰もが気遣う。
誰もが大切に扱う。
だが本気で救おうとはしない。
壊れる前提で丁寧に扱うだけだ。
今度は違う。
そう決めていた。
翌朝。
ルークは礼拝区画へ呼ばれなかった。
珍しいことだった。
訓練前、気になって扉まで行く。
兵士が二人、入口に立っている。
「今日は入れない」
「何でだよ」
「導師様はご静養だ」
「昨日まで会ってたぞ」
「命令だ」
ルークは舌打ちした。
命令。
便利な言葉だった。
訓練場へ戻っても集中できない。
木剣を打ち込めば浅いと怒鳴られ、足が止まれば蹴られる。
それでも苛立ちは消えなかった。
昼過ぎ。
回廊でアリエッタを見つけた。
一人だった。
いつもイオンのそばを離れない少女が、壁際にうずくまっている。
「おい」
肩がびくりと跳ねる。
「……あいつは?」
返事はない。
だが、長い髪の奥から見える目が赤かった。
泣いたのだと分かった。
「……何かあったのか」
少女は唇を噛み、首を横へ振る。
違う。
言えないだけだ。
ルークはそれ以上聞けなかった。
その夜。
礼拝区画の裏手。
ティアとカンタビレは、灯りの届かぬ壁際で囁いていた。
「見張りは?」
「表二人、裏一人。交代まで半刻」
「薬は」
「眠る程度。死なない」
「上出来」
カンタビレは肩をすくめた。
「褒めて伸びるタイプなんだけど」
「今度ね」
ティアは短く返す。
「荷車は搬入口。布は二重。顔は隠す」
「本当にやるんだ」
「やる」
迷いはなかった。
「今度こそ、奪われない」
カンタビレは少しだけ真面目な顔になる。
「ティアってさ」
「何」
「その子のこと、好きなんだね」
ティアは即答しなかった。
しばらくして、低く言う。
「尊敬してるの」
それは恋慕より重い感情だった。
同じ頃。
イオンは寝台で一人、天井を見ていた。
眠れない。
身体は重い。
指先は冷たい。
胸の奥だけが、妙に静かだった。
死が近いのではない。
終わりを受け入れてしまった心が、静かなのだと分かっていた。
扉が開く。
モースだった。
穏やかな笑み。
柔らかな足取り。
何もかもが整いすぎている。
「お加減はいかがですかな」
「見ての通りです」
イオンは珍しく皮肉を返した。
モースは気にした様子もない。
「明日の式典は中止いたしましょう」
「助かります」
「その代わり、皆へは病状悪化と伝えます」
イオンは目を細めた。
「……その後は?」
モースは笑う。
「神の御心次第です」
イオンは理解した。
自分がいつ消えるか、もう自分では決められない。
それでも不思議と恐怖は薄かった。
ただ、一つだけ未練があった。
翌日。
ルークは再び礼拝区画へ向かった。
止められる。
押し問答になる。
騒ぎを聞きつけたイオンが、奥から姿を見せた。
顔色は悪い。
だが笑っていた。
「通してあげてください」
兵士たちは渋々退く。
ルークは部屋へ入り、扉が閉まるなり怒鳴った。
「何で隠してんだよ」
「何をです?」
「全部だ!」
イオンは少し驚き、それから笑った。
「雑な質問ですね」
「うるせえ!」
ルークは拳を握る。
「お前、死にそうじゃねえか」
沈黙が落ちた。
イオンは視線を伏せる。
「そう見えますか」
「見える」
「それは困りました」
「ふざけんな」
怒声だった。
イオンは静かに言う。
「怒ってくれて、ありがとうございます」
「……は?」
「あなたは、失う前に怒ってくれる人です」
意味が分からない。
だが胸の奥がざわついた。
イオンは続ける。
「多くの人は、失ってから悲しみます」
「……」
「でもあなたは、失う前に怒れる」
その目が、少しだけ羨ましそうだった。
「止まらないでください、ルーク」
「何だよそれ」
「あなたは、生きる力が強い」
ルークは言葉を失う。
イオンは微笑む。
「だから、私のようにはならないで」
その瞬間、ルークは初めて理解した。
この少年は、諦めている。
世界に。
自分に。
未来に。
だからこそ、他人へだけ優しいのだと。
「……ふざけんな」
声が震えた。
「お前が言うな」
イオンは少しだけ目を見開き、それから嬉しそうに笑った。
その夜だった。
礼拝区画から公式発表が出る。
導師イオン、急逝。
病状悪化による容態急変。
兵士たちは沈黙し、侍従たちは泣き、民衆へ知らせが走る。
ルークは報を聞いた瞬間、何も考えられなくなった。
訓練場へ向かう。
木剣を取る。
振るう。
振るう。
振るう。
怒りだけが身体に残っていた。
礼拝区画の隅では、アリエッタが膝を抱えて座っていた。
泣き声も出せず、ただ扉を見つめている。
誰も近づかない。
誰も声をかけない。
小さな魔物たちだけが、彼女の周りへ寄り添っていた。
その頃。
本部外れの旧搬入口。
月も隠れた暗闇の中、二つの影が動いていた。
カンタビレとティアだった。
荷車へ横たえられているのは、白い衣の少年。
イオンだった。
顔色は悪い。呼吸は浅い。意識もない。
だが、生きている。
「急いで」
ティアの声は低い。
「見張り交代まで時間ない」
「分かってる」
カンタビレは手際よく荷布をかける。
「ほんとにこれで騙せる?」
「死亡確認は向こうが勝手に広めた」
ティアは歯を食いしばる。
「都合よく死んだことにしたいのよ」
イオンが小さく咳いた。
二人の手が同時に伸びる。
ティアはその細い手を握った。
「……今度こそ」
未来では救えなかった。
利用され、奪われ、消えていった命。
だが今は違う。
「絶対に、死なせない」
荷車が闇へ消えていく。
その頃、訓練場ではルークが一人木剣を振っていた。
荒々しく。
何かを振り払うように。
何も知らないまま。
一年目で立つことを学んだ。
二年目で、人の上に立つ者の重さと、この世の歪みを知った。
そして次に待つのは。
血と現実の年。
4/20 改訂