TALES OF THE ABYSS Re:Birth   作:ばっしー171

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Episode 0-2 静かに歪み、静かに残るもの(4/20改訂)

リグレットに預けられた一年が終わった。

 

立ち方を覚えた。倒れ方を覚えた。譜銃の扱いを覚えた。怒りのまま振るえば浅くなることも、恐怖を隠しても呼吸には出ることも知った。

 

剣の握り方は理解した。

 

撃つ角度も覚えた。

 

倒れない足も、痛みに耐える呼吸も、少しずつ身体へ刻み込まれていた。

 

だが。

 

世界のことは何も知らなかった。

 

誰が上にいて、誰が下にいるのか。

 

何を守れば正しく、何を捨てれば間違いなのか。

 

人が剣を抜く理由と、抜かずに済ませる方法。

 

そういうものは、一つも知らなかった。

 

その終わりに、ルークは一人の少年と出会う。

 

白い衣を纏い、兵士たちが道を開ける中を静かに歩く少年。

 

導師イオン。

 

自分とそう変わらぬ年頃に見えるのに、周囲の大人たちは皆、頭を垂れていた。

 

強そうには見えない。

 

怖くもない。

 

怒鳴りもしない。

 

なのに、誰より重い場所に立っているように見えた。

 

その隣には、小さな少女がいた。

 

長い髪で顔の半分を隠し、イオンの袖を握っている。

 

兵士たちの視線を嫌うように、身体ごと彼の背へ隠れていた。

 

ルークは思わず言った。

 

「何だ、あれ」

 

近くにいた兵士が慌てて肘で突く。

 

「声がでかい」

 

「聞こえてねえだろ」

 

「聞こえる聞こえないじゃない」

 

兵士は顔を青くした。

 

「導師様だぞ」

 

「だから何だよ」

 

理解できなかった。

 

年齢も近い、身体も細い、どう見ても自分の方が強い。

 

それなのに、誰も逆らわない。

 

その理屈が分からなかった。

 

数日後。

 

礼拝区画へ呼び出されたルークは、理由を知る。

 

「お話ししたかったのです」

 

白い机。整えられた書物。柔らかな光。

 

香の匂い。磨かれた床。静かな空気。

 

訓練場とは何もかもが違った。

 

その隣には、あの少女がいた。

 

アリエッタだった。

 

華奢な身体をイオンの衣の陰へ半分隠し、長い髪の奥からルークを窺っている。

 

ルークが一歩近づくと、少女はびくりと肩を震わせ、イオンの袖を掴んだ。

 

「大丈夫ですよ、アリエッタ」

 

イオンが柔らかく言う。

 

少女は返事をしない。

 

ただ、さらに半歩隠れた。

 

「……何だこいつ」

 

「失礼ですよ」

 

イオンがたしなめる。

 

「彼女は、私の大切なお友達です」

 

ルークには意味が分からなかった。

 

「で、何で俺が呼ばれたんだ」

 

「学んでいただこうかと」

 

「帰る」

 

「座ってください」

 

「嫌だ」

 

「却下です」

 

どこかで聞いた返しだった。

 

ルークは顔をしかめながら椅子へ座る。

 

イオンは書物を開いた。

 

「今日は各国の成り立ちからです」

 

「長い」

 

「短くすると誤解します」

 

「もう誤解してる」

 

イオンは小さく笑った。

 

最初の数日は退屈だった。

 

毎朝訓練前に呼ばれ、書物を読まされる。

 

歴史。制度。各国情勢。神託。導師の役割。

 

眠い。

 

難しい。

 

つまらない。

 

「何でこんなの覚えなきゃなんねえんだよ」

 

机へ突っ伏すルークへ、イオンは穏やかに言った。

 

「剣だけでは守れないものがあるからです」

 

「またそれっぽいこと言う」

 

「本当です」

 

「例えば?」

 

「飢えた村へ兵士百人を送っても意味はありません」

 

「……?」

 

「必要なのは食料です」

 

ルークは黙る。

 

「争う二人を斬って黙らせても、別の争いが起きます」

 

「……」

 

「必要なのは、争わずに済む形を作ることです」

 

ルークは頬杖をついた。

 

「面倒だな」

 

「ええ」

 

イオンはあっさり頷いた。

 

「とても面倒です」

 

その素直さに、少しだけ毒気を抜かれた。

 

ある日、イオンは盤を持ち出してきた。

 

石を置き、陣地を取り合う遊戯だった。

 

「勝てば今日は勉強を減らします」

 

「最初からそう言え!」

 

ルークは飛びついた。

 

十分後、負けた。

 

二十分後、また負けた。

 

三十分後、机へ突っ伏した。

 

「何でだよ!」

 

「怒ると盤面が見えなくなるからです」

 

「うるせえ!」

 

「でも真っ直ぐ進むので読みやすいです」

 

「嫌な言い方すんな!」

 

イオンはくすりと笑う。

 

アリエッタが隅で肩を揺らしていた。

 

笑っているらしい。

 

「お前も笑うな!」

 

アリエッタはすぐイオンの背へ隠れた。

 

「お前ら感じ悪いな」

 

「仲が良いですね」

 

「どこがだ!」

 

礼拝区画へ通うことは、いつしか日常になっていた。

 

朝、訓練前にここへ寄る。

 

文句を言う。

 

勉強を押しつけられる。

 

負ける。

 

腹を立てる。

 

訓練へ向かう。

 

その流れが自然になっていた。

 

イオンは身体が弱かった。

 

長く話すと咳き込み、階段を上るだけで息が乱れる日もある。

 

それでも人前では背筋を伸ばし、穏やかな笑みを崩さない。

 

ある日、咳き込むイオンへルークが言った。

 

「休めばいいだろ」

 

イオンは少し驚いた顔をした。

 

「難しいですね」

 

「何でだよ」

 

「私が休むと、安心する人と、不安になる人がいます」

 

「意味分かんねえ」

 

「私もです」

 

笑っていた。

 

だが、その笑みの奥に妙な疲れがあった。

 

ティアは時々、その様子を遠くから見ていた。

 

未来で知っているイオン。

 

病に蝕まれ、利用され、誰より優しいまま壊されていく少年。

 

今はまだ笑っている。

 

それが痛かった。

 

「……変えられるかしら」

 

「何を?」

 

隣にいつの間にかカンタビレがいた。

 

「あなた足音立てなさいよ」

 

「才能だから無理」

 

相変わらずだった。

 

カンタビレは礼拝区画を覗き込む。

 

「へえ。あの白い子、笑うの上手いね」

 

ティアは眉をひそめる。

 

「何それ」

 

「泣かない人の笑い方」

 

その一言だけで、ティアは返せなくなった。

 

秋。

 

地方の揉め事の仲裁報告が届いた。

 

兵士たちがどう動くか議論する中、イオンは静かに資料へ目を通していた。

 

「お前、腹立たねえのか」

 

ルークが問う。

 

「何がですか?」

 

「争ってばっかの奴らに」

 

イオンは少し考えた。

 

「腹は立ちます」

 

「立つのかよ」

 

「人ですから」

 

「じゃあ怒れよ」

 

「怒って解決するなら、毎日怒っています」

 

ルークは鼻を鳴らす。

 

イオンは続けた。

 

「人は争います」

 

「……」

 

「欲しがります。奪います。傷つけます」

 

静かな声だった。

 

「ですから、止め続けるしかありません」

 

「終わらねえじゃねえか」

 

「ええ」

 

イオンは頷く。

 

「終わらないことも多いです」

 

「じゃあ何でやる」

 

「誰かがやらないと、もっと酷くなるからです」

 

ルークは黙った。

 

それは剣より面倒で、剣より強い理屈に思えた。

 

その日の帰り際。

 

ルークはふと聞いた。

 

「お前さ」

 

「はい」

 

「何でそんなに平気なんだ」

 

「何がですか?」

 

「色々だよ」

 

イオンは少しだけ考えた。

 

そして、穏やかに笑う。

 

「平気に見えるなら、上手くできています」

 

ルークは言葉を失った。

 

初めてだった。

 

この少年が、笑うために笑っているのだと気づいたのは。

 

礼拝区画の隅では、アリエッタが黙ってイオンの袖を握っていた。

 

その手だけが、少し強く震えていた。

 

---

 

礼拝区画の隅では、アリエッタが黙ってイオンの袖を握っていた。

 

その手だけが、少し強く震えていた。

 

ルークはその震えが気になった。

 

だが理由までは分からない。

 

「……何だよ」

 

少女は答えない。

 

長い髪の奥からこちらを見て、すぐ逸らす。

 

「感じ悪いな、お前」

 

アリエッタはさらにイオンの背へ隠れた。

 

「仲良くなれそうですね」

 

イオンが穏やかに言う。

 

「一生ならねえ」

 

即答だった。

 

その日を境に、ルークは少しだけ礼拝区画を見る目が変わった。

 

静かな場所。

 

退屈な場所。

 

勉強を押しつけられる場所。

 

そう思っていた。

 

だが今は違う。

 

ここには、訓練場とは別の緊張がある。

 

誰も怒鳴らない。

 

誰も剣を抜かない。

 

それでも、息苦しい何かが漂っていた。

 

数日後。

 

イオンは礼拝の途中で咳き込んだ。

 

一度ではない。

 

二度、三度と続く。

 

白い布へ口元を当て、呼吸を整えようとするが、肩の揺れが止まらない。

 

兵士たちは視線を逸らした。

 

侍従たちは慣れた手つきで椅子を運ぶ。

 

誰も驚かない。

 

そのことに、ルークは妙な苛立ちを覚えた。

 

「おい」

 

礼拝後、思わず声をかける。

 

「本当に大丈夫か」

 

イオンは水を飲み、少し笑った。

 

「ええ。少し疲れただけです」

 

「嘘くせえ」

 

「よく言われます」

 

「じゃあ休め」

 

「難しいですね」

 

「またそれか」

 

イオンは窓の外へ目を向けた。

 

「私が倒れると、安心する人と困る人がいます」

 

「意味分かんねえって」

 

「私もです」

 

同じ答えだった。

 

だが、前より少しだけ寂しそうに見えた。

 

その夜。

 

ティアは礼拝区画の外廊下で、一人立ち尽くしていた。

 

扉の向こうから、咳が聞こえる。

 

短く。

 

押し殺したような音。

 

未来で何度も聞いた音だった。

 

「……早い」

 

思わず漏れる。

 

本来より進行が早い。

 

モースが動いている。

 

そう確信していた。

 

「顔こわいよ」

 

背後から声。

 

カンタビレだった。

 

梁の上から逆さに覗き込んでいる。

 

「あなた本当に気配消すの好きね」

 

「好きじゃなくて得意」

 

ティアは扉へ視線を戻す。

 

「助けたいの」

 

「白い子を?」

 

「ええ」

 

「じゃあ早くしないと」

 

カンタビレは笑わない。

 

「壊れる人って、急に壊れるから」

 

その言葉は、妙に現実的だった。

 

秋の終わり。

 

地方視察に同行したルークは、初めてイオンが民衆と向き合う姿を見る。

 

貧しい村だった。

 

井戸は浅く、畑は痩せ、子供の服は擦り切れている。

 

村人たちは導師を前に跪いた。

 

イオンはすぐ近くまで歩み寄り、膝を折って同じ目線になる。

 

「今年の収穫はどうでしたか」

 

「厳しゅうございます」

 

「水路の修繕は?」

 

「手が足りませぬ」

 

「分かりました」

 

穏やかに頷く。

 

責めない。

 

偉ぶらない。

 

ただ、聞く。

 

その姿をルークは黙って見ていた。

 

帰り道、荷車の中で言う。

 

「お前、ああいうの得意なんだな」

 

イオンは首を傾げた。

 

「得意でしょうか」

 

「少なくとも俺なら無理だ」

 

「怒ってしまいますか?」

 

「面倒くせえ」

 

イオンは少し笑った。

 

「私も面倒だと思っています」

 

「思ってんのかよ」

 

「でも、困っている人へ面倒だと言うのは違います」

 

ルークは鼻を鳴らす。

 

「やっぱ面倒な奴だなお前」

 

「よく言われます」

 

その帰路、イオンはまた咳き込んだ。

 

今度は長かった。

 

袖口へ滲んだ赤を、ルークだけが見た。

 

「……おい」

 

イオンはすぐ布を畳んだ。

 

「見なかったことにしてください」

 

「できるか」

 

「では、秘密にしてください」

 

「もっと無理だ」

 

それでもルークは誰にも言わなかった。

 

言えば何かが壊れる気がした。

 

礼拝区画へ戻ると、アリエッタが駆け寄ってきた。

 

イオンの袖を掴み、顔色を確かめるように見上げる。

 

イオンは頭を撫でた。

 

「大丈夫ですよ」

 

少女は首を横へ振る。

 

初めてだった。

 

はっきり否定の意思を見せたのは。

 

「……喋れんのか?」

 

ルークが呟く。

 

アリエッタは睨んだ。

 

「喋れそうだな」

 

そのままイオンの背へ戻っていった。

 

冬。

 

モースの出入りが露骨に増えた。

 

礼拝の予定。

 

面会者の選別。

 

導師の体調管理。

 

全て善意の顔で手を伸ばしてくる。

 

イオンは逆らわない。

 

否、逆らえない。

 

ルークはそれが気に入らなかった。

 

ある日、回廊でモースとすれ違う。

 

老人は穏やかに微笑んだ。

 

「おや、ヴァン殿のところの」

 

「……誰だよ」

 

周囲の兵士が青ざめる。

 

モースは怒らない。

 

ただ目だけが冷えた。

 

「元気な少年ですな」

 

去っていく背を、ルークは睨み続けた。

 

その夜、礼拝区画で言う。

 

「あのジジイ嫌いだ」

 

イオンは困ったように笑う。

 

「言葉遣い」

 

「で、お前は?」

 

少し沈黙。

 

「……苦手です」

 

それが限界の本音だった。

 

ルークは舌打ちする。

 

「だったら嫌いって言えよ」

 

「立場があります」

 

「知らねえよ」

 

「知ってください」

 

珍しく少し強い口調だった。

 

その直後、イオンは咳き込む。

 

立ち上がろうとして膝が折れた。

 

ルークが反射的に支える。

 

軽かった。

 

驚くほど。

 

「……お前」

 

イオンは苦しげに息を整え、それでも笑った。

 

「鍛えていませんから」

 

「そういう話じゃねえ」

 

ルークの声は荒かった。

 

怒っていた。

 

何に対してかは、やはり分からない。

 

その頃から、アリエッタはルークを見る目を少し変えた。

 

まだ近づかない。

 

まだ喋らない。

 

だが、イオンが倒れた時に支えたことを覚えていた。

 

礼拝区画の隅。

 

小さな魔物へ餌をやっていたルークの足元へ、干し果実が転がる。

 

見ると、アリエッタが離れた場所に立っていた。

 

「……お前が投げたのか」

 

返事はない。

 

だが、もう一つ転がってきた。

 

「何だこれ」

 

感謝か。

 

牽制か。

 

分からなかった。

 

「変な奴らだな、ほんと」

 

少しだけ笑ってしまった。

 

年の瀬が近づく。

 

雪の降る夜。

 

礼拝区画の灯りが遅くまで消えない日が増えた。

 

ティアは知っていた。

 

時間がない。

 

モースは、もう隠していない。

 

イオンを“都合よく終わらせる日”が近い。

 

そしてイオン自身も、それを理解していた。

 

ただ一人。

 

静かに受け入れるように。

 

その姿が、ティアには何より腹立たしかった。

 

----

 

雪の降る夜。

 

礼拝区画の灯りが遅くまで消えない日が増えていた。

 

誰も口にはしない。

 

だが皆、気づいていた。

 

導師イオンの体調が、限界へ近づいていることを。

 

そして、その限界が自然のものだけではないことを。

 

礼拝区画の奥室。

 

寝台へ身を預けたイオンは、浅い呼吸を繰り返していた。

 

額には汗。

 

唇は白い。

 

それでも侍従が入ってくると、無理に身体を起こそうとする。

 

「そのままで」

 

ティアが押し留める。

 

イオンは小さく笑った。

 

「癖になっているようです」

 

「やめてください」

 

「何をです?」

 

「そうやって、自分を後回しにすること」

 

イオンは答えなかった。

 

窓の外を見た。

 

積もる雪。

 

静かな夜。

 

「綺麗ですね」

 

「話を逸らさないで」

 

「怒っていますか?」

 

「ええ」

 

「良かった」

 

ティアは眉をひそめる。

 

「何が」

 

「怒ってくれる人が、まだいる」

 

その言葉に、返す声が出なかった。

 

イオンは疲れたように目を閉じる。

 

「皆、私には優しいのです」

 

「……」

 

「でも、優しいまま諦めていく」

 

静かな声だった。

 

「それが一番、寂しい」

 

ティアは拳を握った。

 

未来でもそうだった。

 

誰もが気遣う。

 

誰もが大切に扱う。

 

だが本気で救おうとはしない。

 

壊れる前提で丁寧に扱うだけだ。

 

今度は違う。

 

そう決めていた。

 

翌朝。

 

ルークは礼拝区画へ呼ばれなかった。

 

珍しいことだった。

 

訓練前、気になって扉まで行く。

 

兵士が二人、入口に立っている。

 

「今日は入れない」

 

「何でだよ」

 

「導師様はご静養だ」

 

「昨日まで会ってたぞ」

 

「命令だ」

 

ルークは舌打ちした。

 

命令。

 

便利な言葉だった。

 

訓練場へ戻っても集中できない。

 

木剣を打ち込めば浅いと怒鳴られ、足が止まれば蹴られる。

 

それでも苛立ちは消えなかった。

 

昼過ぎ。

 

回廊でアリエッタを見つけた。

 

一人だった。

 

いつもイオンのそばを離れない少女が、壁際にうずくまっている。

 

「おい」

 

肩がびくりと跳ねる。

 

「……あいつは?」

 

返事はない。

 

だが、長い髪の奥から見える目が赤かった。

 

泣いたのだと分かった。

 

「……何かあったのか」

 

少女は唇を噛み、首を横へ振る。

 

違う。

 

言えないだけだ。

 

ルークはそれ以上聞けなかった。

 

その夜。

 

礼拝区画の裏手。

 

ティアとカンタビレは、灯りの届かぬ壁際で囁いていた。

 

「見張りは?」

 

「表二人、裏一人。交代まで半刻」

 

「薬は」

 

「眠る程度。死なない」

 

「上出来」

 

カンタビレは肩をすくめた。

 

「褒めて伸びるタイプなんだけど」

 

「今度ね」

 

ティアは短く返す。

 

「荷車は搬入口。布は二重。顔は隠す」

 

「本当にやるんだ」

 

「やる」

 

迷いはなかった。

 

「今度こそ、奪われない」

 

カンタビレは少しだけ真面目な顔になる。

 

「ティアってさ」

 

「何」

 

「その子のこと、好きなんだね」

 

ティアは即答しなかった。

 

しばらくして、低く言う。

 

「尊敬してるの」

 

それは恋慕より重い感情だった。

 

同じ頃。

 

イオンは寝台で一人、天井を見ていた。

 

眠れない。

 

身体は重い。

 

指先は冷たい。

 

胸の奥だけが、妙に静かだった。

 

死が近いのではない。

 

終わりを受け入れてしまった心が、静かなのだと分かっていた。

 

扉が開く。

 

モースだった。

 

穏やかな笑み。

 

柔らかな足取り。

 

何もかもが整いすぎている。

 

「お加減はいかがですかな」

 

「見ての通りです」

 

イオンは珍しく皮肉を返した。

 

モースは気にした様子もない。

 

「明日の式典は中止いたしましょう」

 

「助かります」

 

「その代わり、皆へは病状悪化と伝えます」

 

イオンは目を細めた。

 

「……その後は?」

 

モースは笑う。

 

「神の御心次第です」

 

イオンは理解した。

 

自分がいつ消えるか、もう自分では決められない。

 

それでも不思議と恐怖は薄かった。

 

ただ、一つだけ未練があった。

 

翌日。

 

ルークは再び礼拝区画へ向かった。

 

止められる。

 

押し問答になる。

 

騒ぎを聞きつけたイオンが、奥から姿を見せた。

 

顔色は悪い。

 

だが笑っていた。

 

「通してあげてください」

 

兵士たちは渋々退く。

 

ルークは部屋へ入り、扉が閉まるなり怒鳴った。

 

「何で隠してんだよ」

 

「何をです?」

 

「全部だ!」

 

イオンは少し驚き、それから笑った。

 

「雑な質問ですね」

 

「うるせえ!」

 

ルークは拳を握る。

 

「お前、死にそうじゃねえか」

 

沈黙が落ちた。

 

イオンは視線を伏せる。

 

「そう見えますか」

 

「見える」

 

「それは困りました」

 

「ふざけんな」

 

怒声だった。

 

イオンは静かに言う。

 

「怒ってくれて、ありがとうございます」

 

「……は?」

 

「あなたは、失う前に怒ってくれる人です」

 

意味が分からない。

 

だが胸の奥がざわついた。

 

イオンは続ける。

 

「多くの人は、失ってから悲しみます」

 

「……」

 

「でもあなたは、失う前に怒れる」

 

その目が、少しだけ羨ましそうだった。

 

「止まらないでください、ルーク」

 

「何だよそれ」

 

「あなたは、生きる力が強い」

 

ルークは言葉を失う。

 

イオンは微笑む。

 

「だから、私のようにはならないで」

 

その瞬間、ルークは初めて理解した。

 

この少年は、諦めている。

 

世界に。

 

自分に。

 

未来に。

 

だからこそ、他人へだけ優しいのだと。

 

「……ふざけんな」

 

声が震えた。

 

「お前が言うな」

 

イオンは少しだけ目を見開き、それから嬉しそうに笑った。

 

その夜だった。

 

礼拝区画から公式発表が出る。

 

導師イオン、急逝。

 

病状悪化による容態急変。

 

兵士たちは沈黙し、侍従たちは泣き、民衆へ知らせが走る。

 

ルークは報を聞いた瞬間、何も考えられなくなった。

 

訓練場へ向かう。

 

木剣を取る。

 

振るう。

 

振るう。

 

振るう。

 

怒りだけが身体に残っていた。

 

礼拝区画の隅では、アリエッタが膝を抱えて座っていた。

 

泣き声も出せず、ただ扉を見つめている。

 

誰も近づかない。

 

誰も声をかけない。

 

小さな魔物たちだけが、彼女の周りへ寄り添っていた。

 

その頃。

 

本部外れの旧搬入口。

 

月も隠れた暗闇の中、二つの影が動いていた。

 

カンタビレとティアだった。

 

荷車へ横たえられているのは、白い衣の少年。

 

イオンだった。

 

顔色は悪い。呼吸は浅い。意識もない。

 

だが、生きている。

 

「急いで」

 

ティアの声は低い。

 

「見張り交代まで時間ない」

 

「分かってる」

 

カンタビレは手際よく荷布をかける。

 

「ほんとにこれで騙せる?」

 

「死亡確認は向こうが勝手に広めた」

 

ティアは歯を食いしばる。

 

「都合よく死んだことにしたいのよ」

 

イオンが小さく咳いた。

 

二人の手が同時に伸びる。

 

ティアはその細い手を握った。

 

「……今度こそ」

 

未来では救えなかった。

 

利用され、奪われ、消えていった命。

 

だが今は違う。

 

「絶対に、死なせない」

 

荷車が闇へ消えていく。

 

その頃、訓練場ではルークが一人木剣を振っていた。

 

荒々しく。

 

何かを振り払うように。

 

何も知らないまま。

 

一年目で立つことを学んだ。

 

二年目で、人の上に立つ者の重さと、この世の歪みを知った。

 

そして次に待つのは。

 

血と現実の年。




4/20 改訂
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