TALES OF THE ABYSS Re:Birth 作:ばっしー171
誰かに育てられる年は、終わった。
それを最初に実感したのは、任務表の前ではなかった。朝の詰所で、自分より年上の兵士たちが当たり前のようにこちらを見て、当たり前のように指示を待っていた、その空気だった。
四年目の春。
神託の盾本部、第一詰所。
壁際に貼り出された任務表の前には、いつものように兵士たちが集まっていた。紙の上に並ぶ地名と時刻、班編成、携行物。誰もが自分の名前を探し、短く確認し、必要な装備を頭の中で組み立てていく。
ざわめきの中、ルークは壁にもたれ、腕を組んだまま紙を睨んでいた。
偵察。護衛。掃討。潜入補助。要人随伴。伝令。監視。
以前なら雑務ばかりだった自分の名前の横に、今は現場任務が並ぶ。しかも補佐ではなく、班長補助、あるいは実質の先導役だ。
「おい、坊主」
年上の兵士が声をかけてきた。三十前後、顔に古い傷のある男だった。
「今日の山道偵察、俺たちお前の補佐らしい」
「へえ」
「へえ、じゃねえよ」
「じゃあ何だよ」
「普通はよろしくお願いします、だろ」
「言うわけねえだろ」
男は呆れたように鼻で笑った。
「生意気なガキだな」
「今さら気づいたのか」
周囲から短い笑いが起こる。
以前なら、この輪の外にいた。
子供。足手まとい。総長のお気に入り。妙に目立つ赤毛。
そういう扱いだった。
今は違う。
気に食わないと思われながらも、使えると判断されている。
それが少しだけ誇らしく、少しだけ居心地が悪かった。
別の兵士が任務表を指で叩く。
「本当に任せて大丈夫なんだろうな」
最初の男が肩をすくめる。
「総長直々に回してる。俺らが文句言う相手じゃねえ」
「聞こえてるぞ」
「聞かせてる」
ルークは小さく舌打ちした。
「だったら最初から黙ってついてこい」
「お、言うねえ」
だが、誰も怒らなかった。
試されているのだと分かった。
剣を振る強さだけではなく、人を動かすだけのものを持っているかどうか。年上の兵士を相手に、自分がどこまで“前に立てるか”を。
その日の任務は、街道脇の山道偵察だった。
最近、盗賊崩れの集団が出る。数は少ないが足が速く、追えば散り、放置すれば荷を襲う。面倒な相手だ。今回は位置確認と追い散らしが目的で、討伐は二の次だった。
現地へ向かう道中、補佐についた兵士は三人。全員年上。全員、それなりに経験もある顔だった。
風は左から。山道は細く、獣道が三本。逃走路に使える場所は限られる。ぬかるんだ土には新しい足跡。数は四、いや五。重い足取りが一つ。荷を持っているか、武装が多い。
「で、どう動く?」
先頭を歩きながら、一人が聞いてきた。
ルークは足を止め、周囲を見た。斜面の傾き。岩場の位置。逃走路になる獣道。木々の密度。風向き。足跡の散り方。
「二手」
「は?」
「正面から一人。左右から一人ずつ回れ」
「お前は?」
「俺が正面」
「囮か?」
「違う」
ルークは木々の奥を見る。
「逃がさねえ役だ」
男たちは一瞬顔を見合わせたが、結局何も言わなかった。
進み方だけで分かる。こちらを見ている。逃げる気配もある。正面へ一人立てば、相手はまずそちらへ視線を集める。散る前に左右を塞げばいい。
そんな理屈を、いちいち説明する気にはなれなかった。
ほどなくして、気配が動いた。
「いた」
低く呟いた瞬間、ルークは一歩前へ出る。
「おい!」
木立の奥で影が揺れた。二つ、三つ。若い男。剣は粗末。目だけは妙に速い。
「ちっ、見つかった!」
「散れ!」
ルークは鼻で笑う。
「散らせるかよ」
正面から突っ込み、最初の一人の剣を弾く。荒い。重さに任せただけの振りだ。柄で顎を打ち、膝を崩したところへ回し蹴りを入れる。横を抜けようとした男へ譜銃を向ける。
乾いた音。
地面のすぐ前を弾が裂き、男の足が止まる。
その間に左右の兵士たちが回り込み、逃走路を塞ぐ。
短い交戦だった。
斬り合いにまで発展する前に終わった。
拘束した後、最初に声をかけてきた男が肩をすくめる。
「……腹立つが、使えるな」
「感想それかよ」
「年下に指示されるのが気に入らん」
「知らねえよ」
「でもまあ、足は引っ張らなかった」
「そっちもな」
その言葉は、思っていたより胸に残った。
誰かの後ろではなく、前に立った。
誰かの指示で動くだけではなく、自分の判断で人を動かした。
それがうまくいった。
たったそれだけのことが、妙に熱かった。
だが、良いことばかりではない。
任務が増えるほど、失敗の重さも増えていく。
数週間後。
商隊護衛任務。
道幅の狭い林道。荷車三台。護衛六名。その一角をルークが見ていた。
依頼主の商人はずっと喋っていた。荷は高価で、遅れは許されず、傷一つでもつけるなと繰り返す。兵士の顔ではなく、積荷ばかり見ている。
「面倒くせえな」
小さく漏らすと、隣の兵士が苦笑した。
「依頼主なんて大体こんなもんだ」
「守ってほしいなら少しは静かにしてろっての」
「言うなよ、余計面倒になる」
言ったところで変わらないのも知っていた。
襲撃は突然だった。
左の林から石が飛び、馬がいななく。正面に二人、右から一人。数は少ない。動きも荒い。だからこそ、ルークはそちらへ意識を寄せすぎた。
一人を追い詰めた瞬間、別働が荷車へ火を放つ。
乾いた布が一気に燃え上がり、馬が嘶き、商人が叫ぶ。護衛の隊列が崩れた。
「火だ! 火を消せ!」
「荷を守れ!」
敵はそれを待っていたように散った。
追えば捕まえられたかもしれない。だが、燃える積荷を放置できない。躊躇した一瞬で、全てが中途半端になった。
戻った時には、荷の一部は炭になっていた。
依頼主は真っ赤な顔で喚き散らし、上官はその声を黙って聞いていた。
詰所へ戻った後、報告書を見下ろしながら告げられる。
「敵を倒したことに意味はない」
「……はい」
「守るべきものを守れ」
返す言葉はなかった。
傷より、その一言の方が深く残った。
食堂で遅い夕食を取っていると、離れた席から小さな声が聞こえてきた。
「やっぱりガキだな」
「戦うのは上手いが、護衛は別だ」
「総長の覚えがいいからって、何でもやらせりゃいいってもんじゃねえ」
箸が止まる。
聞こえないふりをした。
昔なら怒鳴り返していた。
今はそれをする気になれなかった。
言い返したところで、燃えた積荷は戻らない。
夜。
研究区画へ向かう。
そこは今でも妙に落ち着く場所だった。薬品の匂い。金属音。駆動音。好きかと言われれば嫌いだが、少なくとも感情論より理屈で動く空間は、今の自分に合っていた。
扉を開けるなり、ディストが顔をしかめる。
「煙臭い」
「火事だった」
「あなたの頭ですか?」
「積荷だ」
「惜しいですね」
「何がだよ」
椅子へ座らされる。
「腕を出しなさい」
「擦り傷だ」
「雑菌は擦り傷でも入ります」
手際よく薬を塗られ、包帯を巻かれる。無駄に丁寧だ。
「失敗しましたね」
「……した」
珍しく否定しなかった。
ディストは手を止めずに言う。
「良いことです」
「は?」
「失敗しない者は、挑戦していないか、報告書を書いていないかのどちらかです」
「慰めてんのか?」
「事実です」
一拍置いて、いつもの調子が戻る。
「まあ、あなたが落ち込んでいる顔は面白いですが」
「やっぱ殴る」
研究区画を出た頃には、少しだけ気が軽くなっていた。
春が過ぎ、夏が来る頃。
ルークは若い兵士たちの訓練補助まで任されるようになっていた。
「構えが高い」
「足が死んでる」
「その振りじゃ犬も倒せねえ」
木剣を持った新人たちが、露骨に顔をしかめる。
「なんで俺らが子供に教わるんだ」
「弱いからだろ」
即答だった。
一人が苛立って打ち込んでくる。浅い。ルークは半歩ずれて手首を打ち、木剣を落とさせた。
「ほら」
「……くそ」
「悔しいなら次は当てろ」
別の新人が手を挙げる。
「どうしたら速くなれますか」
「毎日振れ」
「もっと特別な方法は」
「寝言言うな」
その場を見ていたリグレットが小さく笑う。
「教え方、私に似てきたわね」
「最悪だ」
「光栄でしょう?」
「誰が」
だが、指導される側の顔は、昔の自分を思い出させた。反発し、悔しがり、それでも食らいつく目。あの頃の自分は、こんなふうに見えていたのだろうかと、少しだけ思った。
訓練が終わった後、さっき木剣を落とされた新人が一人で素振りしていた。
握り方がまだ甘い。踏み込みも浅い。だが、投げていない。
ルークは通り過ぎかけ、足を止める。
「肘上げすぎだ」
新人が振り返る。
「……はい」
「あと、下半身が遅い。上半身だけで振るな」
言うだけ言って去ろうとすると、背後から小さな声が飛んだ。
「ありがとうございました」
振り返らない。
だが、悪くない気分だった。
その日の夜。
研究区画の廊下を歩いていると、足元で何かが動いた。
「……ん?」
丸い影が、てててっと靴へ寄ってくる。
耳の長い小型魔物だった。
「なんだお前」
しゃがみ込み、頭へ手を伸ばす。
噛まない。逃げない。
むしろ嬉しそうに喉を鳴らしている。
「……変なやつだな」
耳の後ろを掻いてやると、さらに尻尾を振った。
その様子を、物陰から小さな影が見ていた。
アリエッタだった。
この子は人を選ぶ。
嫌な人には近づかない。
怖い人間には牙を剥く。
その子が、自分から懐いた。
それだけで、彼女の中の警戒は大きく揺らいだ。
その時。
「……ぐぅ」
小さな腹の音が鳴る。
ルークの視線が物陰へ向いた。
「お前……またいたのか」
アリエッタは縮こまり、答えられない。
しばらく見下ろし、ルークは舌打ちした。
「……腹減ってんのか?」
返事はない。
だが、懐から包みを取り出し放った。
受け止めきれず、膝の上へ落ちる。
乾パンだった。
「今日の余り」
ぶっきらぼうに言う。
「別にお前のためじゃねえからな」
誰も聞いていない言い訳だった。
アリエッタは震える手で一枚口へ入れる。
固い。味気ない。
でも、温かかった。
ルークは背を向ける。
「じゃあな」
行ってしまう。
その瞬間、胸の奥から何かが溢れた。
強い人。
怖い人。
でも、自分の前へ立ってくれた人。
食べ物をくれた人。
この子も懐いた人。
昔、誰かが言っていた。
守ってくれる男の人を、兄と呼ぶのだと。
口が勝手に動いた。
「……に」
声にならない。
もう一度、息を吸う。
「……にい、さま」
ルークの足が止まった。
ゆっくり振り返る。
「……は?」
アリエッタはびくりと肩を震わせ、乾パンを抱えたまま縮こまる。
ルークは頭を抱えた。
「いや待て、誰のことだよ」
小さく頷く。
「俺か?」
また頷く。
「なんでだよ!」
その声に、奥の扉が開いた。
ディストが顔を出す。
「騒がしいですねえ」
「おい、これどういうことだ!」
ディストは一目見て口元を歪めた。
「面白いことになっていますねえ」
「説明しろ!」
「嫌です」
「お前ほんと……!」
アリエッタは乾パンを抱えたまま、ルークを見上げていた。
ルークは露骨に嫌そうな顔をする。
「……その呼び方やめろ」
「……にいさま」
「聞けよ」
「……にいさま」
「増えてんじゃねえか!」
ディストが肩を震わせて笑う。
「諦めなさい。初期認識は覆りにくいものです」
「何の話だよ!」
足元では小型魔物まで機嫌よく鳴いていた。
その騒ぎを少し離れた通路で、ティアが見ていた。
「……何をしているの、あの人は」
呆れ半分、安堵半分。
少なくとも、任務帰りにああして騒げる余裕はまだ残っているらしい。
そのまま去ろうとしたが、曲がり角の先にカンタビレが立っていた。
にやにやと、最初から見ていた顔だ。
「随分やさしい顔をするじゃない」
「……盗み見?」
「聞こえてきただけよ。あれだけ騒がしければ嫌でもね」
ティアは眉をひそめる。
カンタビレは肩を揺らした。
「弟が取られたわね〜」
「は?」
「可愛い弟分を、ちっちゃい妹分に」
「違うわ」
即答だった。
だがカンタビレは楽しそうに笑うだけだ。
「へえ。じゃあ、さっきあんな顔して見てたのは何で?」
「どんな顔よ」
「少し安心して、少し面白くなさそうな顔」
ティアは歩き出す。
だがカンタビレもついてくる。
「ルークって、あなたの前だと変に意地張るものね」
「誰にでもああよ」
「違う違う。誰にでも乱暴だけど、あなたにはちゃんと反応する」
「……意味が分からない」
「分からないふり上手ねえ」
ティアは無言で歩幅を速めた。
「でも良かったじゃない」
「何が」
「ルークが誰かに必要とされてること」
その一言に、足が止まりそうになる。
気づかれたくなくて、顔は向けなかった。
「……別に」
「最近、擦り減ってたんでしょう?」
ティアは答えない。
図星だった。
任務から戻るたび、少しずつ乾いていく顔。笑っても前より短い声。眠れていない目。見ているだけで分かるくらいには、ルークは変わっていた。
「でも今日は違った」
カンタビレはくすくす笑う。
「“にいさま”って呼ばれて本気で困ってた」
ティアは小さく息を吐いた。
その通りだった。任務と責任に押しつぶされるだけの顔ではなかった。怒って、困って、振り回されていた。
「だから」
カンタビレが横から覗き込む。
「弟が取られたわね〜」
「ルークは弟じゃないわ」
「へえ?」
「……昔から、そういうものじゃない」
カンタビレの目が細くなる。
「じゃあ何?」
ティアは答えない。
答えられなかった。
家族のようで、そうではなく。他人と言い切るには近すぎる。そんな関係に名前などなかった。
「重いわねえ」
「黙って」
その時、遠くからまたルークの怒鳴り声が響く。
「だから兄じゃねえって言ってんだろ!」
続けて、小さな声。
「……にいさま」
ティアとカンタビレは顔を見合わせ、同時に吹き出した。
「……しばらく続きそうね」
「ええ。最高に面白いわ」
ティアは呆れながらも、口元の笑みを消せなかった。
秋。
掃討任務で、敵兵の一人が若かった。
ルークと大差ない年齢に見えた。
怯えた目をした瞬間、一瞬だけ手が鈍る。
その隙で肩を裂かれた。
帰還後、ラルゴが傷を見る。
「甘いな」
「分かってる」
「違う」
ラルゴは低く言った。
「自分にだ」
ルークは黙る。
「迷いは消えん」
「……ああ」
「なら抱えて進め」
それだけ言って去っていった。
冬。
大きな任務で失敗した。
情報源の保護に遅れ、対象を奪われた。
責任は隊長にある。そう処理された。
だが、ルークは知っている。
自分がもっと早ければ、防げた。
夜、眠れなかった。
人を斬ることにも、失敗することにも、少しずつ慣れている。
そのことが一番気持ち悪かった。
翌日。
研究区画でディストが顔を見るなり言った。
「目の下が酷いですねえ」
「寝てねえ」
「知っています」
「何でだよ」
「顔に書いてあります」
「便利だなそれ」
椅子へ座らされ、温かい茶を押しつけられる。
「飲みなさい」
「毒か?」
「高級品です」
一口飲む。うまかった。
「……なんだこれ」
「私の私物です」
「もったいねえな」
「ええ。本当に」
ルークは少しだけ笑った。
ディストはそれを見て、ぽつりと言う。
「あなた、前より良い顔で笑わなくなりましたね」
「またそれか」
「損耗ですよ」
「うるせえ」
「ですが、壊れていない」
ルークは顔を上げる。
「何だそれ」
「壊れている人間は、自分が気持ち悪いなどと思いません」
言い返せなかった。
年の終わり。
総長室へ再び呼ばれる。
ヴァンは窓際に立っていた。
「この一年で、お前は強くなった」
「……ああ」
「だが、まだ足りない」
ルークは口元を吊り上げる。
「だろうな」
ヴァンは振り返り、穏やかに笑う。
「来年は、もっと忙しくなる」
その言葉に、妙な冷たさを感じた。
初めてだった。
部屋を出た後もしばらく、その違和感が残った。
夜。
研究区画の前を通る。
奥の区画から、小さな咳払いが聞こえた。
そしてその手前、廊下の影からアリエッタがこちらを見ていた。
目が合う。
逃げない。
ただ、じっと見ている。
「……何なんだよ、お前」
少女は小さく唇を動かした。
「……にいさま」
ルークは深くため息をつく。
「まだ言うのかよ」
足元では小型魔物まで鳴いた。
ディストの笑い声が奥から聞こえる。
四年目は終わる。
少年兵と呼ばれた時代は、もう終わっていた。
そして本人の知らぬところで、誰かの拠り所になり始めていた。
五年目。
新しい出会いと、新しい歪みが待っていた。
六神将が揃ってきました。ルークもバタバタ。