TALES OF THE ABYSS Re:Birth 作:ばっしー171
四年目の終わりは、静かだった。
訓練場の端に薄く雪が積もり、吐く息は白く、空は乾いて高い。木剣を振る音だけが、冬の朝に硬く響いていた。
ルークは一人で剣を振っていた。
肩が痛い。腕も重い。身体中が軋む。
それでも、振れる。
以前の自分なら、ここで終わっていた。
今は違う。
倒れても立てる。
痛くても前へ出られる。
怖くても、止まらない。
ラルゴに叩き込まれたものは、身体の奥へ沈んでいた。
重さとして。
芯として。
消えない感覚として。
「まだ振るの」
背後から声。
振り返ると、ティアが立っていた。
冬の朝の冷気の中で、相変わらず整った顔をしている。だが、その目だけは少し眠たげだった。
「お前こそ、こんな時間に何してんだ」
「別に」
「別じゃねえ顔してるぞ」
「あなたに言われたくない」
ルークは鼻を鳴らした。
木剣を肩へ担ぐ。
ティアはその姿を少しだけ見上げた。
四年目の始まりと比べても、背が伸びている。肩も開いた。顔つきも少し変わった。まだ少年ではあるが、もう“守られるだけの子供”ではない。
それがティアには、少しだけ安堵で、少しだけ怖かった。
未来では、この先にもっと大きな痛みが待っている。
それを知っているのは自分だけだ。
「……何だよ」
ティアの視線に気づいたルークが眉をひそめる。
「何でもないわ」
「何でもない顔じゃねえだろ」
「しつこい」
「そっちだろ」
睨み合いかけたところで、本部の方から兵士が走ってきた。
「ルーク!」
「何だよ」
「研究区画へ行けとのことです」
ルークが露骨に顔をしかめる。
「は?」
「総長殿からの通達だ」
嫌な予感しかしなかった。
ティアの肩が小さく強張る。
研究区画。
その単語だけで、頭の奥が冷える。
「……何で研究区画」
「俺が知るかよ」
兵士は困ったように頭を掻いた。
「とにかく急ぎだそうだ」
ルークは深くため息を吐く。
「最悪だ」
その一言に、ティアだけが別の意味で同意した。
五年目が始まる。
それは新しい訓練の年ではない。
新しい歪みの年だと、ティアは知っていた。
研究区画は、相変わらず趣味が悪かった。
金属の匂い。薬品臭。低く唸る駆動音。壁際に並ぶ見慣れない器具。意味不明な管や計器。白衣の人間たちが忙しなく行き交い、その誰もがこちらを兵士としてではなく、搬入物か何かのような目で見てくる。
ルークは入った瞬間から不機嫌だった。
「帰りてえ」
「帰しませんよ」
甲高い声が飛ぶ。
派手な身振りで現れたのはディストだった。
相変わらずの大仰な動き。うるさい声。鬱陶しい笑み。だがその目だけは、以前より少し疲れているようにも見える。
「何で俺なんだよ」
「何ででしょうねえ」
「てめえが呼んだんだろ」
「正確には“呼ばれた”のです、私も」
「は?」
ディストは肩をすくめる。
「面倒な人たちは、いつだって面倒な仕事を面倒な人間へ押しつけるのですよ」
「何言ってんのか分かんねえ」
「分からなくて結構」
そのまま踵を返し、歩き出す。
ルークは舌打ちしてついていった。
廊下を進む。
一つ、二つ、三つと扉を抜けるごとに、空気が変わっていく。
兵士の姿が減り、代わりに白衣が増える。
最後の区画に近づいたところで、武装した神官が二人立っていた。
ルークの足が止まる。
「……何だよここ」
「見ての通り、入ってほしくない場所です」
「じゃあ何で連れてきた」
「仕事だからです」
ディストはそう言って通行証を見せる。
神官たちが扉を開く。
その向こうは、今まで知っている研究区画とは別物だった。
広い。
寒い。
白い。
床も壁も天井も、無機質な白で統一されている。区画中央には巨大なガラス槽が幾つも並び、その中を淡い光が脈打っていた。管が伸び、音素計測器らしきものが絶えず針を揺らす。壁際には譜石を組み込んだ装置が何重にも並び、低い駆動音が空気を震わせていた。
そして。
どこか、生き物の気配がした。
ルークは無意識に眉をひそめる。
「……何作ってんだ、ここ」
ディストはすぐに答えなかった。
珍しいことだった。
彼は普段、聞いてもいないことまで喋る。
今は沈黙している。
その方が、余計に気味が悪い。
「希望ですよ」
やがて、ぽつりと言う。
「は?」
「絶望しかない世界における、極めて非効率的で、極めて高コストな希望です」
「やっぱ分かんねえ」
「でしょうね」
ディストは一つの槽の前で立ち止まる。
中は曇って見えない。
だが、確かに何かがある。
人影のようにも見えた。
ルークが一歩前へ出ると、すぐにディストが腕を横へ出して止めた。
「触るな」
いつになく低い声だった。
ルークが目を細める。
「見せるために呼んだんじゃねえのかよ」
「全部を見せるとは言っていません」
「感じ悪ぃな」
「今さらです」
その時、区画奥の扉が開いた。
長衣の神官が二人、記録板を抱えて出てくる。モース派の紋章が入っていた。
ルークは露骨に顔をしかめる。
「……あいつら、何でここにいる」
「さあ」
「誤魔化すな」
「誤魔化しているのではなく、答えたくないだけです」
ディストは薄く笑った。
だが、その笑みはいつものような愉快犯めいたものではなかった。
嫌悪。
倦み。
それに近いものが混じっている。
ルークは初めて、ほんの少しだけ理解する。
この男も、この場所を全部好んでいるわけではないのかもしれない、と。
「お前、あいつら嫌いだろ」
ディストの足が止まる。
振り返らないまま、少しだけ肩が揺れた。
「ええ」
乾いた声だった。
「大嫌いですよ」
それだけ言って、また歩き出す。
その背を見ながら、ルークは黙る。
この男は性格が悪い。
だが、だからといって何もかも悪いわけではない。
そう感じてしまったことが、少しだけ面倒だった。
その日から、ルークは研究区画奥の補助任務へ回されるようになった。
警備。
資材搬入。
記録運搬。
試料の移送。
表向きは雑務だ。
だが、そこでしか見えないものがあった。
夜間の警備が妙に厚い。
兵士より神官の出入りが多い。
記録板に書かれた単語が、どれも意味不明なのに気持ち悪い。
「音素同調率」「安定域移行」「適性個体」「系列比較」
中でも、ある日運ばされた封書の一枚に記されていた文字が、妙に引っかかった。
ION SERIES
「……何だこれ」
呟いた瞬間、横から記録板を抜き取られる。
カンタビレだった。
「盗み見はだめだよ」
「お前こそ何でここにいんだよ」
「散歩」
「絶対違うだろ」
カンタビレはいつものように軽く笑う。
だが、その目は笑っていなかった。
「ティアに伝えるね」
「何を」
「嫌な予感しかしないってこと」
それだけ言って、するりと去る。
本当に足音がしない。
ルークは舌打ちした。
「気味悪ぃ奴ばっかだな、ほんと」
その夜。
ティアはカンタビレから記録の断片を受け取った。
灯りを絞った部屋で、その紙を見る。
ION SERIES。
その一行だけで十分だった。
「……始まってる」
喉の奥が冷える。
未来ではもっと後のはずだった。
早い。
しかも静かすぎる。
「それ、そんなにやばいの?」
向かいでカンタビレが頬杖をつく。
ティアはすぐに答えない。
頭の中では、知っている未来と、今の流れが重なっていた。
導師イオンの複製。
代わりの命。
作られる子供たち。
捨てられる失敗作。
そして、後にルーク自身へ返ってくる真実。
「……やばいわ」
ようやく出た声は低かった。
「すごく」
カンタビレは少しだけ目を細める。
「じゃあ、もう遅い?」
ティアは首を横へ振る。
「まだよ」
そう言い切るには、あまりに自信がなかった。
それでも言うしかない。
まだ遅くないと信じなければ、今ここにいる意味がない。
「今度こそ、間に合わせる」
小さな声だった。
だが、確かな意思があった。
研究区画の別棟。
アリエッタは薄暗い部屋の隅へ座っていた。
イオンが“死んだこと”になってから、彼女はほとんど喋らない。
元から多弁ではなかったが、今はそれ以上に静かだった。
足元には小さな魔物が三匹、丸くなっている。
そのうちの一匹が耳を立てる。
足音。
アリエッタも顔を上げる。
扉の隙間から見えたのは、ルークだった。
ただ通っただけだ。
こちらには気づいていない。
荷物を担ぎ、面倒そうな顔をして歩いていく。
「……」
アリエッタは何も言わない。
だが魔物の一匹が、ちょこんと立ち上がった。
ルークの後ろ姿を見送るように。
アリエッタはその頭を撫でる。
イオンはいない。
いなくなった。
そう言い聞かせても、世界は戻らない。
でも。
あの赤い髪の少年だけは、いなくならない。
最近、それを少しだけ覚えていた。
翌朝。
研究区画の奥で、小さな事故が起きた。
いや、事故と呼んでいいのか分からない。
一つの槽が不安定な振動を起こし、計測器が一斉に警告音を鳴らしたのだ。
神官たちが騒ぎ、白衣たちが走り回る。
ルークは反射的に剣へ手をかける。
「何だ!」
「触るな!」
ディストの怒声。
彼は普段の軽薄さをかなぐり捨て、装置の前へ飛び込んでいた。操作盤へ手を走らせ、譜石出力を調整し、補助管を切り替える。
それでも警告音は止まらない。
ガラス槽の内側で、何かが激しく脈打つ。
人影。
子供くらいの大きさ。
それが一瞬見えた。
ルークの背筋が冷える。
「おい……おい、これ……」
ディストは振り返らない。
「見るな!」
その声だけが切実だった。
数秒後、振動が収まり、区画は静寂に戻る。
重い沈黙。
ルークは息を吐くのも忘れていた。
ディストがようやく振り返る。
顔色が悪い。
「……今のは何だ」
しばらくの沈黙の後、ディストは口を開く。
「失敗しかけた、ということです」
「だから何が」
「何も知らない方が幸せですよ」
「ふざけんな」
ルークは低く言う。
「知らねえ方が気味悪ぃんだよ」
ディストは少しだけ目を伏せた。
「そのうち嫌でも知ります」
それは予告にも、警告にも聞こえた。
五年目の始まりは、静かに歪み始めていた。
目に見えないところで。
誰にも聞こえない音で。
けれど確実に、何かが生まれようとしていた。
---
イオンが死んだ。
そう告げられてから、季節が一つ巡ろうとしていた。
けれどアリエッタの中では、あの日から何も進んでいない。
朝になれば起きる。
食事の時間になれば運ばれる。
夜になれば暗くなる。
世界は動いているのに、自分だけが置いていかれているようだった。
部屋の隅に膝を抱えて座る。
窓は小さく、差し込む光も細い。
足元には魔物たちが寄り添っている。耳の長いもの、丸いもの、毛玉のようなもの。誰よりも正直な彼らだけが、アリエッタの沈黙をそのまま受け止めていた。
「……イオンさま」
呼んでも返事はない。
当たり前だった。
死んだ人は戻らない。
そう何度も聞かされた。
それでも喉が勝手にその名を探してしまう。
扉の外で兵士が笑う声がした。
誰かが走っていく足音。遠くで怒鳴る声。訓練場の木剣の音。
生きている人たちの音だった。
アリエッタは耳を塞いだ。
その日、昼過ぎに食事が運ばれた。
いつもの神官ではない。
乱暴に扉を開けて、盆を片手で持ったまま入ってきた赤髪の少年。
ルークだった。
「……何で俺がこんなこと」
不満を隠そうともしない。
盆を机へ置く音も雑だった。
アリエッタは顔を上げる。
ルークは気づき、少し眉をひそめた。
「何だよ」
返事はない。
「見んな」
それでも視線は逸れない。
ルークは居心地悪そうに頭を掻いた。
「……食えよ。冷めるぞ」
言い終えるとすぐ出ていこうとする。
だが足元の毛玉魔物が靴へしがみついた。
「うお、何だこいつ!」
振り払われても、また寄る。
アリエッタの口元が、ほんの少しだけ動いた。
ルークはそれに気づく。
「……笑ったか?」
首を横に振る。
「今笑っただろ」
また無言。
「感じ悪ぃな」
ぶつぶつ言いながら毛玉を抱えて引き剥がし、床へ戻す。
魔物は嬉しそうに尻尾を振った。
ルークは鼻を鳴らす。
「お前ら、変なのばっかだな」
そう言って出ていった。
扉が閉まる。
静寂が戻る。
けれど少しだけ、さっきまでと違う静けさだった。
アリエッタは机の上の食事を見る。
まだ温かい。
その温度に、なぜか涙が落ちた。
---
研究区画の外回廊。
ルークは荷箱を肩に担いだまま歩いていた。
「何で俺が配膳までしなきゃなんねえんだ」
誰に言うでもなく文句を垂れる。
背後から笑い声。
カンタビレだった。
「優しいじゃん」
「うるせえ」
「泣いてたよ、あの子」
ルークの足が止まる。
「……は?」
「気づかなかった?」
「知らねえよ」
「知らないくせに、ちゃんと温かいの選んで持ってってたけど」
「たまたまだ」
「そういうことにしとこっか」
ルークは舌打ちして歩き出す。
「お前、何でも見てんな」
「見てる人がいないところを見るのが仕事だから」
軽い口調だったが、目は笑っていなかった。
カンタビレはふと研究棟の奥を見る。
警備兵が増えている。
神官の出入りも多い。
空気が悪い。
「……嫌な感じ」
「何が」
「全部」
ルークは鼻で笑った。
「お前ら最近そればっかだな」
「あなたもそのうち分かるよ」
「分かりたくねえ」
本音だった。
---
その夜。
ティアは薄暗い部屋で薬草をすり潰していた。
机の上には、別室から運ばれた白い布と血の滲んだ包帯。
奥の寝台では、オリジナルイオンが浅く眠っている。
呼吸は弱い。
だが、生きている。
未来では救えなかった命。
今、ここにある命。
ティアは手を止め、そっとその寝顔を見る。
「……少しは楽になった?」
返事はない。
眠っているのだから当然だ。
それでも聞きたくなる。
カンタビレが窓際から入ってくる。
「相変わらず器用だね、そこ」
「あなたが見張りをずらしたんでしょう」
「持ちつ持たれつってやつ」
ティアはため息をつく。
「アリエッタは?」
「まだ沈んでる」
「……そう」
「でも、赤いのが少し効いてる」
ティアの手が止まる。
「ルーク?」
「無自覚って罪だねえ」
「別にそういう話じゃないわ」
「顔、ちょっと怖いよ」
ティアは薬草を強めに潰した。
カンタビレは笑う。
「安心して。あの子が見てるのは、ルークそのものっていうより、“まだ消えないもの”だよ」
その言葉に、ティアは少し黙った。
確かにそうかもしれない。
イオンを失い、世界が止まったアリエッタにとって、ルークだけは止まらず動いている。
怒って、喋って、転んで、立って、また前へ行く。
眩しいのだ。
少しだけ。
---
数日後。
アリエッタの部屋の前で、ルークはまた盆を持たされていた。
「おいディスト!」
遠くへ怒鳴る。
「聞こえてますよ!」
どこからか声だけ返る。
「自分でやれ!」
「忙しいのです!」
「俺もだ!」
結局そのまま扉を開ける。
アリエッタは以前と同じ場所にいた。
だが今日は少し違う。
膝の上に小さな魔物を乗せている。
ルークを見ると、その魔物が耳を立てた。
「……またお前か」
返事はない。
「飯」
盆を置く。
去ろうとして、ふと立ち止まる。
「……食ってんのか、ちゃんと」
小さく頷く。
初めての返答だった。
ルークは少し驚く。
「そうか」
それだけ言って出ようとする。
背後から、かすれた声。
「……にいさま」
ルークが固まった。
ゆっくり振り返る。
アリエッタは俯いたまま、魔物を撫でている。
「今何て言った」
沈黙。
「おい」
「……にいさま」
今度ははっきり聞こえた。
ルークは頭を抱えた。
「やめろその呼び方!」
アリエッタは少しだけ肩を震わせる。
笑っているのか、怯えているのか分からない。
「何で俺なんだよ」
答えはない。
ただ、魔物たちが一斉に寄ってきた。
「お前らまで来んな!」
その騒ぎを、扉の隙間からカンタビレが見ていた。
「うわぁ……弟取られてるじゃん」
背後にいたティアが眉をひそめる。
「誰が弟よ」
「え、違うの?」
「違う」
即答だった。
だが少しだけ早口だった。
---
夕方。
訓練場の端でルークは木剣を振っていた。
何となく落ち着かなかった。
にいさま。
あの呼び方が頭に残っている。
「意味分かんねえ……」
「何が?」
リグレットだった。
いつの間にか後ろに立っている。
「うお、びっくりした」
「隙だらけね」
「うるせえ」
リグレットは木剣を一本拾う。
「打ってきなさい」
「今?」
「今」
ルークは舌打ちして踏み込む。
だが三手で崩された。
足払い、柄打ち、喉元へ木剣。
完敗。
「雑念」
リグレットが短く言う。
「顔に出てる」
「……そんな分かりやすいか」
「ええ」
彼女は木剣を返しながら、少しだけ視線を逸らした。
「誰かに頼られて困るなら、まだ子供ね」
「は?」
「頼られて立てるなら、大人よ」
それだけ言って去っていく。
ルークはしばらく呆然とした。
「……何なんだよ、みんなして」
答える者はいない。
冬の空だけが高かった。
---
その夜、研究区画奥でまた警備が増えた。
兵士たちが緊張した顔で持ち場につく。
重い箱が運ばれる。
中から、何かが壁を叩く音がした。
ルークは眉をひそめる。
「……おい」
誰も答えない。
遠くでディストの怒声。
神官たちの早口。
計器音。
そして、子供のような短い悲鳴。
ルークの背筋が冷える。
それはまだ、始まったばかりだった。
---
悲鳴は、短かった。
けれど耳に残った。
子供の声だった。
怒鳴り声でもなく、泣き声でもなく、痛みに耐えきれず零れたような、鋭く小さな音。
研究区画の通路で立ち尽くしたまま、ルークはしばらく動けなかった。
何かがいる。
何かをしている。
それだけは分かる。
だが扉の向こうで何が行われているのか、誰も説明しない。
兵士たちは目を逸らし、神官たちは無表情で通り過ぎる。
ディストだけが、苛立った顔で区画奥と出入口を行き来していた。
「おい!」
ルークが声を張る。
「今の何だ!」
ディストは足を止めない。
「聞かなかったことにしなさい!」
「聞こえたんだよ!」
「だから面倒なのです!」
怒鳴り返したまま奥へ消える。
扉が閉まる。
金属音。
鍵のかかる音。
ルークは拳を握った。
「……ふざけんな」
---
その夜。
本部外れの旧倉庫。
灯りを落とした中で、ティアとカンタビレが向かい合っていた。
机の上には、走り書きの地図と時間表。
見張り交代時刻。輸送経路。警備人数。搬出口。
カンタビレが指で線をなぞる。
「明朝、四刻前。北搬出口から出る」
「護衛は」
「兵士四、神官二。荷車一台」
「中身は」
「失敗個体」
ティアの顔色が変わる。
「……確定?」
「ディストの補助員が吐いた」
「誰」
「そこは聞かない約束」
ティアは唇を噛む。
未来で知っている。
安定しなかったレプリカたちは、記録にも残らず消された。
この時代のどこかで。
見つけられなかっただけで、確かにいた命たちだ。
今なら間に合う。
そう思いたい。
「場所は?」
「北火口」
「最悪ね」
「だから呼んだ」
カンタビレは軽く笑う。
「一人で行く顔してたから」
ティアは否定しなかった。
そのつもりだった。
「ルークは」
「巻き込む」
「却下」
「もう巻き込まれてるよ」
その一言に、ティアは黙る。
研究区画にいる時点で、もう外ではない。
---
夜明け前。
空気は刺すように冷たかった。
北搬出口の影で、ルークは不機嫌そうに腕を組んでいた。
「で、何で俺がここにいる」
「力仕事」
カンタビレが即答する。
「雑だな」
「説明すると長い」
「しろよ」
ティアが低く言う。
「静かに」
ルークは彼女を見る。
いつも以上に張り詰めていた。
「……何なんだよ」
「後で話す」
「信用できねえ」
「しなくていい。今は来て」
ルークは舌打ちした。
だが来た。
それだけで十分だった。
やがて搬出口が開く。
荷車が一台、軋む音を立てて出てくる。
布で覆われている。
護衛兵四人。神官二人。
荷車の中から、何かがぶつかる鈍い音。
ルークの顔つきが変わった。
「……おい」
ティアが目で制す。
まだだ。
荷車はゆっくりと北道へ向かう。
三人は距離を取って追った。
---
北火口は、本部から離れた岩山の中腹にあった。
古い採掘跡が崩れ、今は深い穴となっている。底は見えず、熱気だけが立ち昇る。硫黄臭が鼻を刺し、風は乾いていた。
荷車が止まる。
兵士たちが顔をしかめながら荷台へ手をかける。
神官の一人が記録板を読み上げた。
「不安定個体三。処分確認後、帰投」
声に感情はない。
ただの作業だった。
ルークの背中に冷たいものが走る。
「……処分?」
荷台の布が剥がされる。
中には鉄籠が三つ。
そのうち二つは動かない。
もう一つだけが激しく揺れていた。
中で、小柄な少年が暴れている。
拘束具だらけの身体。
顔には傷。
目だけが、異様なほど生きていた。
「何だよ、これ……」
ルークの声が掠れる。
兵士が籠を引きずり下ろす。
少年が噛みつこうとする。
殴られる。
ティアの指先が震えた。
未来で見たシンク。
だがもっと幼い。
まだ壊れきっていない。
まだ間に合う。
神官が火口を指した。
「落とせ」
その瞬間、ルークが飛び出した。
「待て!」
誰より先に身体が動いていた。
兵士たちが振り返る。
「何の権限で止める!」
「知らねえよ!」
剣を抜く。
「でもそれ、人だろうが!」
兵士が斬りかかる。
ルークは受け流し、腹へ蹴りを叩き込む。二人目の槍を払い、柄で顎を打つ。
「今!」
ティアが走る。
カンタビレは神官の記録板を奪い、崖下へ投げ捨てた。
「うわ、今日の私すごい悪い女」
「感想あと!」
ティアが籠の鍵へ手をかける。
固い。
開かない。
「ルーク!」
「分かってる!」
一閃。
錠が砕ける。
扉が開いた瞬間、少年は飛び出してルークへ噛みついた。
「痛っ!」
腕に牙が食い込む。
「てめえ助けてんだぞ!」
さらに暴れる。
恐怖と怒りだけで動いていた。
ティアが少年を抱き止める。
「大丈夫……大丈夫だから」
暴れ続ける。
だが、その声だけに一瞬止まった。
ルークは腕を押さえながら顔をしかめる。
「何なんだこいつ……」
ティアは小さく言った。
「生きてるだけよ」
兵士たちが立ち直る。
「捕らえろ!」
その前へ、巨体が割り込んだ。
ラルゴだった。
誰も気づかぬうちに来ていた。
「この崖、足場が悪い」
低い声。
「落ちるぞ」
兵士たちが止まる。
ラルゴは彼らを見ず、ただ火口を見ていた。
「今日は見なかったことにしろ」
神官が怒鳴る。
「貴様、命令違反だぞ!」
ラルゴはゆっくり視線だけ向ける。
それだけで、神官は黙った。
「行け」
ティアへ言う。
短い一言だった。
十分だった。
---
帰路。
少年はカンタビレに担がれ、まだ唸っていた。
時折、誰かを殺すような目で睨む。
ルークは噛まれた腕に布を巻いている。
「最悪だ」
「助けた相手に噛まれるなんて?」
カンタビレが笑う。
「うるせえ」
ティアは振り返り、少年を見る。
顔立ちはイオンに似ていた。
だが、その目には祈りがない。
怒りしかない。
「……シンク」
小さく呟く。
ルークが聞き返す。
「何だって?」
「名前よ」
「今決めたろ」
「いいから」
本当は違う。
未来で知っている名だった。
ここでそう呼ぶべきか、一瞬迷った。
だが、他に呼び方がなかった。
少年はその名に反応しない。
ただ、ティアの腕の中で睨み続けていた。
---
その頃、研究区画奥。
空になった搬送記録を見て、ディストは深く息を吐いた。
「……やりましたねえ」
背後の神官が怒鳴る。
「貴様の管理不足だ!」
「そうかもしれませんねえ」
「失敗個体が逃亡したのだぞ!」
ディストは振り返る。
笑っていた。
だが目だけは冷たい。
「逃げたのではなく、生き延びたのでは?」
神官が息を呑む。
ディストは肩をすくめる。
「まあ、どうでもいいですが」
そう言いながら、机の端にあった別の記録へ視線を落とす。
そこには新しい文字列。
ION SERIES 07
こちらは順調だった。
それが、妙に気に入らなかった。
---
夜。
旧療養区画の一室。
シンクは寝台へ拘束され、なお睨んでいた。
誰が近づいても唸る。
水も飲まない。
食事も投げ返す。
ルークが顔をしかめる。
「面倒くせえ」
ティアは疲れた声で言う。
「あなたにだけは言われたくない」
カンタビレが肩を揺らす。
「似た者同士だもんね」
「どこがだ!」
その時。
扉の隙間から、小さな影が入ってくる。
アリエッタだった。
誰も呼んでいない。
彼女は無言でシンクを見る。
シンクも睨み返す。
長い沈黙。
やがてアリエッタは、毛布を一枚床へ置いた。
それだけして戻ろうとする。
シンクは毛布を見た。
取らない。
だが、蹴りもしなかった。
ティアが小さく息を吐く。
「……少しだけ、前進ね」
ルークは腕を組む。
「分かんねえ世界だな」
誰より、その言葉が似合っていた。
---
シンクは、三日経っても誰にも懐かなかった。
懐く、という表現自体が間違っているのかもしれない。
噛む。睨む。黙る。眠らない。
食事は皿ごと投げる。水は蹴り倒す。近づく者には爪を立てる。
言葉もほとんど発しない。
ただ、生きようとしている意志だけが異様に強かった。
「……すげえな」
ルークが包帯の巻かれた腕を見ながら呟く。
「まだ痛い」
「二回も近づくからよ」
ティアが即答する。
「一回目で分かれよ」
「助けた相手だぞ」
「相手は知らない」
「理不尽だろ」
「世界は大体そういうものよ」
ルークは顔をしかめる。
最近、ティアは時々こういう言い方をする。
年齢に似合わない、何かを見過ぎた人間の口調。
昔からそうではあったが、最近はより強い。
「……お前さ」
「何」
「たまに変だよな」
ティアの手が止まる。
「失礼ね」
「褒めてねえ」
「知ってる」
そのやり取りの奥で、シンクが低く唸った。
視線の先にはアリエッタがいる。
部屋の隅に座り、魔物を膝へ乗せていた。
彼女は話しかけない。
近づきすぎない。
ただそこにいる。
それだけなのに、シンクは他の誰かより彼女へ視線を向けていた。
「……何なんだろうな、あれ」
ルークがぼやく。
カンタビレが肩をすくめる。
「同じ匂いするんじゃない?」
「何の」
「捨てられた子供の」
ルークは返せなかった。
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その夜。
ティアはルークを呼び出した。
本部の外れ、旧療養区画へ続く細い通路。
人気はない。
灯りも少ない。
「……何だよ、こんな時間に」
「静かに来て」
「説明しろ」
「来れば分かる」
「その言い方嫌いなんだよ」
文句を言いながらも、ついてくる。
ティアは少しだけ安堵した。
彼は怒る。疑う。文句を言う。
それでも、必要な時には来る。
そういう人間だった。
最後の扉の前で立ち止まる。
ティアは深く息を吸った。
「驚かないで」
「無理な前振りすんな」
扉を開ける。
部屋は静かだった。
薬草の匂い。
薄い灯り。
窓際に置かれた寝台。
その上に、白い衣の少年が座っていた。
細い身体。
透けるような肌。
伏せられた睫毛。
そして、顔。
ルークの足が止まる。
少年がこちらを向く。
驚いたように目を見開き、それから柔らかく笑った。
「……ルーク?」
ルークの喉が鳴る。
「お前……」
一歩、また一歩と近づく。
「イオン……?」
少年は小さく頷いた。
「ええ」
ルークはしばらく何も言えなかった。
やがて、掠れた声が出る。
「死んだんじゃ……」
イオンは少し困ったように笑う。
「そういうことになっています」
次の瞬間、ルークの拳が壁へ叩きつけられた。
鈍い音。
「ふざけんな!」
ティアが肩を震わせる。
ルークの怒声は部屋には似合わなかった。
だが止めなかった。
「生きてんなら出てこいよ!」
「ルーク」
「皆泣いてたぞ! アリエッタだって!」
イオンは静かに視線を伏せる。
「知っています」
「知ってて隠れてんのかよ!」
「出れば」
イオンの声は弱い。
だが、揺れなかった。
「出れば、また別の誰かが消されます」
ルークが言葉を失う。
イオンは続ける。
「私が死んだことになったから、今は多くの人が安心しています」
「安心?」
「都合がいいのです」
ティアが低く言う。
「モースにとってね」
ルークは二人を見る。
ようやく、少しずつ繋がる。
病死発表。
異常な研究区画。
イオンに似たシンク。
全部、別々の話ではない。
「……何だよそれ」
声が震えていた。
怒りか、混乱か、自分でも分からない。
「人って、そんな簡単に消されんのかよ」
イオンは少しだけ目を細める。
「簡単ではありません」
「じゃあ何だよ」
「何人もの人が、私を生かすために危険を冒してくれました」
ティアが顔を逸らす。
カンタビレが壁際で手を振る。
「どうもー」
「お前いたのかよ!」
「最初からいたよ」
「うるせえ」
部屋の空気が少しだけ緩んだ。
イオンが小さく咳き込む。
ティアがすぐ水差しを持つ。
その手際は慣れていた。
ルークはそれを見る。
彼女がどれだけここへ通っていたのか、言葉にしなくても分かった。
「……何で俺に見せた」
ティアは少し黙った。
「あなたがもう、外の人じゃないから」
「何だそれ」
「この先、もっと知ることになる」
「知りたくねえよ」
本音だった。
だが、もう遅いとも思った。
扉を開けた時点で、戻れない。
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翌日。
アリエッタはティアに連れられて、その部屋へ来た。
最初は何も説明しなかった。
扉を開ける。
イオンが椅子に座っていた。
アリエッタの身体が止まる。
呼吸すら止まったようだった。
「……イオン、さま」
イオンは微笑む。
「お久しぶりです」
次の瞬間、アリエッタは駆け出していた。
勢いのままイオンへ抱きつく。
声にならない嗚咽。
肩が震える。
イオンは細い腕で、できる限り強く抱き返した。
「ごめんなさい」
アリエッタは首を横に振る。
「ごめんなさい」
また言う。
アリエッタはさらに強くしがみついた。
ティアは扉のところで目を伏せる。
未来では見られなかった光景だった。
それだけで十分だった。
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数日後。
研究区画奥。
新しい槽の前にディストが立っていた。
計測器は安定している。
内部には、小さな少年が浮かんでいた。
白い衣。
穏やかな顔。
イオンに酷似した容貌。
「……皮肉ですねえ」
ディストが独り言つ。
生かされた本物は隠され、作られた代わりが表へ出る。
それを世界は望む。
望んでしまう。
神官が近づく。
「系列07、安定確認」
「ええ、見れば分かります」
「導師候補として教育準備へ」
ディストは返事をしない。
ガラス越しの少年が、まだ目を閉じたまま小さく指を動かした。
まるで、誰かを探すように。
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その夜。
ルークは療養区画の外廊下で座り込んでいた。
頭が整理できない。
死んだと思っていた奴が生きていた。
偉い連中がそれを隠した。
似た顔のガキが捨てられた。
何かがまた作られている。
「……気に入らねえ」
独り言が漏れる。
隣へ誰かが座った。
カンタビレだった。
「全部?」
「全部」
「分かる」
珍しく真面目な声だった。
「でもね、気に入らないって思える人がいるうちは、まだ大丈夫だよ」
ルークは横目で見る。
「何がだよ」
「この場所」
少しだけ沈黙。
やがてルークは立ち上がる。
「意味分かんねえ」
「知ってる」
彼は歩き出す。
止まってはいなかった。
その背を見送りながら、カンタビレは小さく笑う。
「……やっぱり、いい子だね」
その呟きは、ルークに届くことはなく風に書き消された。