TALES OF THE ABYSS Re:Birth   作:ばっしー171

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Episode 0-6-B 代わりに生まれたもの

研究区画の朝は、いつも静かに始まる。

 

だがその静けさは、穏やかさとは違う。

 

誰かが声を潜め、誰かが足音を殺し、誰かが見て見ぬふりをしているだけの沈黙だった。

 

ルークは資材箱を抱えながら、その空気が嫌いだった。

 

「朝から息苦しいんだよ、ここ」

 

「酸素濃度は正常です」

 

横から即座に返る。

 

ディストだった。

 

「そういう意味じゃねえ」

 

「知っています」

 

「じゃあ黙れ」

 

「無理ですね」

 

相変わらず腹の立つ男だった。

 

だが最近、ルークは少しだけ気づいている。

 

この男は喋っている時ほど、本音を隠している。

 

黙る時ほど、面倒なことが起きている。

 

今朝は、妙に静かだった。

 

「……何かあったな」

 

ディストの肩がわずかに止まる。

 

「勘だけは良いですねえ」

 

「当たりかよ」

 

「嬉しくありません」

 

そのまま奥へ歩いていく。

 

ルークは舌打ちしながら追った。

 

---

 

最深部。

 

例の白い区画には、いつも以上に警備が敷かれていた。

 

神官が四人。

 

兵士が六人。

 

記録係までいる。

 

中央の大型槽からは、淡い光が脈打っていた。

 

ディストが操作盤へ立つ。

 

神官の一人が読み上げる。

 

「ION SERIES 07、覚醒工程へ移行」

 

ルークが眉をひそめる。

 

「……またそれか」

 

誰も答えない。

 

槽の内部で、小さな影が揺れた。

 

次の瞬間、ガラス面へ細い手が触れる。

 

ルークの呼吸が止まる。

 

子供だった。

 

白い衣を纏った、痩せた少年。

 

顔立ちは――

 

「……イオン?」

 

思わず声が漏れた。

 

ディストが低く言う。

 

「違います」

 

少年の瞼がゆっくり開く。

 

薄い金の瞳。

 

けれどそこには、あの穏やかな知性も、祈るような温度もない。

 

ただ、空白だった。

 

何も知らない目。

 

何も与えられていない目。

 

ルークの背筋が冷える。

 

「何だよ、これ」

 

神官が誇らしげに言う。

 

「新たなる導師候補だ」

 

「は?」

 

「オリジナルの不在を補う、完全調整個体」

 

ルークはゆっくりその男を見る。

 

「……人を物みてえに言うな」

 

神官が鼻で笑う。

 

「感情論だな」

 

「お前が終わってんだよ」

 

空気が凍る。

 

兵士たちが身構える。

 

ディストが額を押さえた。

 

「朝から面倒です……」

 

その時、槽のロックが外れた。

 

液体が排出され、少年が崩れ落ちる。

 

ルークは反射的に駆けた。

 

受け止める。

 

軽い。

 

驚くほど軽い。

 

少年は濡れた睫毛を震わせ、ルークを見上げた。

 

「……あなた、は」

 

声は弱い。

 

生まれたばかりの声だった。

 

ルークは言葉に詰まる。

 

「俺は……」

 

何と名乗ればいいのか分からない。

 

ディストが珍しく静かに言った。

 

「まず毛布を」

 

---

 

その日の夕方。

 

旧療養区画。

 

ティアは扉の前で深く息を吸っていた。

 

中にはオリジナルイオンがいる。

 

奥の部屋には、新しく保護した少年。

 

この対面は避けられない。

 

未来では決してなかった光景。

 

だからこそ怖い。

 

「入るわよ」

 

扉を開ける。

 

イオンは椅子に座り、本を閉じた。

 

「何かありましたか?」

 

ティアは答えず、横へずれる。

 

その後ろから、白衣の少年がそっと顔を出した。

 

イオンの手が止まる。

 

少年もまた、イオンを見る。

 

同じ顔。

 

同じ声帯。

 

同じような細い身体。

 

違うのは、そこに積み重なった時間だけだった。

 

長い沈黙。

 

ティアの喉が乾く。

 

先に口を開いたのは、イオンだった。

 

「……寒くありませんか?」

 

少年は瞬きをした。

 

予想外だったのだろう。

 

責められると思った。

 

拒絶されると思った。

 

ティアも少し驚いた。

 

イオンは微笑む。

 

「こちらへどうぞ」

 

少年は恐る恐る近づく。

 

イオンは自分の肩掛けを外し、彼へ掛けた。

 

「あなたは、私の代わりではありません」

 

ティアの胸が強く鳴る。

 

イオンは続けた。

 

「あなたは、あなたです」

 

少年の目に初めて感情が浮かんだ。

 

理解ではない。

 

戸惑いでもない。

 

涙だった。

 

理由も分からず、涙だけが零れ落ちる。

 

ティアは顔を伏せた。

 

この人は、本当に強い。

 

---

 

同じ頃。

 

廊下の外ではアリエッタが立ち尽くしていた。

 

中の気配に気づき、来てしまった。

 

扉の隙間から見える。

 

イオンがいる。

 

もう知っている。

 

生きていることも、ここにいることも。

 

だがその隣に、もう一人いる。

 

イオンさまと同じ顔。

 

同じ声。

 

同じ白。

 

アリエッタの呼吸が浅くなる。

 

「……イオン、さま」

 

誰に向けた言葉か、自分でも分からない。

 

足元の魔物が不安そうに鳴いた。

 

その時、背後から声。

 

「見つかるぞ」

 

ルークだった。

 

アリエッタがびくりと肩を震わせる。

 

「……にいさま」

 

「その呼び方やめろ」

 

即答だった。

 

だが声は少し弱い。

 

ルークもまた、扉の向こうを見た。

 

「……何なんだよ、これ」

 

珍しく、本当に困っていた。

 

アリエッタはその袖を小さく掴む。

 

強くではない。

 

確認するように。

 

ルークは振り払わなかった。

 

「……分かんねえなら、今は分かんなくていい」

 

自分に言うような声だった。

 

アリエッタは少しだけ落ち着く。

 

袖を掴んだまま、扉の向こうを見つめた。

 

---

 

研究区画最深部。

 

ディストは空になった槽を見上げていた。

 

神官が満足げに記録を閉じる。

 

「成功だ」

 

「でしょうねえ」

 

「これで導師の空白は埋まる」

 

ディストは笑った。

 

「空白とは便利な言葉です」

 

「何だと」

 

「人間一人の人生を、席が空いた程度に言えるのですから」

 

神官が睨む。

 

ディストは肩をすくめた。

 

「失礼。独り言です」

 

神官が去る。

 

一人になった区画で、ディストは小さく呟く。

 

「……成功、ねえ」

 

成功とは何だ。

 

生きている本物を隠し、作った偽物を立てることか。

 

捨てられた失敗作たちの上に築くことか。

 

答えは分かっていた。

 

だからこそ腹が立つ。

 

---

 

夜。

 

ティアとカンタビレが屋上にいた。

 

風が強い。

 

下の灯りが揺れて見える。

 

「どうだった?」

 

カンタビレが聞く。

 

「イオンは、あの子を受け入れた」

 

「さすが聖人」

 

「違う」

 

ティアは首を横に振る。

 

「誰より怒ってるのよ、あの人は」

 

「へえ」

 

「でも怒り方を知らないだけ」

 

カンタビレは少し黙る。

 

「それ、ルークと逆だね」

 

ティアは思わず笑った。

 

「そうかも」

 

久しぶりの、少し自然な笑いだった。

 

その下で、世界はまだ歪んでいる。

 

けれど、歪みの中にも救いは生まれていた。

 

---

 

ヴァンが本部へ戻る。

 

その知らせだけで、空気が変わった。

 

朝の詰所はいつも通り騒がしいはずだった。任務表の前で兵士たちが肩をぶつけ合い、装備係が怒鳴り、誰かが寝坊して蹴られる。そんな雑多な場所が、その日だけは妙に整っていた。

 

背筋が伸びている。

 

声が低い。

 

誰もが少しだけ姿勢を正している。

 

「……気持ち悪ぃ」

 

ルークが率直に言った。

 

隣で兵士が慌てて肘を打つ。

 

「馬鹿、聞こえるぞ」

 

「誰に」

 

「総長殿に決まってるだろ!」

 

「聞こえたら何だよ」

 

兵士は絶句した。

 

その時、詰所入口のざわめきが割れる。

 

人の流れが自然に左右へ分かれた。

 

誰かが命じたわけではない。

 

そうしたくなる空気があった。

 

長身の男が入ってくる。

 

整った軍装。乱れのない歩幅。柔らかな微笑。

 

ヴァンだった。

 

「久しいね、皆」

 

穏やかな声だった。

 

それだけで兵士たちの表情が明るくなる。

 

緊張と安堵が同時に走る。

 

ルークは思わず前へ出た。

 

「ヴァン!」

 

ヴァンの目がこちらへ向く。

 

一瞬だけ、柔らかさが深くなる。

 

「ルーク」

 

名を呼ばれただけで、胸の奥が熱くなった。

 

子供じみていると分かっていても、嬉しかった。

 

ヴァンは近づき、ルークの肩へ手を置く。

 

「背が伸びた」

 

「そりゃ伸びるだろ」

 

「顔つきも変わった」

 

「当たり前だ」

 

口では強がったが、声は少し上ずっていた。

 

ヴァンは小さく笑う。

 

「よく鍛えているようだ」

 

「まあな」

 

「だが」

 

そこで指先が肩の力みをなぞる。

 

「まだ力み癖が抜けていない」

 

ルークの顔が歪む。

 

「……いきなりそれかよ」

 

「嬉しかったかい?」

 

「うるせえ」

 

周囲から笑いが起こる。

 

空気が一気に和んだ。

 

それを少し離れた柱陰から見ていたティアは、無意識に爪を立てていた。

 

変わらない。

 

人を安心させる声。

 

信じたくなる笑み。

 

自然に人の中心へ立つ在り方。

 

未来を知っていても、一瞬だけ錯覚しそうになる。

 

この人が正しいのではないかと。

 

「……最悪」

 

小さく漏れた声に、横からカンタビレが現れる。

 

「分かる」

 

「いつからいたの」

 

「最初から」

 

「気配消すのやめて」

 

「仕事だから」

 

カンタビレは詰所中央のヴァンを見る。

 

「うわ、本当に上手いね」

 

「何が」

 

「人を安心させるの」

 

ティアは答えない。

 

それが最も厄介なのだ。

 

---

 

昼。

 

ヴァンは本部各所を視察していた。

 

訓練場、兵站庫、研究区画、礼拝区画。

 

どこへ行っても歓迎される。

 

誰もが報告し、誰もが期待する。

 

モース派神官ですら表向きは頭を下げる。

 

「……ずるい人」

 

カンタビレがぼそりと呟く。

 

ティアは研究区画入口で腕を組んだ。

 

「昔からよ」

 

「お兄ちゃん?」

 

「やめて」

 

「でも似てるじゃん」

 

「やめて」

 

そこへヴァン本人が現れた。

 

「何をやめるんだい?」

 

二人とも一瞬で表情を整える。

 

カンタビレは即座に笑った。

 

「盗み聞き、趣味悪いですよ」

 

「偶然だよ」

 

「そういうことにしときます」

 

ヴァンの視線がティアへ移る。

 

「久しいね、ティア」

 

「……ええ」

 

「元気そうで何よりだ」

 

「そう見えるなら」

 

ヴァンは一拍置いた。

 

それ以上踏み込まない。

 

その距離感すら上手かった。

 

「そちらの彼女は?」

 

「カンタビレでーす」

 

先に名乗る。

 

「影の薄さには定評があります」

 

「面白い子だ」

 

「笑ってる人に言われると怖いですね」

 

一瞬、空気が止まる。

 

ティアが横目で見る。

 

カンタビレは笑顔のまま。

 

ヴァンも笑顔のまま。

 

先に笑ったのはヴァンだった。

 

「手厳しい」

 

「本音です」

 

「なお良い」

 

二人とも柔らかい口調のまま、一歩も引いていない。

 

ティアは少しだけ安心した。

 

この人に無条件で飲まれない人間がいる。

 

それだけで違う。

 

---

 

研究区画最深部。

 

ヴァンはディストと向き合っていた。

 

「戻られた早々、嫌な場所へようこそ」

 

「君も変わらないね」

 

「褒め言葉として受け取っておきます」

 

ヴァンは大型槽を見上げる。

 

空になったガラス。

 

計器の残光。

 

「進んでいるようだ」

 

「進ませている人間がいますからねえ」

 

「君ではないのかい?」

 

ディストは鼻で笑う。

 

「私ならもっと趣味良くやります」

 

ヴァンの口元がわずかに上がる。

 

「本音は」

 

「嫌いですよ」

 

即答だった。

 

「命を数字で並べる連中は」

 

ヴァンは返事をしない。

 

ただ視線だけが深くなる。

 

「だが止めない」

 

「止められるほど偉くないので」

 

「君らしい」

 

ディストは少し苛立ったように肩をすくめる。

 

「あなたも嫌いです」

 

「光栄だ」

 

「そういうところがです」

 

---

 

その夜。

 

旧療養区画。

 

ヴァンは一人、静かに扉を開けた。

 

中にはオリジナルイオンがいる。

 

窓辺の椅子で本を読んでいたイオンは、来訪者を見てゆっくり本を閉じた。

 

「……総長」

 

「その呼び方は他人行儀だね」

 

「今の私は、他人として扱われていますので」

 

ヴァンは少しだけ笑う。

 

「生きていたか」

 

「死なせたい方が多かっただけです」

 

空気が冷える。

 

だが声は互いに穏やかだった。

 

ヴァンは近づき、椅子の前で立ち止まる。

 

「苦しいだろう」

 

「ええ」

 

「それでも守りたいかい」

 

イオンは迷わなかった。

 

「守らねば、誰も人でいられなくなります」

 

ヴァンの目が細くなる。

 

「世界は、もう十分壊れている」

 

「だから壊していい理由にはなりません」

 

長い沈黙。

 

やがてヴァンは小さく息を吐いた。

 

「君は強い」

 

「あなたは弱い」

 

初めて、イオンの声に棘があった。

 

ヴァンは驚いたように笑う。

 

「手厳しいな」

 

「あなたは、優しい顔で諦めている」

 

ヴァンは返さない。

 

その沈黙が答えだった。

 

---

 

外廊下。

 

扉の影でティアが立っていた。

 

聞くつもりはなかった。

 

だが足が止まってしまった。

 

背後からカンタビレが囁く。

 

「どうだった?」

 

「……二人とも、変わってない」

 

「嫌な意味で?」

 

「ええ」

 

少しして扉が開く。

 

ヴァンが出てくる。

 

ティアと目が合う。

 

一瞬だけ、兄の顔になった。

 

「ティア」

 

「何」

 

「痩せたね」

 

「あなたこそ」

 

「心配している」

 

「しなくていい」

 

ヴァンは微笑む。

 

「そう言うと思った」

 

それだけ言って去っていく。

 

背筋の伸びた、迷いのない歩き方だった。

 

ティアは拳を握る。

 

知っている。

 

あの背中は止まらない。

 

誰かが止めなければ、世界ごと進んでしまう。

 

---

 

翌朝。

 

訓練場。

 

ルークは木剣を振っていた。

 

その前へヴァンが立つ。

 

「一本、どうだい」

 

「上等だ」

 

兵士たちが集まる。

 

一合。

 

二合。

 

三合。

 

ルークは本気だった。

 

だが十合も持たない。

 

木剣は弾かれ、喉元へ止められる。

 

悔しさで歯が軋む。

 

ヴァンは笑う。

 

「強くなった」

 

「負けたろ」

 

「以前なら三合だった」

 

ルークは木剣を握り直す。

 

「……次は勝つ」

 

「楽しみにしている」

 

ティアはその光景を遠くから見ていた。

 

未来では壊れるはずの関係。

 

今はまだ、憧れと信頼の形をしている。

 

それが何より恐ろしかった。

 

五年目の盤面に、ついに王が姿を現した。

 

---

 

ヴァンが戻ってから、本部の空気は表向き整った。

 

命令系統は滑らかになり、兵士たちの不満は減り、神官たちも表面上は大人しくなった。問題が起きれば誰かが処理し、滞っていた案件も動き出す。

 

誰もが言った。

 

総長が戻ったからだ、と。

 

ルークも、半分はそう思っていた。

 

だが、残り半分は違った。

 

整いすぎている。

 

何かが蓋をされている。

 

研究区画の警備は減らない。

 

夜間搬送も続いている。

 

そしてシンクは、相変わらず誰にも心を開かなかった。

 

---

 

旧療養区画の一室。

 

拘束具は外された。

 

扉も閉じていない。

 

それでもシンクは部屋の隅から動かない。

 

膝を抱え、壁を背にし、誰かが近づけば牙を剥く。

 

「自由にしたのに意味ねえな」

 

ルークが腕を組む。

 

「自由って、檻の鍵開けたら終わりじゃないのよ」

 

ティアが言う。

 

「頭では分かってても、身体はまだ檻の中」

 

「面倒くせえ」

 

「あなた本当に繊細さがないわね」

 

「ある」

 

「ない」

 

即答だった。

 

シンクが低く唸る。

 

ルークを睨んでいる。

 

「ほらまた俺だけ」

 

「二回噛まれてるから覚えてるのよ」

 

「嬉しくねえ」

 

その時、足音もなくアリエッタが入ってきた。

 

毛布と皿を持っている。

 

誰にも何も言わない。

 

部屋の中央へそれを置き、壁際へ座る。

 

シンクは睨む。

 

アリエッタも見る。

 

長い沈黙。

 

やがてシンクが皿だけ引き寄せた。

 

ルークが目を見開く。

 

「……俺の時投げただろ」

 

「あなたはうるさいから」

 

ティアが淡々と言う。

 

「差別だろ」

 

「区別よ」

 

アリエッタは何も言わず、膝の上の魔物を撫でていた。

 

シンクは食べながら、時折その手元を見る。

 

誰かと同じ部屋で食事をすること自体、初めてに近いのかもしれなかった。

 

---

 

その夜。

 

研究区画最深部。

 

ルークは資材運搬の帰りに、奥通路でディストと鉢合わせた。

 

白衣の裾には血がついている。

 

「……何だそれ」

 

「トマトジュースです」

 

「嘘つけ」

 

ディストは肩をすくめる。

 

「察しが良い人間は嫌われますよ」

 

「お前がな」

 

ルークは道を塞いだ。

 

「まだやってんのか」

 

「何を」

 

「子供作って捨てるの」

 

ディストの表情が消える。

 

珍しく、完全に消えた。

 

「退きなさい」

 

「答えろ」

 

「退け」

 

「嫌だ」

 

数秒、互いに動かない。

 

やがてディストが低く言う。

 

「……あなたは、本当に馬鹿ですね」

 

「知ってる」

 

「なら黙っていればいい」

 

「無理だ」

 

ルークの声は真っ直ぐだった。

 

「見ちまったからな」

 

ディストは目を伏せる。

 

「見た程度で背負えるほど、軽い話ではありません」

 

「じゃあお前は背負ってんのか」

 

「……」

 

「背負ってねえなら、やめろ」

 

沈黙。

 

ディストは笑った。

 

だがいつもの芝居がかった笑いではない。

 

乾いた、疲れた笑いだった。

 

「やめれば、もっと酷い者がやる」

 

「言い訳だ」

 

「そうです」

 

即答だった。

 

「ですが現実でもあります」

 

ルークは拳を握る。

 

「人を勝手に作って、失敗したら捨てて、何が現実だ」

 

「作らなければ死ぬ者もいる」

 

「だったら生かせ!」

 

「全員を?」

 

ディストの声が初めて荒れる。

 

「資材も、場所も、時間も、権限も足りない中で?」

 

「……」

 

「あなたは怒るだけでいい。羨ましい限りです」

 

ルークは言葉を失う。

 

ディストは白衣の袖を整えた。

 

「私は、怒っても手が止められない」

 

そう言って去っていく。

 

ルークは追えなかった。

 

---

 

翌日。

 

訓練場裏。

 

ラルゴが丸太を割っていた。

 

斧が振り下ろされるたび、乾いた音が響く。

 

ルークは黙って近づく。

 

ラルゴは見ない。

 

「顔が悪い」

 

「元からだ」

 

「今日のは中身だ」

 

ルークは隣へ座り込む。

 

しばらく黙る。

 

やがてぽつりと漏らす。

 

「俺、何もできねえ」

 

ラルゴはもう一本丸太を立てる。

 

「何の話だ」

 

「シンクも、イオンも、あの偽物も、研究区画も」

 

斧が落ちる。

 

真っ二つ。

 

「全部気に入らねえ」

 

「そうだろうな」

 

「でも怒るしかできねえ」

 

ラルゴは斧を肩へ担いだ。

 

「怒れるなら上等だ」

 

「は?」

 

「怒れなくなった人間から腐る」

 

ルークは黙る。

 

ラルゴは続ける。

 

「次は考えろ」

 

「何を」

 

「怒りを、どこへ振るかだ」

 

それだけ言って、また丸太を立てた。

 

---

 

夕方。

 

療養区画。

 

オリジナルイオンの部屋へ、レプリカイオンが訪れていた。

 

まだ言葉も少ない少年は、本物の前では少しだけ落ち着く。

 

イオンが本を読み聞かせている。

 

その扉の外に、シンクが立っていた。

 

誰にも気づかれないように。

 

中を見る。

 

同じ顔の少年が、椅子に座っている。

 

穏やかな声。

 

温かな部屋。

 

自分にはなかったものばかりだった。

 

シンクの爪が掌へ食い込む。

 

その肩へ、毛布が掛けられる。

 

振り返る。

 

アリエッタだった。

 

何も言わない。

 

ただ隣へ座る。

 

シンクは毛布を払い落とそうとして、やめた。

 

「……何で」

 

掠れた声だった。

 

アリエッタは少し考え、短く答える。

 

「さむい」

 

シンクは鼻で笑うような音を出す。

 

それが初めての、怒り以外の声だった。

 

---

 

夜。

 

屋上。

 

ティアとカンタビレが街灯を見下ろしていた。

 

「シンク、少し喋ったよ」

 

「へえ。誰に?」

 

「アリエッタ」

 

カンタビレが笑う。

 

「やっぱりね」

 

「何が」

 

「捨てられた者同士、通じるものあるんでしょ」

 

ティアは風へ髪を流しながら、小さく言う。

 

「……救われてほしい」

 

「誰が?」

 

「みんな」

 

カンタビレは少し黙ってから答えた。

 

「欲張り」

 

「知ってる」

 

「でも嫌いじゃない」

 

その下の中庭を、ルークが一人歩いていく。

 

考え込む顔だった。

 

怒りだけではない。

 

迷いを知った顔だった。

 

五年目は終盤へ向かう。

 

捨てられた者たちは、少しずつ互いの体温を知り始めていた。

 

---

 

春は近いはずだった。

 

だが朝の風はまだ冷たく、本部の石畳には夜露が残っていた。

 

ルークは訓練場の中央で木剣を振っていた。

 

一振り。

 

二振り。

 

三振り。

 

何度振っても、胸の奥のざらつきは消えない。

 

シンクの目。

 

レプリカイオンの涙。

 

イオンの咳。

 

ディストの疲れた顔。

 

ヴァンの笑み。

 

全部が頭の中で混ざり合っていた。

 

「雑念だらけね」

 

声と同時に木剣が飛んできた。

 

反射で受ける。

 

リグレットだった。

 

「朝から最悪だ」

 

「顔を見てそれ?」

 

「いや、お前が来たから」

 

「減らず口は元気そうね」

 

彼女は向かいへ立つ。

 

「打ってきなさい」

 

ルークは踏み込んだ。

 

以前なら力任せだった。

 

今は違う。

 

呼吸を合わせ、足を見て、間合いを測る。

 

三合、五合、七合。

 

以前より持つ。

 

だが十合目で崩された。

 

木剣が手を離れ、喉元へ切っ先が止まる。

 

「迷い」

 

短く告げる。

 

「分かってる」

 

「分かっているなら捨てなさい」

 

「無理だ」

 

即答だった。

 

リグレットは少しだけ目を細める。

 

「……そう」

 

木剣を下ろす。

 

「なら、抱えて立ちなさい」

 

ルークは顔を上げる。

 

ラルゴに似た言葉だった。

 

彼女は背を向ける。

 

「考える者は弱くなる時期がある」

 

「時期?」

 

「その先で強くなる者もいる」

 

去っていく背中を、ルークは黙って見送った。

 

---

 

その日、昼過ぎ。

 

研究区画で小さな騒ぎが起きた。

 

レプリカイオンが姿を消したのだ。

 

神官たちが右往左往し、兵士が走り回る。

 

「鍵は!」

 

「開いていません!」

 

「監視は何をしていた!」

 

「していました!」

 

ディストが頭を抱えていた。

 

「騒ぐ前に探しなさいこの無能ども!」

 

ルークは廊下を駆ける。

 

何となく場所は分かっていた。

 

旧療養区画。

 

屋上。

 

人が逃げたい時、静かな場所へ行く。

 

そういう顔をしていた。

 

屋上の扉を開く。

 

そこに、少年はいた。

 

柵の前に立ち、風に白衣を揺らしている。

 

「おい!」

 

少年が振り返る。

 

怯えた顔。

 

「何してんだ」

 

「……わかりません」

 

「は?」

 

「みなさん、私を見ると困った顔をします」

 

ルークは近づく。

 

ゆっくりと。

 

シンクの時に学んだ。

 

急ぐと壊れる相手がいる。

 

「お前が悪いんじゃねえ」

 

「では、何が」

 

「周りだろ」

 

少年は目を伏せる。

 

「私は、誰かの代わりですか」

 

ルークの胸が詰まる。

 

答えを持っていなかった。

 

だが、答えなければならないと思った。

 

「知らねえ」

 

少年が顔を上げる。

 

「でも」

 

ルークは柵の横へ立つ。

 

「今ここにいるのは、お前だ」

 

風が吹く。

 

少年の目から涙が零れた。

 

「……はい」

 

それだけで十分だった。

 

---

 

同じ頃。

 

旧療養区画の別室。

 

オリジナルイオンは咳き込みながら起き上がっていた。

 

ティアが慌てて背を支える。

 

「無理しないで」

 

「レプリカの子が……」

 

「ルークが探してる」

 

「なら、大丈夫ですね」

 

その信頼に、ティアは少しだけ笑う。

 

「ええ。たぶん」

 

イオンは息を整え、窓の外を見る。

 

「彼は、選べる人です」

 

「何を」

 

「怒るだけではなく、誰かのために怒ることを」

 

ティアは黙った。

 

その未来を、自分も見たいと思った。

 

---

 

夕方。

 

本部中庭。

 

ヴァンが一人で立っていた。

 

そこへルークが戻ってくる。

 

隣にはレプリカイオン。

 

少し離れてシンクが不機嫌そうに歩き、さらに後ろからアリエッタがついてくる。

 

奇妙な列だった。

 

ヴァンは微笑む。

 

「賑やかだね」

 

ルークは止まる。

 

以前なら、その笑顔を見るだけで安心した。

 

今は少し違う。

 

「……何考えてる」

 

ヴァンの眉がわずかに上がる。

 

「急だね」

 

「答えろ」

 

「多くのことを」

 

「そういうのじゃねえ」

 

ルークの声は低い。

 

「人を道具みてえにするの、気に入らねえ」

 

周囲の空気が張る。

 

兵士たちが息を呑む。

 

ヴァンは静かにルークを見る。

 

それから、柔らかく笑った。

 

「良い顔になった」

 

「は?」

 

「以前のお前なら、私に褒められる方を選んでいた」

 

ルークは言葉に詰まる。

 

図星だった。

 

ヴァンは続ける。

 

「今は、自分で気に入らないと言える」

 

一歩近づく。

 

「それでいい」

 

ティアが遠くで拳を握る。

 

分からない。

 

この人は本心で言っているのか。

 

それとも利用しているのか。

 

たぶん、両方だ。

 

それがヴァンだった。

 

---

 

夜。

 

屋上には五人いた。

 

ルーク。

 

ティア。

 

カンタビレ。

 

シンク。

 

アリエッタ。

 

少し離れてレプリカイオン。

 

街の灯りが遠く揺れている。

 

カンタビレが欠伸をした。

 

「今年、濃すぎない?」

 

「うるさい」

 

ティアが返す。

 

ルークは柵へ背を預け、空を見る。

 

「……気に入らねえことばっかだ」

 

「そうね」

 

「でも」

 

少しだけ笑う。

 

「前より、放っとけねえ」

 

ティアはその横顔を見る。

 

未来とは違う。

 

けれど、悪くない違いだ。

 

「それでいいのよ」

 

シンクが小さく鼻を鳴らす。

 

アリエッタは魔物を抱いている。

 

レプリカイオンは星を見上げていた。

 

誰も完成していない。

 

誰も救われ切っていない。

 

それでも、ここにいる。

 

五年目は終わる。

 

命が作られ、捨てられ、隠され、救われた年。

 

そしてルークが初めて、

 

誰かのために怒るだけでなく、

 

誰かのために選び始めた年だった。

 

遠くで鐘が鳴る。

 

六年目が、もう来ていた。

 




ヴァンの裏の顔が少し表に出ました。
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