第二十八話
ある日の午前、戦線幹部は校長室に集まっていた。
「ねー!せんぱーい!新技掛けさせて下さいよー!名付けて百二十字固め!」
日向にダル絡みするユイ。
「One, Two, here we go let's dance!」
「ヒァウィーゴー、レッツダンス」
松下五段にダンスを教えるTK。
「ぐがー……フゴッ」
イビキをかいて寝る藤巻。
「ねー!新技ー!しーんーわーざー!」
ダル絡みを続けるユイ。
『ハッハッハッハッ』
「可愛いですね。ね、椎名さん」
「あさはかなり」
椎名の持って来た犬のぬいぐるみを愛でる大山と、まんざらでもなさそうな椎名。
ハルバートの手入れをする野田。
「あーもー!せんぱーい!シカトっすか!?マジっすか!?」
…………未だにダル絡みを続けるゆい
「もういい!大山先輩に掛けよ」
それだけは辞めてやってくれ。
「……これ、何の時間?」
「差し詰め、自由時間だな」
俺と雅美は校長室の端で立ちながらその様子を傍観していた。いつもならゆりが校長の椅子に座って作戦会議が行われている時間だが、今日は姿を見せていない。
「って言うか、椎名がこの部屋で太一の側にいないのって珍しいな」
雅美が問う。
「さっき大山から『そのわんちゃん可愛いですね』って話しかけられた後、犬談義に花を咲かせてたよ。談義って言っても、大山の言葉にひたすら『あさはかなり』って返しているだけだったけど」
「椎名って猫が好きなんじゃなかったか?」
「可愛いものなら何でも好きみたい」
「へぇ、意外と乙女チックなところもあるんだな……」
雅美はふと考え込むように、顎に手を当てる。多分というか、絶対これは作詞とか作曲について考えている顔だ。
「太一、紙とペンはあるか?」
「はいはい、持ってるよ」
「サンキュー」
こういうこともあるから紙とペンは常備するようにしてるんだよね。
俺から紙とペンを受け取ると、そこら辺の椅子に座ってペンを走らせ始めた。こうなるとしばらくは音楽のことで頭の中がいっぱいになる。放置という言い方をしたら語弊があるが、しばらくの間はそっとしておいたほうがいい。
「ったく、ここは小学校かよ。ガキばっかり増えていくな」
日向がユイのダル絡みから解放されて、ため息を吐きながら悪態をつく。その隣には静かに本を読んでいる直井がいる。
「貴様、僕に言っているのか?僕は神だぞ」
「んあ?まだそんなこと言ってんのかよ。篠宮にボコられそうになって大泣きしていたクセによ」
直井の言葉に鼻で笑いながら返す日向。
……大泣きしてたのは音無から抱きしめられていた時だとおもうんだけど……。
「誰が泣いたって……?」
凄む直井。
「んおっ!?」
焦る日向。
「泣くのは貴様だ。さあ、洗濯バサミの有能さに気付くんだ。洗濯バサミにも劣る自分の不甲斐なさを……嘆くがいい」
俺の見ている角度からだと分からないが、多分催眠術使ったなあれは。
そのまま直井はテーブルの上に洗濯バサミを置き、日向はそれを見つめた。
「せ……洗濯バサミ……。挟める……!挟んで落ちない……!洗濯物が汚れない……!素晴らしい……」
徐々に洗濯バサミの有能さに気付いていく日向、
ちょっと不謹慎だけど、側から見ると面白い。
「ああっ!クリップ代わりに紙を挟んだりとか応用も効く、使える!それに対して俺はなんなんだぁ……!」
マジで洗濯バサミと自分を比較して泣いたじゃん……。
……あの時直井の暴走を止めなかったら、俺の彼女たちもこうなる未来があったってことなのか……?
「お前、催眠術を腹いせに使うな」
ここまで来てようやく音無が止めに入った。
やっぱりこういう時頼りになるのは音無だね。俺普通に面白がっちゃってたもん。いやぁ、反省反省。
「音無さん!おはようございます!」
「あれはなんだ」
「あっちから先に突っかかって来たんですぅ。僕はできるだけ穏便に……」
「どこが穏便だ。大の男がひざまづいて大泣きしてるじゃないか」
日向に目をやると、ドン引きするくらい泣いていた。
う〜ん、反省したばっかりだけど、やっぱり面白い。
「音無くん、直井くん、篠宮くん。用があるの。ちょっとこっちに来なさい」
俺が傍観していると、ゆりから呼び出しが掛かった。
俺と音無と直井は顔を見合わせ、そのままゆりの元へと向かった。
「どうしたんだ?」
代表して音無が尋ねる。
「ここだとちょっと話しづらいから、場所を変えましょ」
そう言って案内されたのは教員棟3階にある空き教室。さっきまでいた校長室と少し距離が離れている。
「なんだよ、呼び出して」
「直井くん、音無くんの失われた記憶を戻してみせて」
「僕に命令だと?さっきから貴様何様のつもりだ!」
「てめぇのリーダーだ!上司だよ。大人しく言うことを聞け」
音無は直井の頭をビシッと叩きツッコミを入れる。
いやぁ、やっぱり頼りになるね。
「……って、俺の記憶!?」
「そうよ。あなたの記憶。直井くんの催眠術は本物よ。あなたの失われた記憶も取り戻せるはず!」
「う〜ん、なるほど。それは僕の手でなんとかしてみたいですね」
「ちょっと待てよ!勝手にそんなこと決めんなよ!」
「どうして?まさか忘れたままでいたいの?」
「なっ……それは……」
急に不安そうな面持ちになる音無。色々なことを考えているようだ。
部屋に沈黙が流れて十数秒後、ゆりが不安そうな声色で言葉を発した。
「音無くん……?」
「あ、ああ……わかった……」
恐らく考え事の途中だっただろうが、あまり乗り気ではなさそうに渋々了承した。
ところで。
「あ、あの……」
「どうしたの?篠宮くん」
「俺はなんで一緒に……」
「記憶を取り戻して暴れた時に抑えてもらう為よ。あと、無いとは思うけど、直井くんが万が一怪しい動きをした時の抑止力の為」
「き、記憶を取り戻して暴れる?」
「僕が音無さんに怪しい動きをするだと……?」
「2人同時に喋らないの。まず記憶を取り戻して暴れるって言ったけど、別におかしな話じゃないわ。一時的に混乱して取り乱すのは良くある話よ。ただ、ごく稀にその場で自殺を図ろうとする場合があるから、その時は篠宮くんに力ずくで止めてもらうって話」
「……なんか、急に怖くなったんだが……」
「まあ、私の見立てだと音無くんは大丈夫だと思うわ。落ち着いているし、衝動的なことはしなさそうだもの。だから、篠宮くんはあくまで保険よ」
なるほど……そう言うこともあるのか……。
「そして、音無くんを慕っているから無いとは思うけど、直井くんが万が一おかしなことをしないために、抑止力として篠宮くんを同席させるわ」
「貴様、この僕が音無さんを消すとでも?」
「消すとは思っていないわ。だけど、まだ私はあなたを完全に信用したわけじゃないの。あなたの催眠術を本物だと思っているからこその保険よ」
「つまり、俺は今日何かしらの担保ってこと?」
「平たく言えばそういうこと。大事な役割よ?誰でもできるわけじゃないわ」
まあ、そう言って役割を与えてくれているのだから、無下にするのもよくないか。
「3人とも他に質問はない?なければ直井くん、始めてちょうだい」
「……どんな過去を見ても、どうか自分を見失わないで……。もしあなたがどうなっても、僕だけは味方ですから」
ゆりからのGOサインが出るや否や、直井が帽子を脱ぎ音無の手を取って訴えかける。
「…………」
しかし音無は冷ややかな目で直井を見ているだけだ。
「……何か言ってください……?」
「私も味方だから安心しなさい」
「俺も味方だよ」
「ああ、2人とも、頼もしいよ」
「えぇー!?何この差!?」
直井、ショックを受けたようだ
「ん゛ん゛……まあ、いいです……」
意外とこの辺逞しいよね、直井。
「どうぞ座ってください」
直井の誘導で席に着く音無。
「では、始めます」
「……うん」
その瞬間、ピリッとした空気が部屋の中を包んだ。
ゆりは直井の隣に、俺は音無の隣に立っている。
直井の目が赤く光り、音無もそれを見つめる。催眠術が始まったようだ。
どれくらいの時が経っただろうか。部屋には時計が秒針を刻む以外の音は鳴っていない。
実時間にして30分、体感にして1時間が経過したところで、音無の意識が戻った。
「思い出した?」
「……ああ……」
ゆりの質問に俯きながら力のない返事をする音無。
直井も不安そうな面持ちで音無を見つめる。
「素晴らしい人生だったとは、言えそうにないわね……」
「……しばらく、1人にしてくれ……」
音無がそう言うと、ゆりは直井の肩を叩き退出を促す。無論、俺もそれに続いた。
「……音無さん、泣いてましたね……」
「……泣いてたね」
「……」
「……」
「……」
空き教室を出た3人にも重い空気が流れている。
「……こんなとき、どんな言葉を掛ければ気持ちを楽にできるんだろ」
「ハッキリ言うけど……多分どんな言葉でも無理よ。本人の中で整理が付くまで待つしかないわ」
「……そうだよなぁ……」
「一応遊佐さんに音無くんのことは監視してもらっているわ。言っておくけど、盗聴とかはしないで、遠くから様子を伺う程度にしてるから安心してちょうだい。良からぬ行動の予兆が見られたらすぐ篠宮くんに連絡がいくから、その時はよろしく」
「ん、了解」
「それじゃ、ひとまず解散。今日は各自自由にしてていいわ」
そう言い残すとゆりは校長室へと向かって行った。
「……」
「……」
俺と直井は無言のまま校長室とは逆方向に歩き始めた。直井の気持ちはわからないが、少なくとも俺はこの気持ちのまま、あの騒がしい校長室に戻る気にはなれなかった。
「……」
「……」
「……あ、あの」
「ん?」
無言に耐えられなくなったのか、直井の方から話しかけてきた。
「そ、その……僕のしたことは正しかったんでしょうか……?」
正直驚いた。普段は自信満々に虚栄を張っている直井から弱々しい本音が出たのだから。
……弱々しいっていうのは失礼か。直井にだって不安や葛藤くらいはある。いくら自信家であったとしても、神ではなく人なのだから。
「う〜ん……難しい質問だね。直井はどう思うの?」
「僕は……音無さんの失った記憶を取り戻させてあげたいって思っていました」
「それから?」
「でも……あんな落ち込むなら、忘れたままでも良かったんじゃないかって……」
「なるほどね。どっちにも直井なりの正義があるわけだね」
こくんと頷く直井。
「どっちの考え方も根底には『音無のことを思って』っていうのがあるじゃん?」
再びこくんと頷く直井。
「正直俺にはどっちが正しいなんて判断はできない。けど、直井を見ていると、この先どうすればいいかは見えてくるよ」
「この先どうすればいいか……?」
直井がキョトンとした顔で見てくる。
「うん。直井ってなんで音無に心を許したの?」
「それは、認められなかった僕の存在を認めてくれて、僕の人生を肯定してくれたから……あ」
「気付いた?」
先ほどの曇っていた表情とは打って変わって、青天の霹靂と言った感じだ。
「はい!僕が音無さんを抱き締めれば、音無さんが僕にゾッコンになるってことですね!」
あまりの突飛な理屈にガクッとなった。
なんだろ、戦線に入るとアホになるのか、アホだから戦線に入ったのか……。
「ちょっと僕行ってきます!」
「あ、ちょっと!」
俺が止める間もなく音無のいる教室へと走っていく直井。
十数秒すると遊佐から無線で『侵入者がいるので対処して下さい』と入ったのは言うまでもない。
午後4時。俺とゆりが屋上で黄昏ていると音無がやってきた。
グラウンドからは運動部たちの声がしていて、俺たちの雰囲気とは対照的だ。
「落ち着いた?」
「あぁ……」
「記憶が戻ってしばらくは、心は不安定なものよ。あなただけじゃないわ」
そう言いながら音無にコーヒーを渡すゆり。
なんだかんだ、こういうところがリーダーっぽいというか、お姉ちゃんっぽいよね。
「俺は弱いな……お前の強さが改めてわかった」
「そんなことないわ」
グッとコーヒーを握る手に力が入る音無。
「それで、何か変わった?」
「ん?」
「気持ちよ。これからも戦線にい続けるの?」
「い続けるよ。このままじゃ死に切れねえし」
「そう、あなたにも目的が生まれたってわけね」
「ああ、改めてよろしく」
音無の決心が決まったような顔を見て安堵の表情を見せるゆり。いつもリーダーとして先頭に立っているが、誰よりも仲間のことを心配しているんだよね。
「ところでさ、篠宮」
「ん?」
「お前、直井に変なこと吹き込まなかったか?」
ギクっ。
ジトっとした目で俺を見てくる音無。
「ふ、吹き込んだっていうか……直井が勘違いしたっていうか……。そ、その……ごめん……」
「なにかあったの?」
ゆりが問う。
「直井がさ、音無の記憶を取り戻させた後、えらい気にしててさ」
「気に?」
「そう。すんごい落ち込んだ音無を見て『僕がしたことは正しかったんでしょうか……?』って俺に聞いてきたんだよ」
「そんなことがあったの……」
ゆりが興味深そうに聞いてくる。
「それで、なんで人が落ち込んでいるところに乱入して『音無さんを抱きしめます!』って言ってくるだよ」
カクカクシカジカで事情を説明する。
「なるほどな……それは直井が悪いな」
「直井くんって割と頭が良い方かと思っていたけど、アホの部類だったみたいね……」
「ま、まぁ、俺の言い方も悪かったし……ごめん、今度からは気を付けるよ」
「ま、別にいいさ。あれで少しだけ元気が出たのは事実だしな」
よかった。音無が大人の対応をしてくれて。
その後3人でコーヒーを飲みながら少し雑談をし、音無は自室へ、俺とゆりは校長室へと向かった。
「「神も仏も天使もなし」」
ドアを開けてみると、午前中の騒がしさは無くなり、雅美が一人で黙々と作曲を続けていた。
「まだ続けてたんだ」
「………………」
俺の問いかけにも反応はなし。
まあ、これは想定内。雅美が音楽のことに集中している時は、大体こうなる。
「岩沢さん、よほど集中しているのね」
「多分もう七時間くらい集中してるかな?」
「流石ねぇ……。この世界に来たばかりの頃は、二日間飲食を忘れて倒れたこともあったかしら」
「えぇ……」
「ひさ子さんが介抱してくれてことなきを得たのも、今となっては良い思い出ね」
ゆりが昔を懐かしむ表情を浮かべる。
二日間飲食を忘れるって、良い思い出で済ませていい話なのだろうか。
「ねぇ、岩沢さんって生前からあんな感じなの?」
「そうだね。音楽のことになると、ああなることはあったね」
「ふぅん。なんで音楽を始めたのかしら?」
「確か、Sad Machineっていうバンドの曲を聴いたのがきっかけって言ってたよ。ひとりで買い物に行った時にたまたまCDを聴いたんだって」
「あら、常に一緒って訳じゃなかったのね」
「流石に常にって訳じゃなかったよ。多分起きてる時間の八割以上は一緒にいたと思うけど」
「それはもう常に一緒って言うのよ」
ゆりが呆れたように言う。
え、そうなの?
いや、でも幼馴染ってそんなものじゃない?
家が隣同士で、物心ついた時から一緒にいて、気付いたら雅美が俺の隣にいる。俺にとってはそれが普通だった。
……普通だったんだけどなぁ。
「あなたたち、昔からそんな距離感だったの?」
「そうだね」
俺は雅美の横顔を見ながら答える。
作曲中の雅美は、こちらの会話なんて聞こえていないように見える。
けれど、俺の声だけは、たまに聞こえるらしい。
どういう耳をしているんだろう。
「昔から、雅美は俺の話をよく聞いてくれたし、俺も雅美の話をよく聞いてたかな」
「それだけ聞くと普通の幼馴染ね」
「まあ、普通じゃない部分も多かったけどね」
「太一くんの力のこと?」
「うん」
口にしてから、少しだけ失敗したかなと思った。
音無の記憶を見た後だからか、生きていた頃の話をすると、どうしても少しだけ空気が重くなる。
別に、今さら暗い話をしたいわけじゃない。
ただ、雅美のことを話そうとすると、どうしてもそこを避けて通れないだけだ。
「俺、あの頃は周りから避けられてたからさ。だから、人が多い場所に行くことは少なかったんだよ」
「太一」
不意に雅美の声がした。
「うおっ」
思わず変な声が出た。
さっきまで完全に作曲モードに入っていたはずの雅美が、いつの間にかこちらを見ていた。
「その言い方は違う」
「え?」
「避けられてたんじゃない。周りの見る目がなかっただけだ」
「雅美……」
「太一は悪くない」
当然のように言い切られる。
本当に、昔から変わらない。
俺が自分を悪く言うと、雅美は必ず訂正してくる。
自分のことでもないのに、俺以上に怒って、俺以上に悔しがってくれる。
「……うん。ありがとう」
「分かればいい」
雅美は満足そうに頷くと、また紙に視線を戻した。
戻るんだ。
いや、戻るのはいいんだけど、今の会話だけちゃんと聞いていたのか。
「岩沢さん、本当に太一くんのことになると反応が早いわね」
ゆりが苦笑する。
「まあ、でも本当にそういう感じだったよ。雅美はずっと俺の味方だった」
「そう」
ゆりは短く返事をする。
その声は、いつものリーダーらしいものより少しだけ柔らかかった。
「音楽を始めた後も?」
「うん。むしろ音楽を始めてからの方が、俺の出番は多かったかも」
「出番?」
「最初に聴く係」
そう言うと、雅美のペンが一瞬止まった。
ほんの一瞬だったけど、俺は見逃さなかった。
「……それは、今もそうなの?」
「多分ね」
「多分じゃない」
雅美が紙から目を離さずに言う。
「太一が最初だ」
「だそうです」
「分かりやすいわね」
ゆりが呆れたように笑う。
「でも、最初からそうだったわけじゃないよ」
「そうなの?」
「うん。雅美が初めて俺に歌詞を見せてくれた時があってさ」
「太一」
また雅美の声がした。
「なんでしょう」
「変なことは言うなよ」
「変なことは言わないよ」
「ならいい」
許可が出たらしい。
ゆりが少し楽しそうにこちらを見る。
「聞かせてもらえるかしら」
「そんな大した話じゃないよ」
「そういう話ほど聞きたいものよ」
それはそうかもしれない。
「中学の頃だったかな。いつもの帰り道でさ。雅美が珍しくずっと黙ってたんだよ」
「岩沢さんが?」
「うん。雅美って、音楽の話をしてる時は結構喋るんだけど、その日はずっと黙ってたんだよね」
「……今考えると、あの時は緊張してたんだと思う」
雅美がぽつりと言った。
「緊張?」
「初めて書いた歌詞を、太一に見せるか迷ってた」
「へぇ」
ゆりが少しだけ目を丸くする
「そういう時期もあったのね」
「今もあるぞ」
「そうなの?」
「太一に見せる時は、今でも少し緊張する」
「え、そうなの?」
思わず聞き返した。初耳である。
「当たり前だろ。太一に変だと思われたら嫌だからな」
「思うわけないじゃん」
「知ってる。でも、緊張はする」
そういうものなのか。
雅美が俺を信じてくれているのは分かっている。
けれど、それでも緊張するというのは、少し意外だった。
「それで、その時はどうしたの?」
ゆりが続きを促す。
「帰り道の途中に、誰も使ってない小さい空き地があったんだよ。俺たちはよくそこで少し休んでから帰ってた」
「人がいないから?」
「うん。落ち着くし、雅美が音楽の話をするのにも丁度良かったから」
今思えば、本当に何もない場所だった。
草は伸びているし、ベンチもない。
ただ、コンクリートの低い塀があって、そこに二人で座るだけ。
でも、俺たちにはそれで十分だった。
「そこで雅美が、鞄からノートを出したんだ」
「歌詞の?」
「うん。けど、なかなか見せてくれなかった」
「恥ずかしかったんだよ……」
雅美が言う。
「初めて書いたものだったからな」
「俺は見たいって言ったんだけど、雅美がずっとノートを抱え込んでてさ」
「太一がじっと見るからだ」
「見るでしょ。見せてくれると思ったんだから」
「まだ見せるとは言ってなかった」
「そうだったかなぁ」
「そうだった」
雅美が言うなら、そうだったのかもしれない。
「それで、どうしたの?」
「俺が言ったんだよ。『見せたくなるまで待つよ』って」
「太一くんらしいわね」
「そうかな」
「そうよ」
ゆりが小さく笑う。
「無理に覗かないあたり、あなたらしいわ」
「いや、流石に覗かないでしょ」
「戦線には覗く人が多そうだから、貴重よ」
否定できないのが悲しい。
「太一は本当に見なかった」
雅美が言う。
「私が見せるまで、ずっと隣で空を見てた」
「見るものが空くらいしかなかったしね」
「でも、嬉しかった」
雅美の声が少しだけ柔らかくなる。
「太一は、私が見せたいと思うまで待ってくれた」
「……まあ、雅美の歌詞だし」
「だから見せた」
「うん」
あの時のことは、今でも覚えている。
雅美がノートの端を何度も握り直して、少しだけ震えた手で俺に差し出してきた。
俺はそれを受け取って、折れ目のついたページを開いた。
そこには、今の雅美の歌詞とは全然違う、不器用で、少しだけ真っ直ぐすぎる言葉が並んでいた。
正直、上手いか下手かなんて分からなかった。
でも、雅美が本気で書いたものだということだけは分かった。
「俺が感想を言うまで、雅美ずっとこっち見てたよね」
「見るだろ」
「めちゃくちゃ怖い顔で」
「怖くない」
「怖かったよ。俺、何かの審査員になった気分だったもん」
「太一の感想が聞きたかっただけだ」
雅美は少しだけむっとした顔で言う。
「それで、篠宮くんは何て言ったの?」
ゆりが尋ねる。
俺は少しだけ思い出す。
あの時、自分が何と言ったのか。
「確か……『雅美っぽい』って言った」
「今と変わらないのね」
「俺の語彙力は昔からそんなものだったみたい」
「でも、それでよかったんだよ」
雅美が言う。
「私はそれが一番嬉しかった」
「そうなの?」
「ああ。上手いとか、格好いいとかより、太一に私っぽいと言われたのが嬉しかった」
「……そうなんだ」
これは、今さらながら初めて聞いた気がする。
あの時、雅美は少しだけ照れたようにノートを閉じた。
それから、俺の隣に座って、しばらく何も言わなかった。
俺はそれを、感想に困っているのかと思っていた。
違ったらしい。
「それからだな。太一に最初に見せようと思ったのは」
「え?」
「太一が私のものを、私のものとして見てくれたからだ」
雅美は紙に視線を落としたまま、静かに続ける。
「上手いか下手かじゃなくて、私らしいと言ってくれた。だから、次も太一に見せたいと思った」
「……」
ああ、ダメだ。
そういうことを真面目に言われると、どう返せばいいか分からなくなる。
「篠宮くん、顔赤いわよ」
「気のせいです」
「赤いぞ」
雅美まで言ってきた。
「雅美が言わせたんじゃん」
「私は事実を言っただけだ」
「その事実が恥ずかしいんだけど」
「なら慣れろ」
理不尽である。
「でも、いい話ね」
ゆりが微笑む。
「岩沢さんにとって、最初の観客は太一くんだったわけね」
「そう、太一だから、見せた」
その言葉だけで、全部説明が終わってしまうのが雅美らしい。
「じゃあ、今回の曲もそうなのね」
ゆりが机の上の紙を見る。
「太一に一番最初に見てほしい」
雅美が即答する。
「太一が好きだと言えば、私はそれで自信が持てる」
「雅美」
「何?」
「俺の感想、そんなに大事?」
「大事」
「即答だね」
胸の奥が少しだけ温かくなる。
「じゃあ、ちゃんと聴くよ」
「当たり前だ」
「一番最初に?」
「一番最初に」
「分かった」
そう答えると、雅美は満足そうに頷いた。
その顔を見て、俺も自然と笑ってしまう。
音無の記憶のことが、頭から消えたわけじゃない。
直井の不安そうな顔も、まだ残っている。
けれど、雅美とこうして昔のことを話していると、不思議と心が落ち着いた。
忘れたくないこと。
忘れられないこと。
忘れていた方が楽だったかもしれないこと。
きっと、人の記憶にはいろいろある。
でも俺にとって、雅美との記憶は、どんなものでも大切なものだった。
「……さて」
ゆりが軽く手を叩いた。
「惚気話はそこまでにして、そろそろ戻りましょうか」
「惚気だった?」
「九割は」
「そんなに?」
「そんなによ」
ゆりは呆れたように笑った。
「岩沢さん、その曲は明日、ひさ子さんたちにも見せてちょうだい。陽動に使えるかもしれないわ」
「分かった」
「太一くん」
「はい」
「あなたも明日はちゃんと動けるようにしておきなさい。今日は音無くんのこともあったし、早めに休んだ方がいいわ」
「了解」
「太一」
雅美が俺を呼ぶ。
「一番最初に聴く約束、忘れるなよ」
「忘れないよ」
「ならいい」
雅美はそう言うと、また紙に向き直った。
多分、まだ終わらせる気はない。
本当に音楽のことになると止まらないなぁ。
でも、そういう雅美が好きなんだから、俺も大概だと思う。
その日は結局、雅美の曲が完成する前に解散となった。
音無は自分の記憶と向き合い、直井は音無への妙な忠誠心をさらに深め、ゆりは次の作戦を考え始める。
そして俺は、雅美との昔の約束を一つ思い出しながら、自室へ戻った。
その日の夜。俺は自室のベッドに腰掛けていた。
隣には椎名がいる。今日は椎名と過ごす日だった。
椎名は俺の腕に体を寄せ、膝の上には犬のぬいぐるみを抱えている。いつもの校長室や作戦中の姿とは違って、ずいぶん距離が近い。
「篠宮」
「ん?」
「もっと近くに行ってもいいか」
「もう結構近いと思うけど」
「まだ足りない」
即答だった。
椎名はそう言うと、遠慮なく俺の腕を抱きしめ直した。
「……これくらいか?」
「うん。嬉しい」
「そうか」
椎名は満足そうに頷く。
普段の椎名を知っている人が見たら、多分かなり驚くと思う。戦線のみんなの前だと、椎名は口数が少なくて、落ち着いていて、感情をあまり表に出さない。けれど、二人きりの時は違う。思っているよりずっと素直で、かなり甘える。
「篠宮は温かいな」
「そう?」
「ああ。落ち着く」
そう言いながら、椎名は俺の肩に頬を寄せてくる。
「こうしていると、ずっとこのままでもいいと思う」
「それはかなり甘えてるね」
「甘えている」
否定しなかった。
むしろ、少し得意げですらある。
「篠宮には、甘えたい」
「……そっか」
「嫌か?」
「嫌じゃないよ。むしろ嬉しい」
「なら、もっと甘える」
「うん」
椎名はぬいぐるみを抱いたまま、俺の肩に頭を預けた。
「篠宮」
「うん」
「私は、篠宮といる時間が好きだ」
「俺もだよ」
「本当か?」
「本当」
「……嬉しい」
椎名はそう言って、俺の腕にぎゅっと力を込める。
その仕草が妙に可愛くて、俺は思わず椎名の頭を撫でた。
「ん……」
椎名が小さく声を漏らす。
「あ、ごめん。嫌だった?」
「違う。もっとしてほしい」
「あ、うん」
俺はそのまま、椎名の頭をゆっくり撫でる。椎名は目を細め、ぬいぐるみを抱きしめたまま大人しくしていた。
「気持ちいい?」
「気持ちいい」
「そっか」
「篠宮に撫でられるのは、好きだ」
「そういうこと真っ直ぐ言われると照れるんだけど」
「照れている篠宮も好きだ」
「逃げ道がないね」
「逃がさない」
椎名は真顔で言った。
でも、その顔はどこか嬉しそうだった。
「篠宮」
「何?」
「私も撫でたい」
「俺を?」
「ああ」
「いいよ」
そう言うと、椎名は少し姿勢を正し、俺の頭に手を伸ばした。
そして、ゆっくり撫でてくる。
「どう?」
「篠宮は撫でやすい」
「褒められてる?」
「褒めている」
「そっか」
「可愛い」
「それは褒め方として合ってる?」
「合っている」
椎名は俺を撫でながら、じっと顔を見てくる。
近い。かなり近い。
「篠宮は、格好いい」
「……」
「強い」
「……うん」
「優しい」
「ありがとう」
「可愛い」
「うん?」
「好きだ」
「……うん」
「大好きだ」
椎名の言葉は止まらない。いつもの短い言葉とは違う。胸の中に溜めていたものを一つずつ確かめるように、俺へ伝えてくる。
「篠宮と一緒にいると、胸が温かくなる」
「うん」
「手合わせをしている時も楽しい。でも、こうしてくっついている時は、もっと落ち着く」
「うん」
「篠宮に触れていると、安心する」
「……そっか」
「だから、今日はたくさん触れていたい」
そう言って、椎名は俺の手を取った。
そして、自分の頬にそっと当てる。
「篠宮の手、好きだ」
「手?」
「ああ。大きくて、温かい」
「そうかな」
「私を撫でてくれる」
「うん」
「だから好きだ」
そういう基準なんだ。
でも、嬉しい。
椎名は俺の手に頬を寄せたまま、じっとこちらを見た。
「篠宮」
「うん」
「私も、もっと近くなりたい」
「近く?」
「ああ」
椎名の声が、少しだけ小さくなる。
「岩沢や、ゆりたちとは違う。私には私の距離がある。それは分かっている」
「うん」
「でも、私も篠宮の特別になりたい」
「椎名はもう特別だよ」
「……そうか」
椎名は嬉しそうに目を細めた。
けれど、すぐに少しだけ視線を落とす。
「なら、一つだけ……変えてもいいか」
「何を?」
「呼び方」
「呼び方?」
「私は、いつも篠宮と呼んでいる」
「そうだね」
「だが……」
そこまで言って、椎名は黙った。
さっきまであんなに素直に甘えていたのに、急に言葉が止まる。
「椎名?」
「……少し、恥ずかしい」
「珍しいね」
椎名はぬいぐるみを抱きしめ、視線を左右に揺らす。
そして、口を開きかけて、閉じた。
それから、俺の腕を抱く力を強くする。
「た……」
「た?」
「……」
「無理しなくていいよ」
「無理ではない」
椎名はすぐに否定した。
「呼びたい。私が、呼びたいんだ」
その言葉が、すごく椎名らしかった。
誰かに言われたからじゃない。
俺に求められたからでもない。
椎名自身が、そうしたいと思っている。
「じゃあ、待ってる」
「……ああ」
椎名は小さく頷いた。
それから、深呼吸を一つ。
「た……太一」
小さな声だったけど、確かに聞こえた。
「……」
「……」
一瞬、部屋の中が静かになる。
椎名は俺の腕を抱いたまま固まっていた。
耳が赤い。
顔も少し赤い。
「椎名」
「何だ」
「もう一回、呼んでほしい」
「……あさはかなり」
「あ、ごめん」
「謝らなくていい」
「いいんだ」
「嬉しいから、いい」
椎名はぬいぐるみで口元を隠した。
「だが、少し待て。今のは思ったより恥ずかしい」
「うん。待つ」
「太一」
今度は少しだけ、さっきよりはっきりした声だった。
「うん」
「太一」
「うん」
「……太一」
三回目。
呼ぶたびに、椎名の顔が赤くなっていく。
でも、声は少しずつ嬉しそうになっていく。
「いいな」
「何が?」
「太一と呼ぶのは、近い感じがする」
「俺も、椎名にそう呼ばれるの嬉しいよ」
「本当か」
「本当」
「なら、もっと呼ぶ」
「うん」
「太一」
「うん」
「好きだ」
「俺も好きだよ、椎名」
「……もう一回」
「好きだよ」
「もう一回」
「大好きだよ、椎名」
椎名はぬいぐるみを抱いたまま、俺の胸元に額を寄せてきた。
「太一」
「うん」
「今、とても嬉しい」
「そっか」
「恥ずかしい。だが、嬉しい」
「うん」
「もっと、近くなった気がする」
椎名の声は少し震えていた。
それが照れなのか、嬉しさなのか、俺には分からない。
でも、どちらでもいいと思った。
俺は椎名の頭に手を置いて、ゆっくり撫でる。
「太一」
「何?」
「これからも、そう呼んでいいか」
「もちろん」
「人前でも?」
「椎名が呼びたいなら」
「……人前は、まだ少し無理だ」
「そっか」
「二人の時からにする」
「うん。それでいいよ」
「だが、いつか人前でも呼ぶ」
「楽しみにしてる」
「期待して待て」
「はい」
少しだけ顔を上げる椎名。照れているのに、どこか誇らしげな顔。
「太一」
「うん」
「今日は、幸せだ」
「俺も」
「もっと抱きしめてほしい」
「いいよ」
俺は椎名の肩に腕を回して、ゆっくり抱き寄せた。
椎名は一瞬だけ体を固くしたけれど、すぐに力を抜いて俺に体を預けてくる。
「……温かい」
「うん」
「太一、好きだ」
「うん」
「大好きだ」
「俺も大好きだよ」
椎名はそれを聞くと、満足そうに小さく息を吐いた。
そして、俺の胸元に顔を埋める。
「もう少し、このまま」
そのまま、俺たちはしばらく抱き合っていた。
いつもの椎名とは少し違う。
けれど、きっとこれも椎名なんだと思う。
強くて、真っ直ぐで、可愛いものが好きで。
そして、俺と二人きりの時は、こんなにも素直に甘えてくれる。
「太一」
また名前を呼ばれる。
「何?」
「呼びたかっただけだ」
「そっか」
「太一」
「うん」
「……好きだ」
何度目か分からない言葉。
でも、そのたびに少しずつ椎名との距離が近くなっていく気がした。
俺は椎名を抱き寄せたまま、静かに夜を過ごした。