岩沢雅美の幼馴染   作:南春樹

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第二十九話

朝の空き教室は、まだ静かだった。

 

窓から入る光は柔らかく、昨日の練習で使った譜面が机の上に何枚か残っている。アンプの電源は入っていない。ドラムセットも、今は大人しくそこにあるだけだ。

 

俺と雅美は、いつものように空き教室にいた。

 

ただ、いつもと違うことがひとつある。

 

雅美が、近い。

 

近い、というか、ほとんどくっついている。肩は触れているし、俺の袖はずっと掴まれている。俺が椅子の上で少し姿勢を変えると、雅美も同じだけ寄ってくる。

 

試しにほんの少し右へ動いてみた。

 

雅美も右へ動いた。

 

もう一度、左へ戻ってみる。

 

雅美も戻る。

 

……これは、何かの連動装置だろうか。

 

別に、雅美が俺に甘えてくること自体は珍しくない。二人きりなら、隣に寄ってきたり、肩に頭を預けたり、何も言わずに手を握ってきたりすることはある。

 

でも、今日は少し違う。甘えているというより、逃がさないようにしている。そんな感じだった。

 

いつもなら、朝のこの時間は短いフレーズを確かめたり、何かを考えながらギターを鳴らしたりしている。しかし、今日はそれがない。

 

時々、俺の袖を掴む指に力が入る。それから、はっとしたように力を抜く。

 

その繰り返しだった。

 

 

「雅美」

 

「うん」

 

「手、疲れない?」

 

「疲れない」

 

「ずっと掴んでるよ」

 

「掴んでる」

 

 

雅美は少しだけ視線を下げた。

 

怒っているわけでも、拗ねているわけでもない。ただ、自分でもどうしていいか分からないものを抱えている顔だった。

 

 

「……嫌か?」

 

「嫌じゃないよ」

 

「そうか」

 

「うん」

 

 

雅美がここまで分かりやすく動揺しているのは珍しい。普段の雅美は落ち着いていて、強くて、何かあってもまず自分の中で整理しようとする。

 

 

「今日は、無理に離れなくていいよ」

 

「……いいのか?」

 

「うん。練習の邪魔にならない範囲なら」

 

「邪魔になったら?」

 

「その時は、ひさ子に怒られるかな」

 

「それは困る」

 

 

雅美が真面目な顔で言うので、少しだけ笑ってしまった。

 

その時、空き教室の扉が勢いよく開いた。

 

 

「おっはよーございまーす! 岩沢さん、今日も朝から練習ですかー!」

 

 

一番最初に入ってきたのはユイだった。空き教室の静けさが一瞬で吹き飛んだ。

 

続いて、ひさ子、しおり、みゆきが入ってくる。

 

ユイは一歩踏み込んだところで、ぴたりと止まった。しおりもその後ろで足を止める。みゆきは小さく「おはようございます」と言いかけて、途中で止まった。

 

ひさ子は一瞬だけ眉を上げ、それから俺と雅美の距離を見る。

 

四人の視線が、俺たちに集まった。

 

俺の袖を掴んだままの手。

 

いつもより近すぎる肩。

 

俺が少しでも動けば、一緒に動きそうな距離。

 

しおりが、ゆっくり口を開いた。

 

 

「……朝からずいぶん近いですね、岩沢さん」

 

「近いな」

 

 

ひさ子が短く言う。

 

 

「近いっていうか、これ、もうくっついてますよね!?」

 

「ユイ、朝から声がでかい」

 

「だって岩沢さんがお兄ちゃんにくっついてるんですよ!?これは声も出ますよ!」

 

「出すな」

 

「無理です!」

 

 

しおりは、俺と雅美を交互に見る。

 

 

「これはあれですか?朝から太一くん補給中ですか?」

 

「補給……?」

 

「元気回復的な」

 

「俺は栄養剤じゃないよ」

 

「でも岩沢さんには効きそう」

 

「それは……効いてくれると嬉しいね」

 

 

俺がそう言うと、雅美の指に少しだけ力が入った。

 

いつもなら、ここで雅美が一言くらい返す。しおりが茶化せば軽く流すし、ユイが騒げば短く止める。

 

けれど今日は、何も言わなかった。

 

ただ、俺の袖を掴む手に少しだけ力を入れて、さらに俺の方へ体を寄せる。

 

それを見て、しおりの表情も少し真剣になった。

 

 

「……あれ。もしかして、本当に何かありました?」

 

「岩沢」

 

 

ひさ子が静かに呼んだ。

 

 

「大丈夫か?」

 

「大丈夫」

 

「その返事で大丈夫だったこと、あんまりないぞ」

 

「……大丈夫」

 

「言い直しても同じだ」

 

 

ひさ子が小さく息を吐く。

 

みゆきが心配そうに一歩近づいた。

 

 

「岩沢さん、顔色は悪くないですけど……いつもより、太一さんに近いですね」

 

「みゆきち、そこはかなり控えめな表現だよ。今日の岩沢さん、太一くんから半径5センチ以内をキープしてる」

 

「5センチどころじゃないですよ!もうゼロ距離ですよ!」

 

「ユイ、ちょっと落ち着こうね」

 

「はい!」

 

 

しおりの言葉に元気よく返事をするユイ。多分落ち着かないとは思うが。

 

 

「それで、岩沢は何があったんだ?いつもと様子が違うように見えるぞ」

 

 

ひさ子から言われ、俺は雅美を見る。

 

雅美は何も言わなかった。俺の袖を掴んだまま、少しだけ目を伏せる。言いたくないわけではないと思う。言葉にすると、今朝の感覚が戻ってくるのが怖いのだろう。

 

少しして、雅美は口を開いた。

 

 

「今朝、夢を見たんだ」

 

「夢?」

 

 

みゆきが小さく聞き返す。

 

雅美は俺の手に自分の手を重ねた。

 

 

「太一が成仏して、消える夢」

 

「……え」

 

 

空き教室の空気が、静かに止まった。

 

ユイの表情から勢いが消える。しおりも黙った。みゆきは胸の前で手を握る。ひさ子は、さっきより少しだけ真剣な目で俺を見る。

 

この世界で、その言葉は軽くない。

 

成仏。

 

誰かが満たされて消えること。それは救いなのかもしれない。でも、残される側からすれば、簡単に喜べるものではない。

 

しかも、雅美が見たのは俺が消える夢だ。

 

雅美にとって、それがどれだけ嫌な夢だったかは、今の距離を見れば分かる。

 

 

「どんな夢だったんですか……?」

 

 

みゆきが恐る恐る聞いた。

 

雅美は答えない。俺の袖を掴む手に、また少し力が入る。

 

俺はできるだけ穏やかに話した。

 

 

「雅美がステージで歌ってたらしいんだ。客席は暗くて、誰がいるかよく見えない。でも、俺がいることだけは分かったって」

 

「うん」

 

 

雅美が小さく頷いた。

 

 

「曲が終わったら、客席にいた俺が笑って、ありがとうって言ったらしい。そのまま、光の中に消えていったって」

 

「うわ……」

 

 

しおりが小さく声を漏らした。

 

 

「なんか、少しリアリティがありますね」

 

「そう?」

 

「なんて言うか、岩沢さんが満足したのを見て満足しそう」

 

「あ〜……」

 

 

確かにそれはあるかもしれない。

 

正直言うと、雅美が生前から今まで俺と一緒にいてくれたのには本当に感謝している。今となっては恋人という関係になることができて、心の底から嬉しい。

 

……嬉しいのだが、同時に引け目も感じることはあった。

 

俺と一緒にいることで雅美も奇異の目を向けられていたのではないか。色々と苦労することも多かったのではないか。俺なんかがいなかったら、もっと幸せな人生を送れたのではないか。そう考えてしまうことも無くは無かった。

 

 

「おい太一」

 

 

雅美が口を尖らせる。

 

 

「いま、変なこと考えなかったか?」

 

「へ、変なこと?」

 

「俺なんかがいなかったら、とか考えなかったか?」

 

「…………」

 

 

図星だ。流石は幼馴染。

 

 

「言っておくけど、私は一度たりとも太一と一緒にいて後悔したことなんてないからな。私は太一のことが大好きだからずっと一緒にいたし、太一が楽しそうにしているのを見ると私も楽しかった」

 

 

雅美の指に力が入る。

 

 

「……ありがとう」

 

 

思わず雅美のことを抱きしめる。

 

 

「俺も、雅美と一緒にいて楽しかった……」

 

「ちょっと待ったぁ!」

 

 

ユイが急に復活した。

 

 

「お兄ちゃん、ストップ!ありがとう禁止!」

 

「えっ?」

 

「今岩沢さんの夢みたいになってた!なんか消えそうな雰囲気あった!」

 

 

ユイに言われてハッとする。確かに、今の言葉はかなり満足していたかもしれない。

 

 

「助かったよユイ。でも、ありがとう自体は禁止しないでほしいかな」

 

「じゃあ、光りそうになるの禁止!」

 

「それは俺も避けたいよ」

 

「絶対だからね!光ったら私、全力で止めるから!」

 

「どうやって?」

 

「気合で!」

 

「ユイらしいね」

 

 

ユイの言葉に一瞬空気がピリついたが、すぐに緩和されたが、雅美はより強く袖を握っている。恐らく、夢の中で起きたことがフラッシュバックしたのだろう。

 

ひさ子が俺の前に立つ。

 

 

「太一」

 

「うん」

 

「今すぐ消えたりしないんだな?」

 

「うん。しないよ」

 

「本当だな?」

 

「本当だよ。まだまだみんなとやりたいことは沢山あるし」

 

「ならいい」

 

 

短い確認だった。

 

でも、その短さがひさ子らしい。不安を大きく広げる前に、まず必要なことだけを確かめる。そのやり取りを聞いて、雅美は少し安堵の表情を浮かべた。

 

みゆきは、まだ少し不安そうだった。

 

 

「太一さん、消えないんですよね?」

 

「うん。まだ消えないよ」

 

「『まだ』、ですか?」

 

「うん。まだ……」

 

「……そこ、ちょっと怖いです」

 

 

みゆきが素直に言う。

 

俺は少し困った。

 

たぶん、みゆきの言う通りだ。俺の答え方は、安心を与えるには少し足りない。でも、いつかのことを絶対に大丈夫とは言えない。ここがそういう世界である以上、嘘は言いたくなかった。

 

 

「ずっと一緒にいたいとは思ってるよ」

 

「本当か?」

 

 

雅美が低く聞いた。

 

俺は雅美を見る。

 

 

「うん。本当」

 

「じゃあ、今日は離れない」

 

「うん。離れなくていいよ」

 

「練習中も」

 

「できる範囲なら」

 

「食堂も」

 

「うん」

 

「午後の幹部集まりも」

 

「うん、分かったよ」

 

「寝る時も」

 

「うん。もちろん」

 

 

即答すると、雅美は俺の肩に額を預けた。

 

その仕草があまりにも素直で、ユイが両頬を押さえた。

 

 

「岩沢さんが……岩沢さんがデレてる……!」

 

「ユイ、倒れるなよ」

 

「大丈夫、ひさ子さん!これは尊いだけだから!」

 

「何が大丈夫なんだよ……」

 

 

テンションが乱高下するユイに呆れるひさ子。

 

 

「でも、今日はそれでいいと思います」

 

「みゆきもそう思う?」

 

「はい。怖い夢を見た後に、一人で平気なふりをする方がつらいと思います。岩沢さんが太一さんの近くにいたいなら、いていいと思います」

 

「みゆきち、いいこと言う」

 

「しおりん、茶化さないで」

 

「茶化してないよ。今のは本当にいいこと言ったなって」

 

「ありがとう……?」

 

 

みゆきは少し照れたように笑った。

 

雅美はみゆきを見て、小さく言った。

 

 

「泣いた」

 

「え?」

 

「今朝。起きた時、泣いた」

 

「岩沢さんが……」

 

「隠す余裕もなかった」

 

 

その言葉に、四人とも一度黙った。

 

でも、さっきのように重く沈む感じではなかった。雅美が自分で言えた。それが大きかったのだと思う。

 

ひさ子は頷く。

 

 

「なら、今日は太一の近くにいろ」

 

「いいのか?」

 

「いい。そんな状態で無理に離れても、どうせ集中できないだろ」

 

「うん」

 

「練習はできる範囲でやればいい。駄目なら休めばいい」

 

「でも」

 

「でもじゃない。倒れるまでやるのが練習じゃない」

 

「……うん」

 

 

雅美は素直に頷いた。

 

ユイが勢いよく片手を上げる。

 

 

「じゃあ、今日の岩沢さんはお兄ちゃん装備状態ってことで!」

 

「装備って何かな」

 

「外せない固定装備!」

 

「俺、装備品なの?」

 

「しかも精神安定効果つき!」

 

「効果が限定的だね」

 

「私たち限定なら最強効果です!特に岩沢さん相手なら抜群ですよ!」

 

 

しおりが乗っかる。

 

 

「太一くん、今日は岩沢さん専用アイテムだね」

 

「扱いがどんどん物になってるよ」

 

「大丈夫です。レア度は最高なので」

 

「そういう問題かな」

 

「太一さん、今日は岩沢さん専用なんですね……」

 

 

みゆきが少しだけ寂しそうに呟いた。

 

俺がそちらを見ると、みゆきは慌てて首を横に振る。

 

 

「あ、違います。嫌とかじゃなくて。今日は岩沢さんが一番不安だと思うので……」

 

「みゆき」

 

「はい」

 

「ありがとう。みゆきが不安になった時も、ちゃんとそばにいるよ」

 

「……はい」

 

 

みゆきは少し顔を赤くして、嬉しそうに頷いた。

 

それを見て、しおりが小声で言う。

 

 

「太一くん、自然にそういうこと言うからなあ」

 

「何か言った?」

 

「みゆきちが無事に照れたなって」

 

「しおりん!」

 

 

みゆきが慌てる。

 

ユイはそのやり取りを見て、なぜか拳を握った。

 

 

「これが大人の余裕……!」

 

「ユイ、たぶん違うよ」

 

「お兄ちゃんは自覚がないんだよ!」

 

「何の?」

 

「そういうところ!」

 

「分からないけど、怒られてる?」

 

「怒ってない! 呆れてる!」

 

「そっか」

 

 

俺がそう言うと、ひさ子が軽く笑った。

 

その日の練習は、いつもより少し変だった。

 

雅美は演奏中だけは俺から離れた。ただし、本当に演奏中だけだった。

 

曲が終わるたびに、俺の隣へ戻ってくる。水を飲む時も隣。チューニングの合間も隣。ひさ子が何か確認しようとして雅美を呼ぶと、雅美は俺を見た。

 

 

「太一」

 

「うん。一緒に行くよ」

 

 

俺も一緒に移動する。

 

ひさ子は最初こそ呆れたようにしていたが、すぐに慣れた。

 

 

「太一、そこにいるとケーブル踏む。少し右」

 

「うん、ここ?」

 

「そこならいい」

 

「俺、完全に練習機材の一部になってない?」

 

「今日はそういう日だ」

 

「そうなんだ」

 

「お兄ちゃん、マイクスタンドより重要だよ!」

 

「ユイ、それ褒めてる?」

 

「もちろん!」

 

 

ユイは胸を張る。

 

しおりがベースを構えながら笑った。

 

 

「太一くん、今日は可動式精神安定装置だから」

 

「名前が長いよ」

 

「略して可動太一」

 

「それはもう俺だね」

 

「じゃあ問題なし」

 

「問題しかない気がするよ」

 

 

そんなやり取りで、空気はかなり軽くなった。

 

雅美はまだ俺の近くにいる。けれど、朝みたいに張り詰めてはいない。俺がそこにいることを確認して、少し安心して、演奏に戻る。それを繰り返している。

 

しおりは何度かからかいかけたが、踏み込みすぎる前に自分で止めていた。ひさ子は必要以上に触れない。みゆきは休憩のたびに飲み物を置いてくれる。ユイは騒がしいが、今日はその騒がしさがかえって助かった。

 

不安は、黙っていると大きくなる。

 

ユイみたいに勢いよく「光ったら止める!」と言われると、怖いはずの夢が少しだけ馬鹿らしくなる。

 

それが、ありがたかった。

 

昼前には、雅美の音もかなり戻っていた。歌声に揺れはない。ギターの指も迷っていない。

 

ただ、曲が終わると必ず俺を見る。

 

俺が頷く。

 

いるよ、と。

 

雅美もほんの少し頷く。

 

そのやり取りを、しおりとユイが見逃すわけがなかった。

 

 

「今のアイコンタクト、見ました?」

 

「見た!岩沢さんがお兄ちゃんの存在確認してた!」

 

「実況しないでくれるかな」

 

「だって良いものを見たら共有したくなるじゃないですか」

 

「共有範囲が狭いようで広いよ」

 

「大丈夫!ここにはガルデモしかいないから!」

 

「まぁ……そうだね」

 

 

雅美が少しだけ頬を赤くする。

 

 

「関根、ユイ。うるさい」

 

「岩沢さんが照れた!」

 

「ユイ」

 

「はい、静かにします!」

 

 

ユイは一瞬だけ静かになった。

 

本当に一瞬だった。

 

 

「でも、岩沢さんが元気そうでよかった」

 

「……うん」

 

「朝、ちょっと怖かったから」

 

「悪かった」

 

「謝らないでください!岩沢さんがお兄ちゃんにベッタリなのは、むしろ大歓迎ですから!」

 

「それはそれでどうなんだ」

 

「ファンとしては複雑だけど、ガルデモメンバーとしては応援します!」

 

「立場が多いな、ユイ」

 

「忙しいんです!」

 

 

しおりが吹き出し、みゆきも笑った。

 

雅美も、ついに少し笑った。

 

その笑い方は、今日初めて見るくらい自然だった。

 

昼休憩を挟んでも、雅美はやっぱり俺から離れなかった。

 

食堂へ行く時も隣。食券を取る時も隣。座る時も隣。もう大丈夫かと思って俺が少し離れた席に座ろうとしたら、雅美が無言で袖を掴んだので、すぐ隣に座り直した。

 

 

「太一くん、今のは駄目だよ」

 

「今の?」

 

「今日の岩沢さんから半径5センチ以上離れようとした」

 

「やっぱり5センチ基準なんだ」

 

「今日はそういうルールです」

 

「しおりん、5センチだと食事しにくくない?」

 

「じゃあ15センチ」

 

「広がった」

 

「食事中限定です」

 

 

みゆきが真面目に考えているのが少し面白かった。

 

ひさ子は呆れながらも、何も言わない。ユイは「岩沢さん専用席だね!」と元気に言って、ひさ子に「食べながら騒ぐな」と注意されていた。

 

午後になると、ゆりから校長室に集合するよう連絡が来た。

 

内容は次の作戦の確認らしい。雅美は俺の袖を掴んだまま言った。

 

 

「行くか」

 

「大丈夫?今日は行けないって連絡する?」

 

「いや、行く」

 

「分かった」

 

「私も行く!」

 

 

ユイが即座に言った。

 

ひさ子が眉を上げる。

 

 

「ユイ、お前は幹部じゃないだろ」

 

「岩沢さんが行くなら、ガルデモ代表の応援係として行く!」

 

「代表が増えてるぞ」

 

「ひさ子さんも行く?」

 

「あたしは片付けがある。関根、入江、手伝え」

 

「はーい」

 

「はい」

 

「ユイ、騒ぎすぎるなよ」

 

「分かってる!」

 

「その声量の時点で不安だな」

 

 

分かっている声量ではなかった。

 

結局、午後の幹部集合には俺、雅美、ユイの三人で向かうことになった。雅美は俺の隣から離れず、ユイはその少し後ろを妙に楽しそうについてくる。

 

 

「ユイ、声を抑えてね」

 

「うん!抑える!」

 

「抑えられてないかな」

 

「気持ちは抑えてる!」

 

「気持ちだけなんだね」

 

 

雅美が少しだけ笑う。

 

それだけで、ユイは嬉しそうにした。

 

 

「岩沢さんが笑った!」

 

「実況するな」

 

「ごめんなさい!でも嬉しくて!」

 

「ユイは本当に元気だな」

 

「岩沢さんのためなら元気百倍!」

 

「太一も巻き込まれるぞ」

 

「お兄ちゃんも大事だから二百倍!」

 

「増えたね」

 

 

そんなことを言いながら、俺たちは校長室へ向かった。

 

午後の校長室には、すでに何人か集まっていた。ゆりが机の前に立ち、音無がその近くにいる。日向は椅子にだらしなく座り、野田は相変わらずハルバードを持っている。藤巻、大山、松下五段、TK、遊佐、直井もいる。椎名は壁際で静かに立っていた。

 

サクラもいた。

 

ゆりの足元で、ゆったりと座っている。ゆりは作戦資料を持ちながらも、時々サクラの頭を撫でていた。本人は無意識のつもりかもしれないが、かなり自然な手つきだった。

 

 

「遅かったわね、太一くん……って」

 

 

ゆりの視線が、俺の袖を掴んでいる雅美に止まる。

 

 

「岩沢さん、なんか近くない?」

 

「今日は太一の近くにいる」

 

「理由は?」

 

「夢を見た」

 

「夢?」

 

 

ゆりが聞き返す。

 

その瞬間、ユイが一歩前に出た。

 

 

「お兄ちゃんが成仏して、ありがとうって言って光の中に消える夢です!」

 

「ユイ、説明が速い」

 

「大事なことだから!」

 

「大事だけど、勢いで言うことじゃないよ」

 

「ごめん!」

 

 

ユイはすぐに謝ったが、もう全員に伝わっていた。

 

校長室の空気が一瞬だけ静かになる。

 

日向が俺を見る。

 

 

「篠宮、お前、消えんの?」

 

「消えないよ」

 

「だよな。びっくりした」

 

「日向、聞き方が雑だよ」

 

「いや、ユイが勢いよく言うからさ」

 

 

音無は少しだけ苦笑しながら、雅美を見る。

 

 

「岩沢、大丈夫か?」

 

「大丈夫」

 

「その状態で言われても説得力ないな」

 

「大丈夫じゃないから、太一の近くにいる」

 

「なるほど。正直だな」

 

 

音無は少し安心したように笑った。

 

直井が一歩前に出る。

 

 

「篠宮さんが成仏する可能性については、現時点で兆候は見られません。音無さんと同じく、篠宮さんにもまだこの世界で果たすべき役割があるはずです」

 

「直井、分析ありがとう」

 

「当然です。篠宮さんの消失など、戦線にとっても大きな損失です」

 

「言い方は固いけど、気持ちは受け取るよ」

 

「はい」

 

 

直井は真面目に頷いた。

 

椎名は、壁際から静かに近づいてきた。

 

 

「篠宮」

 

「うん」

 

「消えるな」

 

「うん。まだ消えないよ」

 

「『まだ』では足りない」

 

「椎名もそこ気になるんだね」

 

「当然だ」

 

 

椎名は真剣だった。

 

そして、雅美の方を見る。

 

 

「岩沢。今日は離すな」

 

「……うん」

 

「私も警戒する」

 

「何を?」

 

「篠宮が光らないか」

 

「椎名までユイみたいなことを言い始めた」

 

「失礼です!でも同じ意見です!」

 

 

ユイが力強く頷く。

 

日向が笑いをこらえきれずに吹き出した。

 

 

「篠宮、今日一日、光るの禁止な」

 

「俺、そんなに自由に光らないよ」

 

「分かんねえぞ。成仏って光るイメージあるし」

 

「イメージで禁止されても困るかな」

 

「でも篠宮ならちょっと光りそうじゃね?」

 

「光らないよ!」

 

 

野田が鼻を鳴らす。

 

 

「ふん。貴様が消えたら、俺が倒す相手が減る」

 

「野田、俺を倒す予定だったの?」

 

「当然だ」

 

「そっか。じゃあ、まだ消えられないね」

 

「そういうことだ」

 

 

なぜか野田は満足そうだった。

 

藤巻が腕を組む。

 

 

「まあ、篠宮がいなくなると色々困るよな」

 

「例えば?」

 

「重いもん運ぶ時とか」

 

「……それ最初に出る理由?」

 

「いや、他にもあるけどよ」

 

「あるならそっちを先に言ってほしかったな」

 

 

大山が慌てて続ける。

 

 

「でも本当に、篠宮くんが急にいなくなったら困るよ。みんな寂しいと思うし」

 

「大山……ありがとう」

 

「うん。あと、サクラちゃんも寂しがると思う」

 

「それは大事だね」

 

 

ゆりがそこで咳払いをした。

 

けれど、彼女の足元ではサクラがのんびりしている。ゆりは一度サクラを見て、少しだけ声を柔らかくした。

 

 

「サクラちゃんもいるんだから、太一くんには消えてもらうと困るわね」

 

「ゆり、それ作戦上の理由?」

 

「もちろんよ。サクラちゃんの精神衛生も戦線の重要事項だわ」

 

「それは私情じゃ……」

 

「私情ではないわ。戦線全体の癒やしに関わる問題よ」

 

 

ゆりは真顔で言った。

 

サクラは何も分かっていないような顔で、ゆりの手に頭を寄せている。

 

 

「サクラちゃんは今日も可愛いわね」

 

「ゆりっぺ、作戦会議は?」

 

「今からするわよ」

 

「サクラちゃん撫でながら?」

 

「問題ある?」

 

「いや、ないけどさ」

 

 

日向は苦笑した。

 

雅美はそのやり取りを見て、少し肩の力を抜いたようだった。

 

校長室に入る前より、表情が楽になっている。皆がそれぞれのやり方で、俺が消えないことを確認している。真面目に、雑に、変な方向に、でも確かに心配してくれている。

 

それが、雅美の不安を少しずつ薄めているのだと思う。

 

ゆりは資料を机に置き、俺たちを見る。

 

 

「事情は分かったわ。今日の太一くんは岩沢さんの近くに配置。ユイは騒ぎすぎない。椎名さんは光の警戒をしすぎない」

 

「了解!」

 

「心得た」

 

「二人とも、本当に分かってる?」

 

「分かってるよ」

 

「太一くんじゃなくて、そっちの二人に聞いたの」

 

 

ゆりがため息をつく。

 

ユイと椎名が真面目な顔で頷いているのが、逆に不安だった。

 

作戦会議自体は、思ったより普通に進んだ。

 

ただし、俺と雅美の距離はずっと近いままだった。雅美は俺の隣に立ち、時々袖を掴む。俺が資料を見るために少し身を乗り出すと、雅美も少し動く。

 

ユイはそのたびに何か言いたそうにして、ゆりに見られて口を閉じる。

 

椎名は壁際から、妙に真剣に俺を見ていた。

 

たぶん、本当に光らないか見張っている。

 

日向はそれに気づいて肩を震わせていた。

 

 

「椎名、俺は大丈夫だよ」

 

「油断大敵だ」

 

「成仏って油断で起こるものなのかな」

 

「分からない。だから警戒する」

 

「そっか。ありがとう」

 

「うむ」

 

 

椎名は少し満足そうに頷いた。

 

雅美が俺の袖を引く。

 

 

「太一」

 

「うん?」

 

「光ってないか?」

 

「今のところ光ってないよ」

 

「ならいい」

 

「雅美まで確認するんだね」

 

「念のためだ」

 

「そっか」

 

 

ゆりが資料越しにこちらを見る。

 

 

「そこ、会議中に光量確認しない」

 

「ごめん」

 

「謝るの太一くんなの?」

 

「なんとなく」

 

「あなたも大変ね」

 

 

ゆりは呆れたように言ったが、口元は少し笑っていた。

 

夕方になり、会議が終わる頃には、雅美の手の力もかなり緩んでいたが、まだ離れない。

 

けれど、朝のように必死に掴んでいるわけではない。

 

そばにいたいから、そこにいる。

 

そんな距離になっていた。

 

校長室を出る前、ゆりがサクラを抱き上げようとして、サクラは自然に俺の方へ歩いてきた。ゆりは少し残念そうな顔をする。

 

 

「サクラちゃん、太一くんのところに戻るのね」

 

「ゆりのことも好きだと思うよ」

 

「だと嬉しいけど……やっぱり太一くんが一番なのよね」

 

「まあ、基本的に俺の部屋にいるからね」

 

「羨ましいわ」

 

「ゆりっぺ、サクラに本気で嫉妬してない?」

 

「してないわよ」

 

 

している声だった。

 

サクラは俺の足元に来ると、今度は雅美の方へ顔を向けた。雅美がしゃがむと、サクラは穏やかに鼻先を寄せる。

 

雅美はその頭を撫でた。

 

 

「サクラにも心配されたな」

 

「優しいからね」

 

「太一に似たんだろ」

 

「俺よりずっと素直だよ」

 

「太一も十分素直だ」

 

「そうかな」

 

「嘘が下手だ」

 

 

雅美はそう言って、俺を見る。

 

朝の言葉を、まだ少し気にしているのだと思う。ずっといると嘘でも言ってほしかった。けれど、俺はそう言えなかった。

 

それでも、雅美は怒っているわけではなかった。

 

少し拗ねて、少し安心している。

 

そんな顔だった。

 

 

「ごめんね」

 

「謝れとは言ってない」

 

「うん」

 

「でも、今日は消えなかった」

 

「うん」

 

「明日の朝も、隣にいてくれ」

 

「うん。いるよ」

 

「起きた時、ちゃんと」

 

「ちゃんといる」

 

「約束だ」

 

「約束」

 

 

雅美は頷いた。

 

ユイが横から顔を出す。

 

 

「私も証人!」

 

「ユイ、いつの間に」

 

「ずっといたよ!」

 

「知ってるよ」

 

「お兄ちゃん、明日の朝もちゃんと岩沢さんの隣にいてね!」

 

「うん。いるよ」

 

「光るのも禁止!」

 

「それも今日は何度も聞いたね」

 

「大事なことだから!」

 

「うん。ありがとう」

 

 

俺がそう言うと、ユイは一瞬固まった。

 

 

「……今のありがとうは大丈夫なやつ?」

 

「光ってないから大丈夫だと思うよ」

 

「なら大丈夫!」

 

 

雅美が小さく笑った。

 

朝からずっと張り詰めていたものが、その笑いでようやく少しほどけた気がした。

 

その夜も、雅美は俺の隣で眠ることになった。

 

サクラも当然のようについてきた。ベッドの足元で丸くなり、時々こちらを見る。まるで見張り役みたいだった。

 

部屋の灯りを落としても、雅美は俺の手を離さなかった。

 

 

「太一」

 

「うん」

 

「今日は、ずっとくっついてた」

 

「うん」

 

「みんなに見られた」

 

「うん」

 

「恥ずかしい」

 

「今さら?」

 

「今さらだ」

 

 

雅美は小さく俺を睨む。

 

でも、手は離さない。

 

 

「でも、離れたくなかった」

 

「うん」

 

「今も、まだ少し怖い」

 

「うん」

 

「だから、寝るまで手を握っててくれ」

 

「うん。もちろん」

 

 

雅美は安心したように目を伏せた。

 

しばらく沈黙が落ちる。

 

サクラの小さな寝息が聞こえる。外は静かだった。朝の夢の話が、もうずいぶん前のことみたいにも思える。

 

でも、雅美にとってはまだ近い。

 

俺が少しでも動けば、雅美の指が反応する。

 

確認しているのだ。

 

まだいる。

 

消えていない。

 

そこにいる。

 

その確認を、今夜は何度でもすればいいと思った。

 

 

「太一」

 

「うん」

 

「ありがとうは、最後の言葉にするな」

 

「うん。しないよ」

 

「言うなら、明日も言え」

 

「うん。明日も言うよ」

 

「明後日も」

 

「うん」

 

「その次も」

 

「うん」

 

「……ならいい」

 

 

雅美は小さく息を吐いた。

 

少しずつ、呼吸が落ち着いていく。

 

俺は手を握ったまま、雅美の寝息が深くなるのを待った。

 

怖い夢を見た朝に、怖いと言えること。

 

離れたくない日に、離れたくないと言えること。

 

それを茶化しすぎず、でも重くしすぎず、受け止めてくれる仲間がいること。

 

この世界がいつか別れに向かう場所だとしても、今はまだその時じゃない。

 

少なくとも今夜、雅美は俺の隣にいる。

 

俺も雅美の隣にいる。

 

サクラは足元で眠っている。

 

明日の朝、雅美が目を覚ました時、ちゃんとそこにいよう。

 

そう思いながら、俺は雅美の手を握り返した。

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