波飛沫を上げて肉薄するオーロ・ジャクソン号。
その距離が、互いの息遣いさえ届きそうなほどに詰まった瞬間。
先に声を張り上げたのは、やはりあの男だった。
「おう、ガセル! 久しぶりだな!」
からりと晴れ渡る太陽のように、底抜けに明るい声。
そのあまりにも自然体な声音に、ガセルは知らず知らずのうちに強張っていた肩の力をふっと抜いた。
「ああ……そっちも相変わらず元気そうで何よりだ」
ガセルが低めの声で応じると、ロジャーのすぐ斜め後ろから怜悧な光を宿した静かな視線が差し込んできた。
「随分と派手に動いているらしいじゃないか、ガセル」
シルバーズ・レイリーだ。
眼鏡の奥の瞳は鋭さを残しつつも、かつて一度剣を交えた者に対する温かみがあった。
「どういう意味だ?」
ガセルがわずかに眉をひそめて問い返した瞬間、その横から豪快な足取りでもう一人の男が割り込んできた。
「とぼけんなって! 今やグランドラインはお前の話題でもちきりだぜ?」
軽い調子で笑いながら、身の丈ほどもある両手の巨大な斧を無造作に肩に担ぎ直す男──スコッパー・ギャバン。
ロジャー海賊団の左腕と目される男が、懐から丸めた一枚の新聞を放るように差し出してきた。
「ほら、自分で見てみろよ」
空中で受け取り、インクの匂いが残る紙面に目を落とす。
そこに躍っていたのは、ガセルの予想を遥かに超えた大仰な見出しだった。
『空を駆け、各地で暴虐を働く悪徒を誅討し、海へと沈める不滅の稲妻』
それは、ロックスの名を騙る偽物を機械的に排除していただけのガセルの行動が、情報操作と民衆の願望によって歪められた結果だった。
抑圧された海域の民の間でまことしやかに囁かれる、新たな英雄の誕生。
記事の内容を追うごとに、ガセルの端正な顔がわずかに苦々しく歪んでいく。
「……なんで俺が勝手に義賊扱いされてんだ。ただの任務だってのに」
思わず片手で額を押さえるガセルを見て、レイリーが小さく肩をすくめた。
「結果として、世界の目にはそう映っているということだ。少なくとも、海賊の略奪に怯える一般の民にとっては、お前が悪を討つ救世主に見えるのだろう」
ギャバンも深く頷きながら、ニヤリと不敵な笑みを浮かべる。
「だが、そのぶん海軍からは相当目を付けられてるみてぇだがな」
そう言って、ギャバンがもう一枚の紙を差し出してきた。
今度は新聞ではない。
特有のざらついた質感を持つ、世界政府公認の手配書。
そこに記された数字を目にした瞬間、ガセルは小さく息を吐いた。
『DEAD OR ALIVE』──雷禍のガセル。懸賞金五億六千万ベリー。
「……また随分と、一気に跳ね上がったな」
半ば呆れたように呟く。
ついこの前に億を超えたばかりだというのに、今やその倍の価値が己の首にかけられている。
レイリーがフッと苦笑を漏らした。
「その額ともなれば、もう立派にこの海を代表する大海賊の一人だ。ロックスが単独で動かす理由もよく分かる」
静かに言い切るレイリーの声音には一切の冗談は混じっていなかった。
ガセルという存在が、もはや世界の勢力図において無視できない一角になりつつあるという冷徹な事実。
「そんな細かい数字はどうでもいいんだよ!」
唐突に、場を割るような大声が響いた。
ロジャーだ。
彼はまるで宝箱を見つけた子供のように、目をギラギラと輝かせ一歩前へと身を乗り出してきた。
「お前、あのガープと正面からやり合ったらしいじゃねえか!」
その言葉に、ガセルは目を見開いた。
「……ああ。少し前にな。耳が早いな」
「あいつ、数日前に通信で怒鳴り込んできた時、めちゃくちゃ楽しそうに話してやがったぞ!骨のあるガキがロックスの船にいやがるってな!」
海軍中将とプライベートでそんな会話をしていること自体が異常だが、ロジャーはそれを当然のように豪快に笑い飛ばした。
そしてその笑顔のまま、一転して底の知れない覇気を周囲に滲ませる。
「だったらよ……今度は俺とやろうぜ、ガセル!」
一瞬の間。
風の音が消えたか錯覚するほど、その場の空気が完全に凍りついた。
「……は?⋯⋯どういう事だ⋯⋯?」
ガセルが思わず、本気で耳を疑うように聞き返す。
「決まってんだろ! 命がけの殺し合いだ!」
あまりにも真っ直ぐで、あまりにも純粋な戦闘衝動。
悪意や憎しみといった濁った感情が一切ない、天衣無縫なまでの武の渇望。
それが狂気的なまでに伝わってくるからこそ、これ以上なく厄介だった。
「おいロジャー、いい加減にしろ」
レイリーが即座に、鋭い口調で制止に入る。
「ここでお前が動けばロックスを本気で刺激する。余計な揉め事を増やす気か」
「余計じゃねえだろ! レイリー、お前だって前にこいつとやり合ったんだろうが!」
ロジャーは頬を膨らませて子供のように不満げに言い返す。
「お前らだけ楽しんでずるいじゃねえか! 俺にもやらせろ!」
「そういう問題じゃ……」
なおも言いかけようとするレイリーの前に、ガセルがそっと片手を突き出してそれを制した。
「いい、レイリー」
短く告げる。
ガセルの双眸が、じっとロジャーの姿を捉えていた。
「俺にとっても、願ってもない話だ」
静かに、だが肚の底から響くようなはっきりとした声だった。
ロックス・D・ジーベック、モンキー・D・ガープ、そしてゴール・D・ロジャー。
世界の頂点に君臨する怪物たちと刃を交える機会など、求めても早々巡ってくるものではない。
今の自分が世界最高峰の男にどこまで通用するのか。
それを測るには、これ以上ない絶対的な試金石だった。
「やらせてくれ。手加減はいらねぇ」
ガセルはそう言い切った。
世界は広い。
己よりも強い化け物は、未だこの海の至る所にうろついている。
だからこそそいつらの理不尽な暴力に巻き込まれても、絶対に生き残れるだけの圧倒的な力が欲しい。
そのためなら目の前の男すら利用し、己の踏み台にしてやる。
その歪なまでの執念が、ガセルの身体から蒼い火花となって爆ぜた。
レイリーはしばらくガセルの目を見つめていたが、やがて諦めたように小さく息を吐き、無造作に頭をかいた。
「……分かった。ただし、どちらかの命が本当に危なくなったら、私が強引に止める。それでいいな?」
「ああ。助かる」
ガセルが頷いた瞬間、ロジャーの顔に満面の笑みが咲いた。
「いいねぇ! そうこなくっちゃな!!」
オーロ・ジャクソン号の船員たちも、何事かと一斉に甲板に集まりざわめき始める。
「おいおい、船長が本気でやるのか!?」「相手はあの雷禍だぞ、面白ぇことになってきた!」
誰が指示するでもなく、自然と二人の周囲に広大な円を描くようにして距離が取られた。
命を削り合うための舞台が、即座に出来上がる。
先に動いたのは、ガセルだった。
一瞬、光が弾けたと思った時には、ガセルはすでにロジャーの懐へと潜り込んでいた。
漆黒の武装色を硬化させ、さらに超高電圧の稲妻を纏わせた右拳をその分厚い胸板へと狂暴に叩き込む。
「はえぇな、おい!」
ロジャーは笑いながら、抜刀すらしていない鞘のままでその一撃を受け止めた。
極大の覇気と覇気が正面から激突し、周囲の海面が同心円状に激しく陥没する。
凄まじい衝撃波が船体を揺らす中、ロジャーは流れるような動作で軸足を回し、ガセルの脇腹を刈り取るような凄絶な蹴りを放つ。
ガセルは本能的な危機感から肉体を瞬時に電流へと昇華させ、その蹴りを透過するようにして躱すが、距離を取った先でも息を呑んだ。
速い。
単純な身体能力の速度ではない。
踏み込みの深さ、間合いの掌握、そしてガセルのロギア化を見切る判断の速さ。
そのすべてが、これまで戦ってきた誰よりも高い次元で噛み合っている。
(……これが、ロジャー……!)
息を整える暇すら与えられない。
ロジャーの身体がブレたかと思うと、すでに目前に迫っている。
ガセルは全開の電力を両手に収束させ、全方位への全天候型雷撃を放った。
大気を焼き尽くす数十万ボルトの電流。
だがロジャーはその絶望的な光の嵐すら、楽しげに手にした愛刀エースの一振りで正面から文字通り叩き割った。
「面白ぇなァ、お前の能力は!」
大笑いしながら、限界を超えた速度で迫りくる怪物。
防戦一方。確実に押されている。
だが、ここで終わるわけにはいかない。
「……これなら、どうだ……っ!」
ガセルは極限の集中力の中で一歩踏み込み、自身の周囲数メートルに存在するあらゆる電磁界を一点へと強引に収束させた。
空間が悲鳴を上げ、甲板のボルトや装飾品がガセルの指先へと吸い寄せられる。
見えない極大の電磁のレールが、一直線にロジャーの脳天を貫く。
「
音すらも遥か後方に置き去りにする、超電磁の熱線。
それを目にした瞬間、ロジャーの双眸が未知の玩具を見つけた子供のようにキラキラと輝いた。
「おおぉぉぉ! なんだ今の!!ビームか!? すげぇなそれ!!」
ロジャーは驚嘆の声を上げながら、紙一重の踏み込みでその光線を避けた。
ガセルの電磁加速をもってしても、ロジャーの予知に近い見聞色の未来視に直撃を阻まれる。
そして、ロジャーは笑っていた。
命を刈り取られかねない一撃の直後に見せるその底知れない余裕こそが、今現在の二人の間に横たわる決定的な絶望の差だった。
戦いは熾烈を極めたが、やがてその瞬間は訪れる。
ロジャーの纏う雰囲気が、一瞬で引き締まった。
愛刀エースの刀身に覇王色の覇気が、禍々しいまでの密度で巻き付く。
空間そのものがその刃の重圧に耐えかねて歪み、割れていく。
「神避」
無造作に振り下ろされた一撃。
ロギアの流動化すら、空間ごと斬り伏せるその絶対的な武の前には無意味だった。
「ぐッ……、あああぁぁぁ!!」
ガセルの身体は空中を吹き飛び、激しく甲板へと叩きつけられた。
バキバキと音を立てて意識の輪郭が激しく揺れる。
全身の骨が軋み、指一本動かすことすら叶わない。
圧倒的な、完全なる敗北。
(……クソ、強い。強すぎる。俺の、負けだ……)
大の字に倒れ伏すガセルの元へ、ロジャーが刀を収めながら足音を響かせて歩み寄ってきた。
そして傷だらけのガセルを見下ろし、まるで今日の天気を語るかのような気軽さで当然のように言い放った。
「お前、やっぱり俺の船に来い!」
「……は?」
あまりの脈絡のなさに、ガセルの脳の思考回路が完全に停止した。
「だってよ! 剣士も格闘家もいるけど、ビーム撃てるやつはまだうちの船にいねえんだよ! お前、今日からうちのビーム要員な!」
あまりにも雑で、あまりにも直感的なスカウトの理由だった。
その背後でレイリーが深い、本当に深いため息を吐きながら頭を抱えた。
「おい、ロジャー……また他所から引き抜いて問題を増やす気か」
ギャバンも苦笑いを通り越して呆れ果てた顔で言う。
「流石にあのロックスのところから引き抜くのは、全面戦争の引き金になりかねねえぞ、船長」
「うるせぇ! 俺が気に入ったんだから関係ねえ! 」
周囲の常識的な忠告などどこ吹く風、ロジャーは少年のように全く引く気配がない。
「いや…⋯あんたの所にはいかねえよ」
ガセルは全身の激痛に耐えながら、辛うじて声を絞り出し即座に拒絶した。
「なんでだよ!」
「俺、一応ロックス海賊団の船員だし……」
「じゃあ今すぐ抜けろ!」
「無茶言うな……。殺されるだろ、俺が」
呆れを通り越して、もはや精神的な疲労が勝る。
それでもロジャーは少年のように目を輝かせたまま、ガセルの返答を待ち続けている。
しばらくの不毛な押し問答の末。
これ以上付き合っては身体が持たないと判断したガセルは半ば投げやりに、煙に巻くようにして言葉を返した。
「……まあ、何かの間違いでロックスの船を抜けるようなことがあったら、その時は考える」
その妥協のセリフを聞いた瞬間、ロジャーは弾けたような満面の笑みを浮かべた。
「よし! 約束だな! 男に二言はねえぞ!」
ガセルとしてはただのその場しのぎのつもりだったが、この男には完全に確約として処理されたらしい。
話はこれで満足したようで、ロジャーは嬉しそうに踵を返した。
レイリーがガセルの元へ歩み寄り、本当に申し訳なさそうな顔で深く頭を下げた。
「うちの船長が、本当にすまない。悪気はないんだ」
「……気にするな。お前らも苦労してんだな」
痛む身体を起こし、苦笑しながら返す。
オーロ・ジャクソン号がゆっくりと進路を戻し、離れていく。
船尾に立ったロジャーが、ちぎれんばかりに大きく手を振っていた。
「じゃあな、ガセル! 約束忘れるなよ! いつでも待ってるぜ!」
騒がしい波音と共に去っていく、嵐のような連中。
ガセルはそれが見えなくなるまで見送りながら、小さく息を吐いた。
理不尽で、強すぎて、どうしようもない奴ら。
だが、不思議と嫌いにはなれない。
そんな奇妙な感情が、わずかに胸の奥底に残っていた。
♢
その後あらかたの偽物狩りの任務を完了したガセルは、ロックス海賊団の本船へと帰還していた。
数週間にわたり、たった一人で海上を孤独に駆けていた反動からか、久しぶりに肌で感じる船上の怒号や喧騒、酒の臭いは相変わらず不快でありながらも、同時に日常としての落ち着きをガセルに与えていた。
そして、帰還してから数日後の午後。
甲板の隅で、ガセルが寝そべっている所へ。
「……むぅ」
やけに至近距離から押し殺したような、だが自己主張の激しい唸り声が聞こえてきた。
無視する。関わるとろくなことがない。
「……むぅ」
二度目。
明らかにこちらを意識し、視線を向けさせようとする意図に満ち溢れている。
それでもあえて気付かない振りを続ける。
「……むぅ!!」
三度目で、流石に無視し続けるのも限界だった。
ガセルは小さくため息を吐き、重い腰を上げるように顔を上げた。
「……なんだよ、グロリオーサ。用があるなら普通に話しかけろ」
仕方なく視線を向けると、そこには不満げに両腕を組み、頬を僅かに膨らませてこちらをジロジロと睨みつけているグロリオーサの姿があった。
彼女はガセルと目が合った瞬間、開口一番に鋭く問い詰めてきた。
「ロジャーと海の上で会ったって本当なの?」
「ああ、会った。それがどうした?」
特に隠すような後ろめたい理由もない。
ガセルが淡々と答えると、グロリオーサの形の良い眉がぴくりと跳ね上がった。
「……また、あいつの船に乗れって、誘われたの?」
「ああ、誘われたな。相変わらず雑な理由で」
あまりにもあっさりと即答されたため、グロリオーサの表情が目に見えて劇的に崩れた。
「……やっぱり」
分かっていた、と言わんばかりの苦渋に満ちた顔。
だが、ガセルが続けた言葉が、彼女の心境をさらに悪化させる。
「しかもしつこく」
「しつこく!?」
「何度も」
「何度も!?」
グロリオーサの声が完全に裏返った。
本気で精神的衝撃を受けているらしく彼女はそのまま、まるで世界の理不尽の全てを一身に背負ったかのような顔で硬直してしまった。
しばしの重苦しい沈黙。
そして、ゆっくりと彼女の意識が復活する。
だが戻ってきたのは冷静さではなく、純粋な理不尽な怒りだった。
「なによそれ……! ガセルばっかり狡いわ!!」
「いや、そんなこと言われても困るんだけどな……。俺が頼んだわけじゃない」
あまりにも筋違いな八つ当たりにガセルが困惑気味に素直な感想を漏らすと、グロリオーサは激昂したように一歩踏み出し、ガセルの鼻先にびしっと白い指を突きつけてきた。
「……勝負よガセル! 今すぐ私と戦いなさい!」
「嫌だ」
間髪入れずに拒否する。
一秒の躊躇もない即答だった。
「なんでよ! あんた、前までは狂ったみたいに誰彼構わず挑みまくってたじゃない!」
「そりゃ、あの時は強くなるために必要だったからだ」
過去の行動の動機をあっさりと説明するガセル。
だがその合理的すぎる答えが、かえって彼女のプライドに深く突き刺さったらしい。
「何よそれ……! じゃあ何? 今の私とじゃ、あんたの成長の肥やしにもならないってこと!?」
食い気味に詰め寄ってくる彼女に対し、ガセルは一瞬だけ現在の実力差を脳内で計算し、そして何の悪気もなく事実を口にした。
「まあ、そうだな。今の俺は、もうグロリオーサにおくれをとる気はしねぇ」
一切の遠慮も、オブラートもない直言。
そして、それが何よりも彼女に効いた。
「キィィィーッ!!!」
グロリオーサは本気で悔しそうに身悶えし、地団駄を踏んだ。
「知ってるわよ! 私だって今のあんたに勝てる気なんかしないわよ! 事実だから余計に腹が立つのよ!!」
もはや完全なる八つ当たりだった。
ガセルは思わず手のひらで顔を覆った。
(なんなんだ、一体こいつは……)
ここ最近船に戻ってきてからというもの、こうして彼女に絡まれる頻度が明らかに、それも異常なほど増えていた。
殺し合いの喧嘩というわけでもなく、かといってただの世間話でもない。
妙に精神的な、そして物理的な距離が近い。
ガセルにとっては、どう扱っていいのか分からない未知の関係性だった。
グロリオーサは一度深く大きなため息を吐いて肩の力を抜くと、今度は少し視線を落とし毛色の違う話題へと話を転がした。
「……シャッキーといい、あんたといい……私と一体、何が違うのかしらね」
ぽつりと、寂しげに漏らされた言葉。
「余裕? あの、何が起きても動じないような余裕そうな感じに、ロジャーみたいな大物は惹かれるのかしら」
「シャッキー?」
聞き慣れない独特の響きの名前に、ガセルが小首を傾げる。
「ああ、あんたはまだ会ったことがなかったわね。今の九蛇海賊団の船長よ。私が元々所属していた海賊団……今は別行動をしてるけど」
「へぇ……。そのシャッキーってのは、強いのか?」
ガセルの口から出たのは、純粋な戦力としての興味だった。
だがそれを聞いたグロリオーサは、冷ややかな呆れ果てたような眼差しでじっとガセルを見つめてきた。
「……あんたって、実は底無しの戦闘狂なんじゃないの?」
「何言ってんだ。俺ほど暴力を憎み、平穏な日々を愛している奴はこの船には他に誰もいねえよ」
大真面目な顔で、一点の曇りもないトーンで返すガセル。
それに対し、グロリオーサは深い疲労感を滲ませて肩を落とした。
「……この船の連中を基準に比較してる時点で、あんたの頭のネジも相当ぶっ飛んでるわよ……」
確かに、その指摘は否定できなかった。
ロックス海賊団という環境自体が、人間の認知を狂わせる。
グロリオーサはもう一度ため息を吐くと、先程までの尖った雰囲気を少しだけ和らげ、どこか遠くを見るような柔らかい表情になった。
「……まあ、とにかくね。男たちはみんなシャッキーに夢中なのよ。ロジャーだって、あの子の前では目の色を変えるわ。確かに……凄く綺麗で、魅力的な子だけどね」
どこか面白くなさそうに、嫉妬にも似た感情を滲ませて語るグロリオーサ。
ガセルは少しの間彼女の横顔を見つめ、そしてあまりにも自然な、いつもの淡々とした口調で言葉を紡いだ。
「……そのシャッキーって奴には会ったことがないから分からねえけど」
一拍、置く。
「グロリオーサ、お前だって十分綺麗だろ」
あまりにも突拍子のない、だが至極当然の事実を述べるような響きだった。
「はぁッ!?」
グロリオーサの身体がビクッと跳ね上がり、即座に顔を真っ赤にして叫んだ。
「な、何言ってんのよ、あんた急に……っ! バカじゃないの!?」
「いや、普通に見たままの感想を言っただけだが」
特に深い下心も、お世辞の意味もない。
ただの事実の陳列。
だが天然ゆえのそのストレートさが、世間擦れしていない彼女には何よりも致命的だった。
「俺はお前くらいの美人、これまでの人生で見たことねえ。最初に会った時は、こんな綺麗な奴がいるのかって普通に驚いたしな」
ガセルは淡々と語り続ける。
それ以上でもそれ以下でもない、ただの純粋な記憶の吐露。
グロリオーサは完全に言葉を失い、完全にフリーズした。
顔だけでなく耳の裏まで真っ赤に染め上げ、信じられないものを見るような目でガセルを凝視している。
「……あんたって、意外とサラッとそういうことを言うのね。スケコマシなの?」
「なんでだよ」
心底意味が分からない、という不審げな顔で返すガセル。
しばしの間気まずいような、だがどこか心地よい沈黙が二人の間に流れた。
海風が甲板を通り抜け、古い木造船の軋む音がやけに静かに響く。
やがてグロリオーサはぷいっと視線を反対側の海へと逸らし、蚊の鳴くような声で小さく息を吐いた。
「……まあ、いいわ」
そして、ツンとすました態度を取り繕いながら。
「お礼くらいは、言ってあげるわ。……ありがと」
どこかぶっきらぼうに、だが確実にその声音にはいつもの棘が消えていた。
「相変わらず偉そうな態度だな」
ガセルは肩をすくめたが、その口元には無意識のうちに微かな優しい笑みが浮かんでいた。
「うるさいわね! というより、あんた最近急に強くなりすぎなのよ。前の方がまだ、無鉄砲で可愛げがあったわ」
グロリオーサは再び腕を組み、心底納得がいかないといった様子で吐き捨てる。
その瞳の奥には彼の急激な成長に対する焦燥と、それとは全く異なる、危うい世界へ足を踏み入れていく彼への憂いが混ざり合っていたが、ガセルがそれに気付くはずもなかった。
「生き残るために、必要だったからな。……だが、まだまだ足りねえ。もっと強くならなきゃ意味がねぇんだ」
あくまで淡々とした、静かな口調。
だがその言葉の奥底には、決して揺らぐことのない鋼の意思が燃え盛っていた。
世界を破滅させるためでも、王になるためでもない。
この狂った海で、理不尽な怪物たちに蹂躙されず、ただ生き残るという目的を果たすため。
そのために彼は強さを求めていた。
グロリオーサは一瞬だけ、その彼の瞳の奥にある深い孤独と決意に圧倒され言葉を失った。
そして、諦めたように小さく息を吐く。
「……あんたは一体、何と戦うつもりなのよ」
呆れたような、だがどこか心配そうな声音。
ガセルはその問いに、すぐには答えなかった。
視線を海の向こう、どこまでも続く底知れない世界へと向ける。
ロジャー、ガープ、ロックス。
挙げればキリがない世界の頂。
そして、これから歴史の表舞台に現れるであろう数々の怪物たち。
迫り来る激動の時代の中で、ただ流されるだけの木っ端にはなりたくない。
「……さあな」
短く、そう返す。
「だが、止まるつもりはねえ。死にたくないからな」
それだけは、自身の魂に刻まれた絶対の真実だった。
グロリオーサはしばらく何も言わず、海の風に髪を揺らすガセルの横顔をじっと見つめていたが、やがて愛おしさと呆れが混ざったような笑みを浮かべて肩をすくめた。
「……あんたも、本当に退屈させない、面倒な男ね」
海風が二人の間を滑り抜けていく。
遠くでは、別の甲板で酒を酌み交わす船員たちの下品な笑い声と喧騒が絶え間なく響き渡っている。
こうして血と暴力に塗れながらも、どこか奇妙に落ち着いたいつも通りの日常が流れていく。
ロックス海賊団の嵐の前の静けさとも言える日常が、再びそこに構築されていた。
グロリオーサの若い頃の口調掴めなくてツンデレみたいになってしまいました。許して