ガセルは本気で頭を悩ませていた。
ロックス海賊団の本船、怒号が飛び交う甲板の端。
その不快な喧騒からほんの少しだけ距離を置いた場所で、ガセルは海を睨みつけるようにして腕を組んでいた。
視線はどこまでも平坦に続く水平線の先へと向けられているが、その双眸に映っているのは目の前の海ではなく数日前の強烈な戦闘の記憶だった。
「覇王色、か……」
ぽつりと零れ落ちた呟きは、容赦なく吹き付ける湿った海風にあっさりと攫われて消えていく。
脳裏に鮮明に蘇るのは、あのゴール・D・ロジャーと文字通り命を削り合った瞬間の光景だ。
最後に眼前へ振り下ろされた、世界を両断せんばかりの絶技──神避
あれはこれまでガセルが血の滲むような実戦の中で身に付け磨き上げてきた武装色の覇気とは根本的な質が、密度が、次元が違っていた。
ただの肉体的な強さや、覇気の出力という言葉だけでは到底説明のつかない、絶対的な格。
あれこそが、おそらく覇王色の覇気。
もしも、あの理不尽極まりない超絶的な力を己の内に引き出し制御することが叶うなら、己の戦力は一段どころか、二段も三段も跳ね上がるに違いない。
これから先ロジャーやガープ、あるいは自らの船長であるロックスのような化け物じみた超越者たちと本気で渡り合い何としても生き残るためには、文字通り喉から手が出るほど欲しい力だった。
だが同時に、ガセルは冷徹なまでの現実も理解している。
覇王色の覇気。
それは他の二種の覇気とは違いどれほど過酷な修行を積もうとも、どれほど死線を潜り抜けようとも、決して後天的に獲得できるものではない。
ほんのひと握りの選ばれた強者しか持たないとされる、生まれ持った純然たる資質にのみ依るもの。
天に選ばれた人間だけが冠することを許される、王の資格。
問題は己の泥臭い魂の中に、そんな大層な資質が眠っているのかどうか。
そして何より、それを確かめるための具体的な術を今のガセルは持ち合わせていなかった。
「何よ、またそんな小難しい顔をして。眉間の皺が元に戻らなくなるわよ?」
不意に、すぐ横から調子の外れた軽快な声がかけられガセルの深い思考の糸がぷつりと切れた。
振り返れば、いつの間にか気配もなくグロリオーサがすぐ隣に立っていた。
海風に長い髪をなびかせ、怪訝そうに彼女はこちらを覗き込んでいる。
「……いや、覇王色ってやつを、どうにかして使えねぇかなって考えてた」
ガセルは隠す気もなく、むしろ素直に己の悩みを口にした。
グロリオーサは一瞬だけ丸い目をさらに丸くしてきょとんとした後、呆れたように小さく肩をすくめた。
「覇王色? ちょっとあんた、あれは武装色や見聞色みたいに鍛えればどうにかなるものじゃないわよ。この海中を探したって、使えるやつなんてほんのひと握りよ?……当然、私だって使えないわ」
「⋯⋯そうだよな」
あっさりと冷厳な現実を突きつけられ、ガセルは小さく溜息をついた。
やはりそんなに甘い話ではない。
「そうそう。あれは選ばれた人間にしか発現しない力よ。あんたみたいな死にたくないって言ってるような男じゃ……」
そこまで言いかけて、グロリオーサは一度言葉を切った。
顎に手を当て、じっとガセルの、そのどこか底知れない瞳を見つめる。
「……まあ、あんたのその異常な成長スピードを見てると、そのうち使えてもおかしくわないわね」
「選ばれた人間、か……」
ガセルは彼女の言葉を口の中で苦く反芻した。
だが、どうしても自分自身にはしっくりとは来なかった。
王だの、支配者だの、世界の頂点だのと言われても、己にそんな誇り高いものが宿っているとは到底思えなかった。
誰かの頂点に君臨したいわけでもなければ、国や海を支配したいわけでもない。
ただこの狂った世界で理不尽に殺されず天寿を全うするまで生き残るために、必要に駆られて力を求めてきただけに過ぎないのだから。
それでもあの絶大な力の存在を知ってしまった以上、ただ資質がないからと諦めるにはあまりにも惜しかった。
だから、ガセルは考える。
資質があるかないかは置いておき、そもそもあの力はどうすれば発現の引き金を引くことができるのか。
思考をさらに深く巡らせる中で、ガセルが頼りにしたのはこの世界で得た経験ではなく、遥か彼方に霞む前世の記憶だった。
この世界を、かつて物語として客観的に知っていた頃の断片的な知識の数々。
原作の主人公が、まだその覇王色の力を自覚も制御もできないまま、強引に発現させていた幾つかの場面。
その時、一体何が引き金になって眠れる力が表に溢れ出ていたか。
記憶の底から強く浮かび上がってきた共通の要素、それは──激しい怒り。
理不尽に対する激昂、大切なものを奪われかけた際の精神の爆発。
理屈や技術ではなく、本能の最奥から魂の咆哮と共に溢れ出た原初的な感情の昂り。
(……怒り、か。要するに、感情を極限まで爆発させればいいわけだな?)
その結論に辿り着いた瞬間、ガセルは大真面目な顔のまま、ぐっと顔面に力を込めた。
「ムッ……!!」
眉間をこれでもかと寄せ、鼻に皺を寄せた、おそろしく不自然かつ強烈なしかめ面。
己の内の怒りを強引に捏造しようとする、ガセルなりの必死の試み。
当然、隣でその一部始終を凝視していたグロリオーサは、完璧にきょとんとした表情で行き着いた。
「???……ちょっと、いきなり何よその顔。変なものでも食べたの?」
「いや……怒ったら使えねぇかなと思って。今、本気で怒る努力をしてる」
至極真面目なトーンで、ガセルは答える。
だが。
「……ぷっ、あはははは!」
次の瞬間、グロリオーサは耐えかねたように盛大に吹き出した。
「はははっ! 何よそれ! あんた馬鹿じゃないの!? そんな顔芸みたいなもので覇王色が使えるなら、新世界の海賊はみんな覇王よ!」
彼女は片手で腹を抱え、涙目になりながら爆笑し始めた。
完全にツボに入ってしまったらしく、端正な顔をくしゃくしゃにして笑い転げている。
「……おい、笑い過ぎだろ。こっちは真剣なんだよ」
不機嫌そうに眉をひそめるガセルを余所に、グロリオーサの笑いは一向に止まる気配がない。
「ごめん、ごめんってば……っ。ねぇ、怒った? 今、覇王色出そう? ほら、頑張って!……ぷっ、くくくっ!」
「お前、完全に馬鹿にしてるだろ!」
さすがにガセルが少し声を荒げて一歩踏み出すと。
「きゃーっ! 怒った怒った! 覇王色が来ちゃうわ!」
鈴を転がすような楽しげな悲鳴を上げながら、グロリオーサはくるりと背を向け、甲板の上を軽快に走り去っていった。
ひらひらと手を振り快活な笑い声だけを空間に残して、彼女の姿はあっという間に遠ざかっていく。
一人取り残されたガセルは、しばらくその小さくなっていく背中を忌々しげに睨みつけていたが、やがて呆れたようにふう、と小さく息を吐き出した。
「……チッ、次会ったら一発殴る」
ぽつりと呟いたものの、その声音には本気の怒気など一割も乗っていなかった。
さっきまで頭を重く支配していたはずの、覇王色に対する暗い焦燥感や思考も、いつの間にか彼女の笑い声と共にどこかへ綺麗に吹き飛んでしまっていた。
だが、依然として覇王色へのアプローチは見えないまま。
(……とはいえ、マジでどうすりゃいいんだ)
腕を組み直したとき、ガセルの脳裏にふと、ある1人の頼りがいのある男の顔が浮かんだ。
思い返せば武装色の硬化に悩んでいた時も見聞色の覚醒の時もいつも的確な、そして不器用な助言をくれたのはあの男だった。
この狂った船において、唯一と言っていいほど話が通じる漢。
気がつけば、ガセルの足は自然と彼がいつも陣取っている特大の酒樽の立ち並ぶ場所へと向いていた。
♢
「……覇王色だと?」
地鳴りのような、低く重厚な声が返ってきた。
視線の先、山のように巨大な体躯を木樽に預けたニューゲートは、手にした巨大な杯の酒を一口喉に流し込んだまま鋭い眼差しでガセルを見下ろした。
「ああ」
ガセルは短く、真っ直ぐに返す。
「俺にその資質が持ってるのか、持ってねぇのか。お前の目から見てどう思うか、それだけを知りてぇ」
言い終えると、激しい波音の合間に少しだけ間が空いた。
ニューゲートは特に驚き混じりの声を上げるでもなく、ただ呆れたように鼻から太い息を吐き出す。
「お前って奴は、次から次へと⋯⋯。また突拍子もねぇことを考えやがるな」
「そうか? ガープやロジャーに勝つには、あれが必要不可欠だろ」
「そりゃそうだがよ」
ニューゲートはどこか愉快そうに口元を歪めながらも、その鋭い金色の瞳を一度細め、ガセルの全身を確かめるように見つめた。
「覇王色、な……」
ニューゲートは杯の中の琥珀色の酒をゆっくりと揺らしながら、視線を遠い空へと流した。
「あれがあるかないかなんざ、医者が診断するみてぇに明確に分かる方法はねぇ。持って生まれた資質の問題だからな。だが──」
そこで一度言葉を区切り、大杯をドスンと樽の上に置くと彼はガセルの顔をもう一度正面から見据えた。
「それを持ってる奴ってのは、見りゃ直感で分かるもんだ」
「なら、お前の目にはどう映る?」
「ああ。持ってるやつってのはな、最初から何かが違う。ロックスも、ロジャーも、ガープもそうだ。奴らは他人の下に就く器じゃねぇ。おのれの我が世界を塗り替える確信に満ちてやがる」
そう言いながら、ニューゲートがガセルを凝視する時間が少しだけ長く、深くなる。
ガセルの放つ鋭い空気と、その奥にある泥臭い生存本能。
「……お前は」
言いかけて、ニューゲートはわずかに太い眉を動かした。
「……微妙なとこだな」
「なんだそりゃ。あるのかないのか、はっきりしてくれ」
「才能は間違いなくある。いざとなれば格上相手にも呑まれねぇ強靭な芯を持ってる。……だが、じゃあそれが人の上に立つ王の資質かって言われりゃあ、今のところ俺にはそうは思えねぇな」
淡々とした、だが確信に満ちた言い方だった。
頭ごなしの否定でもなければ、盲目的な肯定でもない。
そのどちらの境界線上にも属さない、奇妙な中間地点にガセルがいるという見立て。
「⋯⋯随分な言いようだな。少しは期待させてくれてもいいだろ」
「事実を言ったまでだ。お前には世界を従えるという欲が欠けてる」
そう言い切ってからニューゲートは一瞬だけガセルから視線を外し、水平線の彼方を見つめた。
「……まあ、だが。王の形ってのは、何も支配だけとは限らねぇかもな……」
「ん? なんだよ、続きがあるなら言えよ」
ガセルが問い返した瞬間、ニューゲートの言葉はそこで綺麗に止まった。
「いや、何でもねぇ。独り言だ」
それ以上は頑として続けようとしない。
わざと決定的な言葉を喉の奥に飲み込んだような、不自然な沈黙が残るだけだった。
代わりにニューゲートは、ガセルの背後を見やり悪戯っぽく話題を切り替える。
「それよりだ」
「なんだ」
「さっき、あっちの甲板の奴らから妙な噂を聞いたんだがよ」
ニューゲートは軽く頑強な顎を動かし、視線を船尾の広場の方へと向けた。
「覇王色ってのは……不自然なしかめ面をして本気で怒れば、内側から引き出されることがあるらしいじゃねぇか」
「……どこ情報だそれ」
嫌な予感と共にガセルが思わず低い声で返すと、ニューゲートはニヤニヤと笑ったまま、顎でさらに具体的な方向を示した。
視線を向けると、少し離れたロープ際でグロリオーサが他の海賊たちを相手に、身振り手振りを交えて楽しそうに何かを話している姿が目に入った。
その顔は完全にさっきガセルが見せた、ムッという顔を真似している。
「……あいつ、速攻で触れ回りやがったな」
その瞬間、ガセルの脳内で全ての線が繋がった。
恥ずかしさと怒りが一気に頂点に達する。
「おい、グロリオーサァ!!! 待ちやがれ!」
ガセルは甲板の木板を凄まじい勢いで蹴って駆け出した。
背後でグロリオーサの笑い声が一瞬だけ硬直して止まり、次の瞬間には、彼女の甲高い悲鳴が響き渡る。
「ちょ、ちょっと待ってガセル! 冗談だってば! 悪気はなかったのよ!」
「待つわけねぇだろ! その口、今すぐ焼き切ってやる!」
全速力で逃げ回るグロリオーサと、それを蒼い火花を散らしながら追いかけるガセル。
その尋常ならざるやり取りを見て、暇を持て余していた周囲の船員たちが、面白がって勝手に大騒ぎを始めだした。
「おいおい見ろよ! あの冷静なガセルが本気でキレ散らかしてるぞ!」
「珍しいもん見たな。 怒りで我を忘れてやがる。」
「おい、ついに来るか!? 怒りの覇王色が!」
「来るわけねぇだろ、黙ってろ!!」
周囲に怒鳴り散らしながらもガセルの足はすでに半分以上、彼女とのいつもの追いかけっこを楽しんでしまっていた。
本船の甲板の空気が一気に笑いと野次でざわつく中、少し離れた定位置でニューゲートは変わらず特大の杯を傾け、豪快に酒を煽っていた。
「グララララ……。騒がしいやつだ」
血生臭いこの船において、滅多にない無邪気な喧騒を眺めながら、彼は喉の奥で優しく深く笑い続けるのだった。
♢
グロリオーサを取り逃がし、息を整えながら再び中央甲板を歩いていたところで、ガセルは前方にひと際騒がしい人だかりができているのを目にした。
シャーロット・リンリンの、まだ幼い子供たちの一団だ。
年齢も体格もばらばらで、よちよち歩きの幼児から、ある程度物心のつき始めた少年までが入り乱れているが、彼らに共通している特性はただ一つ。
母親譲りの、底なしの遠慮のなさと奔放さだった。
「あ! ガセル兄ぃー!!」
最前線にいた一人がガセルの姿を認めて叫んだ時点で、彼は盛大な嫌な予感を覚えていた。
彼が足を止め身構えるよりも早く、数人の小さな影が弾丸のような勢いでまとめて突っ込んでくる。
「おい、ちょっと待て、お前ら──」
言い終わる前に、容赦なく左右の足にしがみつかれ、それを足場にするようにしてさらに数人がガセルの体をよじ登ってきた。
あっという間に背中にずっしりとした重みが乗り、両肩の衣服を小さな手にガシッと掴まれる。
「つーかまえた!」
「ガセル兄ぃだ! 動いちゃダメ!」
現在四歳前後であるオペラ、カウンター、カデンツァ、カバレッタ、ガラの五つ子たちだ。
子供とはいえ、ビッグ・マムの血を引く怪力児たち。
力加減も遠慮も知るはずがなく、ガセルの身体をアスレチックの遊具か何かのように扱っている。
「……おい、暴れるな。落ちるだろうが」
ガセルは口ではぶっきらぼうに突き放しながらも、彼らを強引に振り払うような真似は決してしなかった。
子供たちが怪我をしないよう、絶妙なバランスで体勢を保ってその場にどっしりと佇む。
「なぁなぁ! あれやってよ、ガセル兄ぃ!」
「そう、あれ! 手がピカピカピカって光るカッコいいやつ!」
さらに少し上の年齢の子供たちまでが周囲を取り囲み、目をキラキラと輝かせて好き勝手な要求を喚き散らし始める。
「やんねぇよ。あれは戦闘用だ」
ガセルは即座に無表情で却下するが、当然リンリンの子供たちがその程度で引き下がるはずがない。
「えー!!」
「ケチ! ガセル兄ぃのケチ!」
「うるせぇな……お前ら、頭の上でドタバタ動き回るな」
ガセルは肩の上で調子に乗って跳ね回る幼児の胴体を、大きな片手でひょいと軽く押さえる。
雑に見えて万が一にも甲板に転落させないための、細心の注意が払われた優しいサポートだった。
「こら、みんな! 順番にしなさいっていつも言ってるでしょ!」
少し離れた給仕用の樽の近くから毅然とした、だがどこかマセた声が飛んできた。
現在、年長でありまとめ役として健気に立ち回っている、シャーロット・コンポートだ。
彼女はまだ赤ん坊に近い妹を片腕にしっかりと抱いたまま、呆れ果てた顔でこちらに歩み寄ってくる。
「ガセル兄ぃ、あんまりこの子たちに無茶な遊びをさせないで」
「いや、無茶苦茶やってんのはこいつらだろ」
「それを最初から止めないガセル兄ぃも甘やかしてるでしょ?」
「……チッ、面倒くせぇな」
「ペロリン♪ 完全にチビどもの玩具だねぇ、ガセル兄ぃ」
横からくすくすと意地の悪い、だが楽しげな笑い声が滑り込んできた。
長い舌をペロリと出しながら、まだ少年の面影を残すペロスペローが、大きなキャンディを舐めながらその様子を愉快そうに眺めていた。
「ペロスペロー、お前も見てるなら少しはこいつらを引き取れ」
「嫌だねぇ。僕のキャンディが奪われちゃうじゃないか」
短く返すガセルだったがその時、子供たちの群れの少し後ろに異質な気配を感じて視線を向けた。
先程からの騒ぎには一切加わらず、腕を組んで一定の距離を保ったまま、じっとこちらを睨み据えている三人の少年たちがいた。
現在六歳の、カタクリ、ダイフク、オーブンの三つ子だ。
彼らはガセルと幼児たちの騒がしいやり取りを一通り静かに観察し終えた後、意を決したように同時に一歩前へと踏み出してきた。
その瞳には、子供らしからぬ強烈な闘志が宿っている。
「ガセル兄ぃ」
まだ幼いながらも、カタクリが低く芯のある声で呼びかける。
鋭い視線がガセルの目を真っ直ぐに射抜いた。
「今日こそ、あんたに勝つ」
その言葉に呼応するように、今度はダイフクがふんぞり返るようにして前に出る。
「オレもだ! 今日は絶対に逃げんなよ、ガセル兄ぃ!」
さらにオーブンも、拳を固く握り締めながら荒々しく一歩を踏み込んできた。
「三人同時にやってやる。文句ねぇだろ、胸を貸しな!」
ガセルの肩や足に、まだオペラたちが無邪気にぶら下がってキャッキャと遊んでいることなど気にも留めず、三人の少年は完全に戦士の顔をして距離を詰めてくる。
ガセルがこの船で、彼らにどれほど真摯に武を背中で見せてきたかが、その構えだけでよく分かった。
「ちょ、おい……待て、お前らな──」
ガセルが言い切るより早く、三人は同時に動いた。
ダイフクが正面から、小さな拳に体重を乗せてストレートを放つ。
そのコンマ数秒の間を置かず、オーブンが横側から鋭いローキックを叩き込みにくる。
そしてカタクリは、一歩遅れてガセルが避けるであろう未来の退路を正確に塞ぐ位置へと回り込んでいた。
戦術的な連携など、まだ幼い彼らには初期段階の代物だが、それでもお互いの動きを補い合う野生の感性と勢いだけは本物だった。
「……お前ら、いい加減にしろよ」
ガセルは避ける素振りすら見せず、あえてその場に留まったまま彼らの攻撃を正面から肉体で受け止めた。
ドン! とダイフクの拳がガセルの腹部に当たる。
続けてオーブンの蹴りが太ももに入るが、ガセルの鋼のように鍛え上げられた体躯は、微塵も揺らぐことはない。
「くそっ、やっぱり全然効いてねぇ!」
「まだだ、もう一回!!」
悔しさに顔を歪めながらも、ダイフクとオーブンはさらに距離を詰めて懸命に拳を振るう。
カタクリは低く鋭く踏み込み、ガセルの死角となる下顎を狙って鋭いアッパーカットを突き上げてきた。
「……はぁ、やれやれ」
ガセルは小さく息を吐きながら、最低限の動きで作動した。
そのまましがみつく幼児たちを落とさないよう上半身の軸を保ったまま、長い腕をすっと伸ばしてダイフクの頭頂部を軽く手のひらで押さえる。
ダイフクは勢いよく前に出ようとするが、頭を固定されて短い手足が空を掻くだけになった。
「うおっ!? 動けねぇ!?」
「邪魔だダイフク、どけ! オレが殴る!」
オーブンが横から無理やり割り込もうとするが、ガセルはその突進を鍛え抜かれた頑強な肩口で軽く受け止めるだけで、無効化してピタリと止めてみせた。
「やめろお前ら。怪我したくなければそこまでにしとけ」
短く諭す。
だが、三つ子の闘志はこれっぽっちも衰えない。
「まだだ!」
「オレたちの勝負は、まだ終わってねぇ!」
ダイフクが吠え、オーブンが迫る。
好き放題に、無鉄砲にぶつかってくる少年たち。
「……チッ、うるせぇな。少し頭を冷やせ」
今度は、ガセルがほんの少しだけ自ら身体を動かした。
半歩だけ、流れるように横へずれる。
それだけで、ダイフクとオーブンの渾身の拳は虚しく空を切り、互いの勢いでバランスを崩す。
ガセルはその隙を見逃さず、ダイフクの足元に無造作に己の足を引っ掛けた。
「うわっとっと!?」
ダイフクが甲板の上を派手にとっ散らかって転がる。
オーブンの鋭い追撃の蹴りも、ガセルは上半身をわずかに傾けただけで完全にいなし、すれ違いざまに背中を軽く叩いた。
「ぐっ……!?」
前進する勢いを完全に殺され、オーブンはその場に前のめりで沈黙する。
そして最後に残ったカタクリ。
彼が一歩さらに奥へと踏み込んできた瞬間、ガセルは彼の額に向けて人差し指一本を優しく、だが的確に突き当てた。
トン、という軽い衝撃。
それだけで、カタクリの全ての踏み込みが完璧に相殺され、彼はそれ以上進めなくなった。
「……くそ、また、オレの負けか」
額を押さえながら、カタクリが悔しさを押し殺すように小さく呟く。
続けて起き上がってきたダイフクとオーブンも、顔を真っ赤にして甲板を叩いた。
「チキショウ……!」
「次は、次こそは絶対に一発入れてやるからな!」
「⋯⋯もうやんねぇよ」
ガセルはそれだけを冷淡に言い捨て、再び歩き出そうとする。
だが、その背中には相変わらずオペラたちが「わーい! ガセル兄ぃの勝ちだー!」と歓声を上げながら、おんぶの体勢のまま固くしがみついて離れようとしなかった。
「おい、待て! もう一回勝負だ!」
「次こそオレがガセル兄ぃをぶっ飛ばす!」
後ろからダイフクたちの威勢の良い声が飛んでくるが、ガセルは二度と振り返ることはなかった。
「⋯⋯やらねぇって言ってんだろ。⋯⋯ガキの相手は疲れる」
適当な文句で返す。
それでも、背後からはペタペタと彼を追う小さな足音が幾つも付いてきていた。
その時だった。
「おいおい、お前ら。またガセルを捕まえて遊んでやがるのか?」
どこか気の抜けた、だが妙に通る独特の声が、賑やかな甲板の奥から飛んできた。
ガセルが視線を向けると、そこには立派な口髭を蓄え白いコック帽を被った小柄な男──シュトロイゼンが、両腕を組んで不敵な笑みを浮かべて立っていた。
彼はガセルが子供たちに完全に蹂躙されている奇妙な惨状をざっと見渡し、可笑しそうに肩を揺らす。
「⋯⋯シュトロイゼンか」
ガセルが短く応じると、シュトロイセンは歩み寄りながら、ぽつりと苦笑混じりの言葉を漏らした。
「悪ぃな、ガセル。……こいつら、母親の目が離れるとすぐに調子に乗って好き勝手暴れやがるからな」
彼はガセルの肩や背中、足元に未だ寄生虫のようにしがみついているチビどもを顎で示しながら続ける。
「お前にばっかり、余計な面倒を見させちまってるな」
「別に、こいつらが勝手に俺に絡んでくるだけだ。面倒を見てるつもりはねぇよ」
ガセルはいつもの不愛想な態度を崩さずに返す。
だが、シュトロイゼンは全てを見抜いているかのように、あっさりと引き下がる様子はなかった。
「それでも、だ。この無法の船じゃ、誰かがこいつらの止める役になってやらねぇと、文字通り収拾がつかなくなるからな。お前がいてくれて、俺も助かっているのさ」
シュトロイゼンはそう言いながら、視線をガセルの身体にくっついている子供たちの方へと鋭く流した。
「おい、そこのチビども!」
彼が声を一段と張り上げると、ガセルの背中で暴れていた五つ子たちが一斉にピクッと顔を上げた。
「なんだよ、シュトロイゼン!」
「今、ガセル兄ぃと遊んでて良いところなんだから邪魔しないでよ!」
子供たちが不満げに口々に抗議の声を上げる。
「そうか? なら、お前たちの分の特製ふんわりケーキは、全部譲っちまっていいんだな? 厨房に山ほど出来上がってるんだがなぁ」
その一言が甲板に響き渡った瞬間、空間の空気が劇的に引っくり返った。
「えっ……!?」
「ケーキ!? 」
子供たちの目の輝きと反応の速度が、一斉に最大風速で跳ね上がる。
「早く来ねぇと、全部食い尽くされて影も形も無くなるぞ?」
「うわあああ大変だぁ!急げ──!!!」
次の瞬間には、さっきまでガセルの足や肩に絶対的な力でしがみついていた幼児たちが、手のひらを返したように一斉にその身体から離脱していった。
「待てダイフク! オレが一番乗りだ!」
「ずるいぞオーブン!」
無数の小さな足音がドタドタと重なり合い、凄まじい勢いで食堂のある船内へと駆けていく。
さっきまでガセルの全身を苛んでいた重みが、まるで嘘みたいに一瞬で綺麗に消え去った。
「……ふぅ、やっと解放されたか。助かった」
ガセルは凝り固まった肩を大きく回し、骨を鳴らしながら深い溜息を吐き出した。
「気にするな、こっちは本職だからな」
シュトロイゼンは満足げに軽く笑う。
「リンリンのガキどもはな、とにかく腹さえ目一杯満たしときゃあ、一時的には見違えるほど大人しくなる生き物さ」
「その分、エネルギーが補給されて、起きた後に倍の勢いで騒ぎ散らすけどな」
「ククク、違いねぇ。全くだ」
二人は短い言葉を交わしながら、自然と子供たちが消えていった船内への通路へ向かってゆっくりと歩みを進める。
だが数歩進んだところで、シュトロイゼンはふと足を緩め、その場に立ち止まった。
「……ま、それはそれとして、だ」
彼は少しだけ間を置いて、ガセルの背中を見つめ。
「あいつらの相手をしてくれて……助かったぜ」
それだけを告げると、シュトロイゼンは今度こそ振り返らずに、厨房へと続く通路の奥へと去っていった。
「おい! ちゃんと順番に並べ! 押すんじゃねぇ、リンリンに言いつけるぞ!」
すぐ向こうの食堂の入り口から再び彼の怒鳴り声と、子供たちの嬉々とした大騒ぎの声が響き始めてくる。
「……」
ガセルは一瞬だけ足を止め、そのシュトロイゼンの消えていった背中を目で追った。
「……律儀な奴だ」
ぽつりと誰に聞かせるでもなくぼそりと呟いて、彼は力の抜けた両腕をだらりと下ろした。
さっきまでの凄まじい喧騒が引いたはずの甲板なのに、静けさというものはこの船の上では長くは続かない。
すぐにまた別の場所から、海賊たちの卑しい笑い声や酒樽を叩く音が響いてくる。
結局、この船から騒ぎが消えることはなかった。