ロックス海賊団雑用係の生存記録   作:だれか、

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14話

 

 いくつかの海を越え、過酷な日を跨いだ航海の末。

 ロックス海賊団の巨大な本船が目的地の港へと差し掛かる頃には、新世界の空はゆっくりと濃密な夕暮れの茜色に染まりつつあった。

 

 目の前に広がるのはおよそ国家という概念から最も遠くかけ離れた、混沌そのものの光景だ。

 崖に沿って無秩序に建て増しされた歪な建物群。

 港の随所に墓標のように突き刺さる、統一感のない略奪船の残骸。

 舗装もされていない道の一角には、そこら中に転がる空の酒瓶。

 そして鼓膜を揺らすのは、下卑た笑い声と荒々しい怒号の数々。

 

 海賊島──ハチノス。

 世界中の悪党、無法者、そして怪物たちが集う名実ともに海賊たちの巣窟である。

 

「ヴォハハハ!着いたぞ野郎共!」

 

 艦橋から響き渡ったロックスの豪快な声が、島に帰還した解放感を告げる。

 それを合図に、船内から一斉に船員たちが蟻の巣をつついたように動き出した。

 略奪してきた重い荷を強引に運び出す者、渇いた喉に酒を求めて一目散にタラップを降りる者、些細な肩の衝突からすでに血生臭い喧嘩を始める者。

 

 ここには法律も規律もない。

 秩序なんてものは、最初から存在しないのだ。

 

 ロックスはまるで最初から己の行き先が決まっているかのように、一切の迷いのない堂々たる足取りで歩き出した。

 そんなロックスの背を追いながら、ガセルは周囲の雑多な風景を一瞥する。

 喧騒に満ちた埃っぽい通りを抜け男たちが辿り着いたのは、ひときわ人の出入りが多い一軒のバーだった。

 入り口に掲げられた看板には、世間体への遠慮など欠片も存在しない大胆な文字でこう書かれている。

 

 ──『シャッキー’s ぼったくりBAR』。

 

「シャッキー!来たぜ!」

 

 ロックスが、乱暴に木製の扉を押し開けながら店内に声を張る。

 

「あら、ロックスじゃない。いらっしゃい」

 

 薄暗いカウンターの奥から煙草の煙と共に現れたのは、一人の妙齢の女だった。

 落ち着いたどこか艶のある声音とは裏腹に、その佇まいが放つ独特の存在感は場の空気を一瞬で自分の方へと引き寄せる。

 ゆるやかに波打つ短めの黒髪はしなやかに背中に流れ、厚みのある魅力的な唇がわずかに妖艶な笑みを形作っている。

 無駄のない引き締まった身体のラインは衣服越しでも隠しきれず、他者の視線を引くというより磁石のように自然とそこに吸い寄せられるような不思議な美しさを持っていた。

 

「お前がハチノスにバーを開いたって聞いてな。飛んできてやったぜ」

 

「ふふ、ありがとう」

 

 男の荒々しい挨拶を大人の余裕で軽く笑って受け流すその女こそが、どうやらシャッキーと呼ばれている人物らしかった。

 

「皆で来てくれたのね。さあ、入って」

 

 彼女に促されるまま、ガセルも他の幹部たちに続いて店内へと足を踏み入れる。

 中は外の通りと同じく騒がしかったが、彼女という絶対的な主がいるせいかどこか目に見えない統制の取れた居場所のような空気が漂っていた。

 

 各々が勝手に古びた席につき、好き勝手に大声で注文を飛ばし木樽の酒が次々と運ばれていく。

 ガセルも適当にアルコール度数の高そうな酒を頼み、そのまま渇いた喉に一気に流し込んだ。

 じわりと胃の奥へ熱が落ちていくのとほぼ同時に、すぐ横から気配と共に声がかかる。

 

「貴方が雷禍?」

 

 不意に呼びかけられガセルが振り向けば、いつの間にか店主の女がすぐ傍に立っていた。

 カウンター越しに見るよりも、さらにその美貌の威圧感が強い。

 

「ん?ああ、そうだ」

 

 ガセルは特に気負うこともなく、短く返す。

 

「思ったより若いのね。私はシャクヤクよ。よろしくね?」

 

「シャッキーじゃないのか?」

 

「それは通り名みたいなものね」

 

「へぇ」

 

 それ以上は特に広げる興味もないとでも言うように、ガセルは再び手元の酒杯をあおる。

 

「あら、随分あっさりしてるのね」

 

「いや……別に──」

 

 ガセルが言葉を言いかけた、その瞬間。

 真横から甲高い、嫉妬の混じった声が猛烈な勢いで割り込んできた。

 

「あー!ガセルがシャッキーを口説いてるわ!」

 

「ブッ……!」

 

 思わず口に含んだばかりの酒を、豪快に吹き出しそうになるのを必死に堪える。

 

「口説いてねぇよ!」

 

 顔をしかめて叫ぶように否定するガセルをよそに、グロリオーサは子供のように頬をこれでもかと膨らませた。

 

「あんたもシャッキーに誑かされるのね……!」

 

「だから誑かされてねぇって」

 

「男なんて皆そうよ!」

 

「……うぜぇ」

 

「うざいですって!?」

 

 一気に沸点に達してヒートアップするグロリオーサから、ガセルは露骨に視線を逸らし無視して酒を飲む。

 

「グロリオーサ、落ち着きなさい。少し話してただけよ」

 

 シャクヤクが、手慣れた様子でやんわりと少女の興奮を制する。

 

「ほんとにぃー?」

 

「ええ」

 

「そんなこと言って……ガセルもシャッキーのこと、美人だって思ってるんだわ」

 

「まぁ、とんでもねぇ美人だな」

 

 ガセルは隠す気もなく、あっさりとその事実を肯定した。

 

「あら、ありがとう」

 

 シャクヤクが嬉しそうに、楽しげに微笑む。

 

「ほら!やっぱり!」

 

 肯定されたことで、さらにピーピーと騒ぎ立てるグロリオーサ。

 

「前は私のこと美人とか言って口説いてきたくせに、今度はシャッキーってわけ!?やっぱスケコマシね!」

 

「ブーッ!」

 

 今度は完全に堪えきれず、さっきより盛大に酒を吹き出した。

 

「ちょっと待て!口説いてねぇよ!」

 

「嘘ばっかり!私みたいな美人見たことないって言って、熱烈に──」

 

「本音を言っただけだっての!」

 

「……ッ、ほら!やっぱり口説いてるじゃない!」

 

「どこがだ!」

 

 売り言葉に買い言葉、完全にガキの言い合いのレベルで泥仕合を始める二人。

 その微笑ましくも騒がしい様子を少し離れたところから静かに眺めていたシャクヤクが、わずかに意外そうな風に目を見開いた。

 

「……びっくりね」

 

 ポツリと思わず口からこぼれたような、どこか感慨深い声だった。

 

「あんた、いつの間に乗り換えたの?」

 

「乗り換えてないわよ!」

 

 間髪入れずに否定するグロリオーサの絶叫だったが、それはすぐに店内の他の男たちのバカ騒ぎと喧歓に紛れて消えていった。

 ひとしきり大声を上げて騒いだあと、ようやく体力が尽きたのかグロリオーサがふうと大きく息を吐いて肩を落とす。

 そのまま今度は話題の矛先を変えるように、真面目な顔になって口を開いた。

 

「そういうあんたはどうなのよ。なんで急にバーなんて開いたの?九蛇を抜けてまで」

 

 問いかける真剣な視線の先にいるのは、変わらぬ笑みを浮かべるシャクヤク。

 だが返ってきたのは、驚くほど肩の力の抜けた軽い答えだった。

 

「さあ、なんでかしらね」

 

 あっさりとした言い方で、彼女は頑なに核心には触れようとしない。

 

「まさか貴女も?」

 

 グロリオーサがアマゾン・リリーの先々代としての直感からか、じっと探るようにその横顔を見つめる。

 

「でも……シャッキーが恋煩いなんて、想像できないし……」

 

「……ふふ」

 

 シャクヤクは、それ以上は何も語らなかった。

 ただ意味ありげに紫煙をくゆらせ、妖しく笑うだけで答えのすべてを上手く濁す。

 それきりその話題は自然と流れ、店の中は再び底抜けの騒がしさを増していった。

 高笑いと怒号、激しくぶつかるジョッキの音。

 誰かが脈絡なく歌い出し、誰かがくだらない理由で殴り合い、また別の誰かがそれを酒の肴にして囃し立てる。

 ハチノスという島が持つ雑多で凶暴で、どうしようもない夜が脈打つように続いていた。

 

 しばらくして。

 ガセルは窮屈な席を立ち、騒がしい店の外へとそっと出る。

 肌にまとわりつくような店内の熱気と噎せ返るような安酒の匂いから一時的に離れ、海からの冷えた夜気を肺いっぱいに送り込むためだった。

 少し回り始めた酔いを覚ますように、あてもなく薄暗い足元を進める。

 

 ♢

 

 中央の騒ぎから少し離れた通りに出ると、さっきまでの喧騒が急速に遠のき周囲の空気が一段と静まる。

 だがその不自然な静けさの中に低く押し殺した男たちの声と、重い何かを引きずるような微かな摩擦音だけが奇妙に浮き上がっていた。

 

 ガセルはピタリと足を止める。

 気配を消したまま視線だけをそちらへ向けると、細く入り組んだ路地の奥。

 月明かりすら届かない深い影の中で、数人の粗野な男たちが何事かを警戒しながら大きな荷物を運んでいた。

 彼らが過保護にそれでいて乱暴に肩に担いでいるのは、薄汚れた粗末な麻袋だ。

 内部で重心が不安定に揺れ妙に重そうであり、扱いも酷く荒い。

 

「急げ。目立つな」

 

 苛立った、焦りを含んだ低い声が闇に飛ぶ。

 ただの物資の荷運びにしては、彼らの挙動はやけに神経質で背後を何度も振り返っている。

 ガセルはわずかに眉を寄せ、その不審な様子を観察した。

 

 そのとき。

 運搬の振動によって、麻袋の口元がわずかにずれた。

 そこからだらりと覗いたのは、青白い人間の腕だった。

 力なく重力に従って垂れ下がり、ぴくりとも動かない。

 時間にして一瞬だけの光景。

 だが戦場を生きるガセルの目には、それで十分すぎるほどの情報だった。

 

(……人か)

 

 ガセルは小さく息を吐く。

 

「……くだらねぇな」

 

 低く、己の嫌悪感を吐き出すように呟き、そのまま躊躇なく一歩を踏み出した。

 

「おい」

 

 静かな夜の路地に冷徹な声を投げつけると、男たちの動きが完全に止まった。

 彼らは一斉に、弾かれたようにこちらを振り向く。

 

「何してんだ」

 

 短く、威圧を込めて問う。

 

「……お前には関係ねぇ」

 

 驚きからすぐに持ち直した一人が、ガセルを鋭く睨み返してきた。

 

「見なかったことにしとけ」

 

 いかにもハチノスの悪党らしい、吐き捨てるような高圧的な言い方。

 だが、ガセルは動かない。

 視線だけを冷酷に、男たちの足元にある麻袋へと落とす。

 その一切怯まない堂々とした態度に、男の眉が不快そうにわずかに歪んだ。

 

「……聞こえなかったのか?」

 

 声に明確な苛立ちが滲み始める。

 

「さっさと行け」

 

 面倒事を避けるように、顎で路地の外を指し示す。

 それでも、ガセルは微塵も引かない。

 むしろプレッシャーを与えるように、一歩だけ静かに距離を詰める。

 男たちの表情がわずかに硬くなり、彼らの手が自然と腰の武器へと伸びる。

 空気が、一触即発の緊迫感で張り詰めた。

 

「誰に喧嘩売る行為か分かってんのか」

 

 男はガセルを威嚇するように、低く不気味に言葉を続ける。

 だが、ガセルはただ眉をひそめるだけだった。

 

「あ?誰だよ」

 

 心底どうでもよさそうに、興味なさげに返す。

 

「それは──」

 

 男がその名前を言いかけた、まさにその瞬間。

 

「……おい、話しすぎだ。それ以上は俺達もヤバいぞ」

 

 横からもう一人の慌てた怯えを含んだ声が、割り込むように男の袖を引いた。

 一瞬の、奇妙な沈黙の間。

 

「……チッ」

 

 忌々しそうな舌打ちが暗がりに落ちた。

 

「消されたくなければ、これ以上関わるな。いいな?」

 

 最後の警告とばかりに、強い圧をかけるように言い放つ。

 ガセルは、それに対して何も言わない。

 ただ、じっと冷たい目で相手を見据えている。

 動かない。口も開かない。

 その沈黙を、男はガセルが恐怖で手を引いたものと勝手に決めつけた。

 

「……ふん。それでいい」

 

 男は満足げに鼻で笑う。

 

「賢い選択をしたな」

 

 己の背後の権力の大きさを過信し、勝手に納得したように口元を醜く歪める。

 

 次の瞬間だった。

 

「がぁッ!」

 

 肉体と壁が激突する鈍い破壊音とともに、リーダー格の男の身体が真横に凄まじい勢いで弾き飛んだ。

 自分が何によって殴られたのかを理解する暇すらなく、男は路地の石壁に激しく叩きつけられ、そのまま白目を剥いて崩れ落ちる。

 ガセルの容赦のない神速の踏み込み。

 

「お、おい!お前……!」

 

 残ったもう一人の男が、腰を抜かしそうになりながら絶叫した。

 

あの方(・・・)を敵に回す気か!?」

 

「誰がバックにいようが知るか」

 

 感情の起伏が一切ない、淡々とした声だった。

 そのまま、流れるような動作で間合いを詰める。

 

「ぐぁッ!」

 

 もう一人も恐怖に武器を構える間もなく、正確に顎を打ち抜かれて意識を刈り取られ地面へと沈んだ。

 

「俺の前で、くだらねぇことすんじゃねぇ」

 

 吐き捨てるように言い残し、ガセルは視線を落とした。

 地面に投げ出され、微かにうごめく麻袋へ。

 

「おい……大丈夫か?」

 

 少しだけ声音を落とし、低く声をかける。

 だが、確かな返事はない。

 ガセルはその場にしゃがみ込み麻袋の口を硬く縛っていた縄を、指先に少しの力を込めて乱暴に引きちぎるように解いた。

 中に押し込められていたのは全身が酷く汚れた、ぐったりとした男だった。

 顔色は死人のように悪く、意識も朦朧としている。

 

「……生きてはいるか」

 

 小さく呟き、男の肩を掴んでゆっくりと引き起こす。

 

「起きろ」

 

 軽く揺さぶると男の鉛のように重そうな瞼がわずかに動いた。

 

「……っ」

 

 掠れた、今にも消えそうな声が漏れる。

 焦点の合わない濁った目が、長い時間をかけてようやく目の前のガセルを捉えた。

 

「ここ……は……」

 

「ハチノスだ」

 

 短く、現実を突きつけるように言い捨てる。

 だがそれだけで状況を察したのか、あるいは追手の手から逃れたことを直感したのか、男の全身から張り詰めていた恐怖の力が抜けていく。

 

「た、助けて……もらった……のか……?」

 

「……ああ」

 

 ぶっきらぼうに、照れ隠しのように答える。

 男は何度か不器用に瞬きを繰り返し、状況を理解しようと必死に頭を働かせているようだったが、やがて涙を滲ませながら、深く小さく頭を下げた。

 

「……ありがとう……ございます……」

 

 喉の奥から絞り出された、心からの掠れた声だった。

 ガセルはそのまま立ち上がりかけて、ふと胸に引っかかった疑問から動きを止める。

 

「……何があったか分かるか?」

 

 短く問う。

 男は一瞬きょとんとしたあと思い出すだけでも恐ろしいと言わんばかりに、苦しそうに息を整えながら激しく首を振った。

 

「……いえ……何も……」

 

 言葉を探すように、怯えた視線を暗闇に彷徨わせる。

 

「急に……襲われて……それからは……気が付いたら、ここで……貴方に……」

 

 完全に前後を遮断された、途切れ途切れの説明。

 ガセルはそれ以上この被害者の男を追及しても無駄だと悟り、追及を終わらせた。

 

「……そうか」

 

 小さく呟く。

 

「分かった。もう行け」

 

 男は一瞬だけ本当にこの無法の島で解放されたのかと戸惑ったように見えたが、ガセルの目に敵意がないのを確認すると、すぐに何度も地面に頭を擦り付けるように下げた。

 

「本当に……ありがとうございました……!」

 

 そのまま壁を伝うよろめく足取りで、夜路地の奥へと消えていく。

 ガセルはその背中を一瞥だけして、すぐに視線を外した。

 しばらく血の匂いが漂う暗がりに立ち尽くしたまま、さっきの不気味な悪党たちの言葉を頭の中でなぞる。

 

「……人身売買か」

 

 不快感をあらわに吐き捨てるように呟く。

 あの乱暴な運び方、男たちの尋常ではない怯えの態度、そして隠されていた中身。

 この世界において珍しくもない闇だが、ハチノスでこれを行うことの意味。

 ふと、気を失った男が最期に口にした言葉が頭をよぎる。

 ガセルはゆっくりと、冷徹に目を細めた。

 

「……あの方ってのは誰だ⋯⋯?」

 

 この狂った怪物の巣窟ハチノスにおいてロックスの目を盗むか、あるいは黙認させて人身売買なんて真似ができる奴。

 相当な実力者か、権力を持つ大物に違いない。

 思考を巡らせる。

 だがこの暗い路地裏で一人考えたところで、答えが出るはずもなかった。

 思考の海に沈みかけた、まさにその時だった。

 

「よぉ、ガセル!」

 

 背後から気配もなく、不意に力強く肩をガシッと掴まれる。

 

 肉体の防衛本能が跳ね上がった。

 反射的に身体が最速で動きその無骨な手を激しく振り払いながら、一歩の跳躍で大きく間合いを切る。

 

「……ッ!」

 

 鋭い殺気を孕んで振り向いたガセルの視界に飛び込んできたのは、トレードマークの麦わら帽子を被り屈託のない笑みを浮かべた男――ゴール・D・ロジャーだった。

 

「……ロジャー?」

 

「おう!他の奴らもいるぜ?」

 

 悪びれもせず、ロジャーが親指で親しげに指差した先。

 そこにはスコッパー・ギャバンをはじめとした、ロジャー海賊団の主力たる面々がぞろぞろと影から姿を現した。

 ざっと見渡しても、それなりの数が揃っている。

 だが副船長であるシルバーズ・レイリーの姿だけが、どこにも見当たらない。

 そのことに若干の疑問を感じたが、それよりもあのロジャー海賊団がこのロックスの絶対領域であるハチノスにこれだけの規模で平然と滞在している事の方が、大問題だった。

 

「……おい、ここはハチノスだぞ。戦争でもする気か」

 

 ガセルは眉を深くひそめて問い詰める。

 

「あぁ!?そんなわけねぇだろ!」

 

 ロジャーは子供のように即座にその疑惑を否定すると、次の瞬間にはガセルの言葉を無視して振り返りもせずに叫んだ。

 

「それより急ぐぞお前ら!」

 

「……?何をそんな急いでんだ?」

 

 あまりの脈絡のなさに問いかけるが、ロジャーはガセルの前で足を止めない。

 

「説明してる暇も惜しい!お前も来い!」

 

「は?」

 

 ガセルが怪訝な声を上げるのと、ロジャーの大きな手が伸びてくるのは同時だった。

 言うが早いか、首根っこをがしっと子猫のように掴まれる。

 

「お、おい──」

 

 抗議する間もなく凄まじい怪力によって、そのまま強引に引き摺られる形で夜の街へと連れて行かれた。

 

 ♢

 

 ロジャーの理不尽な怪力に引き摺られ、再び辿り着いた先はついさっきまでガセルが居た場所、あの『シャッキー'sぼったくりBAR』の前だった。

 偶然というには出来すぎている巡り合わせだが、今のガセルにはそれを気にする精神的な余裕もない。

 

「シャッキー来たぜぇ〜!おれだァ〜!」

 

 勢いよく足で扉が開け放たれ、店内の淀んだ空気が一気にかき乱される。

 

「あ……ロジャ──」

 

 カウンターの奥でシャクヤクが驚きに声を上げかけたその瞬間、それを完全に押し潰すようなさらに巨大な怒声が正面から被さった。

 

「ロジャァァ〜!俺の島だと何度言わせる!」

 

 座っていたロックス・D・ジーベックが、椅子を蹴立てて立ち上がる。

 

「シャッキーの店だ!客同士のケンカはご法度だろ!?吠えるな山嵐!!」

 

 互いの理不尽な言葉が空間で激しくぶつかると同時に、店内の空気が一気に爆発寸前まで荒れる。

 ロジャーとロックスが真正面から視線を噛み合わせ、互いに凄まじい覇気の火花を散らしながら一歩も引かないまま睨み合う。

 その周囲では釣られるようにロジャー海賊団の面々まで野次を飛ばして騒ぎ始め、ただでさえ混沌としていた店内はさらに手のつけられないお祭り騒ぎへと変貌していった。

 

「あー騒がしくて苦手だあいつら……!」

 

 あまりのやかましさと耳を突き刺す怒号に耐えかねたように、カウンターの隅で静かに飲んでいたニューゲートが大きな体躯をよっこらしょと起こして席を立った。

 そのまま、面倒事を避けるように店の外へ向かおうとする。

 だが彼の鋭い視線が、去り際にふと一箇所へ引き寄せられた。

 

「あ?何でロジャーに首根っこ掴まれてんだお前」

 

 店を出ようとしていたニューゲートの足が、不意に止まる。

 彼の金色の視線の先にいたのは、その修羅場の中心で場違いなほど無造作にロジャーの手で首根っこを掴まれたままぶら下がっているガセルだった。

 ニューゲートの一言で、周囲の何人かもようやくその異常事態に気づいたように一斉に視線を向けてくる。

 ロックスとロジャーの睨み合いという騒ぎの中心が大きすぎて完全に埋もれていたが、改めて客観的に見ればなかなかに異様かつ滑稽な光景だった。

 

「……知らねぇ。無理やり連れて来られた」

 

 当の本人は死んだ魚のような目で、心底うんざりした様子で短く返す。

 

「そうか。俺は出るぜ」

 

 それ以上ロジャーやロックスのバカ騒ぎに深入りする気は毛頭ないらしく、ニューゲートはすぐに興味を切ったように視線を外し、そのまま巨大な背中を揺らして店の外へと出ていった。

 騒がしさを背に一人静かな夜の方へ逃げるような、いかにも彼らしい足取りだった。

 その重厚な背中が扉の向こうへ消えるのと入れ替わるように、店の奥から今度は張り詰めた女の声が飛ぶ。

 

「ロジャー!!レイさんは……?」

 

 カウンターの向こうで、身を乗り出しているシャクヤクの姿があった。

 その目はどこか真剣だ。

 

「いやぁ来いっつってんだがよ!!体調が悪いとかで船で寝てる」

 

 ロジャーは彼女の微かな動揺など気にした様子もなく、いつもの快活さで答える。

 

「……ふーん、そう」

 

 だがそのいかにも言い訳染みた返事を聞いた瞬間、シャクヤクはあからさまに美しい表情を崩し、不満げにわずかに頬を膨らませた。

 あの冷静な彼女にしては、珍しい子供っぽい仕草だった。

 そこへ間髪入れずに今度は別の、よく知る声が割り込む。

 

「ロジャー!何でガセルの首根っこ掴んでるのよ!まさかまた無理やり自分の船に乗せる気ね!?」

 

 猛烈な勢いで床を鳴らして詰め寄ってきたのは、グロリオーサだった。

 真っ直ぐにロジャーを、親の敵かと言わんばかりに睨みつける。

 

「あ、忘れてた」

 

 ロジャーは本当に今初めて思い出したかのような信じられない顔をして、あっさりとガセルの首から手を離した。

 ようやく重力から解放される、そうガセルが思ったのも束の間。

 

「こっちに来なさいガセル!この男はすぐ自分が気に入った奴を掻っ攫うんだから!」

 

 今度は別の小柄ながらも強烈な力によって、グロリオーサの元へと強引に引き寄せられた。

 腕をガシッと掴まれ、そのまま勢いよく彼女の胸元へと引き込まれる。

 反発する暇もなく、ガセルの体勢が完全に崩れた。

 

「人を誘拐犯みたいに言うんじゃねぇよ」

 

 ロジャーが不満そうに口を尖らせる。

 

「似たようなものでしょ」

 

「なんだとォ!?」

 

 今度はロジャーとグロリオーサの、不毛な言い合いが始まる。

 ハチノスの夜の火種は、消えるどころか次から次へと燃料を投下されていく。

 そんな混沌の中で少し離れたテーブル位置から、冷静に状況を観察していた男の声が差し込んだ。

 

「おい、いいのかそれ」

 

 ギャバンが手にした酒杯を弄びながら、顎でグロリオーサの足元を示した。

 その先には、グロリオーサの細い両腕の中に完璧に抱き込まれているガセルの姿。

 

「呼吸できなくなってるぞ」

 

 その指摘の通りガセルの顔面は彼女の豊かな胸元に完全に、文字通り容赦なく埋もれていた。

 

「むごむご……ッ」

 

 生命の危機を感じる、声にならない悲痛な声が漏れる。

 

「あ、ごめん」

 

 ギャバンに言われてようやくその事実に気づいたグロリオーサが顔を真っ赤にして慌てて腕の力を緩めると、ようやく解放されたガセルが地獄から生還したかのように大きく新鮮な空気を吸い込んだ。

 

「はッ……何なんださっきから……」

 

 乱れた呼吸を荒々しく整えながら、心底面倒くさそうに頭を掻く。

 そんな少年の様子を面白そうに眺めていたギャバンが、ふと何かに気づいたようにニヤリと口の端を上げた。

 

「それにしても珍しいな。グロリオーサがロジャーに突っ込まねぇのは」

 

「……あぁ?」

 

「え?」

 

 その指摘にロジャーとグロリオーサ、双方の動きが一瞬にして静止した。

 さらにカウンター越しに事の顛末を見ていたシャクヤクも、興味深そうに細い目をさらに細めた。

 

「確かにそうね。いつもならロジャーに絡んで、熱烈に求愛してたもの」

 

「確かに……あれ?何でかしら?」

 

 周囲に指摘されて初めて自覚したようにグロリオーサ自身も戸惑った顔をして、自分の両手を見つめる。

 自分の中の心境の変化に、まだ上手く整理がついていない様子だった。

 だがそんな乙女の繊細な空気を、豪快に笑い飛ばして断ち切ったのはやはりロジャーだった。

 

「まぁいいじゃねぇか!それよりシャッキー!そろそろ俺の船に乗ってくれよ!ついでにガセルもな!」

 

「ふふ。私はもうこの店があるもの」 

 

 シャクヤクが煙草の煙と共に綺麗に断る。

 

「俺はついでかよ」

 

 ガセルがボソリと不満を漏らすと

 

「ついでだ」

 

 ロジャーから即座に、無慈悲な宣告が返ってきた。

 軽く受け流される様子を見て、今度はグロリオーサが再びキーキーと食いつく。

 

「ロジャー!ガセルとシャッキー誘うなら私も誘いなさいよ!」

 

「お前は乗せねぇ!」

 

「なんでよッ!」

 

「シャッキーがいれば充分だからな!」

 

「何よそれ!」

 

 三度始まる、子供のような言い合い。

 店内の騒がしさはもはやロックスの怒声すら掻き消すほど、収拾がつかない混沌の極みへと達していた。

 そしてその激しい会話の流れのまま、不意にロジャーの悪戯っぽい矛先がガセルへと真っ直ぐに向けられた。

 

「なぁ、ガセル!お前もシャッキーとグロリオーサならシャッキー選ぶだろ!?」

 

「……俺に振るんじゃねぇよ」

 

 完全に飛び火を食らった形のガセルは、顔をしかめて拒絶する。

 

「いいから答えろ!!」

 

 だがロジャーの目は完全に楽しんでおり、周囲の船員たちも「言え!言え!」と逃げ道を塞ぐような大合唱を始めた。

 ガセルは小さく観念したようにため息を吐き、視線をその場にいる二人の女性へと向けた。

 

「……シャッキーとグロリオーサか」

 

 改めて、客観的に二人を見比べる。

 大人の色気を放つシャクヤクと、まだ少女の面影を残しながらも可憐なグロリオーサ。

 どちらも文句なしに、世界中の男が振り返るレベルの美しさだ。

 

 だが、その喧騒の中で。

 

「……ガセル」

 

 グロリオーサの視線だけが妙に強く、どこか縋るようにガセルの瞳へと刺さった。

 いつも自信満々な彼女が見せた、不安を隠しきれていないその揺れる表情。

 

 その顔にほんの一瞬だけ、前世の記憶を持つガセルの意識が強く引っ張られた。

 

 次の瞬間には、考えるよりも先に口が勝手に動いていた。

 

「グロリオーサだ」

 

「……ッ!」

 

 はっきりと落とされたその少年の言葉が店内に響いた瞬間、あれほど騒がしかった空間の空気が嘘のようにピタリと止まった。

 

「はぁ!?本気で言ってんのかお前!?」

 

 ロジャーの驚愕の声。

 

『まじかお前!?』

 

 そして周囲のロジャー海賊団、ロックス海賊団の男たちの信じられないものを見たというようなどよめきが重なる。

 一斉に、ガセルへと疑惑と哀れみの目が向けられた。

 

「……なんだよ別にいいだろ」

 

 当の本人は自分の言ったことの意味に今更気づき、心底面倒だというように顔を背けるだけだった。

 

「あらまぁ。少し妬けちゃうわね」

 

 カウンター越しのシャクヤクが、クスクスと本当に楽しそうに笑う。

 

「……ああ、いや……」

 

 ガセルが弁明しようとした、その時。

 

「ふふ。冗談よ」

 

 彼女のその大人の余裕の空気が、張り詰めた糸を完全に切った。

 

「ガセルのスケコマシィー!!」

 

 凄まじい怒声と同時に、ガセルの視界が爆発的に歪んだ。

 

「ぐべッ!」

 

 グロリオーサの恥ずかしさと怒りが極限に達した拳がまともにガセルの顔面に炸裂し、その身体が宙に浮いて床を転がる。

 

「おまっ、覇気で殴んじゃねぇよ!死ぬだろ!」

 

 痛む頬を押さえながらガセルが床から叫ぶが、

 

「うるさい馬鹿ァ!!」

 

 顔を耳まで真っ赤に染めたグロリオーサはそのまま涙目を拭いながら、凄まじい勢いでその場から駆け出していった。

 バァンと乱暴に扉が閉まり、彼女の気配はハチノスの夜の街へと消えていく。

 あまりにも理不尽な騒ぎの余韻だけが取り残された、半壊気味の店内で。

 

「ふふ、青春ね」

 

 と、カウンターの奥からシャクヤクがどこか楽しげに呟く声だけが、妙に落ち着いた調子で響いていた。

 

 ♢

 

 一方、そんな莫迦げたハチノスの喧騒から、遠く離れた薄暗い一角。

 入り組んだ複雑な路地の奥、外のどんちゃん騒ぎが嘘のように完全に遮断された古びた石造りの建物の中に、数人の血生臭い男たちが集まっていた。

 カビ臭い湿った空気とどこか鉄の匂いが混じる暗い空間で、誰もが落ち着かない様子で額に冷や汗を浮かべ、視線をせわしなく泳がせている。

 

 その緊迫した空間の中でただ一人だけ、部屋の奥に据えられた大きな椅子に深く腰掛け、微動だにしない男がいた。

 薄暗がりの中でもはっきりと分かるほどの、尋常ではない威圧感。

 言葉を一切発さずとも、ただそこに座っているだけでその場の全人間の呼吸を制限するほどの圧倒的な力の気配。

 

 やがて、その男がゆっくりと、低く押し殺した口を開いた。

 

「それで、商品(・・)をまんまと奪われたわけか」

 

 極めて平坦で低く抑えられた声だったが、その一言だけで室内の温度が物理的に凍りつく。

 

「……は、はい!申し訳御座いません!」

 

 暗闇に向かって報告していた先ほどの路地裏の生き残りの男が、反射的に床へ額を叩きつけるようにして頭を下げる。

 彼の額から溢れ出た大量の脂汗が、ポタポタと冷たい床へと落ちていく。

 重苦しい沈黙が落ちる。

 わずかな時間のはずなのに、呼吸すら許されないその空間は気の遠くなるほど長く感じられた。

 

「誰だ」

 

 短い、だが鼓膜に突き刺さるような問い。

 その重みは、先程の比ではない。

 

「そ、その……恐らく特徴的に、雷禍かと……」

 

 ガタガタと震える唇から恐る恐る絞り出されたその名前に、室内の空気がわずかに不快そうに揺れた。

 

「……あいつか」

 

 椅子に座る巨躯の男が、ゆっくりと視線を上げた。

 暗がりの中で、その瞳の奥に苛立ちとも冷酷な品定めとも取れない暗い色が滲む。

 

「……そろそろ邪魔だな」

 

 誰に向けたわけでもない、ぽつりとした独り言のような呟き。

 だがそれを聞いた周囲の部下たちは心臓を直接掴まれたかのように息を呑んだまま、指一本すら動かすことができない。

 

 次の瞬間、その男はゆっくりと椅子から身体を起こした。

 彼が動くだけで室内の重たい気配が、一段と濃く鋭く変貌していく。

 

「消えてもらうぜ。ガセル(・・・)

 

 低く、冷酷に落とされたその声は静まり返った室内の隅々にまで妙に、そして不気味に響き渡った。

 その決定的な言葉を最後に、もはや誰も口を開く者はいない。

 

 だが闇の中でギラリと光った男の最後の一言は、これから起こるであろう血で血を洗う新たな衝突を、確実に予感させていた。

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