叩き込まれた一撃にガセルが己の全霊を懸けて正面から応じた瞬間、凄まじい衝撃が右腕の肉を、骨を透過し、そのまま体内の一番深い内側へと暴力的に食い込んできた。
確かに真っ向から受け止めたはずだった。
しかし、王直という男が長年培ってきた覇気の威力は止まりきらない。
圧倒的な力量の差に押し負ける形で、ガセルの身体は無様に後ろへと滑っていく。
必死に踏み締めた土壌がまるで紙細工のように無惨に削れ、足元に溝を残した。
そのまま完全に押し潰されるより前に、ガセルは培った戦闘直感で身体を微かに捻り、衝撃のベクトルを逃がす。
無理やり間合いを外すと同時に、火花を散らす右腕を天へと振り上げた。
刹那の遅れもなく雷が爆ぜ、悍ましい青白い雷が一直線に虚空を駆ける。
これ以上の接近を許さないため、牽制として放たれた絶対的な一撃。
だがその閃光を目の当たりにしてもなお、王直の冷徹な眼眸は微塵も揺らがなかった。
王直は避けるという選択肢を最初から捨てていた。
まともに、その身で受ける。
数十万ボルトの電流が王直の全身を狂おしく走り、周囲の地面に無数の不気味な火花が散る。
しかし筋肉の一片さえ焼けてなお、奴の足は止まらない。
それどころか肉体の痛みを愉しむかのように、さらに前へと泥を踏みつけて泥濘を進む。
大地を踏み荒らすような狂暴な足取りで距離を潰しながら、武装色の覇気を纏った拳が再びガセルの視界を埋め尽くした。
「覇気がお粗末だぜッ!」
本能的な恐怖をねじ伏せ、武装色の覇気と最大出力の雷を纏わせた両腕で迎え撃ったはずだった。
だが互いの拳が衝突した瞬間に、両者の間に横たわる覇気の絶対的な深さの差が、残酷な現実となって牙を剥く。
弾き切ることなど到底叶わず、王直の放った重圧がそのままガセルの防御を突き破り押し込まれる。
「ぐッ……!」
受けきれなかった衝撃によって内臓が悲鳴を上げ、身体が宙へと持っていかれ地面を激しく削りながら後方へと弾き飛ばされた。
それでも完全に転びきる前に地面に指を突き立てて無理やり体勢を立て直すが、新世界の修羅場を潜り抜けてきた男が、その致命的な隙を逃すはずがなかった。
視線を上げた時には、もう眼前に王直の巨大な影が迫っていた。
「てめぇら能力者は、どいつもこいつも能力に頼りがちだ。だがなぁ! そんな生半可な小細工じゃ、鍛え抜いた本物の覇気には天地が引っくり返っても通用しねぇんだよ!」
狂ったような嘲笑とともに振り下ろされた次の一撃に対しガセルは咄嗟に腕を交差し、雷の斥力を使って受け流そうと試みる。
だが骨を伝ってきた感触は、先ほどまでとは完全に異質だった。
弾くことすら許されず、ただ上から絶対的な質量で押し潰される。
肉の壁を透過して伝わった衝撃が胸の正中線を突き抜け、ガセルの内臓を激しく揺さぶった。
「がはッ……!」
肺胞の中の空気が無理やり押し潰され、血の混じった息が強制的に喉から吐き出される。
衝撃で身体がふわりと浮き、背中から無様に地面へと叩きつけられた瞬間、切れた粘膜から溢れた鮮血が口元から滲みそれがぽたぽたと冷たい土へと吸い込まれていった。
そして王直が、その絶好の機を逃す道理などない。
王直の踏み込みには、一切の淀みも慈悲もなかった。
間合いに入ったと認識した瞬間には、すでに鋼鉄のごとき拳が肉薄している。
正面から脳天を目がけて叩きつけられた苛烈な一撃に対し、ガセルもまた朦朧とする意識の中で腕を上げて必死に受けるが、激突した衝撃は防壁を無視して骨の奥、髄の底まで痛みを響かせた。
死に物狂いで踏み止まった足が地面を削り、そのまま数歩分力任せに押し戻される。
息を吸う間さえ与えられず、次なる追撃が来る。
横から空間を薙ぐようにして放たれた拳を、上半身を必死に捻って外す。
しかし完全には避けきれず、肉を掠めた真空の衝撃だけで左頬が深く裂け鮮烈な赤が宙に弾けた。
距離を取ろうと一歩退けば、倍の速度で詰められる。
思考を止めれば、その瞬間に終わる。
王直の攻めを緩める気配は微塵なく、ただ前へ前へとガセルの命の灯火を消し去るために押し込んでくる。
血を吐きながら打ち合う度に、黒く染まった覇気の拳同士が激突し森の奥に鈍く重い衝撃音が幾度も轟く。
だが打ち合うごとにガセルの体勢だけが確実に、致命的に崩れていく。
防戦一方となり、受けに回る回数が増え一歩を踏みとどまるたびに己の足場が削り取られていった。
荒れ狂う息を整える余裕すら剥ぎ取られたまま王直の重い拳を交差した腕で受け止めた瞬間、ほんのわずかに生まれた奇跡のような膠着の間。
その一瞬の隙に、ガセルは残された力を絞り出すようにして地を踏み抜いた。
「
足元から這い出た悍ましい青白い光が、一気に周囲の空間へと爆発的に広がる。
地面を這う蜘蛛の巣のように伸びた密度の高い雷が、王直の足元を瞬く間に取り囲みそのまま肉体を絡め取るように激しく締め上げていく。
その瞬間、場の空気が一変した。
空間全体の重さが増したかのように、場そのものが磁場によって押し潰される強烈な感覚が走る。
流石の王直の足もその重圧によって微かに、だが確実に停止した。
「……なるほど、体が重くなったな。お前の能力の応用か」
不快そうに声を漏らしながらも、王直の瞳に宿る凶刃のような視線は一切揺るがない。
肉体を焼き、自由を奪おうと絡みつく紫電の縄を、強靭な脚力だけで力任せに踏みしめるようにして、奴はなおも不敵に前へ出る。
「だがなぁ。こんな小細工が、この俺に通用すると思ってんじゃねぇぞッ!」
次の瞬間、王直の肉体の内側から大気を裂くような咆哮とともに悍ましい圧が全方位へと爆ぜた。
目に見えない衝撃波が周囲の物質を無差別に薙ぎ払い、奴の足元に絡みついていた雷の檻が木っ端微塵に弾き飛ばされる。
地面を縦横無尽に走っていた雷光が根元から断ち切られ、場を支配していた高質量な空気が一瞬で掻き消された。
そしてその破壊の余波が、無防備なガセルの身体へと容赦なく叩きつけられる。
「……ッ!」
衝撃に耐えかね、踏み堪えた足元が深く土に沈む。
脳が揺れ、視界が二重三重に歪む中、それでもガセルの闘争本能は眠らなかった。
呼吸を整えるより先に、ただ生き延びるために地を蹴って前へ出る。
ここで弱気になって距離を取れば、次の一撃で確実に押し潰される。
そう判断した瞬間には、もう王直の懐へと踏み込んでいた。
目の前のこの男は、これまで本気で殺し合ってきたどの敵よりも圧倒的に格上だ。
絶望的な力の差は、さっきまでの短い打ち合いだけで痛いほど分かっている。
過去最大の、絶対的な命の危機。
その極限状態が、ガセルの奥底に眠る生存本能を刺激する。
皮膚の下を流れる血液の拍動、神経の伝達速度が未知の領域まで研ぎ澄まされ、全身にまとった武装色の覇気がこれまでにないほど深く黒く輝きを増していく。
周囲の余剰エネルギーとしての雷が弾けるように彼の腕から肩へ、そして全身へと蛇のように絡みつくように激しく走った。
魂を削るような踏み込みと同時に、渾身の拳を叩き込む。
覇気と雷を幾重にも重ね合わせた一撃は大気を爆裂させるような音を伴って、王直の胸元へと一直線に突き出された。
それを、王直は傲慢な笑みを浮かべたまま正面から迎え撃つ。
避ける気配など塵ほどもなく同じく分厚い武装色を纏った拳が、正面から激突した。
ぶつかった瞬間、鼓膜を破壊するような鈍い衝撃波が爆ぜ、周囲の強固な岩盤がひび割れるように激しく震動した。
「……ッ! 土壇場で覇気が強まったか! やはりてめぇは危険だ。ここで確実に始末しねぇと禍根を残す!」
だが、死線を超えた打ち合いはその一度では終わらない。
王直の丸太のような腕が圧倒的な力で押し返してくるのに対し、ガセルは歯が砕けるほどに噛み締めさらに一歩を踏み込み、もう一発を肉薄して叩き込む。
至近距離の間合いの中で幾度もの音速の衝突が重なり合い、火花のように黒い覇気の残光が激しく周囲に弾き飛んだ。
「うおォォッッ!!」
喉の奥から血を吐き出すような咆哮とともに、全身の残された細胞の力をその右拳の一点へと集約させる。
狂暴な押し合いの均衡が崩れたのは、ほんの一瞬の出来事だった。
ガセルの執念が王直を僅かに上回り、押し切る形で叩き込まれた拳がついに王直の完璧な体勢を大きく崩した。
「ぐッ……!」
鈍い肉声とともに、王直の巨躯が初めて後方へと弾かれた。
王直の足が地を離れ、そのまま宙へと浮き上がる。
その千載一遇の好機を、ガセルが逃すはずがなかった。
間髪入れずガセルは歪む視界のまま上空へと視線を引き上げる。
腕に走っていた全ての雷電が彼の意志に応じるように一気に広がり、天を焦がすように伸びていく。
「
上空の空気が悲鳴を上げて唸り、神の怒りのような光が走った次の瞬間、それは世界を焼き尽くすように落ちた。
鼓膜を完全に抹消するような大轟音とともに、天をも裂く極太の雷柱が一直線に大地へと叩きつけられる。
宙に浮いたまま身動きの取れない王直へと狙いを定め逃げ場を一切与えず落下したそれは、島の一部を根こそぎ抉るような勢いで振り下ろされた。
凄まじい大爆発の衝撃音が大地を幾度も叩き、爆ぜた無数の土砂と黒い砂埃が一気に天を覆うように巻き上がる。
周囲の視界は瞬く間に白く熱い光で潰れ、耳の奥には不快な耳鳴りのような余韻だけが虚しく残った。
「はぁッ……はぁッ……、はぁ……」
ガセルの口から、荒い呼吸が漏れる。
体力の限界を超えて使い切った致命的な反動と、これまでに積み重なった深手を負ったダメージが一気に肉体に押し寄せ、もはや両脚に力を入れることすら叶わない。
ガセルはついにその場に激しく膝をつき、地面に両手をついてどうにか上体を支えた。
肩が壊れた機械のように上下し酸素を求める呼吸のたびに、全身が激しく軋む。
あれは今の不完全な自分が出せる、文字通りの最大火力だった。
いかに王直といえど、まともに受けて無事でいられるはずがない。
そう、自分に言い聞かせたくなるほどの破壊の光景だった。
だが現実は、そこまで甘くはなかった。
「はぁ……はぁ……、よくも、やってくれたな……ガキが」
静まり返った砂埃の向こうから怨念の籠もった、だが確かに力強い声が返ってくる。
やがて、周囲を覆っていた濃い土煙が風に流されて薄れていき、その影がはっきりと浮き彫りになる。
全身の皮膚を黒く焦がし、衣服もところどころ焼け落ちて血が滲んでいる。
それでも王直は膝を折ることもなく、しっかりと己の足で地に立ち続けていた。
「ここまで俺を追い詰めるとは、正直思ってなかったぜ……ッ。だが、この王直を舐めんじゃねぇぞッ!!」
言葉の終わりと同時に、島の全域が物理的に震えた。
目に見えない圧倒的な威圧が王直を中心に一気に膨れ上がり、その場に存在する全ての空間を押し潰すように狂暴に広がっていく。
地面に残っていた砂埃がその風圧だけで弾かれるように消し飛び、周囲の枯れ木が一斉にざわめいた。
王直の身体から立ち上る覇気が、明らかに先ほどまでとは次元を変えている。
重く、昏く、荒々しく、あらゆる生命を平伏させるための力を持った覇王色の気配が、距離を隔てたガセルの肌をチリチリと焼き焦がすように伝わってくる。
一歩、王直が足を踏み出す。
その微かな動きに合わせて周囲の岩盤が爆裂した次の瞬間には、もう間合いが完全に潰されていた。
振り抜かれた王直の拳には、漆黒の武装色に加え空間を歪ませるような禍々しい覇王色が重なっている。
絶対的な破壊の一撃が、満身創痍のガセルに逃げ場を一切与えず正面から襲いかかった。
受けるしかない。
脳がそう判断し、感覚の消えかけた両腕を辛うじて上げる。
だが、その程度では王直の攻撃は止まらない。
衝突した瞬間、防壁ごとガセルの肉体が内部から爆発するように衝撃が突き抜けた。
腕で受け止めたはずの拳がそのガードごと体の奥深くまで深く食い込み、全身の骨格を一瞬で軋ませ粉砕していく。
「がぁッ……!!」
骨の砕ける嫌な音が響き踏ん張りなど一瞬で崩壊して、ガセルの身体は砲弾のように後方へと弾き飛ばされた。
地面を何度も無様に転がり岩にぶつかって跳ねた末に、ようやく動かなくなった頃にはもはや息を整えるための肺の機能すらまともに残されていなかった。
血と泥に伏したまま光を失いかける視界の端で、ゆっくりと死の影が迫る。
聞こえてくる足音はたった一つ。
それでも瀕死のガセルの逃げ場を塞ぐには、十分すぎるほど冷酷で速かった。
「ここで死ねぇッ! ガセルッ!!」
容赦なく振り下ろされる王直の拳には先ほどと同等か、あるいはそれ以上に濃密な覇王色の覇気が纏わりついている。
もはや起き上がる余力など塵ほどもなく、腕を上げる僅かな防御の動きすら間に合わないまま。
その一撃がガセルの無防備な胸部へと、真っ向から完璧に叩込きまれた。
「──ッ!!」
声にならない悲鳴が喉の奥で完全に潰れ、ガセルの身体が衝撃で大きく跳ね上がる。
凄まじい衝撃波がそのままガセルの背中から地面へと突き抜け、周囲の土壌が爆発したように広範囲に弾け飛んだ。
だが王直は、それでは終わらない。
間を置かず、第二の衝撃が落ちる。
さらにもう一発、無慈悲な拳が肉を潰す。
避けることも、防ぐことも、声を上げることもできないまま覇王色を纏った拳が何度も、何度も、執拗に叩き込まれるたびに、大地は鈍く沈み込み土とガセルの鮮血が混じり合って高く跳ね上がった。
一撃ごとにガセルの肉体は人形のように無機質に揺れ、やがてその生命の拒絶の揺れすらも次第に小さくなっていく。
抵抗の気配は完全に消え失せピクリとも力の入らなくなった指先が、汚れた土の上でわずかに痙攣するように震えた後。
それすらも、静かに停止した。
それでも王直の拳は止まらない。
生存の可能性を完全に抹殺するために、確実な死を刻み込む最後の一撃まで、王直は狂ったように叩き込み続けた。
やがて、肉塊となった身体が完全に動かなくなったのを目視で確認して、ようやく血塗られた拳が止まる。
静まり返った凄惨な岩場に、王直の肩で息をする荒い呼吸音だけが虚しく残響した。
「……クソが、手こずらせやがってッ……!」
忌々しそうに唾とともに吐き捨てるように言いながら、王直は真っ赤に濡れた拳を乱暴に振り払った。
土の上に横たわるガセルの身体は、もはや指先ひとつ細胞の一片さえも、わずかな生命の反応すら見せない。
赤黒い血に塗れたその身体は冷たい土の底へと深く沈み込み、二度と起き上がる気配を見せることはなかった。
ガセルの命は、完全に途絶えた。
♢
海賊島ハチノスの一角、喧騒から切り離された薄暗い路地に佇む『シャッキー’sぼったくりBAR』。
昼間だというのに店内の空気はひんやりと静まり返り、窓の向こうから聞こえる無法者たちの野蛮な喧騒が、まるで遠い異世界の出来事のように霞んでいる。
「今頃、船の中で馬鹿みたいに騒いでるのかしらね。あいつら」
カウンターの椅子に気怠げに腰掛けたまま、店の店主であるシャクヤクは細い指先で挟んだ煙草の紫煙を吐き出しながら、どこか遠くを見るようにそう零す。
店内に満ちる人の気配が少ない分、この空間だけ時間という概念がひどくゆっくりと流れているように感じられた。
「ねぇ? グロリオーサ」
シャッキーは灰皿に煙草の灰を落とし、そのまま視線を店の奥の薄暗い居住スペースへと向ける。
そこに置かれた簡素なベッドの上に、白いシーツに包まれるようにして小さく横たわる女の姿があった。
「……ハァッ……、ハァッ……」
グロリオーサの頬は尋常ではない熱を帯びて林檎のように赤く染まり、そこから漏れる呼吸も浅く、ひどく荒い。
額にはうっすらと透明な汗が滲み、苦しそうに胸が上下に波打っている。
意識の混濁の中で指先がシーツをぎゅっと掴むたび、白い布地にわずかな皺が寄った。
「二度目の恋煩い。九蛇の歴史にもないわ。……この事態の意味が、自分でも分かっているかしら?」
静かな、だが核心を突く問いかけに対して、ベッドからの明確な返事はない。
ただ、グロリオーサの視線が微かに揺れ、きまり悪そうにそっとシャッキーから逸らされる。
グロリオーサ自身、自分の肉体と心に起きているこの未曾有の暴風雨に誰よりも深く戸惑い、恐怖していた。
自分は、ずっとあの気高き海賊ゴール・D・ロジャーが好きだったはずなのだ。
彼への狂おしい想いゆえに、恋煩いを発症して九蛇海賊団を命からがら抜けてから今まで、その純粋な恋心だけは絶対に変わらないと信じて疑わなかった。
変わらないと、そう思っていたのだ。
「私もこんな事例は初めてだから、どう声をかけていいか分からないけれど。……でもね、結局のところ、恋なんて自分の気持ち次第よ」
「自分の……、きもち……」
熱で掠れた、弱々しい声でその言葉を繰り返す。
「東の海には、こんな面白い諺があるわ」
「……? な、なに……?」
「『女心は秋の空』。女の心なんてね、その時置かれた状況や、優しくされたタイミングで、幾らでも移り変わるものなのよ。恥じることなんてないわ」
「……移り変わる……、私の、心が……?」
その言葉を心の奥底で反芻し、飲み込むようにしてグロリオーサは小さく呟いた。
「ふふ、時間はたっぷりあるわ。あの子たちが次の島から戻るまで、よく考えなさい」
シャッキーはそう言って、腰掛けていた椅子から滑らかに立ち上がる。
木製の椅子がわずかに軋み、静かな空間に小さく音を残した。
「私は、あなたの看病に必要な薬草と、少し買い出しに行ってくるわね」
特に振り返って顔を見ることもなく、シャッキーはそのままいつもの涼しげな足取りで店の外へと出ていく。
木製の重い扉が静かに閉まる音が店内に響き、再び静寂が戻ってきた。
静まり返った店内で、グロリオーサは火照る身体を横たえたまま、改めて自分の心の奥底にある本音と向き合おうとする。
自分は本当に今も、ロジャーのことが好きなのだろうか。
そう自問自答するたびに、彼女の脳裏にはいつも決まって別の男のぶっきらぼうな顔が、鮮明に浮かび上がってくるのだった。
最初は、ただの生意気な弟分のように思っていたはずだった。
けれど、ロックス海賊団という地獄のような環境で、血を流し泥を啜りながらも、日に日に圧倒的に強くなっていくその背中にいつの間にか、どうしようもなく目を引かれていた。
口を開けばぶっきらぼうで、自分を突き放すような冷たい言葉ばかり吐くくせに。
グロリオーサが本当に困っている時や、危機に瀕した時には、必ず誰よりも早くその温かい手を差し伸べてくる。
その不器用で、真っ直ぐな優しさに気づいてしまった時。
彼女の中で、世界の見え方は完全に変わってしまっていた。
自分に向けて怒った顔。からかわれて驚いた顔。そして、ふとした瞬間にだけ見せる、あの悪戯っぽく笑った顔。
それらを思い出すたびに、胸の奥がキュッと締め付けられ、体温が跳ね上がる。
この、胸が張り裂けそうになる悍ましいほどの愛おしさを、グロリオーサはよく知っていた。
これこそが、かつて自分を死の淵まで追いつめた恋煩いそのものだと。
「……私、は……。……ロジャーじゃなくて……、ガセルの事が……」
自身の本当の恋心を、生まれて初めて確かな言葉にして唇から紡ごうとした、まさにその瞬間だった。
──ガタッ。
誰もいないはずのBARの客席側から、極めて小さな場違いな物音が静まり返った店内に落ちた。
「……シャッキー? ……もう戻ったの……?」
先程買い出しに出掛けたばかりなのだから当然、返事は無い。
代わりに、もう一度。
薄暗い闇の中で、床が擦れるような不穏な摩擦音がした。
グロリオーサの全身に、冷たい違和感が走る。
熱で霞む視線を、ゆっくりと物音のした先。
BARの奥の暗がりへと向けた。
光が届かない深い影が差す場所に、見知らぬ黒い衣装を纏った男が音もなく佇んでいた。
「……だ、誰……っ!?」
叫び問いかける間すら、病床の彼女には与えられなかった。
次の瞬間には、恐るべき速度で距離を詰められ、その小さな口を完全に塞がれる。
「──ッ!? ん、むぅ……!!」
声にならない悲鳴が喉の奥で潰れる。
必死に抵抗すべく身体に力を入れようとするが、恋煩いの熱に浮かされた肉体は鉛のように重く、思うように動いてはくれない。
抵抗も虚しく、グロリオーサはその華奢な身体を軽々と抱え上げられる。
上下に激しく視界が揺れる中、最後に彼女の瞳に映ったのは遠ざかっていくBARの天井と、侵入者がこじ開けたわずかに開いたままの裏口の扉だった。
外の眩しい光が細い線となって店内に差し込む中で、彼女を拉致した影はまるでハチノスの闇へと引き込まれるように、音もなく消え去っていった。
誰もいなくなったBARの店内には、再び静寂だけが残された。