王直とガセルが、互いの命のすべてを削り合うようにして激突しているその場所から、ほんの少し離れた高台。
崩落した巨大な岩陰に巨躯を潜めたまま、二人の男が一切の目を逸らすことなくその凄惨な戦場を見下ろしていた。
「おい、ロックス……! あいつ、動かねぇぞッ!」
硝煙と砂埃の先、ピクリとも動かず冷たい土に伏したままのガセルを見据え、ニューゲートの声が獰猛に荒くなる。
今にも戦場へと飛び出しかけていた巨躯が、強引にその場へ押し留められていた。
他ならぬ、隣に立つ男の言葉によって。
「落ち着け、ニューゲート」
「落ち着けだと!? ふざけんな、このままだとあいつは確実に死ぬぞ!」
内に渦巻く焦燥と怒りを抑えきれずに怒鳴り返すが、隣に君臨するロックスは一向に反応を変えない。
その凶悪な双眸は戦場の一点に据えられたまま、倒れ伏したガセルから視線を外そうともしなかった。
その静寂と冷酷さが、余計にニューゲートの神経を逆撫でする。
「……ッ! もういい、お前が止めようが俺は行く!」
身体を戦場へと向けた、まさにその瞬間だった。
「……ニューゲート」
低く地を這うような声に呼び止められ、苛立ちを全身から放ちながらニューゲートは振り返る。
「あぁ!?」
「俺は、王直が裏でコソコソと小金を動かしていたことは、最初からすべて知っていた。だが、あえてずっと泳がせていた。今、あの程度の矮小な男を小突き回して始末したところで、大した意味はねぇからだ」
淡々とした、あまりにも冷徹な言い方だった。
だが、その信じがたい内容にニューゲートの分厚い眉がさらに深く寄せられる。
「それがどうしたってんだ! その結果、お前はガセルが王直に目を付けられたのを知りながら、あいつらがここで正面からぶつかるように仕向けた。……ここに連れてこられる道すがら、すべて聞いたぞ!! 俺は最初から、そんな悪趣味なもんには反対だった!!」
抑え込んでいた怒りの言葉が、堰を切ったように一気に吐き出される。
それは、ニューゲートという男の内に眠る仲間への、そして歪な倫理への激高だった。
彼の脳裏に、不意にまだ今のように新世界の怪物たちと渡り合えるだけの力もなく、理不尽な暴力の前でただ泥を舐めるしかなかった頃のガセルの姿が鮮明に浮かび上がる。
『おいニューゲート、あいつの面倒を見ろ』
ロックスからそう短く告げられたのが、すべての始まりだった。
理由も、大した説明も一切聞かされなかった。
ただ面倒を見ろとだけ理不尽に押し付けられて、当時のニューゲートは内心で激しく舌打ちしたのを昨日のことのように覚えている。
厄介事など御免だったし、わざわざ見ず知らずのガキに手を焼くほど、自分は焼きの回ったお人好しではない。
だが、ロックスの命令をその場で突っぱねることも、また致命的な面倒事を引き起こす。
「だから、仕方なく関わった。それだけのはずだったッ……」
最初は、この過酷な海で死なないための最低限の戦い方だけを教え、あとは勝手にのたれ死のうが放っておくつもりだった。
だが、どれほど体中を血に染めて倒れても自分へ食い下がってくるあの異常なしつこさを何度も、何度も見せられているうちに、いつの間にか彼が差し伸べる手の回数は増えていた。
気づけば、どうしようもなく放っておけなくなっていたのだ。
ガセルという男は、口では死にたくない、生き残りたいと醜く喚き散らしながらも、いざ戦場に立てば勝手に無茶をして突っ込み、勝手に全身の傷を増やして、それでも前へ進むことしか考えていない。
生きるために、愚直に前に進む。
そういう不器用なやり方しか知らない男だった。
そして、そういう不器用で真っ直ぐな男を、ニューゲートはとてもよく知っていた。
ガセルの折れない意志の中に、若き日の自分やよく知る男の影を、無意識に重ね合わせていたのかもしれない。
だからこそ、あそこで文字通り血の海に沈んでいるガセルをこのまま見捨てて死なせるという選択肢は、今のニューゲートには、一片たりとも存在しなかった。
「王直という裏切り者を排除し、かつ収穫を得る。これ以上ない、最高のタイミングだったろう?」
「何故だ、ロックスッ!! 何故そこまで、ガセルに拘る!」
一歩激しく踏み込んでロックスとの距離を詰め、その恐るべき双眸を真っ向から睨みつける。
「あいつは、ただ死にたくねぇと願ってるだけのガキだッ! そんな奴の命まで利用して、お前は一体、何を企んでやがる!」
ロックスはしばらくの間、不気味な沈黙を保ったまま何も返さなかったが、やがてその口元をゆっくりと開いた。
「……俺があいつを海で見つけたのは、単なる偶然だった」
「ああ!? 今さらそんな昔話──」
「いいから黙って聞け」
低く、大気をも震わせる重圧を孕んだ一言が差し込まれ、ニューゲートの言い返しかけた言葉がピタリと止まる。
視線と視線が火花を散らすようにぶつかり合い、無言のままロックスの続きの言葉が促される。
「あいつを広大な海で拾い上げ、俺は船に乗せた。その理由は、今お前が言った通りだ。あいつを極限まで強くさせるため。……その必要があった」
「……だから、何故そこまであいつなんだと聞いてんだッ!」
焦燥を隠しきれず、吐き捨てるように返す。
「それはな、ニューゲート。あいつの……ガセルの出生に深く関係している」
「……あいつの、出生だと……?」
「俺がこの世界から居なくなった時。俺のすべての意志を、この覇道を継ぐのは……あいつだ」
「……チッ、よく分からねぇな。さっき海で偶然拾ったと言ったばかりだろうが。お前とあいつに、それ以前の繋がりがあるとは到底思えねぇ」
「ああ、そうだ。あいつを海で見つけるその瞬間まで、俺たちに直接の関わりはねぇ。……だがな、一目見て理解した」
ロックスの言葉が、わずかに重い間を置く。
その眼眸に、狂気とも確信ともつかない不気味な光が宿った。
「あいつは───」
その衝撃的な事実がロックスの口から紡がれた瞬間、ニューゲートの眼眸が限界まで見開かれ、衝撃のあまり思わず半歩後ろへと絶句して退いた。
「……ッ、そんな、バカな話……ッ!」
到底信じられない、世界の根幹を揺るがすようなものを見る顔のまま、ロックスの表情を凝視する。
「だからこそ、今のあいつには、王直という壁とぶつかり合う極限の死線が必要だった。己を縛る、くだらねぇ器の殻を完全に破らせるためにな」
「……理屈は分かった。だが、それで本当に死んじまったら何の意味もねぇだろうがッ!」
怒鳴り散らしながらも、ニューゲートの視線は弾かれるように凄まじい破壊の跡が残る戦場へと戻る。
その瞬間、ロックスが不敵に口元を歪め、顎をしゃくって戦場を示した。
「よくその目で見ろ、ニューゲート。俺の目に狂いはない。……あいつは、まだ終わっちゃいねぇよ」
「……は? 何を言って──いや、まさか、あいつ……ッ!」
ニューゲートの言葉が途切れる。
死体のように倒れ伏しているガセルの周囲で、抉られた地面の砂粒が不自然に微かに上空へと跳ね上がった。
最初は、ただの風の悪戯かと思う程度の僅かな揺らぎだった。
だが、次の刹那──大気を切り裂くような、極めて細く鋭い青白い雷の火花が走った。
バチバチッ、と鼓膜を刺激する乾いた破裂音が重なり合い、ガセルの足元から地を這う生き物のように不気味な電撃が爆発的に広がっていく。
「これは……あいつの、能力ッ……!!」
「ヴォハハハハッ!! それでこそだッ!! それでこそ俺が見込んだ男だッ!!」
ロックスの口元が凶悪に歪み、そのまま体内に滾る歓喜を堪えきれないように獰猛に立ち上がると両手を天へと広げた。
「さぁ、その薄汚ぇ壁を越えてみせろ、ガセル!!」
狂気の首領の咆哮のような笑い声が、戦場を支配する不穏な静寂を切り裂き、激しく響き渡った。
♢
ドクンッ──。
命の灯火が消えかけた虚空に、重苦しい鼓動が一つ、鳴り響いた。
乾いた血の匂いと硝煙の風が吹き抜ける荒地の中で、確かに生物の根源たる脈動が音を立てた。
「……ッ」
ドクンッ、ドクンッ──。
停止していたはずの生命の歯車が、狂ったように間隔を乱しながら次第にその回転の速度を速めていく。
返り血を拭おうとしていた王直は、その超常的な異変にピクリと眉をひそめ、その場でピタリと動きを止めると背筋を襲う悍ましい寒気の正体を探るべく、周囲の気配を察知しようとした。
「……まさか、あり得ん、そんな馬鹿なことがッ!」
王直は、弾かれたように背後へと振り向く。
ドクンッドクンッドクンッ──!!
急速に早まる激しい鼓動と同調するように、先ほどまで完全に絶命していたはずのガセルの肉体が、びくりと大きく跳ね起きた。
バチバチッ、と大気を激しく引き裂く音を立てて強烈な青白い閃光が彼の肉体の内側、心臓の底から一気に全身の神経へと走り抜けた。
「能力で……自らの心臓を強引に蘇生させやがったのかッ!」
驚愕の言葉をすべて吐き切るより前に、王直の肉体は本能的に動いていた。
これ以上の蘇生を許せば取り返しのつかないことになる。
地面を強く蹴り、立ち上がりかけるガセルとの距離を刹那の間に一気に詰める。
「させるかよォッ!!」
黒い覇気を纏った拳を脳天へと振り下ろそうとしたその瞬間、バチッ、と網膜を焼くような乾いた光が爆ぜた。
王直が踏み込んだ足元を正確になぞるように、周囲の大地から青白い閃光が蛇のように走り出る。
反射的に危険を察知して踏み止まるが、次の瞬間には王直の右腕へ、左肩へと、空間そのものから溢れ出た電撃が直接走り抜け、肉体の動きが強制的に鈍る。
「なッ……!? 身体が、動かん……!?」
肉体を動かそうと脳が命令を下したその箇所に、あらかじめ空間に配置されていたかのように電流が走り、神経伝達を遮断していく。
力を込めれば込めるほど、逆にその磁場によって身体の自由が強引に奪われていくのだ。
これは、単なる電撃による痺れなどではない。
放たれる一つ一つの衝撃が異常な質量を持っており、筋肉の繊維を骨の奥底までをも無理やり支配し、縛り付けるように食い込んでくる。
まともに拳に力を入れることすら困難な異常事態。
王直の視線が、驚愕とともに自然とガセルへと向けられる。
空間そのものを電気的に支配するような芸当、これをやっているのは目の前のガセル以外にあり得ない。
だが先ほどまでの瀕死、否、絶命していた状態のガセルに、これほど高密度かつ広範囲の制御ができるはずがなかった。
明らかに次元の異なる質の変化を前に、王直の表情から完全に余裕が消え失せる。
この周囲の環境そのものに能力の性質を付与し、変質させる大いなる超常現象に、王直は明確な心当たりがあった。
新世界の強者だけが到達し得る、至高の領域。
「……覚醒かッ!!!」
王直の絶叫と同時に地に伏していたガセルの身体が、まるで重力を無視するように弾かれるようにして跳ね起きる。
一切の間を置かず、そのまま爆発的な加速で前へと躍り出た。
「……ッ!」
王直は冷や汗を流しながら即座に迎撃の構えを取る。
だが自身の網膜が辛うじて捉えていたはずのその姿は次の瞬間には、陽炎のように跡形もなく消え去っていた。
「がッ……はぁ、ッ……!?」
目の前から完全に消えたと脳が認識した瞬間、すでに王直の腹部には肉を抉るような凄まじい衝撃が突き抜けていた。
内臓の最深部を抉られたような一撃に、王直の巨躯がくの字に折れ曲がりそのまま凄まじい風圧とともに後方へと弾き飛ばされた。
「クソがァッ!!」
空中で血を吐きながらも地を蹴り、驚異的な身体能力で体勢を立て直す。
間髪入れずに足場を爆破するように踏み込み、全身の血管にこれまでにない密度の武装色の覇気を巡らせる。
「調子に乗るんじゃねぇ……ッ!」
怒りと共に振り抜いた渾身の拳は、確かに迫り来るガセルの顔面を完璧に捉えた──はずだった。
だが拳が肉体を破壊する確かな手応え、その触れた感触が一切ない。
王直の視界の中で、ガセルの輪郭が一瞬だけ電気のノイズのように激しく揺れる。
ただの残像を全力で叩かされたのだと気づいた時には、もうすべてが遅すぎた。
「──ッ!?」
振り向くよりも早く後頭部に叩き込まれた衝撃によって、王直の視界が白く爆ぜる。
なす術もなく身体ごと地面へと凄まじい勢いで叩き落とされ、クレーターを作るようにして土の奥深くへとめり込んだ。
「ぐぁァ……ッ、あぁッ……!」
肉体の破壊の痛みに遅れて、自分が背後から殴られたのだとようやく理解する。
王直は歯が砕けるほどに食いしばりながら、地面にめり込んだ身体を無理やり引き剥がす。
崩れた土を踏み砕き体勢を立て直したその瞬間、視界を開く暇もなくすでにガセルは目の前の至近距離にまで間合いを詰めていた。
「何なんだてめぇはッ! 何故これほどの体力が、覇気が、出力が増してやがるッ!」
恐怖を掻き消すように腕を振り回すが、その肉体の動きよりも遥かに早く青白い閃光が空間を疾走する。
踏み込もうとした奴の足が磁場によって強制的に止められ、次の瞬間には無防備な横腹から容赦のない衝撃が差し込まれる。
防ぐ隙すら与えられずに肉体が激しく揺さぶられ、肺腑の息が詰まる。
ガセルはまるで感情のない機械のように、一切の間を置かずに苛烈な打撃を叩き込み続けてくる。
だが至近距離で打ち合う中で、王直は気づいた。
ガセルのその双眸は、妖しく青い光を放ちながらも完全に焦点が合っていない。
こちらを見ているようでその実、意識は深い闇の底にある──。
「……ッ、てめぇ……意識が、戻ってねぇのかッ!」
肉体の防衛本能と覚醒した能力の暴走だけで動いているのだと理解した瞬間、さらに間合いを詰められる。
回避も防御も間に合わないまま、驚異的な速度の打撃が幾重にも重なる。
骨の芯、髄の奥にまで響く衝撃が連続して肉体に叩き込まれ頑なに踏ん張っていた王直の両足が、ついに耐えかねて崩れた。
「ぬぐォォォォッッッ……!!」
地面を深く抉りながら、力任せに押し込まれる。
それでも意地で腕を上げて耐えようとした、その時。
前触れもなく、ふっと、場を支配していたすべての圧力が抜けた。
目の前で拳を振るっていたはずのガセルの身体が、糸の切れた人形のように突然すべての力を失ってその場に崩れ落ちる。
「……は、あ?」
嵐のような連続攻撃が唐突に途切れた空間に、わずかな間が生まれる。
一体何が起きたのか瞬時に理解できず、王直はその場で血塗れのまま固まった。
視界の先、地面の上に倒れたガセルの肉体は、完全に活動を停止しているのが見て取れた。
起き上がる気配はおろか、呼吸の微かな揺れもなく崩れ落ちたままピクリとも動かない。
能力での強制蘇生と覚醒による暴走。
そのあまりの負荷に、ガセルの肉体が完全に限界を迎えたのだ。
そう判断するのに海賊としての経験上、時間はかからなかった。
「……はぁッ……はぁッ……、こ、こいつは……危険過ぎるッ……!」
激しい息を吐き出しながらも、王直の瞳からは血走った殺意が逸らされない。
ここでこの男を取り逃がせば、自身の未来の覇道は確実に潰える。
さっきまでの世界の理を無視した異常な動きが、恐怖とともに脳裏に焼き付いて離れない。
確実な死を刻むべく、重い足を進める。
踏みしめるたびに、血に濡れた土が軋む。
「今度こそ、確実に始末してやるッ!!」
残されたすべての覇気を右拳に握り込み、天へと振り上げる。
意識を失ったまま無防備に横たわるガセルの脳天へ。
そのまま文字通り命を刈り取ろうと叩き込もうとした、その瞬間だった。
「そいつは非常に困るな」
背後からあまりにも聞き慣れた、そしてこの場で最も聞きたくなかった男の声が差し込まれた。
その存在を認識した瞬間、王直の横合いから衝撃が突き抜けた。
「がはッ……、あぁッ……!!」
防御する間もなく王直の巨躯が宙に浮き、凄まじい勢いのまま地面を何度も激しく転がっていく。
数度大きくバウンドし、ようやく止まったところで口元からドス黒い血混じりの息が激しく漏れた。
「ロ、ロックス……ッ!! 何故てめぇがここに居やがるッ……!」
歪む視線の先。
そこに悠然と立っていたのは、他ならぬロックス・D・ジーベックだった。
「てめぇが俺の足元で、ネズミみたいにコソコソと不快な動きをしてるからよ。最初から楽しく監視させてもらったぜ」
「……ッ、そこまで、気づいてやがったのかッ……!」
「あぁ? この俺の島で、俺の目が届かねぇ場所があると本気で思ってたのか? 自惚れるんじゃねぇよ、王直」
その絶対的な実力差を見せつける言葉に、王直の顔が屈辱で激しく歪む。
「……ッ、クソがッ! お前も、お前まで裏で結託してやがったのか! ニューゲートッ!」
王直が声を張り上げた視線の先。
そこにはいつの間にか戦場へ足を踏み入れ、気を失ったガセルの身体をその大きな片肩に無造作に担ぎ上げたニューゲートが立っていた。
「……くだらねぇ勘違いをするんじゃねぇ。俺はただ、ここに転がってるハナッたれを拾いに来ただけだ。お前がロックスを相手に何をやらかそうが、俺には塵ほども関係ねぇ」
冷淡にそう言い切ると、ニューゲートはそれ以上言葉を重ねることもなく、本当に興味がないと言わんばかりに王直から視線を外した。
「……そうか。なら、都合がいい。今ここで俺が斃すべき真の敵は……お前だけだな、ロックス!」
王直の狂気に満ちた視線が、ロックスへと向けられる。
ロックスは腰から長剣をゆっくりと引き抜き、その禍々しい覇気を刃に纏わせながら軽く構えた。
それだけで、島全体の空気が張り詰める。
だがその一触即発の極限の緊張を、無理やり断ち切るようにして掠れた声が差し込まれた。
「……やめ、ろ……」
「お、おいッ、ガセル!?」
ニューゲートの肩から、ガセルの身体が滑り落ちる。
その両足の足元は覚束なく、今にも崩れ落ちそうなほど満身創痍のまま、それでもガセルは一歩、前へと這い出た。
「……王直は……俺がやる。……誰も、手、出すんじゃねぇ……」
「やめろガセルッ! そんな身体でこれ以上戦えば⋯⋯今度こそ本当に死にてぇのか、このアホンダラ!」
背後からニューゲートの激しい怒声が飛ぶが、ガセルの足は一度として振り返ることはなかった。
「うるせぇッ……!」
返ってきたのは、魂を絞り出すような拒絶の言葉だけだった。
「今……ここで、こいつを、自分の力で倒せねぇなら……俺はどの道、この先生き残れねぇッ!!!」
それは、確固たる生存への執念だった。
呼吸はひどく荒く血を吐きながらも、前へ出る足は決して止まらない。
「ヴォハハハハッ!! こいつは傑作だ! 悪かったな、ガセル!」
ロックスは愉快そうに大笑いすると、構えていた長剣をそのまま一切の躊躇なく鞘へと収めた。
「おい、ロックス! 正気か!?」
「諦めろ、ニューゲート。見ろよあの目を。……あいつは、もう誰にも止められやしねぇよ」
「……チッ、勝手にしやがれッ!!」
そう吐き捨てるとニューゲートはその場を離れるでもなく、少し離れた巨大な岩盤の上にドカリと腰を下ろした。
己の目の届く範囲で、その戦いの結末を見届けるために。
ガセルは一度も背後を振り返ることなく、ただ真っ直ぐに王直の元へと歩を進める。
「……何なんだてめぇはッ! 死にかけのくせして、何度も、何度も、俺の前に立ち上がってきやがってッ!」
「お前は……俺が、たおす」
「この状況で、満身創痍のお前と俺が殺り合うことに、一体何の意味があるッ!? 俺はもう、ロックスを始末しなきゃならなくなったんだ! てめぇのようなガキに構ってる暇なんかねぇんだよッ!!」
「関係ねぇッ!」
ガセルはわずかに顔を上げ、王直を鋭く射すくめる。
「俺は、お前を越えていく」
王直の表情がこれ以上ないほど醜く歪み、言葉にならない苛立ちと恐怖だけがその顔に浮かぶ。
「……ッ、この、イカれ野郎がァァッ!!」
その逆上の絶叫を合図に、ガセルが地面を激しく蹴った。
覚醒した能力による雷を伴った爆発的な加速が、一気に空気を裂きながら王直へと殺到する。
だが王直もまた一歩も引かず、正面から迎撃の構えを取ったまま距離を潰しにかかり、両者の黒い覇気の拳が真正面からぶつかり合った瞬間に、空間そのものが軋むような凄まじい衝撃波が走る。
「ぐッ……、おおぉぉぉ……!!?」
激しいぶつかり合いはほんの一瞬。……そして驚くべきことに、力任せに押し込んだのはガセルの側だった。
王直の頑強な腕がわずかに沈み込み、足元の地面が削れるように後退していく。
それでも王直は即座に地を強く蹴り、距離を瞬時に潰すように修羅の形相で前へ出る。
だが、その決死の踏み込みすらも、現在のガセルの前には無慈悲に押し返される。
全身から放たれる雷を纏った拳はもはやただの肉体の殴打ではなく、天から降り注ぐ落雷そのものの質量を持って王直のガードを破壊する。
衝突した瞬間に周囲の大気が木っ端微塵に破裂するような衝撃が走り、王直の巨大な身体が明確に大きく後方へと弾き飛ばされた。
「クソがァァァッッッ!!!!」
地を踏み割るようにしてどうにか立ち上がった王直が、そのプライドを打ち砕かれ激しい怒声を吐き捨てる。
「この俺が……どれだけこの海で生き抜いてきたと思っている! どれだけの死線と修羅場を潜り抜けてきたと思っているんだァァッ!」
その長年培ってきた誇りとともに振り抜かれた王直の最大の一撃を、ガセルは避けることなく真正面から己の拳で受け止める。
その瞬間に凄まじい衝撃が腕を抜けて体の内側へ食い込み、押し負ける形でわずかに体勢を崩しながらも、ガセルは折れることなく地面を踏みしめて無理やりその力を押し返す。
そして、己の体内の気力と覇気をさらに極限まで収束させることで、打撃の力の密度そのものを爆発的に上げていく。
「お前の全て……俺に、よこせッ!!!」
ガセルの魂の叫びとともに放たれたその一撃は、単なる拳の応酬を超え覚醒した雷が空間ごと超圧縮されたような絶対的な重みを持って、王直の完璧な防御のバランスを完全に崩し去る。
次の瞬間には、その生じた決定的な隙を突く形でガセルの鋭い拳が顎へと打ち込まれ、王直の身体がわずかに宙へと浮いた。
浮いた瞬間、刹那の間髪を入れずにもう一撃、さらに重い打撃が幾重にも重なり今度は明確に、上空へと弾き上げられる。
空中での激しい押し合いが続き、肉体の自由を奪う磁場の影響も相まって、徐々に王直の防御の動きが致命的に遅れ始める。
そこに、ガセルの放った雷が周囲の空間に残留する形で王直の身体に絡みつき、見えない重力のような足枷となって一瞬の遅れを生み出す。
その決定的な好機に、ガセルはさらに深く踏み込んだ渾身の一撃を放ち、王直の巨躯を完全に雲の上へと高く弾き飛ばした。
「ガセルゥゥゥゥゥッッッッ!!!!!」
王直は宙を舞いながらも、必死に体勢を立て直しに掛かる。
だが、地上に佇むガセルはそれ以上の物理的な追撃はせず、その場で深く右腕を引き絞った。
空間の全域に散り王直を縛り付けていたすべての電撃の残光を、一度すべて己の拳へと収束させるように呼び戻しながら上空へと向けて超高密度に圧縮していく。
「ウオォォォォォォォッッッッ!!!!!」
ガセルの咆哮とともに、一点に集約された轟雷が天を真っ二つに裂くようにして放たれ、上空の王直の姿をそのまま巨大な光の渦が飲み込んだ。
超高熱と電撃の質量によって遙か彼方へと吹き飛ばされた王直の姿は、やがて地平線の彼方へと吸い込まれるようにして、完全に消え去った。
「……ッ、は、ぁ……」
すべての気力と体力を使い果たし、限界を遥かに超えたガセルの肉体が支えを失ったようにそのまま前のめりに崩れ落ちかけた、まさにその瞬間。
背後から伸びた岩のように大きい手が、彼の壊れかけの腕を優しく掴んで支えた。
「よくやった」
それは静かに闘いを見守っていたニューゲートの、確かな賞賛の声だった。
ガセルはその声を最後に聞き取り、すべての緊張の糸が切れたかのように、力の抜けた身体ごと深い意識の闇へと手放していった。
「お前の勝ちだ、ガセル」
選ばれたのは、か○は○波でした。