ロックス海賊団雑用係の生存記録   作:だれか、

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2話

 

 夜の帳が、海を黒く塗りつぶしていた。

 

 しかし、この船の上だけは、およそ洋上とは思えないほどの狂騒に包まれている。

 鼻を突く饐えた酒の匂いと、下卑た男どもの笑い声が混沌と入り混じり、甲板を震わせていた。

 だが今夜は、そのいつもの狂気の奥底に、どこか落ち着かない、浮き足立ったざわめきが不協和音のように流れている。

 

(……来た)

 

 照明の届かない甲板の暗がりにひっそりと身を潜めながら、ガセルは肌を刺すその気配を敏感に感じ取っていた。

 何かが起きる直前特有の、大気がじりじりと焼けるような、不穏な空気の揺らぎ。

 昼間、作業の合間に耳にした噂話が、脳裏を過る。

 

 ──悪魔の実。海の秘宝。

 

(場所は……船の最奥、あの通路の先だな)

 

 普段の雑用係である自分のような下っ端なら、足を踏み入れることすら許されず、近づけばその場で首を刎ねられるような禁忌の区域。

 だが、今夜に限っては、その絶対的なルールすら瓦解しているようだった。

 

「おい、急げ! もうすぐ始まるぞ」

 

「おいおい、今回は一体どこのどいつがアレを食う権利を毟り取るんだろうな?」

 

「決まってんだろ。力で奪い取った強者か、さもなきゃ船長の気まぐれだ」

 

 暗闇から漏れ聞こえる、欲望に濡れた賊たちの会話を息を潜めて聞き流しながら、自らの心の中に冷徹な一線を引く。

 

(関わるな。見るだけでいい。それ以上は破滅だ)

 

 今の自分には、あの化け物どもの争いに割って入る力など、微塵も存在しない。

 一歩でも近づけば、文字通り消し炭にされる。

 その程度の力関係は、嫌というほど理解していた。

 

 それなのに、逆らうことのできない引力に引かれるように、足は前へと進んでしまう。

 人の波の影に紛れ込むようにして、自然な足取りを装いながら最奥へと歩を進める。

 

 見渡せば、周囲の誰もが狂気に突き動かされたように同じ方向へ向かっていた。

 底なしの欲望に引き寄せられるように、その不気味な人の流れは止まる気配がない。

 

 徹底的に気配を消し、目立たないことだけを意識しながら、湿った廊下を抜け、さらに深部へと潜っていく。

 奥へ進むにつれて、肌に触れる空気が明らかに、そして決定的に変わっていった。

 

 重い。物理的な質量を持った圧迫感が肺を押し潰そうとする。

 それだけで、この先に待つのが生半可な地獄ではないことが、嫌でも本能に刻み込まれた。

 

(引き返すなら……今だ。今しかない) 

 

 冷徹な理性が、必死に脳内で警鐘を鳴らす。

 だが、この過密な熱狂のなかで、一人だけ流れに逆らって引き返せば、それだけで致命的な異物として目立ってしまう。この船で目立つことが何を招くかなど、考えるまでもなかった。

 進むも地獄、退くも地獄。

 

 やがて、密集していた人の流れがぴたりと止まり、歪な円を描くようにして視界が大きく開けた。

 

 すり鉢状になった空間の中央、煤けた台座の上に置かれていたのは──ただの素朴な木箱だった。

 

「……あれが、そうなのか」

 

 ゴクリと喉が鳴り、思わず呼吸が浅くなる。

 周囲を取り囲む血に飢えた海賊たちが、誰一人として不用意に近づこうとしない。

 いや、あまりのプレッシャーに、近づくことすら阻まれているのだ。

 

「開けろ」

 

 どこからか響いた低い地鳴りのような声。

 その一言で、場の空気が一段と冷たく沈み込んだ。

 反射的に恐怖から視線を逸らそうとするが、身体が硬直して動かない。

 磁石に吸い寄せられる鉄屑のように、意識が勝手にその中心へと引き寄せられていく。

 

 ギィ、と不吉な音を立てて、木箱の蓋が開け放たれた。

 

「……ッ!」

 

 そこに収められていたのは、奇妙な果実だった。

 うねるような、渦を巻く不気味な唐草模様が果皮の全面を覆っている。

 それはただそこにあるだけで、周囲の光を吸い込むような異様な存在感を放ち、空間を歪めていた。

 

(間違いない。本物だ……!)

 

 ──悪魔の実。

 

 誰もが息を呑んだ、その一瞬の静寂を切り裂くようにして、均衡が崩れた。

 

「俺がもらうぜッ!!」

 

 欲望に耐えかねた一人の巨漢が、獣のような咆哮を上げて前に飛び出す。

 

「あぁん? ふざけんじゃねぇよ!」

 

「テメェのような雑魚に、そんな上等なもんを渡すわけねぇだろ!」

 

 激痛のような殺気が一斉に解放され、張り詰めていた空気が派手に弾けた。

 

(……始まりやがったッ!)

 

 次の瞬間には、その場にいた全員が暴虐の嵐と化して動いていた。

 凄まじい衝撃波が走り、頑強な船の床板が爆破されたように粉々に砕け散る。

 さっきまで立っていたすぐ目の前の床が容赦なく抉れ、鋭利な木破片が礫となって顔をかすめて弾け飛んだ。

 

「⋯⋯ッ、しまっ……!」

 

 生命の危機を感じ、反射的に後ろへと飛び退いて距離を取る。

 だが、どれほど凄惨な肉弾戦が目の前で繰り広げられようとも、視線だけはあの木箱から外れなかった。

 化け物どもが血飛沫を上げて潰し合うその中心で、果実はまだ、無傷のままそこにある。

 

(……どうする。俺は、どうするんだッ⋯⋯)

 

 今すぐここから逃げ出すべきだということは、これ以上ないほど理解している。

 凡人が生きていていい場所ではない。

 それなのに、激しく打つ心臓とは裏腹に、呼吸は冷徹なほどゆっくりと整い始めていた。

 

(このまま雑用として擦り切れても、あの化け物たちに目をつけられても、どのみち俺は近いうちに死ぬ)

 

 座して死を待つくらいなら、万に一つの可能性、その狂気の賭けにすべてを賭ける方を選ぶしかない。

 乱戦は混沌を極め、もはや誰も木箱そのものを見ていなかった。

 全員が互いを殺し合うことに血眼になり、隙を探り合っている。

 

(……今だ。今しかない!)

 

 決死の覚悟で一歩を踏み出そうとした、その瞬間だった。

 

「邪魔だァ、ノロマがッ!!」

 

 視界の外、横合いから突進してきた何者かの凶悪な衝撃が脇腹に叩き込まれ、思考は強制終了した。

 

 身体が木の葉のように宙に浮き、次の瞬間には背中から思いきり床へ叩きつけられる。

 衝撃で肺の中の酸素が一気に力任せに吐き出され、喉が引き攣ってまともに呼吸ができない。

 

「が、はっ……、ぁ……!」

 

 視界が赤黒く激しく揺れる。

 しかし、悶絶している間にも、周囲の凄惨な殺し合いは一秒たりとも止まらない。

 鼓膜を破らんばかりの怒号と、肉を断ち骨を砕く衝撃が容赦なく頭上から降り注ぎ、戦禍の破片が雨のように飛び散る。頬に鋭い痛みが走り、生温い液体が顎へと伝っていく。

 

 自分の血だ。

 

(……無理だッ。やっぱり、こんなの、俺の手に負えるわけ……ちく、しょうがッ⋯⋯)

 

 圧倒的な現実の前に、己の無力さをはっきりと理解する。

 ここは、自分が立っていい戦場ではない。

 

(逃げる……ここから、消えねえと……)

 

 生存本能のまま撤退を判断した瞬間、別の爆風が近くで炸裂し、再び凄まじい衝撃が身体を襲った。

 雑巾のように床を転がり、滑り、何度も何度も叩きつけられる。

 

 口の中に広がる鉄の味と血の感触。

 それが自分自身のものか、あるいは他人の飛び散った返り血なのかすら、もう判別がつかなかった。

 そして、激しい摩擦の末に、ようやく身体の回転が止まった。

 

 泥をすするような荒い呼吸の中、霞む視界を必死に開いた、その真ん前にそれ(・・)があった。

 

 黒ずんだ木箱。

 

 手を伸ばせば届く、ほんの数歩の距離。

 

(……なんで、ここに。なんで、俺の前に……)

 

 理由なんて、どうでもよかった。

 天の悪戯か、あるいは因果の狂いか、ただの偶然として、ここに転がり着いたのだ。

 

 それでも。

 脳が考えるよりも先に、ボロボロの身体が勝手に動いていた。

 痛みを上げる腕を引きずるようにして泥臭く前へ進む。

 骨がきしむ激痛など、すでに意識の外へ霧散していた。

 血に染まった指先が、木箱の縁にガチリとかかる。

 そのまま、なりふり構わず中へ手を突っ込み、暗闇の感触を探る。

 

 ──あった。

 不気味な凹凸のある果実をその手で掴み取った、まさにその瞬間、戦場に響き渡るような猛々しい怒声が鼓膜を刺した。

 

「おいッ!! 何してやがる、その新入りッ!!」

 

 狂乱していた化け物どもの視線が、一斉に、鋭利な刃物となってこちらへ向く。

 

(殺される。一瞬で、肉片にされる)

 

 分かっている。完全に包囲された。

 もう、どこにも逃げ道なんてない。

 ならば、残された地獄の選択肢は、最初から一つだけだ。

 

「……食うッ!!」

 

 迷いも躊躇もすべて引き千切り、悪魔の果実を、その顎が外れんばかりに口の中へ押し込み、力任せに噛み砕いた。

 歯が果皮を破った瞬間、頭の芯が沸騰するような衝撃が走る。

 不味いなどという生易しいレベルではない。

 ドブネズミの死骸を煮詰めて腐らせたような、あるいは内臓を直に焼かれるような、およそこの世のものとは思えない形容し難い冒涜的な味が、口内と喉を暴力的に支配する。

 

「が、ああ、ッ……! ゲホッ、ッ!」

 

 全身の細胞が、喉の筋肉が、激しい拒絶反応を起こして吐き出そうとするのを、自らの命を削るようにして無理やり胃の奥底へと飲み込んだ。

 

 その、直後だった。

 身体の内側、細胞のすべてが爆発するかのように、何かが激しく弾けた。

 苦悶に震える指先から、バチバチと青白い火花が漏れ出し、それが次の瞬間には暴力的な駆動音を伴って膨れ上がる。

 

 ──バチッ!!!

 

 空間そのものが悲鳴を上げるような音と共に、周囲の空気が一瞬で引き裂かれた。

 手元から放たれた目も眩むような青白い雷撃が、一直線に伸び、襲いかかろうとしていた目の前の海賊を直撃する。

 凄まじい衝撃波と共に、男の巨体がまるで大砲で撃たれたかのように遥か後方へと吹き飛んでいった。

 

(……なんだ、これ。これが、悪魔の実の……力の、感覚なのか?)

 

 あまりの全能感と異常事態に脳の理解が追いつかない。だが、奇跡に浸るような猶予は、この最悪の船がくれるはずもなかった。

 

「あいつ、食いやがった!! 殺せ!! 力ごと奪い取れ!!」

 

 おびただしい数の殺気が、さっきとは比較にならない密度で、明確にただ一人へと向けられる。

 

(……来る。全員、俺を殺しに来る)

 

 獲物を見る目じゃない。

 裏切り者を嬲り殺しにするための獣の眼差しだ。

 それでも。

 

「……ハッ、まだ、死んでたまるかよ……っ!」

 

 指先に怨念を込めるようにして力を込めた瞬間、再び身体から奔流のような雷光が弾け飛び、大気をジリジリと焼き焦がす独特の臭気が一気に広がった。

 

 その現実離れした異様な光景に、襲いかかろうとした周囲の動きが、ほんの一瞬だけ恐怖によって硬直する。

 だが次の瞬間には、身の毛もよだつような怒号が戻り、迷いを振り払うように一人の剣士が、風を切る速度で鋭く踏み込んできた。

 容赦なく振り下ろされた巨大な刃は、確実に、無防備な首筋を捉えていた。

 肉が断たれる。そう思った瞬間、何も起きなかった。

 

 手応えが、一切ない。

 確かに骨ごと両断されたはずなのに、痛みも、切断されたという肉体的な感覚も、まるで残っていないのだ。

 

「……は? なんだこれ……!?」

 

 斬りつけた側の男が、自分の刃と斬りつけたはずの人物の姿を見比べ、心底困惑したように動きを止めた。

 

「⋯⋯どうなってんだ⋯⋯」

 

 ワンテンポ遅れて、恐怖と共に自分の腕へと視線を落とした。

 そこに確かに存在するはずの肉体は、人間の形を保ったまま、激しく明滅する青白い雷そのもの(・・・・・)へと変貌し、パチパチと周囲に光を散らしている。

 

(……斬られてるのに、すり抜けた。効いてない。俺の身体が、雷に……!?)

 

 断片的な知識と現実が頭の中でようやく結びつく。

 

 自然系(ロギア)。己の肉体そのものが自然の流動体と化す、無敵の能力。

 

 何度斬られようが、突かれようが、物理的な攻撃が一切通じない。

 

「……どうなってやがる、あの野郎……!」 

 

 張り詰めていた戦場の空気が一変する。

 さっきまでの容赦のない殺意が、未知の怪物に対する困惑と戸惑いへと、目に見えて変わっていくのが分かった。

 だが、だからといって安堵する余裕など微塵もない。

 己の意思とは無関係に、足元がふらつき、視界が激しく上下に揺れる。

 

(クソ、制御が……力の出し方が、全くコントロールできない……!)

 

「怯むな! 囲め!! 囲んで動けなくしろ、絶対に逃がすな!!」

 

 我に返った海賊たちの怒号が重なり合い、四方八方から一斉に距離が詰められていく。

 このまま物量で押し潰され、拘束されれば終わりだと直感した瞬間、迷う余地もなく、唯一包囲の薄い通路の方へと決死の思いで踏み出していた。

 

 次の瞬間、身体のすべての感覚が強烈に弾け飛んだ。

 あそこへ逃げる、という強い意識の指向性に引きずられるようにして、肉体が純粋な電撃へと変換され、そのまま空間を滑るような光速の勢いで通路へと駆け抜けた。

 さっきまでの鈍重な肉体とは比べ物にならない神速で距離を引き離すが、背後から飛んでくる無数の銃弾や斬撃の風圧は止まらない。

 だが、それらはどれも物理的な肉体を失った雷の体には届かず、虚しく空をすり抜けるようにして背後へ散っていく。

 

 それでも安心する余裕はなく、文字通り、制御の利かない野生の雷に身体を振り回されているようで、動きはガタガタに乱れ、床を踏みしめる足場の感覚さえ極めて曖昧で恐ろしかった。

 

 命からがら狭い通路へと飛び込み、壁に身体を預けながら、ようやく一瞬だけ振り返る。

 入り口から、すぐ背後まで凶悪な影が迫っているのを視界に捉えた瞬間、直感した。

 ただ逃げ回るだけでは、いずれジリ貧になって捕まり、殺される。

 

 ほんの一瞬、深く呼吸を整え、未だに体内の奥深くで暴れ回り、暴発したがっている未知のエネルギーへ意識を全集中させる。

 意思を無視して暴走するそれを、無理やり力ずくでねじ伏せ、押さえつけるようにして焦燥を引き締める。

 体内の四肢を走り回っていたバチバチとした熱い感覚が、少しずつ、一点へと集約され始めた。

 

「……動けッ。俺の、言うことを聞け……ッ!!」

 

 さっきまで勝手に火花を散らしていた狂暴な力が、明確な意志に従うように、右の指先にまとわりつきながら凝縮されていく。

 自分の意思で動かしている、という微かな確かな手応え。

 だが、それは洗練された制御とは程遠く、ほんの少しでも集中を切らせば、自分ごとこのエリア一帯を吹き飛ばしかねないほど不安定で、狂暴な代物だった。

 

「……いけェッ!!! お前ら、近づくんじゃねぇッ!!!」

 

 ほとんど恐怖に突き動かされた反射のまま、指先に限界まで集めた雷の奔流を、追撃してくる影に向けて叩きつけた。

 次の瞬間、鼓膜を狂わせるほどの凄まじい大轟音と共に、巨大な雷撃が狭い通路を一直線に突き抜け、追ってきた連中を容赦なくまとめて飲み込み、爆沈させた。

 肉と服が焦げた鼻を突く異臭と共に、通路に一瞬だけ、耳が痛くなるほどの静けさが落ちる。

 だが、激しく上下する肩を震わせ、呼吸を整える暇すら、その場所は与えてくれなかった。

 

「おいおい、ずいぶんと面白ぇ見世物をしてんじゃねぇか、新入り」

 

 声が、不意に上頭から降ってきた。

 

 ただそれだけの一言。

 しかし、その声が空間に落ちた瞬間、場の空気が目に見えて、物理的にねじ曲がった。

 さっきまで殺気立ってガセルを追おうとしていた周囲の海賊たちの動きが、まるで時を止められたかのようにぴたりと硬直する。

 まるで、世界そのものが恐怖で一段と静まり返ったかのようだった。

 

 全身の血が凍りつくのを感じながら、反射的に振り返った。

 暗がりの向こう、通路の入り口に悠然と立っていたその男を視界に入れた瞬間、背筋に、今まで経験したことのない悍ましい寒気が駆け抜けた。

 理由や理屈なんて、考える必要すらなかった。

 

 ただ、その姿を目にしただけで、魂が理解してしまう。

 さっきまで命がけで相手にしていた凶暴な海賊たちとは、存在の根源、生命の格そのものが根本から違うのだと。

 武器を構えるでもなく、派手な動きを見せるわけでもない。

 ただそこに悠然と佇んでいるだけなのに、その圧倒的な存在感の圧力だけで、無意識に一歩、二歩と後ずさりしたくなるような絶対的な支配力がそこにはあった。

 

 呼吸がまともにできない。

 浅く、引き攣った息しか吸えない。

 

 あまりの恐怖に視線を今すぐ逸らしたくなるのに、もしほんの一瞬でも目を離せば、その瞬間に自分の命が消えてなくなるような気がして、逆にどうしても目が離せない。

 

「……お前が、昨日拾われたっていう新入りだな?」

 

 男の口から漏れたのは、まるで世間話でもするかのような、軽く投げかけるような声だった。

 だが、それだけで、周囲を取り囲んでいた凶暴な海賊たちが、怯えた獣のように一斉に距離を取った。

 さっきまで悪魔の実を巡って好き勝手に暴れ回っていた悍ましい奴らが、今はまるで借りてきた猫のように、呼吸の音さえ殺して静まり返っている。

 

 誰も、男の言葉に口を挟む勇気など持たない。

 誰も、その男の領域に近づこうとすらしない。

 

 その周囲の絶望的な拒絶反応を見た時点で、もはや疑う余地はなかった。

 周囲の連中が昼間、畏怖と狂信を込めて口にしていたあの最悪の名前が、目の前の男の輪郭と完全に重なり合う。

 

 ──ロックス・D・ジーベック。

 

 喉が、ひどくカラカラに乾ききった。

 冗談じゃない。

 いくら生き残るためとはいえ、こんな序盤で、こんな最悪の形で対面していい相手じゃあないはずだった。

 

 世界の破壊者。

 その怪物が今、紛れもない現実として、自分の目の前に君臨している。

 

「……ふん、なるほどな。そいつを選んだか」

 

 男の視線が、わずかに此方に向けられた。

 ただそれだけの動作なのに、まるで全身の骨を重力で押し潰されるかのように、指一本動かせなくなる。

 

 格が、違いすぎた。

 

「好きにやれ。死なねぇうちはな」

 

 それだけを吐き捨てるように言い残すと、男は完全に興味を失ったように、無造作に背を向けた。

 そして、そのまま暗がりの向こうへと歩き去っていく。

 ドスン、ドスンと、床を揺らす重い足音がゆっくりと遠ざかっていく。

 その圧倒的な気配が、通路の奥へ完全に消え去るまで、身体は金縛りにあったようにピクリとも動かなかった。

 

 やがて完全に男の気配が消え去り、ようやく胸の奥に詰まっていた息を激しく吐き出す。

 その瞬間、自分の胸の奥で、心臓が今にも破裂しそうなほど、やけに大きく、狂ったように脈打っている音がはっきりと聞こえた。

 ほんの一瞬、ただ値踏みするように視線を向けられただけ。

 それだけのはずなのに、全身の筋肉が疲弊しきって、未だに震えが止まらない。

 

 今のが、あのロックス。

 そう脳が完全に理解した途端、さっきまでの海賊たちとの命がけの戦いとは、全く質の異なる、底知れない冷たい戦慄が背中を這い上がってきた。

 

「……生きてる。俺は、まだ……」

 

 掠れた声で、ぽつりと呟く。

 この化け物しかいない、世界の縮図のような地獄の中で、俺の命はまだ終わっていない。

 悪魔の力をこの身に宿し、あの怪物に目をつけられながらも。

 何とか、生き残った。

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