ロックス海賊団雑用係の生存記録   作:だれか、

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3話

 

 

 あの凄惨を極めた悪魔の実の暴動から、数日の月日が流れていた。

 

 相変わらずロックス海賊団の巨船は、耳を聾するほどの狂騒に揺れ続けている。

 怒号と狂った笑い声が飛び交い、饐えた鉄と血の臭いが潮風に混ざり合って鼻腔を焦がす光景は、何一つとして変わっていなかった。

 

 だが、その不変の地獄の中で、ガセル自身の立ち位置だけは、決定的に、そして不可逆的に変貌を遂げていた。

 以前のように、行きずりの海賊から虫ケラでも払うかのように理不尽に蹴り飛ばされることは劇的に減り、死体処理の重雑用を押し付けられる頻度も少なくなった。

 その代わりに、彼に向けられる周囲の視線の質が、明白な変化を見せていたのだ。

 露骨にせせら笑うような見下した敵意は鳴りを潜め、代わりに、刃物の切れ味を遠巻きに計るような、じっとりとした警戒の目が確実に増えている。

 あるいは、得体の知れない爆弾を面白がるような、狂気を孕んだ好奇の眼差しもあった。

 数日前まで死にかけていたボロ雑巾が、一躍して無視できない脅威の一端へ。

 その扱いの違いは、己の生存をかけた戦いにおいて、嫌というほど実感させられるものだった。

 

「……ゴロゴロの実。これで、間違いねぇな」

 

 軋む甲板の端に腰を下ろし、ガセルは己の手のひらを見つめながら小さく呟いた。

 あの夜、絶望のどん底で無我夢中に食いちぎった、あの悍ましい味の果実。

 その秘められた正体が、最強種の誉れ高き自然系(ロギア)であることは、この数日間の試行錯誤でほぼ確信に変わっていた。

 試しに意識のベクトルを自身の内側へと向けると、肉体を構成する物質の感覚が一瞬にして崩壊する。

 個体としての輪郭が急激に曖昧になり、次の瞬間には、骨も肉も形を保てなくなるような錯覚に包まれた。

 全身が微粒子となって大気に溶け込んでいくような、万能感と恐怖が入り混じった妙な感覚。

 

 最初のうちは数秒と維持できずに強制的に肉体へと引き戻されていたが、反復して感覚を研ぎ澄ますうちに少しずつ馴染んでいき、今では意識のオン・オフをある程度は思い通りに切り替えられるようになっていた。

 

 とはいえ、実戦で使うとなれば問題は山積している。

 雷へと変化するタイミングには致命的なズレが生じるし、一瞬でも集中力が切れれば、勝手に元の肉体へと戻ってしまう。

 さらに移動に関しては最悪の一言で、前方へ一歩踏み出すつもりで能力を開放した途端、制御を失った光速の質量として数メートル先まで強烈に弾け飛ばされたり、制動が利かずにそのまま床を転がったりと、到底まともに扱えているとは言い難い状態だった。

 

 そして何よりも一番厄介なのが、副産物として発生する放電の制御だった。

 電撃を外部へ放出すること自体は容易い。

 だが、その威力の微調整が全く利かないのだ。

 敵を気絶させる程度に抑えようとしても、少しでも力が込めば過剰な奔流となって周囲の床や設備ごと消し炭に巻き込んでしまい、逆に抑え込もうとすれば、ただの虚しい静電気のように霧散してしまう。

 

 破格の破壊力があることは理解できる。

 だが、それを己の五体として完璧に支配できているかと言われれば、答えは無惨なまでに否だった。

 

「おい、ガセル」

 

 不意に背後から声をかけられ、顔を上げる。この最悪の巣窟で、自分が一人の人間として名前で呼ばれることにも、ようやく馴染み始めていた。

 ほんの少し前までは、家畜を呼ぶような"おい"や"新入り"だけで済まされていたのだ。

 それが今や、一人の個としての戦力に変貌しつつあると周囲に認識されている。

 その違いが持つ重みは、生き残るための生存確率の変動として、思っている以上に巨大だった。

 

「敵船だ。お目当ての獲物が前方に見えたぞ」

 

 男の短い一言。

 だが、それだけで十分だった。

 瞬間、周囲の空気が飢えた獣の檻のように一気に牙を剥く。

 錆びた鉄が擦れ合う武器の抜刀音、ドスの利いた凶暴な笑い声。

 獲物を前にした悪鬼どもの気配が、瞬く間に船全体を覆い尽くしていく。

 

「行くぞ、遅れるんじゃねぇ!」

 

 血を求める誰かの咆哮に合わせるように、何人かの海賊たちのギラついた視線が、一斉にこちらへと向けられた。

 さっきまでの無視された空気とは違う。自分が明確に戦力として意識されているのがはっきりと分かった。

 だが、歓喜に浸っている余裕などない。

 

 次の瞬間、ドン、と五臓六腑を揺さぶる衝撃と共に船同士が激突し、凄惨な略奪の乱戦が幕を開けた。

 ガセルは突風のように踏み出すと同時に、己の肉体を青白い雷へと変え、そのまま敵の密集地帯へと文字通り突っ込んでいく。数日前よりは幾分かマシになったとはいえ、その制御はまだ完全からは程遠い。

 自分が今、地面を踏みしめているのかどうかすら曖昧な浮遊感のまま、それでも自然系(ロギア)の神速によって、敵との距離だけは一気に詰められた。

 

「な、何だこいつはッ。光ったと思ったら……ッ!?」

 

 敵の反応が一瞬遅れる。だが、突っ込んだガセル自身も、その超スピードに対する脳の処理が追いついていない。

 目の前に確実に敵を捉えているはずなのに、全力の踏み込みに対して、実体化する肉体の連動がついてきてこなかった。

 

 慌てて右の指先に意識を集中させる。

 さっきのように暴発させるのではなく、できるだけ外へ散らさないように、細い一本の矢として電撃のエネルギーを整える。

 そのまま、標的に向けて一気に解放した。

 

 ズドォン!!!

 

 轟音と共に青白い雷が一直線に走り、正面にいた敵の海賊の胸を容赦なく貫いた。

 それだけに留まらず、余波の電撃はさらにその後方に控えていた数人までをまとめて巻き込み、黒焦げの肉塊にして吹き飛ばす。

 

「……クソッ、またこれか」

 

 思わず苦々しい声が漏れる。

 一人だけをピンポイントで狙い撃ちしたつもりだったのに、雷は蛇のように激しく散って、後方の空間まで過剰に破壊していた。

 やはり、出力の精密な制御が追いついていない。

 

「死ねや、新入りがぁ!」

 

 横合いから、別の海賊が血走った目をして巨大なサーベルで斬りかかってきた。

 咄嗟に身構えるが、ガセルが防御の体勢を整えるよりも早く、鋭利な刃は何の抵抗もなく、ただの霧を割くようにその身体を虚しくすり抜けた。

 自分自身、一瞬遅れてその現象を客観的に理解する。刃が骨肉に当たっている視覚的な光景はあるのに、そこに苦痛も、手応えも、生命を脅かす感触が一切ない。

 

 それは、全力で武器を振り抜いた目の前の男にとっても同じだった。

 刃が素通りした勢いのまま体勢を崩して動きを止め、信じられない怪物を間近で見てしまったかのように、恐怖で目を剥いてこちらを凝視している。

 ガセルはその隙を見逃さず、至近距離から放電を叩き込むが、やはり軌道がわずかにズレる。

 狙った男の肩をかすめただけに終わり、猛烈な雷撃はその斜め後ろで油断していた別の男の胸へと直撃して派手に炸裂した。

 

(クソ、やっぱりまだ実戦じゃ安定しねぇな……)

 

 内心で激しく舌打ちをしながらも、ガセルは決して手を止めない。

 敵の攻撃は一切触れられず、こちらは一撃必殺の雷を放てる。

 その一点のみにおいて、凡人と化け物との絶望的なアドバンテージは、はっきりと確立されていた。

 

 だが、その無敵とも思える絶対的な優位が地鳴りとともに崩壊したのは、ほんの一瞬の出来事だった。

 

「ママママ……面白いじゃないかい、新入りの小僧」

 

 頭上から降ってきたその不吉な笑い声を聞いた瞬間、背筋の血液が文字通り氷結した。

 強張る身体を無理やり振り向けると、そこには、戦場の混沌を嘲笑うかのようにそびえ立つ巨大な女の影があった。

 彼女は確かに、歪な笑みを浮かべている。

 

 だが、その眼光はさっきまでの雑魚どもとは完全に一線を画していた。

 一見、新入りのオモチャを面白がっているように見えて、その双眸の奥だけは絶対的な冷酷さで、寸分も笑っていない。

 

「お前が噂の、雷の実を食った奴だろ?」

 

 舐めるように、品定めするように見下ろされる圧迫感。

 脳が考えるまでもない。

 かつて、甲板を一撃で破壊し尽くしたあの怪物の一角。

 

(……シャーロット・リンリン……!)

 

「いいねぇ、その自然系の力。少しオレと遊べよ」

 

 歌うような、軽い調子の言葉だった。

 だが、その音節が鼓膜に届いた次の瞬間には、彼女の巨体はすでに目の前の空間を埋め尽くしていた。

 あまりの速さに、ロギアスビードすら意味をなさない。

 

「⋯⋯ッ!?」

 

 視界を覆い尽くすように振り上げられた、圧倒的な質量を誇る拳。

 ガセルは己が物理的な攻撃の通じない雷人間であることに一縷の望みをかけた。

 当たらない、すり抜けるはずだ。

 そう確信した、まさにその瞬間だった。

 

「⋯⋯がはッッ!!!?」

 

 凄まじい衝撃波が、ガセルの肉体を真っ芯から突き抜けた。

 身体が信じられないほどの力で弾き飛ばされ、頑丈な甲板の上を何回転も激しく叩きつけられながら転がっていく。

 口内から鮮血が飛び散り、肺が潰れたかのような激痛が走る。

 何が起きたのか、脳の処理が完全にフリーズしていた。

 自然系の流動体であるはずなのに、すり抜けることなく、至極真っ当に、骨ごと粉砕せんばかりの暴力で殴り飛ばされたのだ。

 

「なんだい、なんだいその腑抜けた顔はさァ!」

 

 激痛にのたうち回るガセルを見下ろし、女が下卑た笑い声を上げる。

 その時、ガセルは視た。彼女の巨大な拳が、まるで黒い鉄の鎧を纏ったかのように、禍々しく漆黒に染まり変色しているのを。

 数瞬遅れて、元いた世界の知識が絶望とともに脳髄を駆け巡る。

 

(……これが。これがあの、実体を捉える力──覇気か……!)

 

 生きた心地がせず、必死に雷と化して距離を取ろうとするが、その世界の最高峰の速度を誇るはずの移動すら、彼女の踏み込みには容易く追いつかれる。

 

「遅い、温いねぇ小僧ッ!」

 

 容赦なく振り下ろされる二撃目。

 避ける術もなく、ガードの上から再び生身の肉体として叩きつけられ、甲板の床板が衝撃で激しく陥没する。

 無敵の能力が通じないわけではない。

 ただ、その能力の上から、絶対的な覇気の暴力によって文字通り押し潰されているのだ。

 

「その程度の練度じゃ、この船では三分と持たずにすぐ死ぬよ小僧」

 

 死を宣告するような、三撃目の絶対的な拳がガセルの頭上へ迫る。

 万事休す、そう本能が死を覚悟した、まさにその直前だった。

 

「やめろ、リンリン」

 

 地響きのような、低く重厚な声が乱戦の真ん中に割り込んだ。

 ただそれだけの一言。

 しかし、その声が響いた瞬間、激しい戦闘の音が嘘のように、ピタリと場から消え失せた。

 恐る恐る視線を向けると、そこには、身の丈を超える巨大な長刀を携えた大柄な男が、泰然と突っ立っていた。

 彼は武器を振るうでもなく、ただそこに佇んでいるだけなのに、その場にいた敵味方すべての海賊たちの動きが、凍りついたように止まっている。

 

「これ以上、俺たちの船を無駄に壊すんじゃねえよ」

 

 短く、淡々とした一言。

 それだけで、あの狂暴の権化であるリンリンが、忌々しそうに盛大な舌打ちをした。

 

「チッ……相変わらずクソ真面目な男だねぇ、ニューゲート。つまんないねぇ、興が削がれたよ」

 

 彼女はそれ以上、ガセルに追撃の一歩を踏み出すことはしなかった。

 地響きを立てて巨体の女が離れていくのを、這いつくばったまま確認して、ガセルの喉からようやく、血の混じった息が漏れ出した。

 命拾いした、助かったという安堵よりも先に、彼の胸の奥を激しく焦がしたのは。

 

(力が……圧倒的に、足りねぇ……!)

 

 ただそれだけの、剥き出しの飢餓感と屈辱だった。

 

「……あれが、本物の世界……」

 

 激痛に震える身体の底から、小さく呟く。

 ロギアの無敵を無に帰す、あの黒い力。

 あれを我が物として習得しなければ、この怪物の巣窟では、明日をも知れぬ雑魚として確実に淘汰される。

 

「……やるしかねぇ。やってやる、死んでたまるか……!」

 

 全身の骨がきしむように痛む。

 それでも、ガセルの意識だけは、炎のように熱く、冷徹なまでに澄み渡っていた。

 この地獄の底で、ただ消費されて止まるわけにはいかないのだ。

 それからの数日間は、周囲の海賊たちから見れば、ただの正気の沙汰とは思えない自殺志願者の猛特訓、その血生臭い繰り返しの光景だった。

 

 挑み、戦う。

 容赦なく叩きのめされる。

 血反吐を吐きながら立ち上がる。

 

 そしてまた、這いずりながら戦う。

 ガセルはもう、対戦する相手を選ばなかった。

 

 船内でも名の知れた幹部クラスの強者であろうが、一般の荒くれ者であろうが、とにかくあの、肉体を黒く変色させる力、覇気を行使する連中を見つけては、真っ向から無謀にもぶつかっていった。

 

 その無謀な挑戦の結果など、最初から分かりきっていた。

 ロギアの無敵が通用しない相手に対して、ガセルは一方的に殴られ、蹴られ、嬲られた。

 何度も何度も甲板に叩きつけられ、脳を揺さぶられ、視界が完全にブラックアウトしかける。

 

 ロギアだから当たらない。

 その、数日間で寄りかかっていた最大の前提が綺麗に崩れ去った時、ガセルは自分がまともな戦い方の基礎すら、何一つとして分かっていない現実に直面させられた。

 

 それでも、彼は絶対にやめなかった。

 意識が途切れる限界の一歩手前で踏みとどまり、わずかでも四肢が動くうちは、泥をすすりながらでも前に出て拳を突き出した。

 

 来る日も来る日も、過酷な敗北を繰り返す。

 最初のうちは、どれほど五感を研ぎ澄ましても、本当に何一つとして感覚を掴めなかった。

 殴られる瞬間、敵の肉体の中で何かが起きているのだけは肌で分かる。だが、その不可視のエネルギーの正体を、どうしても自分の肉体の動きへと落とし込むことができない。

 ただ、目隠しをして虚空を空振りし続けるような絶望感。

 どれほど相手の真似をしようとして力を込めても、自身の五体には何の変革も起きなかった。

 

 だが、それでも、心が折れる前にひたすら無心で肉体を酷使し、死線を彷徨い続けていると、ある戦闘の最中、限界を迎えた自身の右腕に、今までとは明らかに違う未知の重みが乗る感覚が、微かに、本当に一瞬だけ生まれた。

 ガセルはその微小な違和感を確かめるように、即座に腕の動かし方を変える。

 

 だが、掴みかけたと思った次の瞬間には、その感覚は陽炎のように消え去っていた。

 そのまま無防備な肉体へ敵の強烈な拳が突き刺さり、普通に遥か後方へと吹き飛ばされる。

 

「……クソ、今の……今の感覚は、一体……」

 

 泥を吐き出しながら言葉にしようとするが、思考が途中で途切れる。

 論理的な形にならない。

 ただ、さっきの一瞬だけ、世界がスローモーションになり、自身の肉体に何かが宿った残像だけが、強烈に脳裏に焼き付いていた。

 

 それからのガセルは、ただ殴るか避けるかという次元ではなく、その一瞬の感覚が宿る瞬間の波長に合わせて、全神経を集中させて動くようになる。

 

 だが、それは狙って出せるほど生易しいものではなかった。

 出た、と思った次の瞬間にはすでに指先から零れ落ちて消えている。全く同じように身体を動かしているはずなのに、手応えが決定的に違うのだ。

 それでも、骨が砕けるような衝撃の連続の中で、ほんの一瞬だけ、さっきの奇跡のような波長が、ガセルの右腕に戻ってくることがあった。

 

「……チッ、往生際の悪い新入りがッ!」

 

 対峙していた海賊が、ガセルの異様な執念に一瞬だけ気圧されて距離を取る。

 だが次の瞬間、業を煮やしたように殺気を膨らませて踏み込んできた。

 速い。生身の視覚では捉えきれない速度。

 反射的に、ガセルの右腕へすべての意識が一極集中する。

 今回は能力は一切使わず、ただひたすらに、あの体内に眠る不可視の鎧の感覚だけを引き寄せることだけに全神経を注いだ。

 

「⋯⋯ッ、こいッ!!」

 

 激しい衝突の質量。

 

「……あ?」

 

 爆音のあと、気がついた時には、ガセル自身の右腕の皮膚が、禍々しい漆黒の輝きを放ちながら変色していた。

 その黒い腕で敵の刃を受け止めた、まさにその一瞬だけ、相手の刃がビキビキと悲鳴を上げ、動きが完全に制止する。

 

 直後、出力の維持が利かず、次の瞬間には体勢を崩されて再び派手に叩き飛ばされていたが、それは紛れもなく、ガセルがこの地獄の海で、初めて覇気をその身に発現させた不朽の一瞬だった。

 

「……ははッ……」

 

 床に転がりながら、笑い声が漏れ出る。

 間違いない。今の手応え、骨に伝わった絶対的な硬度。

 

「これか……これが、覇気か……!」

 

 まだ完全に形になってはいない。ほんの数秒も維持できない、砂の城のような未熟な代物。

 それでも、彼は確かに、自らの意志であの化け物たちの力を使ったのだ。 

 

「もうそこまで来たか。やるじゃねェか」

 

 不意に、上頭から低く重厚な声が落ちてきた。

 痛む身体を引きずるようにして顔を上げると、そこには、あの時の一言で狂宴の場を支配した大柄な男が立っていた。

 圧倒的な威厳を放つ、あの男──エドワード・ニューゲート。

 

「……何の、用だ」

 

 ガセルは激しい息を整えながら、警戒を隠さずにドスの利いた声で問う。

 男は一瞬だけ、ガセルの鋭い眼光を正面から受け止め、それから彼の先ほど黒く染まった右腕へと視線を落とした。

 

「今の感覚、もう一回ここでやってみろ」

 

 短い、しかし有無を言わせぬ絶対的な促し。

 ここで彼に逆らう理由もメリットも、今のガセルにはない。泥塗れの身体でどうにか立ち上がり、さっき右腕に宿った、あの沸騰するような集中と波長を必死に思い出す。

 精神を一点へ研ぎ澄ます。

 だが、右腕はただの生白い皮膚のままで、何も起きなかった。

 

「……チッ、クソが」

 

 歯を食いしばり、もう一度。精神の糸が切れそうになるほど集中するが、それでも二度目の再現はできない。

 

「ハッ、そんなもんだ」

 

 ガセルの不甲斐ない無様な姿を見て、ニューゲートは呆れる風でもなく、ただ小さく鼻で笑った。

 

「そんな簡単に引き出せるもんなら、誰も苦労しねぇよ」

 

 それだけをぶっきらぼうに告げて、男は興味を失ったように視線を外す。

 

「だが……今お前が掴んだその感覚は、何一つとして間違っちゃいねぇ」 

 

 彼は大きな背中を向け、足を止めることなく、歩きながら言葉を続けた。

 

「お前は確かに、その手で核心の入口を掴みかけてる。……そのまま、死ぬ気で続けろ」

 

 ガタガタと床を揺らす彼の背中が完全に去っていくのを見送りながら、ガセルは肺の中の熱い空気を、ゆっくりと、深く吐き出した。

 あの背中に届くまでには、まだ気の遠くなるほど遥かな距離がある。

 それでも。

 

「……使えた。俺の手は、確かにあいつらに届き始めてる」

 

 その事実だけは、何があっても揺るがない絶対の真実として、ガセルの胸に刻まれた。

 なら、次にやるべきことは、最初から決まっている。

 

 この力が、呼吸をするのと同じように、己の五体として自在に使えるようになるまで。

 ただひたすらに、地獄の特訓を続けるだけだ。

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