吹き荒れる暴力の嵐、四散する肉片、そして肉を焦がす雷撃の残光。
死線が日常と化したこの凄惨な戦場に立つ感覚に、ガセルの心身はいつしか、奇妙なほど馴染み始めていた。
ロックス海賊団の巨躯が浮かぶ甲板は、今日も今日とて血で血を洗う、終わりなき修羅の縮図そのものだった。
そこには、統率された軍隊のような命令もなければ、美徳ある戦術の統制もない。
ただ、視線の先で飢えた獣たちが武器を振り回し、誰かが他者を嬲り殺し、そのすぐ真横で、喉を掻き切られた別の誰かが音もなく崩れ落ちていく。
誰も立ち止まることは許されず、ただ暴力という名の狂った歯車だけが、この巨大な船の上を勝手に、そして冷酷に回し続けていた。
「行くぞ、新入り! ぼさっとしてんじゃねぇ!」
背後から飛んできた粗暴な怒声。
その呼び方に対しても、ガセルの胸に湧き上がる違和感はもう綺麗に消え失せていた。
かつて死体処理や床磨きに追われ、いつでも使い潰せる犬のように扱われていた雑用という底辺の立場は、今や、最前線で敵の首を狩る明確な戦闘要員へと、実力で塗り替えられていた。
理由はどこまでも単純であり、それ故に絶対的だった。
実戦の極限状態で武装色の覇気を発現させ、戦闘の次元が一段階引き上げられたからだ。
まだ自在に引き出せるほど安定しているとは到底言えない。
それでも、肉体に宿る見えない鎧の力は、これまでの戦いの質そのものを、根底から劇的に変貌させていた。
迫り来る敵の影を見据え、ガセルは鋭く踏み込み、己の右腕へ全神経のベクトルを落とし込む。
「……ぬ、ぉおっ……!」
皮膚の奥から湧き上がる熱い衝動。
その瞬間、彼の右腕は衣服の上からでも分かるほど、禍々しく漆黒の鉄色へと変色を遂げた。
実体を捉える武装色を五体に纏わせ、さらにその上から、ゴロゴロの実が紡ぎ出す青白い電撃の質量を、容赦なく重ねて叩き込む。
バチィィッ!!!
鼓膜を破壊せんばかりの轟音と共に、肉体と肉体が真っ向からぶつかり合う。
それは、さっきまでのただ広範囲に散るだけの、燃えカスの電撃とは決定的に違っていた。
武装色の覇気を纏った拳は、雷の破壊力を極限まで一点に集中させ、対峙した敵の防御ごと、その存在を完璧に押し潰していた。
(……今のは、手応えがあった。この感覚だ……!)
確かな成長への手応え。
だが、感傷に浸る隙など一瞬も与えられない。
即座に死角から、同じように禍々しい武装色を拳に纏わせた、別の海賊の反撃が視界をよぎる。
「調子に乗るんじゃねぇぞ、小僧ォッ!」
ドゴォン!!! と、脳髄を直接揺さぶるような爆発的衝撃。
ガセルの身体は激しく弾かれ、甲板の床を削りながら後方へと吹き飛ばされた。
今の一撃は、先ほどの雑魚どもの攻撃とは比較にならないほど、重く、深く、肉体にまで痛烈な振動を伝えてきた。
(クソ、やっぱりまだ覇気の維持と制御が甘い……!)
骨の軋む痛みに耐えながら、ガセルは内心で毒づいた。
ただ一瞬纏えるようになったというだけで、実戦の混沌の中で完璧に、かつ安定して扱いこなせているわけではないのだ。
容赦なく流れ出る鼻血を手の甲で拭い、ガセルはよろめきながらも即座に立ち上がる。
乱れた呼吸を整える時間すら惜しむように、再び床を蹴って前方に踏み込んだ。
バチィィッ!!
放たれた電撃の拳が別の敵の顎を打ち抜き、また一人が白目を剥いて甲板に沈む。
その瞬間、ガセルを中心とした半径数メートルの空気が、ビリビリとした緊張感で一変した。
「まだ終わってねぇぞ、調子のんな新入りィッ!」
地を這うような怒声と同時に、凄まじい風圧を伴った踏み込みがガセルの正面へと迫る。
今度の相手は、さっきまでの連中とは纏っているプレッシャーの密度が違った。
体躯の大きさ、武器を構える構えの隙のなさが、明確に周囲の有象無象よりも格が一段は上の強者だった。
(……どう見ても、今の俺にとって格上だ)
喉の奥が乾くような恐怖。
それでも、この船で幾つかの修羅場をくぐり抜けてきたガセルの五体は、もう無様に慌てることはなかった。
極限の戦いの中で、武装色の質が、リアルタイムで徐々に変貌していくのを感じていた。
ただの荒削りな衝動だった力が、生き残るための明確な武器として、着実に洗練されていく圧倒的な実感があった。
「──ッらぁ!」
敵の武器が振り下ろされる刹那の踏み込みと同時に、ガセルの右腕に漆黒の覇気が音を立てて走る。
さっきよりも早く、さっきよりも淀みなく、自然に。
両者の渾身の拳が、真正面から衝突した。
ズウゥゥン……! と、空間そのものが一瞬だけ自重で沈み込んだかのような、重苦しい衝撃波が周囲に伝播する。お互いの覇気が火花を散らし、拮抗する。
(……よし、押し負けてねぇッ……!)
ギリギリの均衡を保っていた力関係が、ほんのわずか、徐々にこちら側へと傾き始めている。
ガセル自身がそれを自覚したまさにその瞬間、対峙する格上の男の表情が、驚愕によって激しく歪んだ。
「……な、にぃっ!? クソがぁッ!!」
男の叫びに混ざっていたのは、明らかな焦りと信じられないという驚愕だった。
次の瞬間、プライドを打ち砕かれた男の攻撃が、さらに狂暴な重みを増す。
彼の纏う武装色の密度が急激に跳ね上がった。
(来るッ!)
ガセルは、一歩も引かなかった。
能力の流動化で攻撃を無責任に受け流すのではなく、自分の足で立ち、その場で真っ向から受ける。
すべての覇気を、盾とする腕の一点へ集中。
ミシミシと骨が悲鳴を上げ、押し潰されるような超質量の圧力が腕を通じて全身を揺さぶる。
だが、それでも、ガセルの足は甲板を捉えたまま、後ろへ弾かれることはなかった。
(……耐え切った……!)
その厳然たる事実が、完璧に仕留めたと確信していた男の動きを、一瞬だけ硬直させた。
「……ば、馬鹿な……ッ!」
目の前にいる元雑用を、まるで理解不能な怪物を見るかのような、怯えの混じった眼差し。
そこに、ガセルの迷いは微塵もなかった。
好機を逃さず、深く踏み込む。
今度こそ、その右腕には確実かつ強固な、漆黒の武装色が完璧に纏われていた。
ドカァン! と、再び爆発的な衝撃が走り、結果として、完全な決着までは付かなかった。
だが、その一撃の威力に抗いきれず、格上だったはずの男がズルリと一歩後退した。
ほんの一歩。
しかし、この弱肉強食の船において、その一歩の意味はあまりにも重い。
それだけで十分だった。
周囲で戦況を見守っていた連中の空気が、わずかに、しかし決定的に変わる。
「……おい、嘘だろ。あいつ……もう雑用のレベルじゃねぇぞ」
遠巻きに見ていた誰かが、戦慄を隠せない様子でぽつりと呟いた。
そしてガセル自身も、荒い呼吸の中で、己の肉体が成し遂げた成果を深く理解していた。
(……間違いない。俺は、確実に成長出来てる……!)
上を見上げれば、まだ化け物のような幹部たちが何人も君臨している。
だが、少なくとも彼らと同じ土俵に、己の足で上がる権利だけは、この手で毟り取ったのだ。
略奪の戦いが終わりを迎えた後の甲板は、妙な静寂に包まれていた。
さっきまでの耳を聾するような狂騒が嘘みたいに引き潮の如く去り、残されているのは、無惨に叩き壊されてえぐれた床板と、呻き声を上げながら転がったままの敗者たちの死体だけだ。
ガセルは船の端、潮風が吹き抜ける手すりの下にどさりと腰を下ろした。
鉛のように身体が重い。
慣れない武装色を無理やり実戦で酷使した反動が、今になって右腕の芯に鈍い激痛として残っていた。
指先に力を入れようとしても、神経がわずかに麻痺したように鈍く遅れる。
「……はぁ、死ぬかと思ったぜ。クソが……」
小さく溜息混じりの息を吐き出した、まさにその時だった。
「ジハハハ……ジハハハハ……!!」
鼓膜を精神ごと不快に震わせるような、独特の不敵な笑い声が、遥か頭上から降ってきた。
「⋯⋯っ!?」
ガセルは反射的に顔を跳ね上げる。
そこには、青い空を背景にして、虚空にぽっかりと浮かび上がっている一人の男の姿があった。
足場などどこにもない。空中を地面であるかのように、当然の権利として重力を無視して浮いている。
「お前、なかなか面白ぇもんを見せてくれんじゃねぇか」
腰に帯びた名刀の柄に手をかけ、鮮やかな金髪を潮風に激しく揺らしながら、男は獰猛に笑った。
──"金獅子"のシキ。
脳が思考するよりも早く、ガセルの本能が全力で警鐘を鳴らす。
さっきまで戦場で相手にしていた有象無象の強者どもとは、それこそ天と地、次元そのものが比べ物にならない本物の化け物だ。
「お前、最近入ったばかりの新入りだろ?」
「……ガセル、だ」
必死に威圧感を撥ね退けながら、己の名前を真っ直ぐに名乗る。
「ジハハハ……ガセル、ねぇ」
シキはゆっくりと、まるで重力を手懐けるように空中を滑りながら降りてきた。
トン、と音もなく不気味なほど静かに甲板に着地する。
「お前、いつの間にそこまで覇気を使えるようになりやがった?」
「……いや。まともに使えるようになったのは、本当についさっきだ」
「ジハハハ! それであれだけの強度か。初陣にしちゃ上等すぎるじゃねぇか」
愉しげに笑うシキ。
だが、その爛々と輝く双眸の視線は、ガセルの身体から一瞬たりとも外れない。
ただ見つめられているだけで、背筋に嫌な冷や汗がダラダラと流れ落ちていく。
「なぁ、ガセル」
シキが再び、その名を低く呼んだ。
「お前、おれのとこに来い」
唐突すぎるその言葉に、ガセルは一瞬、言葉の意味が脳内で結びつかなかった。
「……は? 何を言って──」
「聞こえただろ、耳が悪いわけじゃねぇはずだ」
シキはまるで、今日の天気を語るかのように軽く言う。
「ロックスの頭の下で、このまま雑兵の群れに埋もれて居ても、お前みたいな奴に先はねぇぜ? ……おれの下にこい。おれが面倒を見てやる」
圧倒的な強者からの、逃げ場のない勧誘。
視線を外すことすら許されないほどの重圧が空間を支配する。
「……そんなことをして、いいのかよ」
強張る喉を震わせ、ガセルの口がどうにか動いた。
「この船の、絶対的な船長は……ロックスだろ」
一瞬の、不気味な静寂の間。
そして。
「ジハハハハハ……!! !」
シキは、腹を抱えるようにして大爆笑した。その狂った笑い声を抑える気などさらさらないらしい。
「あぁ、間違いなく強ぇよ」
ひとしきり笑った後、涙を拭うような仕草をしながらシキが言う。
「あの人はな。ロックスという男は、確かに底が知れねぇほどに強ぇ」
シキが一歩、ガセルへと近づく。肉薄する距離とともに、圧迫感が跳ね上がる。
「⋯⋯だが、それだけだ」
吐き捨てられた言葉は軽かった。
だが、その言葉に込められた質量は、決して軽薄なものではなかった。
「世界を支配するのは、このおれだ」
その言葉に、一片の迷いも、誇張もなかった。
最初からそうなることが世界の真理として決まっているかのように、当然のように言い切る。
「近いうちに、ロックスがいなくなった後、この海は今以上に激しく荒れる」
「その混沌の時代に、最後まで牙を剥いて残ってる奴が、世界のすべてを持っていくんだよ」
シキの細められた眼光が、ガセルの魂を覗き込むように鋭くなる。
「だからこそ、お前はおれのとこに来い」
有無を言わせぬ調子で、もう一度繰り返す。
「お前のその雷と覇気の才能、おれが直々に使ってやる」
さらに一歩、距離がゼロになるほど近づき、見下ろしてくる。
「おれの元で、世界の頂点へと一緒に駆け上がれ」
ジハハハ、と不敵に笑うシキ。
「さぁ、どうする?」
「このまま雑魚の群れに混ざって、いつか犬死にでもして終わるか」
「それとも。おれの元にきて、世界の支配者の一端に上り詰めるか」
重苦しい、緊迫した沈黙が場を支配する。
ロックス海賊団の最高幹部からの誘い。断れば、その場で消されるかもしれない絶望的な状況。
「……全く興味ねぇな」
ガセルの口から出たのは、そんな予想を裏切る言葉だった。
「あ?」
シキの笑顔がピキリと止まり、周囲の空気が一瞬で氷点下へと張り詰める。
「支配とか、世界を獲るとか……」
「そんな大層なもんに、俺はハナから興味はねぇんだよ」
ガセルは恐怖に震える本能を気合いで抑え込み、シキの目を真っ直ぐに見据えたまま視線を外さない。
「俺は──」
深く、一瞬だけ胸に息を吸い込む。
「ただ、死にたくねぇだけだ」
剥き出しの本音を、正面から言い切った。
世界が静止したかのような、完全な静寂が落ちる。
「……ジハハハ」
やがて、シキの喉の奥から、低く地響きのような笑い声が漏れ出た。
「つまらねぇことを、大真面目に言ってんじゃねぇよ」
さっきまでの陽気な軽さが、その顔から少しずつ綺麗に消えていく。
「このロックスの船に身を置いておきながら、ただ死にたくねぇだけで済むと本気で思ってんのか、お前は」
ドン、と靴音を響かせて一歩踏み込まれる。完全にシキの領域に呑み込まれる。
「野心も、世界に牙を突き立てる覚悟も何もない、そんなつまらねぇ奴から順番に死んでいくんだよ」
シキの目が蛇のように細くなる。
「それが、このクソッタレな海の絶対的なルールだ」
張り詰めた緊張が限界に達し、シキの刃が抜かれるかと思った矢先。
「ジハハハ……まぁ、いいさ」
シキは、実にあっさりとその場から身体を引いた。
「嫌いじゃねぇぜ、お前みたいな手合いは」
大袈裟に肩をすくめてみせる。
「案外、そういう何の欲もねぇ泥臭い奴が、最後までしぶとく生き残ったりもするからな」
シキはくるりと背を向け、去り始める。
「だが、一つだけよく覚えとけ」
背中を向けたまま、低い声がガセルの鼓膜に突き刺さる。
「この船にいる限り、いつか必ず選択を迫られるぜ」
「無理やりにでも上に行くか、それとも誰かに踏み潰されて沈むか、その二つに一つだ」
シキはわずかに首だけを動かし、冷徹な目で振り返った。
「お前がどっちの地獄に転ぶか、楽しみに見物させてもらうぜ。……ガセル」
ジハハハ、と不気味な笑い声を残しながら、シキの身体はふわりと宙に浮かび上がり、そのままどこかへと去っていった。
ようやく、元の静けさが甲板に戻ってくる。
「……はぁあぁあ……っ」
限界まで張り詰めていた緊張の糸が、ようやく解ける。
全身の奥深くに残っていた冷たい緊張の残滓が、遅れて強烈な疲労感となってガセルの身体にのしかかってきた。
(……最悪だ。また面倒な化け物に目を付けられちまった……)
小さく、長い溜息を吐き出す。
シキという男は、逃げ回って避けられるような生易しい相手ではない。
この先、この船で生き残っていく上で、関わらないままでいられるとも思えなかった。
(……本当に、最悪の環境だな、ここは)
内心で毒づきながらも。
去り際にシキが残した上に行くか、沈むかだ。という言葉が、呪いのように頭の奥底からどうしても離れなかった。
♢
それから数日。武装色の覇気は、どうにか実戦の形になりつつあった。
完璧な練度からは程遠いが、混沌とした乱戦の中で、意識して引き出すことくらいはできるようになっていた。
その防御の精度も攻撃の威力もまだまだ甘いが、それでも何もできなかった頃の無力な自分とは明らかに違う。
少なくとも、この怪物たちの巣窟であっても、出会い頭に即座に殺されるようなことは格段に少なくなっていた。
「……だが、これだけじゃ足りねぇ。次だ、次に行かなきゃ意味がねぇ……」
暗い部屋の隅で、ガセルは小さく呟いた。
次に自分が生き残るために必要なもの。
それは見聞色の覇気だ。
いくら武装色で攻撃を通せるようになり、防御力を高めたとしても、それだけでは片手落ちでしかない。
この船に君臨する本物の強者たちは、そんな段階で立ち止まるようなレベルではないのだ。
肉眼では到底捉えられない見えない速度で動き、意識の死角、絶対に防げない角度から致命的な一撃を叩き込んでくる。
そういう本当のバケモノと正面から当たった時、相手の動きを事前に感知し、反応できなければ、その時点で肉体を細切れにされて終わりだ。
だが、最大の問題は、その見聞色の具体的な鍛え方が、知識としても感覚としても全く分からないことだった。
武装色は比較的単純だった。
殴られ、殴り返し、肉体の生存本能が極限まで追い込まれれば、無理やりにでも引き出される類の力だったからだ。
だが見聞色は、肉体の外側の力ではなく、精神の深い部分にある感覚の領域だ。
頭では分かっていても、その感覚のスタートラインにどうやって近づけばいいのかが全く見当もつかない。
目を閉じて周囲の気配に集中する? 冗談じゃない。
そんな無防備な真似をこの狂った船の上でやれば、感覚を鍛える前に、背後から笑顔の同僚に首を撥ねられて死ぬ未来しか見えなかった。
「……一体、どうすればいいんだ……」
膝を抱え、小さく呟きながら重い息を吐き出す。
試行錯誤するための最初の一歩すら踏み出せない。武装色のように戦闘の中で強引に掴み取るにしても、そのきっかけとなる糸口が全く見えなかった。
──だから。
プライドも何もかも捨てて、あの男を頼るしかなかった。
この船の凶暴な最高幹部であり、あのシャーロット・リンリンの暴走すら正面から力ずくで抑え込める男。
どれほど血生臭い戦場の中であっても一切の動揺を見せず、圧倒的な余裕を保ったまま絶対的な存在として立っていられる存在。
「……あいつ、あの男しかいねぇか……」
意を決して立ち上がる。
足取りは本能的な恐怖で自然と重くなる。だが、足を止める理由にはならなかった。
──エドワード・ニューゲート。
あの男ほどの怪物が、見聞色の覇気を使えないはずがない。
この船の中でも群を抜いた最強の一角だ。
むしろ、使えないと考える方がどうかしている。
そして何より自分が武装色を掴みかけて床に這いつくばっていたあの時、あの男は無関心を装いながらも、ボソリと一言だけ、核心を突いたアドバイスを口にしてくれた。
ほんの一言だった。
それでも、あの言葉があったからこそ、ガセルの感覚は覇気の核心へと繋がったのは紛れもない事実だった。
「……なら、今回だって……」
上手くいけば、何か覚醒のきっかけくらいは掴めるかもしれない。
実際に手取り足取り教えてくれるかどうかは、また別の話だとしても。
深く呼吸をし、胸の動悸を抑える。
「……行くか。座して死を待つよりはマシだ」
そう自分に言い聞かせるように呟いて、ガセルは暗がりの部屋から歩き出した。
甲板の最奥、波飛沫が激しく激突し、他の海賊たちの騒がしい気配が薄くなる静寂の場所に、その巨漢はいた。
船の喧騒から隔絶されたその一角で、巨大な船の壁面に背を預けるようにして座り込み、彼は静かに、大きな大盃で酒を煽っていた。
何をしているわけでもない。ただ静かに佇んでいるだけ。
だが、ただそこに彼が存在しているというだけで、周囲の空間全体の空気が、物理的な圧力を伴って自然と張り詰めているのが肌で分かった。
ガセルは、数歩手前で思わず足を止めた。
これ以上近づくだけで、生物としての無意識の防衛本能が、全身の筋肉を硬直させて激しい警告を発している。
それでも、ここで引き返す理由などない。ここで躊躇い、恐怖に負けて背を向ければ、自分の成長はそこで完全に終わりを迎えるのだ。
覚悟を決めて、もう一歩、前方へと踏み出したまさにその瞬間だった。
「……何をしに来た、新入り」
ガセルの顔に視線すら向けないまま、地鳴りのような低い声が頭上から落ちてきた。
姿を見る前から、最初からこちらが近づいてくる気配に気づいていたのだろう。
その一切の隙のない態度が、逆に凄まじい威圧感となってガセルの肩にのしかかる。
「……あんたに、頼みがあって来た」
震えそうになる声を必死に抑え、真っ直ぐに言い切る。
だが、次の瞬間。
「帰れ」
それは、一秒の間すら置かない、冷徹な即答だった。
言葉の刃で叩き切るような一切の拒絶に、ガセルの次の言葉が一瞬だけ喉の奥で詰まる。
「ここはガキの遊び場じゃねぇんだ。用がないなら失せろ」
ニューゲートはそう淡々と言い捨てると、何事もなかったかのように再び大きな盃を傾け、静かに酒を口に運んだ。
その流れるような仕草一つで、これ以上の会話は一切無用だ。という明確な拒絶の意思が示されていた。
最初から、新入りの小言など取り合う気が微塵もないのだ。
(……クソッ、やっぱり一筋縄じゃいかねぇか……)
最初からこうなる可能性は高いと分かっていた。
それでも、ここで大人しく引き下がるわけにはいかないのだ。ガセルは奥歯を噛み締め、喉の奥から言葉を力任せに押し出した。
「……見聞色の覇気を、覚えたい! そのきっかけを教えてくれ!」
叫ぶようなその言葉に、わずかに周囲の空気が止まった。
ほんの一瞬だけ、静寂の間に奇妙な揺らぎが生まれる。
だが。
「知らねぇな。他を当たれ」
返ってきたのは、あまりにも無慈悲な一言だけだった。
男は再び、ガセルを完全に無視して酒に口をつける。その徹底した態度に、ガセルは自分が完全にシャットアウトされたことを痛いほど理解した。悔しさに、小さく舌打ちが漏れる。
「⋯⋯以前、お前に声を掛けたのは単なる気まぐれだ。俺に、お前を助ける義理はねぇ」
(……チッ、やっぱりだめか。こいつから一本釣りするのは無理があったか……)
諦めて別の方法を模索しようと背を向けかけた、まさにその時だった。
「ジハハハ……相変わらず冷てぇなァ、ニューゲートの旦那よォ!」
不意に、上空から滑り込んできたあの不快な笑い声に、ガセルは反射的に身体を強張らせて振り返った。
そこに浮遊しながらゆっくりと降り立ってきたのはやはり、金獅子のシキだった。
「せっかくの威勢のいい新人一人、そんな面で追い返すなんてよ、器が狭いんじゃねぇか?」
事態を面白がるように下卑た笑みを浮かべながら、シキは二人の間へとゆっくり歩いてくる。
その足取りには一切の躊躇いがない。
最初から、この二人の会話に強引に割り込むつもりで近寄ってきた動きだった。
「……何しに来た、シキ」
ニューゲートの声のトーンが、わずかに、だが確実に低く地を這うように変化した。
その変化は極めて小さいものだったが、ガセルの肌にはビンビンと伝わってきた。
彼は明らかに、この金髪の男の乱入を歓迎していない。
「ジハハハ、いいじゃねぇか、そんな怖い顔すんなよ!」
シキは周囲の殺気などどこ吹く風と言わんばかりに肩をすくめ、そのままギラついた視線をガセルへと向けた。
「おいガゼル、困ってんだろ? 見聞色の覇気の掴み方が分からなくてよォ」
こちらの意図を、完璧に見透かしたように言い当てられる。
「なら──」
シキはニヤリと口角を吊り上げ、一歩踏み出してガセルとの距離を詰めた。
「おれが、直々にその鍛え方ってやつを教えてやるよ」
その言葉の瞬間、周囲の空気が禍々しい色へと一変した。
(……最悪だ……!)
ガセルの脳裏に、本能的な拒絶が走る。
このシキという男に教わる未来が、まともな修行の形になるとは到底思えなかった。
むしろ、見聞色を覚える前に、こいつの気まぐれな攻撃によって肉体を木端微塵に破壊される可能性の方が遥かに高い。
「どうする、ガセル?」
シキが獲物を追い詰めた獣のように笑う。
「ジハハハ……安心しろよ、死なねぇ程度には可愛がってやるぜ?」
その言葉の中に含まれる狂気。
全く、一ミリたりとも信用できない。
だが、今の自分に他に手がないのも、また残酷な事実だった。
一瞬、ガセルの心に激しい迷いが生じる。
その、絶望的な均衡の瞬間だった。
「やめとけ、新入り」
地響きのような低い声が、横合いから重々しく割り込んだ。
驚いて視線を向けると、それまで頑なにこちらを見ようとしなかったニューゲートが、大きな盃を床に置き、ガセルの姿を真っ直ぐに見据えていた。
初めて、彼の双眸がガセルという存在を捉えている。
「その男が、何を企んでお前を利用しようとしてるか分かったもんじゃねえ。関わるな」
彼は静かに、しかし圧倒的な威圧感を伴って、その巨大な体躯をゆっくりと立ち上がらせた。
彼がただ一本の立ち木のように立ち上がる、その動作だけで、シキが作り出していた不気味な空気のすべてが、一瞬にしてニューゲートの圧倒的な覇気によって塗り替えられていく。
シキがわずかに眉を動かし、笑みを消した。
「ジハハ……言うじゃねぇか、ニューゲート」
「事実を言ったまでだ」
ニューゲートは短く、冷徹に返す。その言葉の刃に、一切の迷いはない。
そして男は再び、その圧倒的な眼光をガセルへと向けた。
「……おい、新入り。お前、こっちへ来い」
短く、しかし絶対的な一言だった。
「このハナッたれの面倒は──」
わずかに間を置き、ニューゲートは目の前のシキを牽制するように睨みつけながら。
「俺が見る。お前が口を出すんじゃねぇよ、シキ」
静かに、しかし絶対的な決定事項として、そう堂々と結んだ。