ロックス海賊団雑用係の生存記録   作:だれか、

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5話

 

 

 それから、エドワード・ニューゲートとの見聞色の覇気の修行という、地獄のような日々が幕を開けた。

 その初日、彼から最初に無造作に放り投げられたのは、何の変哲もない一枚の黒い布切れだった。

 そこには、理路整然とした技術の解説もなければ、感覚を導くための懇切丁寧な説明など一切存在しない。

 ただ犬の前に骨を放るかのように投げ渡され、それをガセルが両手で受け止めた瞬間、頭上から鉛のような重々しい言葉が突き落とされた。

 

「目を潰せ」

 

 余計な修飾語を削ぎ落とした、あまりにも短い命令。

 だが、その一言に込められた絶対的な威風に、ガセルの肉体は意味を思考するよりも先に、本能的な緊張で動いていた。

 ここで少しでも躊躇えば、男が差し伸べてくれた唯一の好機がその瞬間に零れ落ちて終わる。

 静まり返った甲板の空気が、嫌というほどそれを告げていた。

 

 ガセルは奥歯を噛み締め、黒い布を視界の前に当て、頭の後ろで固く結びつけた。

 瞬間、視界が完全に遮断され、暗黒の世界へと突き落とされる。

 太陽の眩い光も、人影の輪郭も、敵との物理的な距離感も、一瞬にして世界の表層から消え失せた。

 さっきまで当たり前に頼り切っていた三次元の現実が、急激に薄氷のように脆くなっていく。

 足元の頑丈な甲板の感触すら曖昧になり、自分が今、世界のどこに直立しているのかさえ確信が持てなくなるような深い喪失感。

 

「構えろ、新入り」

 

 暗闇の中で、ニューゲートの低い声だけが唯一の世界の標べとなる。

 ガセルはゆっくりと荒い息を整え、全神経のアンテナを自身の外側、張り詰めた空間へと向ける。

 視覚という最大の情報源を失ったのだから、人間の眠れる防衛本能として、何か別の感覚が微かな違和感を引っかけるはずだと、無理やりにでも周囲の空気を探ろうとした。

 

 だが、脳裏に広がるのは、完全な虚無だった。

 敵の気配も、服が擦れるわずかな動きも、波飛沫の音すら神経に拾うことができない。

 ただ底のない暗黒の空間の中にぽつんと放り出されたような孤立感だけが肥大化し、次第に自分自身の肉体と、外部の世界との境界線すら曖昧に溶けていく錯覚に陥る。

 

(クソ……何も、何一つとして視えねぇし分からねぇ……!)

 

 焦燥が胸を焦いた、まさにその瞬間だった。

 

 ドゴォン!!!

 

 何の前触れも、風を切る音の予兆すら一切なく、ガセルの脇腹へ文字通り爆弾のような衝撃がダイレクトに叩き込まれた。

 

「がはっ……、ぁあッ!!?」

 

 肺の空気をすべて搾り取られ、内臓が飛び散るかのような激痛と共に身体が軽々と宙に浮く。

 反応する暇どころか、痛みを自覚する猶予すら与えられないまま虚空を吹き飛ばされ、そのまま冷たい甲板の床板の上を無様に激しく転がった。

 どこから拳が飛んできたのか、何が起きたのか、一切を理解できないまま、ただ天地が逆転して肉体が破壊されたという結果の感覚だけが、惨めに脳裏に取り残される。

 

「……話にならねぇな」

 

 這いつくばるガセルの頭上へ、深海から響くような冷淡な声が落ちてくる。

 

「武装色の覇気の才は、まぁ、そこらの雑魚に比べりゃそこそこ見所はあった」

 

 ニューゲートは淡々とした口調のまま、情け容赦なく現実を突きつける。

 

「だが、見聞色の気配に関しては、お前にはその欠片すら眠っていねぇみたいだな」

 

 一切のオブラートに包まない剥き出しの言葉が、ガセルのプライドへと深く突き刺さる。

 

「……く、っ……」

 

 反論の言葉など、一枚も出てこない。

 今の一撃の瞬間、本当に何も捉えられなかったのだ。

 ただ突然世界が爆発したかのように、唐突に殴られただけ。

 反応が遅れたという次元ではない。

 攻撃が来るという前提の感覚そのものが、ガセルの世界には最初から存在していなかった。

 

「立て。いつまで無様に寝転がってやがる」

 

 冷徹な命令が再び降る。

 

「今の一撃、お前には何が起きたのかすら分からなかったはずだ」

 

「それが、お前が今立っている現在地って事だ」

 

 ニューゲートの言葉には、一切の妥協も温情もない。

 

 「当たる前に動け。拳が来るって分かってりゃ、当たる場所に居続けねぇだろ。……それだけだ」

 

 理屈など何一つとしてない、あまりにも横暴な暴力の論理。

 だが、それを否定しうるだけの材料を、今のガセルは持ち合わせていなかった。

 

「……っ、死んで、たまるか……!」

 

 布の奥で血の涙を流すように歯を食いしばりながら、泥塗れの身体を無理やり起こす。

 感覚の麻痺しかけた両腕に力を込め、生まれたての小鹿のように震える両足で甲板を激しく踏み締め、無理やり立ち上がった。

 たった一撃の打撲で全身の骨が軋むような悲鳴を上げているが、ここでへたばって止まる理由にはならない。

 

 再び、暗黒の中で無様に腰を落として構える。

 やはり見えない。何も分からない。

 それでも、さっきよりも狂気的なまでに鋭い意識の網を外へと張り巡らせる。

 完全な虚無の暗闇の中から、爪を立ててでも無理やり何かを拾い上げようと、神経を極限まで尖らせた。

 

 ニューゲートの僅かな呼吸。

 流れる潮風の微小な変化。

 巨大な質量が移動する際の、足場の床板の軋み。

 そのすべてに意識を向け、耳を澄ます。

 

 だが。

 

 ドカァン!!!

 

 再び、何一つとして予兆を感知できないまま、強烈な衝撃がガセルの胸元へ叩き込まれた。

 

「がはっ……ひゅ、っ……!」

 

 二発目。何の進歩もない、さっきと完全に同じ結末。

 何も変わっていない。

 

「動きが遅ぇ以前の問題だな」

 

 暗闇の向こうから、冷ややかな声が鼓膜を打つ。

 

「敵の存在を、最初からその五感の枠組みで捉えられてねぇんだよ」

 

 その厳然たる言葉が、鉛のような重みとなってガセルの心にズシリと残る。

 這い上がり、また構える。

 だが、三度目も、四度目も、結果は残酷なまでに反復されるだけだった。

 何も分からないまま、唐突に不可視の暴力によって殴り飛ばされ、肉体を破壊される。

 回数を重ねるごとに骨はきしみ、体力は底をつき、正常な思考すら酸欠で鈍っていく。

 それでも、何かを感じ取ったという確信の光は、最後まで一瞬たりともガセルの脳裏に訪れることはなかった。

 

 ただ、一方的に化け物に殴られる。

 その不条理な苦痛だけが、狂った時計の針のように延々と繰り返されていった。

 

「……今日はここまでだ」

 

 どれほど時間が経った頃か、不意に宣告の声が落ちた。

 

「……っ、は、あぁ……っ、はぁ……」

 

 張り詰めていた糸が切れた瞬間、ガセルはその場に糸の切れた人形のように崩れ落ちた。

 指一本すら動かすことができない。

 静まり返った甲板の奥で、自身の荒い呼吸の音だけがやけにうるさく、情けなく響き続ける。

 

 震える手で目に巻き付いた黒い布を剥ぎ取る。眩しい夕暮れの光と共に視界が戻る。

 だが、視界が戻ったところで、自身の内側は何一つとして変わっていなかった。

 

「……何も、何一つとして掴めてねぇじゃねぇか……」

 

 自分自身の無力さが、嫌というほど理解できる。

 手応えは、完璧なまでにゼロだった。

 ただ、全身を襲う激痛の中で一つだけ、冷徹に理解させられたのは。

 

(……クソが。このままあいつの言う通りに殴られてるだけじゃ、絶対に無理だ)

 

 その絶望的なまでの限界の壁だけだった。

 

 ──二日目。

 泥のように眠ったものの、肉体の激痛は微塵も抜けきっていなかった。

 むしろ、筋肉が炎症を起こして固まったせいで、昨日よりも全身が鉛のように重く感じるほどだ。

 ニューゲートの拳が叩き込まれた箇所が青黒く変色し、わずかに四肢を動かすたびに、骨の芯から悲鳴のような軋みが走る。

 

 それでも、ガセルの足は磁石に引き寄せられるように、自然と昨日と同じ甲板の最奥へと向かっていた。

 

「……頼む、見聞色を掴むためのコツを教えてくれ」

 

 座り込んでいる巨漢の前に立つなり、開口一番、ガセルはそれだけを絞り出すように言った。

 昨日一日中、ただ無様に殴られ続けて、掴めたものは文字通り皆無だった。

 ただ痛みを骨に刻まれて終わっただけだ。

 このまま同じ理不尽な暴力を何百回繰り返したところで、結末が劇的に変わる気がどうしてもしない。

 だからこそ、プライドを捨てて縋るように問いかけたのだ。

 

「このまま同じことを繰り返したって、俺は何も変わらねぇままだ」

 

 少しの間、波の音だけが周囲を支配する沈黙。

 それから、大盃を傾けるニューゲートの喉の奥から、低く冷淡な声が落ちる。

 

「そんなもんは、ねぇな」

 

 一切の余地を残さない、あまりにも短い返答。

 

「……は? ないって、そんなわけ──」

 

 思わず怒りに顔を上げる。

 そこには昨日と何一つ変わらず、泰然と座り込んで酒を煽っているエドワード・ニューゲートの絶対的な姿があった。

 相変わらず、ガセルに対して視線すら寄越そうとしない。

 

「覇気なんてもんにはな、他人に手取り足取り教わるようなコツなんてもんは最初からねぇんだよ」

 

 彼は淡々と、冷徹な事実として言葉を続ける。

 

「できる奴は最初から感覚でできるし、できねぇ奴は一生かかってもできねぇ。そういうもんだ」

 

 あまりにも突き放した、個人の努力すら全否定するような言い方だった。

 

「……だったら、俺はどうすれば⋯⋯」

 

「死ぬ気でやるしかねぇだろ」

 

 ガセルの反論を、遮るように重い一言が圧し潰す。

 

「お前は今、周囲の気配を何一つとして捉えられてねぇ。完全な白紙だ」

 

「なら、その何も見えねぇ無力な状態で、身体が千切れるまで殴られてその骨に感覚を覚え込ませるしかねぇんだよ」

 

 突き放し、突き落とすようなぶっきらぼうな言い方。

 だが、それこそがこのロックス海賊団という弱肉強食の世界における、厳然たる現実のすべてだった。

 

「……そんな無茶苦茶な方法で、本当にできるようになるのかよ」

 

 絶望に近い疑念の問いが、無意識に喉から漏れ出る。

 一瞬の、深い間。

 

「ならねぇなら、そこで文字通り終わりだ」

 

 当然の義務であるかのように、ニューゲートは冷たく言い放った。

 

「……っ」

 

 ガセルは言葉を完全に詰まらせた。

 この船において、この海において、できなければ死ぬ。

 それこそが唯一絶対の真理であり、それ以上でもそれ以下でもないのだ。

 弱者に差し伸べられる救いの手など、この船のどこを探しても存在しない。

 

「ただ、一つだけヒントを残してやる」

 

 ニューゲートが、ここで初めて、わずかに鋭い視線をガセルへと向けた。

 

「闇雲に、周囲の空間のすべてを探ろうとするんじゃねぇ」

 

「そんなことをすりゃあ、世界の余計な雑音や情報に気を取られて脳がパンクするだけだ」

 

「お前の世界の中で、動いた瞬間のものだけを意識の網で拾い上げろ」

 

 短く、しかし昨日までの理不尽な命令に比べれば、明らかに具体的で明確な言葉だった。

 

「……周囲のすべてじゃなく、動いたもの、だけを……」

 

 ガセルは布の奥で、その言葉を小さく反芻する。

 完全な理論としてはまだ理解しきれない。

 だが、闇雲に広げていた意識の焦点をどこに絞ればいいのか、その輪郭が少しだけ見えた気がした。

 

「……分かった。やってやるよ」

 

 深く息を吐き出し、覚悟を決める。

 再び立ち上がる。

 全身の筋肉は激しく重く、昨日刻まれた打撲の痛みも全く消えてはいない。

 それでも、ここで歩みを止める理由にはならなかった。

 

「続けるぞ、ニューゲート」

 

「あぁ。死ぬんじゃねぇぞ」

 

 短く交わされる言葉。

 ガセルは黒い布を再び手に取り、目に深く巻き付けた。世界から再び光が消え去り、漆黒の闇が訪れる。

 だが、昨日とはほんの少しだけ、意識のスタンスが違っていた。

 

 無理に周囲の気配を探ろうとしない。

 見えない空間から何かを掴み取ろうと焦るのをやめる。

 ただただ、静寂の世界の中で明確に変転し、動いたものの兆候だけに、神経の照準を絞り込む。

 

「構えろ」

 

 声が落ちる。

 ガセルは呼吸を深く整え、何もない無限の暗黒の空間に直立する。

 

 そして。

 

 ドゴォン!!!

 

 またしても、何一つとして感知できない速度のまま、無惨に殴り飛ばされた。

 

「がはっ……、ぁ……っ!!」

 

 変わらない。やはり何も掴めていない。

 意識を絞ろうが何をしようが、化け物の前ではただの無力な的でしかなかった。

 結局、昨日と何一つ変わらない敗北の反復。

 

「……くそ、もう一回だ。まだ、終わらせねぇ……!」

 

 床に血を吐き出しながら、ガセルは倒れたままそう激しく吐き捨てた。

 何一つとして手応えは掴めていない。状況は一ミリも好転していない。

 

 それでも。

 この地獄で生き残ることを、諦めるつもりだけは毛頭なかった。

 

 

 それから、果てしない暗黒の暴力に耐え続ける一ヶ月の月日が流れた。

 何かが劇的に変わったという明確な覚醒の実感は、結局のところ、その期間中ただの一度も訪れることはなかった。

 黒布を巻き、殴られ、床に倒れ、血を吐きながら立ち上がり、そしてまた見えない拳に殴られる。

 そんな地獄のルーティンを繰り返す中で、確かに何かの気配の端っこに触れかけたような、奇妙な錯覚を覚える瞬間は何度かあったはずだった。

 しかしそれは、掌で強く握りしめようとした瞬間に指の隙間からサラサラと零れ落ちていく砂の城のように、気がつけば脳裏に形も残さず綺麗に消え去ってしまうのだ。

 

 手応えは掴めない。意図的な再現もできない。

 ただただ、自分は見聞色の覇気を行使できていないという残酷な敗北の事実だけが、一ヶ月分の打撲傷とともに肉体に積み重なっていく。

 

「……クソが。何が動いたものだけを拾うだ。綺麗事じゃねぇか……」 

 

 誰もいない甲板の端で吐き捨てた言葉には、もうかつてのような覇気も力も残っていなかった。

 ボロ雑巾のようになって手すりの下に腰を下ろし、ただあてもなく広がる広大な海を見下ろす。

 波はいつも通りに青く揺れていて、潮風も変わらずに冷たく吹いているのに、それらの自然の現象にどれほど意識を集中させてみても、覇気の核心には何一つとして手が届かない。

 

 音も、波の気配も、風の動きも、すべてが脳にとってはただの同一の等価な情報でしかなく、自分が生存のために求めている見聞色という特殊な感覚とは、決定的に何かが、根本的なピースが違っていた。

 

(分からねぇ……本当に、何が間違ってるんだ……)

 

 自分に何が足りないのか。

 アプローチの何を間違えているのか。

 どれほど脳髄を回転させて考えようとしても、答えへと繋がる確かな糸口すら見つけられない。

 ただ一つ確実にガセルの胸を締め付けていたのは、このままぬるい修行を続けていても、自分は一生何も変わらないまま、いつか殺し合いで死ぬかもしれないという、底なしの焦燥感だけだった。

 

「ママママ。随分と、しけた渋い面をして座り込んでるねぇ。ガセル」

 

 不意に、頭上の空間から降ってきたその傲岸不遜な声音に、ガセルの思考の歯車が強制的に切り替わった。

 振り返ってその姿を確認する必要など、最初からなかった。

 周囲の空気を一瞬で毒々しいまでのプレッシャーで支配する、その圧倒的な質量と存在感だけで、背後に誰が立っているのかは嫌でも理解させられる。

 

 ──シャーロット・リンリン。

 

「ニューゲートの野郎と一ヶ月もかけて、随分とぬるい見聞色の真似事に励んでるらしいじゃないかい」

 

 こちらの無様な足掻きを、心底面白がるような邪悪な聲音だった。

 ただそこに立って見下ろされているだけで、全身の皮膚を刃物で撫で回され、値踏みされているかのような、強烈な不快感が肌にじっとりとまとわりつく。

 

「わざわざその面を見りゃあ一発で分かるさ。……全然、うまくいってねぇんだろ?」

 

 完璧な図星だった。だが、ガセルの口から返す言葉は出てこない。

 自身の無能を否定するための材料が、この一ヶ月の成果のどこを探しても何もなかったからだ。

 

「あいつは見た目に反して、根本的に甘いからねぇ」

 

 リンリンはニューゲートのやり方を吐き捨てるようにして鼻で笑った。

 

「ただ目隠しして、優しく殴ってるだけじゃあ、いつまで経っても殻を破れねぇ種類の出来損ないもいるんだよ」

 

 その言葉の終わりと同時に、ドスン、と地響きを立てて彼女の一歩がガセルの目の前へと詰め寄られた。

 それだけで、周囲を流れる空気の密度が、生存を許さない絶対的な殺意へと変貌する。

 

「代わりにオレが直々に本物のやり方ってやつを教えてやるよ」

 

 ガセルの本能へ、致命的な嫌な予感が遅れて背筋を駆け抜ける。

 

「……何を企んで──」

 

 言葉を最後まで形にして吐き出すよりも早く、ガセルの視界が爆発的な衝撃で弾けた。

 ドンッ!と、リンリンの巨大な手のひらがガセルの顔面を猛烈な速度でかすめ飛んだ瞬間、凄まじい風圧と衝撃で脳の焦点が一気に崩壊し、世界の輪郭がグニャリと歪む。

 あまりの激痛と目眩に反射的に目を閉じるが、再び無理やり開こうとしても、世界の光はただ滲むような赤黒いモザイクへと変わるだけで、何一つとして像を結ばない。

 リンリンの一撃によって眼球の神経が一時的に破壊され、視界は文字通り、完全に役に立たなくなっていた。

 

「ママママ! そうさ、それでいいんだよ!」

 

 暗黒の世界のすぐ近くで、低くドスの利いた残酷な声が落ちる。

 

「その、完全に追い詰められた状態でやりな」

 

 リンリンの声には、さっきまでの新入りをからかうような軽薄さは、もう欠片も残っていなかった。

 

「目が見えねぇってんなら、生き残るために頼るべき感覚の器官を、力ずくで変えるしかねぇだろ?」

 

 言葉の文字数は短い。

 だが、その高度な意味を脳内で論理的に考える余裕など、今のガセルには一秒たりとも残されてはいなかった。

 それよりも先に、生物としての原始的な本能が、この状況の狂気を完璧に理解していた。

 これは、ニューゲートがやっていたような修行なんていう、生ぬるい言葉で呼べるものでは断じてない。

 

「いいかいガセル。次のオレの一撃、避けられなきゃその頭を踏み潰して殺すからね」

 

 その絶対的な死の宣告の一言で、ガセルの全身の細胞のすべてが、かつてないほどの恐怖で極限まで引き締められた。

 冗談でも、脅しでもない。

 この目の前の怪物は、自分の気分と思いつきで、今ここで自分を本当に処理するつもりなのだ。

 手加減や配慮など、彼女の辞書には最初から存在しない。

 ガセルは激しくのたうち回る呼吸を、無理やり喉の奥で抑え込む。

 視界は完全に潰れて使えない。

 周囲の物理的な状況も全く分からない。

 頼れる武器も、知識も、ここには何一つとして残されていない。

 

 それでも。

 決定的に、この一ヶ月間の修行とは何かが違っていた。

 世界の空気が、尋常ではない密度で張り詰めている。

 潰れた皮膚の上を、目に見えないざらついた、刺すような冷たい圧が這うようにして広がり、意識の外側の輪郭を激しく撫で回していく。

 

 今までニューゲートとの修行の中では決して感じたことのなかった種類の、生物としてのドス黒いエネルギーの奔流が、確かにそこにあった。

 

(……なんだ、これは。何が、起きようとしてる……!?)

 

 脳でその正体を思考しようとした瞬間、ガセルの思考そのものが強制的に停止した。

 論理的な理屈では到底追いつかない。

 ただ、死線を何度もくぐり抜けてきた生物としての本能だけが、脳の命令を無視して五体を勝手に駆動させる。

 

 ──来る。今、ここで動かなければ、確実に死ぬ。

 

 その絶対的な確信の感覚だけが、暗黒の世界の中で異様なほど鮮烈に、一本の赤い線のように浮かび上がった。

 敵の正確な位置も分からない。

 振り下ろされる拳の軌道も方向も分からない。

 だが、自分の生命を消し去るための絶対的な破滅の質量が、今まさに目の前の空間から肉薄しているという事実だけが、脳髄に直接突き刺さる確信として存在していた。

 

「⋯⋯っ、おおぉぉぉっ!!!」

 

 意識して筋肉を動かすよりも早く、ガセルの肉体は光速の反射で動いていた。

 ただ無我夢中に、半歩だけ、身体を斜め後ろの横へと跳ねさせる。

 

 ズゴォォォンッッッ!!!!!!!

 

 まさにその刹那、ガセルがさっきまで頭を置いていたまさにその空間が、リンリンの巨大な拳によって完全に圧し潰され、甲板の床板が爆音とともに木端微塵に弾け飛んだ。

 猛烈な破壊の風圧が遅れてガセルの全身の皮膚を叩きつけ、ほんの髪の毛一本分のズレ、コンマ数秒のタイミングの狂いが生死の境界線を分けたのだと、本能が理解して戦慄する。

 

「……へぇ」

 

 暗闇の向こうから、心底感心したかのような声が落ちてきた。

 

「今の一撃を、この間合いで完全に避けてみせたかい」

 

 ガセルは両膝をついたまま、荒くなった呼吸をどうしても抑えきることができなかった。

 心臓が肋骨を突き破らんばかりの異様な速さでドクドクと脈打ち、さっき脳裏を駆け抜けた一瞬の閃きの感覚を、壊れたテープレコーダーのように何度も激しく反芻する。

 

 今のは、今までの一ヶ月とは決定的に違う。

 ただの偶然の回避じゃない。

 今までどうしても掴めなかった、覇気の核心となる何かが明確にそこにあった。

 

「マンママンマ! それだよ、まさにそれさ、ガセル!」

 

 リンリンが満足そうに悪魔の笑みを浮かべる。

 

「今、お前が死の恐怖の中で反射的に反応したもの。それこそが、世界の本物の強者たちが扱っている見聞色の覇気の正体だよ」

 

「……今のが……あれが、見聞色の、気配……」 

 

 ガセルの喉から、掠れた掠れた声がどうにか漏れ出る。

 

「あぁ。ニューゲートの野郎が言ってたような、温い周囲の気配や音なんていう綺麗なもんじゃないさ」

 

「敵がお前を明確に殺そうとする意志の顕現──つまり、殺気さ」

 

「お前のひ弱な本能は、あたしの圧倒的な殺気の塊にだけ、ようやく恐怖で反応できたんだよ」

 

 リンリンの言葉が、ガセルの潰れた脳裏の奥深くに、ゆっくりと、しかし確かな楔として沈み込んでいく。

 

(……気配の察知じゃない。敵の……俺を殺そうとする、殺気……)

 

 確かに、さっき暗黒の中で五感が捉えたものは、音でも肉体の動きでもなく、己の生命を脅かす純粋な暴力の意志そのものだった。

 それだけが、世界のあらゆる無駄な環境情報とは全く別の、圧倒的な赤く燃える危険信号の形で存在していたのだ。

 

「お前はなァ」

 

 リンリンの巨大な足音が、ゆっくりとガセルから遠ざかっていく。

 

「おとなしく机で勉強するようなタイプじゃねぇのさ。本当の殺し合いの実戦の中でしか、その才能が伸びねぇタイプの狂犬なんだよ」

 

「ただ安全な場所で目隠しして、優しく殴られてるだけじゃあ、一生その本当の危機感ってやつが分からねぇままだ」

 

 その言葉に対して、ガセルはもう何の反論もできなかった。

 ただ無駄に肉体を痛めつけただけの一ヶ月という無為な時間が、リンリンのその冷酷な指摘が正しいことを、完璧に証明していたからだ。

 

「ぬるい修行ごっこなんてやってても、この船じゃあ何の意味もねぇんだよ」

 

 去り際に振り返ったリンリンの口元に浮かぶ笑みが、僅かに歪に歪む。

 

「さっき脳髄に刻み込まれたあの殺気の感覚……死んでも忘れるんじゃないよ、ガセル」

 

 その不気味な警告の言葉を最後に、巨大な女の気配は、満足したように甲板の向こうへと去っていった。

 じわじわと眼球の痛みが引き、視界に世界の光が戻り始める中で、ガセルは自身の右手のひらをじっと見つめた。

 

 こうして俺は、リンリンからの本気の生命の脅迫という、あまりにも最悪で不本意極まりない方法によって、あっさりと見聞色の覇気の入口へと足を踏み入れたのだった。

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