ロックス海賊団雑用係の生存記録   作:だれか、

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6話

 

 それからも、エドワード・ニューゲートとの見聞色の覇気の修行は続いていた。

 慣れた手つきで黒い布を目元に深く巻きつける。

 視界が瞬時に閉ざされ、光なき静寂が訪れる。

 だが、今のガセルの世界は、初期のような無力な暗闇のままではなかった。

 

「構えろ」

 

 頭上から落ちてくる、ニューゲートの低く乾いた声。

 ガセルは肺腑の奥から静かに息を整え、己の意識の網を、身体の外側へと同心円状にどこまでも広げていく。

 内側に感覚を沈めてはいけない。

 ほんの僅かでも見ようとして余計な雑音を脳が拾い上げた瞬間、そのすべてが視界を濁らせる致命的なノイズへと化す。

 周囲でうねる甲板の軋みも、帆を揺らす潮風の不規則な流れも、遥か遠くで談笑する船員たちの退屈な気配も、すべてはただの背景として右から左へ流す。

 いま、この世界で拾うべきは動くもの、ただ一つだけ。

 

(……来る)

 

 その確信が脳裏に白く浮かび上がった刹那、思考の命令よりも早く肉体が駆動した。

 左へ、わずか半歩の重心移動。

 直後、ガセルがさっきまで直立していた右脇の空間が、目に見えない巨大な拳の質量によって爆発的に押し潰された。遅れて弾けた猛烈な風圧が、容赦なくガセルの頬の皮膚をピシャリと叩く。

 まさに、紙一重の回避。

 だが拳は、ガセルの肉体に触れてすらいなかった。

 

「……ほう」

 

 暗闇の向こうから、低く、そして僅かに純粋な興味を含んだような声が漏れる。

 

「綺麗に避けたな。……偶然じゃねぇ」

 

 ガセルは乱れかけそうになる呼吸を、強い意志の力で無理やり肺の奥へと押し込む。

 ここでほんの一瞬でも集中を崩せば、次の不可視の一撃で肉体が消し飛ぶ。

 敵の姿が視えているわけではない。拳が迫る正確な位置も、その凶悪な軌道すらも完全には分かっていない。

 

 それでも、そこに危険が訪れるという純粋な殺気の始まりだけを、見聞色の網が過不足なく拾い上げる。

 それだけの情報で、今のガセルの肉体は生き残るための最適解を導き出し、勝手に動いていた。

 

「続けろ」

 

 遮断された世界の向こうから、短い指示が降る。

 ガセルは即座に腰を落とし、暗黒の中で構え直した。

 何も見えない。理屈では何も分からない。

 それでも、確かに昨日までの自分より、この世界の理を僅かに掴みかけている手応えがあった。

 

(……また、来る……!)

 

 さっきと完全に同じ、神経の芯をチリつかせる殺気の波紋が脳裏に浮かぶ。

 ガセルはほんの一瞬だけ、絶妙な間を置いた。

 焦って先走った回避行動は取らない。

 だが、判断がコンマ数秒でも遅れれば、その瞬間にすべてが終わる。

 その生と死の境界線、絶対的なギリギリのタイミングを、尖らせた感覚だけで探り当てる。

 床板を踏み込み、首の皮一枚の幅だけ位置をずらす。

 直後、ガセルの眼前を凄まじい空間の歪みが通り過ぎていった。

 ニューゲートの拳は、完全に空を切っていた。

 

「……」

 

 広大な甲板に、重苦しい沈黙がしんと落ちる。

 

「……まだ技術としては甘ぇが、戦いの中で視える形にはなってやがるな」

 

 ニューゲートは低く、感心したようにそう呟いた。

 そして、大盃を一度床に置き、その底知れない眼光をガセルへと向けながら言葉を続ける。

 

「⋯⋯その目の派手な怪我といい……。何があった?」

 

 その不意の問いかけに、ガセルは一瞬だけ言葉に詰まった。

 

(……やっぱ聞かれるか)

 

 布の奥、未だに鈍く痛む目元の奥でよみがえるのは、あの戦慄の瞬間。

 

 ──シャーロット・リンリン。

 あの規格外の女が放った、一切の手加減なき本気の殺意の一撃。

 あれを強引に脳髄へ叩き込まれたからこそ、ガセルの生存本能は殻を破り、見聞色の覇気を強制的に開花させられた。

 それは紛れもない事実だった。

 

 だが。

 この一ヶ月間、自分はニューゲートに付き合ってもらい、何度も何度も殴られ、倒れ、それでも何も形にできなかったのだ。

 この男が費やしてくれた時間に対して、何一つとしてまともな成果を返せなかった。

 

 それなのに。

 リンリンとの、たった一度の、皮肉な実戦もどきの暴力によって、あっさりとその覇気を掴まされてしまった。

 その事実が、どうにも収まりが悪かった。

 言葉にならない奇妙な罪悪感と不条理な感情が、澱のように胸の奥底へと重く沈んでいく。

 

 ニューゲートと積み上げてきた一ヶ月の時間が無意味だったとは、爪の先ほども思わない。

 あれが土台として肉体に刻まれていたからこその開花だ。だが、それを横から強引に飛び越える形で習得してしまった今の形は、男に対してどう言い訳をしていいか分からなかった。

 

(……別にわざわざ言う必要は、ねぇな)

 

「……いや」

 

 ガセルは黒い布を乱暴に剥ぎ取り、短く言葉を切った。

 

「いつものだ。……ちょっと、船員と裏で本気の殺り合いをやっただけだ」

 

 それ以上のディテールは口にせず、ただ視線をそらす。再び、二人の間に重い静寂が降りる。

 ニューゲートはガセルの目元の傷をじっと見つめていたが、やがてすべてを察したようにフッと鼻で笑った。

 

「……そうか」

 

 それ以上、男が深く追及してくることはなかった。

 グビリ、と巨大な大盃から酒を豪快に煽る音が、夕暮れの甲板に心地よく響き渡る。

 

「まぁ、どんな汚ぇ手段だろうが関係ねぇ。結果がすべてだ」

 

 ニューゲートは淡々とした声のまま、しかし確かな眼光を宿して言った。

 

「習得できたってんなら、後は実戦の数でその精度を磨き上げるだけだ。だがな」

 

 一拍、間が置かれる。

 

「今のままの薄っぺらい見聞色じゃ、精度が低すぎて格上には通用しねぇぞ」

 

 彼は低く、現実を切り捨てるように言い切る。

 

「もっと感覚を研ぎ澄ませ。ただ来るものを避けるんじゃねぇ、敵の行動のもっと先を読め」

 

「……あぁ、言われなくても分かってる」

 

 ガセルは短く、ぶっきらぼうに言葉を返す。

 覇気という概念の底深さに対する理解は、まだ浅い。

 だが、自分がこれからどの高みを目指して進めばいいのか、その道標だけははっきりと目の前に示されていた。

 だが、その張り詰めた師弟の空気が、不意に背後から響いた暴力の咆哮によって無惨に引き裂かれた。

 

「ガセルゥゥゥゥ──ッッ!!!」

 

 鼓膜を直接破壊するかのような狂暴な怒号が、巨大な海賊船の甲板全体を派手に震わせる。

 ガセルは反射的に顔を上げた。

 

「今日こそ俺に殺されろォォ! 大人しく死ねッ!!」

 

(……チッ、またかよ!)

 

 心の中で激しい舌打ちが漏れる。

 ここ最近、修行の合間や雑用の合間を縫っては、何度も何度も同じような奇襲と乱入が続いていた。

 相手が自分を目の敵にする理由なんて、深く考えるまでもなく分かりきっている。

 ただひたすらに気に入らない。

 気に入らない奴をぶちのめしたいという、血気盛んな暴力衝動。理由はそれだけだった。

 

「ッ!」

 

 背後から迫る、空気が一瞬で激変するほどの絶対的な質量。

 ガセルは思考するよりも先に、覚醒したばかりの見聞色に突き動かされて身体を真横へとブレさせた。

 ドゴォン!! と振り下ろされた金棒の一撃が、ガセルの身体をかすめて甲板の頑丈な木板を派手に叩き潰し、無数の鋭い木片が周囲へと激しく弾け飛ぶ。

 遅れて襲いかかってきた凄まじい衝撃波の風圧が、ガセルの体に吹き荒れる。

 

「……おい、てめぇ」

 

 ガセルは冷徹な視線を、土煙の向こうへと鋭く向けた。

 

「またお前かよ……カイドウ……!」

 

 そこには、筋骨隆々の巨大な体躯を持った男が、白い歯を剥き出しにして狂気的な笑みを浮かべて直立していた。

 

「 避けやがったか、このちょこまかとすばしっこい野郎がッ!!」

 

 ドスン、と彼がさらに一歩を踏み込むだけで、周囲の甲板が悲鳴を上げて軋む。

 

「ふざけやがって!」

 

 カイドウは再び、その凶悪な武器を天高く振り上げながら獣のように吠えた。

 

「ただの雑用係のお前が、この俺に勝てるわけがねぇッ!!」

 

 その傲慢極まりない言葉の弾丸に、ガセルもまた即座に、剥き出しの敵意を乗せて言葉を投げ返す。

 

「うるせぇ!」

 

 ガセルもまた、容赦なく床板を強く踏み込みながら、鋭く吐き捨てた。

 

「てめぇこそ見習いの分際で好き勝手してんじゃねえ!!」

 

 互いの肉体と意志が、正面から激突するまさにその直前。

 

(──来る、左からの薙ぎ払いだ)

 

 ほんの一瞬前、カイドウの筋肉が駆動するよりも前に、ガセルの脳裏にその攻撃の答えが明瞭に突き刺さった。

 だからこそ、肉体の反応が間に合う。ガ

 セルは紙一重で上体を極限まで低く捻り、頭上を通り過ぎるカイドウの剛腕の軌道を完全に流しきった。

 

「チッ……!」

 

 攻撃をスカされたカイドウの口から、不快そうな舌打ちが大きく響く。

 

「ネズミみてぇにちょこまかとすばしっこい野郎だぜ……!」

 

「だったら、その自慢の力で一度でも当ててみろよ!」

 

 ガセルは荒い息を激しく吐き出しながら、挑発を返す。

 実際のところ、言葉ほどの余裕など微塵もない。

 カイドウの持つ常軌を逸した怪力だ、一発でもまともにその身に貰えば、その瞬間にすべての骨が砕けて終わる。

 

 それでも。

 ガセルの胸の内には、冷徹な確信があった。

 

(……何も出来ずにただ殴られてた時とは、明らかに違う)

 

 今、自分は確かにこの化け物の一瞬先の未来を、かすかであっても確実にこの目で捉えながら動いている。

 

「⋯⋯面白ぇッ!!」

 

 カイドウの狂ったような瞳が、さらにギラギラと輝きを増す。

 

「一ヶ月前とは、まるで別人みてぇにマシになってんじゃねぇか、ガセルゥ!!」

 

 彼の踏み込みが、さらに一段と深く、鋭くなる。

 周囲に漂う暴力の圧が、目に見えて膨れ上がっていく。

 あまりの闘気の密度に、二人の間の空気が陽炎のように激しく歪み始める。

 

「だがよォ!! それだけで俺に届くと思うんじゃねぇ!!」

 

 天を衝くような、容赦のない凶悪な振り下ろし。

 

「まだ、足りねぇぞガセルゥッ!!」

 

(……そんなことは、自分が一番よく分かってんだよッ……!)

 

 ガセルは心の中でそう激しく毒づいた。

 カイドウの底知れない潜在能力に比べれば、今の自分の覇気など、まだ生まれたての赤ん坊のようなもの。

 全然、何もかもが足りていない。

 二人の拳と武器が、再び甲板を血で染めようとした、まさにその瞬間だった。

 

「──そこまでにしとけ、お前ら」

 

 世界のすべてを圧し潰すような、あまりにも重厚な質量を持った声が二人の間に割って入った。

 ニューゲートが、いつの間にか二人の直近へと移動し、その巨大な体躯だけで互いの間合いを物理的に分断していたのだ。

 

「チッ……! 邪魔すんじゃねえ、ニューゲートォォ!!」

 

 カイドウが顔を真っ赤にして、不満を剥き出しにしながら吐き捨てる。

 だが、ニューゲートはその言葉を完全に無視し、ただ冷徹な視線の重みだけで、血気盛んな見習いのガキを静かに押し返した。

 

「やり過ぎだ、カイドウ。ここは俺たちの船の上だ。これ以上暴れるんじゃねえよアホンダラ」

 

「……チッ、クソが」

 

 ニューゲートの絶対的な威圧感を前に、カイドウはそれ以上の反抗が不可能であることを理解したのか、ひどく不機嫌そうに舌打ちを漏らした。

 

「シラケちまったぜ。おい、ガセル」

 

 カイドウは吐き捨てるようにそう言い残し、ガセルへ鋭い眼飛ばしを一つ寄越してから、乱暴に踵を返した。

 

「次は絶対に、ぶっ殺してやる!」

 

 振り返りもせず、ドカドカと荒い足音を立てて去っていく怪物の背中。

 ガセルはそれに言葉を返すことはせず、ただ、激しく乱れかけた呼吸を必死に押し殺しながら、その巨大な後姿が船の影に消えるまで静かに見送った。

 やがて完全に足音が遠ざかり、荒れ果てた甲板に、いつもの静かな波の音だけが戻ってくる。

 

「……お前もまた、随分と面倒臭ぇやつに目をつけられたな」

 

 ニューゲートが、大盃を再び手にとりながら、ぽつりと呟いた。

 

「……あぁ」

 

 ガセルは深く、溜め込んでいた息を吐き出す。

 

「全くだ。正直関わりたくねぇ」

 

 ニューゲートは、ガセルのその横顔に一瞬だけ鋭い視線を寄越した。

 

「あいつの年齢はお前とそう変わらねぇはずだが、持って生まれた肉体の器の頑丈さが違いすぎる。正直に言って、今のお前の実力のままじゃ、真っ向からやり合うにはちと厳しすぎるだろうな」

 

「……あぁ、分かってる」

 

 ガセルの返答は、即答だった。

 分かっていないわけがない。

 先ほど交わした数合の打ち合いだけで、カイドウという男が秘めている化け物としての底は、嫌というほど脳髄に刻み込まれている。

 

「分かってるなら、今はとにかく力をつけろ」

 

 ニューゲートは短く、そして重く言い切った。

 

「この海で、誰にも殺されたくねぇと本気で願うならな」

 

「……あぁ」

 

 ガセルはそれだけを返し、自身の拳を固く握りしめた。

 もう、余計な言い訳や言葉はいらない。

 ただ、この地獄のような船で、何が何でも生き残るため。

 そのために強くなる。

 それだけは、この海に足を踏み入れた最初の日から、何一つとして変わっていなかった。

 

 

 それから、しばらくの時が流れた。

 ガセルは己をさらなる高みへと引き上げるため、船内の血気盛んな実力者たちとの、文字通りの殺し合いに等しい模擬戦の日々を送り続けていた。

 規律など存在しないこのロックス海賊団において、立ち止まることは即座に死や脱落を意味する。

 

 今日もまた、荒れ狂う潮風が吹き抜ける甲板の上で、一人の男と視線が正面からぶつかり合っていた。

 相手は、この船で何度も修羅場をくぐり抜けてきた、顔馴染みの叩き上げの船員だ。

 戦うことに特別な大義名分や理由などない。

 ただ、互いの強さを貪り喰うための暴力の交換。

 

「おい、まだその身体でやる気か?」

 

「あぁ、お前がへばるまでな」

 

 短い言葉の交錯と同時に、相手の男が猛烈な速度で床板を踏み込んできた。

 速い。だが、今のガセルの目には、その突進の軌道が明確に視えていた。

 

 とはいえ、見聞色の覇気の純粋な熟練度だけで言えば、まだ相手の男の方が一枚上手だった。

 こちらの踏み込みの角度も、次に放とうとする小細工の動きも、すべて相手の見聞色によって先に読まれ、先手を打たれる。一瞬、ガセルの対応がコンマ数秒遅れる。

 

 だが、その見聞色の遅れという致命的な隙を、強引にねじ伏せて潰すのが、ガセルがこれまで磨き上げてきた武装色の覇気だった。

 硬化した拳と拳が空気の弾ける音とともにぶつかり合うたびに、ガセルはその圧倒的な一撃の重さだけで、相手の追撃を無理やり押し返す。技の精度や滑らかさではなく、純粋な肉体の質量と覇気の圧によって、相手の滑らかな連携の流れを力ずくで停止させるのだ。

 武装色の練度においては、互角か、あるいは僅かにガセルの方が上回っている。

 見聞色では、確かにこちらの動きを完全に読まれている。

 

 だが、その後の純粋な力の押し合い、肉体の強度の勝負においては、ガセルは微塵も負けてはいない。

 だからこそ、戦況は一方的に崩れることなく、緊迫した拮抗状態のまま激しく続いていく。

 相手の鋭い攻撃が、ガセルの意識の先を越して飛んでくる。

 それを肉眼で視てから反応していては絶対に間に合わない。

 見聞色で殺気を拾い、身体をずらして避ける。

 即座に、相手の意識の隙間を縫って獰猛に打ち返す。

 相手の体勢がわずかに崩れた刹那を狙い、もう一撃の重い打撃を叩き込む。

 

 だが、相手もまた数多の死線を越えてきた熟練の海賊だ、同じように簡単には崩れ去らない。

 相手は見聞色をフルに駆動させ、こちらのカウンターの動きそのものを、先回りの軌道で潰しにかかってくる。

 拳と拳が激突するまさにその直前で、攻撃の軌道が不規則に変転する。

 ガセルが予測して避けたはずのまさにその移動先に、あらかじめ罠を張っていたかのように相手の追撃が容赦なく襲いかかる。

 互いの高め合われた覇気の読み合いが極限で噛み合い、戦いの密度だけが、火花を散らしながらどこまでも跳ね上がっていく。

 黒く硬化した武装色が激突するたびに、巨大な甲板が悲鳴を上げて派手に軋む。

 

 だが、時間の経過とともに、少しずつ、しかし確実に戦況を押しのけ始めていたのはガセルの側だった。

 激しい覇気の消耗戦の中で、相手の呼吸の周期が、ほんの僅かに乱れる。

 ガセルはその刹那の乱れを絶対に見逃さず、獲物を見つけた肉食獣のように深く踏み込んだ。

 黒い武装色を限界まで乗せた、渾身の一撃が相手の胴体へと重々しく突き刺さる。

 ドゴォン!と内臓を揺らす衝撃音が響くが、男は驚異的な根性で踏みとどまり、未だ倒れない。

 むしろその痛みを起爆剤にするかのように、相手の集中力が極限に達し、その見聞色がさらに一段と鋭く牙を剥いた。

 先ほどよりもさらに深い、完全にガセルの二手先を読む一段上の先読みによって、こちらの次なる追撃の初動そのものを力ずくで潰しにくる。

 一瞬、ガセルの攻撃の均衡がガタガタと崩れかける。

 相手の猛烈な巻き返しに対し、ただ防御を硬くして押し返すだけで精一杯という、極めて危険な時間が数秒間続いた。

 

 だが、その危うい拮抗は、長くは続かなかった。

 ガセルは不意に、自ら深く攻め込むための踏み込みをピタリと停止させた。

 均衡を崩したガセルを仕留めんと、相手の男が色めき立って前へと大きく出た、まさにその瞬間だった。

 周囲の空気が、まるで世界の底が抜けたかのように、わずかに重く沈み込む。

 

雷獄(らいごく)

 

 ガセルの口から、静かな呟きが漏れた。

 次の瞬間、相手の男の身体が、まるで不可視の鎖に縛り付けられたかのように空間に固定され、激しい前進の踏み込みは途中で無惨に途切れた。

 男の強力な拳は、ガセルの肉体に届く前に虚空でピタリと停止する。

 防御の姿勢を取ることすら形になる前に強引に崩され、次の動きへと繋がるはずだった戦闘の流れそのものが、世界の表層から完全に消滅する。

 戦いとしての形を成立させる前に、ガセルが放った雷の力によって、すべてが強制終了させられていた。

 相手の体勢と意識のすべてが完璧に崩壊したその絶対的な隙の中へと、ガセルは無慈悲に一歩を踏み込む。

 黒く硬化した、手加減なしの武装色の一撃が、無防備な相手の顔面へと真っ直ぐに叩き込まれた。

 

 ドガァン!!!

 

 衝撃によって男の身体が派手にのけぞり、そのまま甲板の床板へと激しく膝をついた。

 男の瞳から光が消え、その場に崩れ落ちる。

 そこで、張り詰めた模擬戦のすべてが終わりを告げた。

 激戦が繰り広げられた甲板の上に、再び静かな海の静けさが戻ってきた頃、ガセルは一度だけ、胸に溜まっていた熱い息を深く吐き出した。

 全身の筋肉の奥に、激しい戦いの心地よい余韻がまだ熱く残っている。

 

「……勝った⋯⋯」

 

 以前の、覇気すらまともに扱えなかった頃の自分であれば、一瞬でなす術もなく瞬殺されていたであろう格上の実力者だ。

 自分がこの一ヶ月強の間で、信じられないほどの速度で強くなっていることは、誰に証明されるまでもなく自分自身が一番はっきりと理解できていた。

 放つ一撃の絶対的な重さも、敵の殺気を捉える先読みの精度も、あの何も出来なかった過去の自分とは何もかもが違う。

 

 だが、それでもまだ、圧倒的に足りない。

 この程度の強さでは、あのカイドウや、ニューゲート、リンリンといった海の化け物たちの背中には、到底届かない。

 俺は、もっと、誰も追いつけないほど強くなる。

 その確固たる貪欲な確信だけが、胸の奥底に熱く残り続けていた。

 汗を拭い、倒れた船員を後に甲板を離れようとした、まさにその時だった。

 

「あら、また随分と派手に暴れ回っていたのね」 

 

 背後の静寂を破って、鈴の鳴るような、しかしどこか芯の通った女の声が鼓膜を打った。

 ガセルが驚きとともに振り返ると、そこには一人の若い女が、手すりに背を預けて静かに直立していた。

 このロックス海賊団の巨大な船内に籍を置く、数少ない女性船員。

 ガセルもその存在と自体は風の噂で知っていたが、こうして面と向かって直接言葉を交わすのは、これが初めてのことであった。

 

 彼女の艶やかな長い髪が、潮風に吹かれて滑らかに夜の空へと流れている。

 身につけている衣服や装飾品は決して過度で派手なものではないのに、ただそこに立ち尽くしているというその佇まいだけで、周囲の有象無象とは一線を画す強烈な存在感を放ち、嫌でも他者の目を引く。

 顔立ちは非常に美しく整っている。

 だが、それ以上に彼女の全身からは、この狂暴な海賊船の真っ只中にあっても決して揺らぐことのない、深い深海のような崩れない静けさが漂っていた。

 女は、その大きな瞳でガセルの姿をじっと見つめてくる。

 

「グロリオーサよ」

 

 彼女は、短い言葉で己の名を名乗った。

 ガセルもまた、その冷徹な視線を真っ直ぐに見返し、短く応じる。

 

「……ガセルだ」

 

 グロリオーサは、足元で気絶して倒れ伏している熟練の船員を一度だけ冷ややかに見下ろしてから、再びガセルの顔へとその静かな視線を戻した。

 

「さっきのあんたの戦い、最初から最後まで、向こうの影から見させてもらっていたわ」

 

「そうか」

 

「……悪くはないわね。新入りの雑用係にしては、上出来な覇気の扱い方だわ」

 

「……そうかよ」

 

「でも、圧倒的に動きのすべてが雑」

 

 彼女は一切のオブラートに包むことなく、はっきりと、迷いのない口調でそう言い切った。

 ガセルはその手厳しい指摘に対し、特に怒ることもなく、短く鼻で笑って返す。

 

「そうかもな。我流だからな」

 

「そうよ。無駄な動きが多すぎるわ」

 

 そこで、二人の会話は一度、波の音にかき消されるようにして切れた。

 グロリオーサは、戦いによって少し荒れた甲板の床板の方へと、その美しい視線を戻す。

 

「でも……まだ、ここからいくらでも伸びる余地はあるわね」

 

「そうか」 

 

「ええ、そうよ」

 

 彼女は再びガセルを射抜くように見つめ、不敵な笑みを僅かに浮かべた。

 

「それにさっきのあんたの戦い、まだ何か大きな余裕を隠しているように見えたわ。気のせいかしら?」

 

 ガセルは少しの間、沈黙を守った。

 

「どうだろうな。自分じゃ必死だったつもりだが」

 

 グロリオーサは、それ以上執拗に追及しようとはしなかった。

 代わりに、フッと小さく、呆れたような、しかしどこか楽しそうな息を吐き出す。

 

「まあ、いいわ。無理に今すぐ吐かせようとは思わない」

 

「これからこの船で、いくらでも見る機会はあるでしょうから。あんたの本気の実力をね」

 

 彼女はそれだけを言い残すと、流れるような美しい足取りで、甲板の闇の向こうへと歩き出していった。

 夜風に消えていく彼女の背姿を見送りながら、ガセルはぽつりと胸の内で思う。

 

(……一体、何だったんだ、あの女は)

 

 だが、去っていったグロリオーサの、あの凛とした佇まいと底知れない瞳だけが、なぜか妙に頭の奥底から離れずに残り続けていた。

 

 

 それから、さらにしばらくの時が経った。

 血煙が上がる甲板での激しい戦いは、もうガセルにとって日常の退屈な一部と化していた。

 来る日も来る日も、誰かと覇気を組み合い、肉体をぶつけ合い、相手を倒し、あるいは倒され、また泥塗れで立ち上がる。

 そんな狂った反復の繰り返しの中で、ガセルの戦闘における一挙手一投足の質だけが、恐ろしい精度で少しずつ変貌を遂げていく。

 

 見聞色の覇気は、より深く、より遠くの未来の先へ。

 武装色の覇気は、より硬く、より骨を砕く重さへ。

 

 だが、それでもまだ、この海の頂点たちが君臨する絶対的な領域には届かない。

 そんな、己の限界を削るような飢えた日々の中でのことだった。

 船全体の空気が、肌を刺すような緊張感へと一瞬で激変したのは、あまりにも唐突だった。

 甲板の奥から、大地を揺らすような重々しい足音が響き渡る。

 

「ガセルゥゥゥゥ──ッッ!!!」

 

「……チッ、またお前かよ。本当に飽きねぇな」 

 

「今日こそ言い訳なしだ! 完全にぶっ殺してやる!」

 

 そこに立っていたのは、やはりあの狂暴な怪物、カイドウだった。

 彼は白い歯をギラギラと剥き出しにして狂気的に笑うと、言葉の終わりを待たずに爆発的な勢いで床板を踏み込んできた。

 

 ズバァン!と空気が派手に裂ける。

 だが、その凶悪な拳が完全に振り下ろされるよりも疾く、ガセルの肉体はすでにその場から滑らかに動いていた。

 一瞬先にカイドウの金棒が激突する、絶対的な破壊の落下点が、ガセルの脳裏に寸分の狂いもなく視えている。

 上体を僅かにずらす。

 カイドウの渾身の拳は空を切り、甲板の床板を凄まじい音を立てて叩き潰し、四方八方へと鋭い木片が爆散した。

 遅れて激しい衝撃の風圧がガセルの全身へと押し寄せる。

 

「避けるのだけは、相変わらずクソ上手ぇじゃねぇかガセルゥ!!」

 

 カイドウが狂ったように笑う。

 二撃目、三撃目。打撃が繰り出されるたびに、その破壊の質量と速度が目に見えて増していく。

 だが、そのどれもが、今のガセルの肉体に触れることすら叶わない。

 次の瞬間、あまりにも大振りな攻撃を繰り返したカイドウの動きに、ほんの一瞬だけの、致命的な淀みが生じた。

 ガセルはその絶対的な隙の瞬間を、見聞色で完璧に捉え、その懐へと鋭く踏み込む。

 黒く硬化したガセルの拳が、カイドウの分厚い脇腹へと、沈み込むような感触とともに深く突き刺さった。 

 

「ッ……あァ!?」 

 

 カイドウの巨大な巨体が、その一撃の凄まじい衝撃によってわずかにグラリと揺れ動く。

 だが、怪物の雛の戦いは、そこでは到底終わらなかった。

 一筋の鮮血が彼の口元からタラリと床に落ちるが、カイドウはその痛みを極上の快楽であるかのように、さらに狂暴に笑い飛ばしたのだ。

 

「いいじゃねぇか!今のは効いたぜ、おい!!」

 

 彼の凄まじい踏み込みの勢いは、微塵も止まらない。

 すぐさまカウンターの拳が猛烈な速度で跳ね返ってくる。

 ガセルはそれを腕で滑らかに受け流し、紙一重で避け、そして空いた隙間へと再び重い打撃を狂ったように叩き込んでいく。何度も、何度も、確実に。

 

 だが、異常だったのは、そこからのカイドウの肉体だった。

 ガセルの攻撃は、確実にヒットしている。

 武装色の硬化を伴った、並の海賊なら内臓が破裂して即死するレベルの打撃が、彼の肉体の急所へと何度もクリーンに叩き込まれているのだ。

 

 にもかかわらず。カイドウは、絶対に倒れない。

 その強靭すぎる膝は、一度として床に落ちることはない。

 呼吸こそ激しく乱れ、全身から血を流し始めてはいる。

 それでも、彼の前進する暴力の衝動だけは、何があっても衰えることなく止まらない。

 

「雑魚の技なんざ、幾ら当たろうが関係ねぇッ!!」

 

 狂気を孕んだ圧倒的な圧が、再びガセルの眼前へと迫る。

 ガセルは激しい打ち合いの中で、一度だけ冷徹に息を吐き出した。

 

(……チッ、これだけの打撃を喰らって、まだ平然と立ちやがるのかッ!)

 

 倒れていないのではない。

 肉体がどれほどの破壊を被ろうとも、その狂暴な精神が戦いをやめることを拒絶しているのだ。

 だからこそ、生半可な打撃ではなく、存在そのものをへし折る一撃で完全に終わらせる必要がある。

 ガセルの瞳から一切の感情が消え去り、静まり返る。

 周囲の空気が、彼の覇気の高まりに呼応して深く沈み込んでいく。

 

「いや」

 

 ガセルは、カイドウの凶悪な間合いの真っ芯へと、怯むことなく一歩を踏み込んだ。

 

「これで、終わりだ」

 

 己の右拳へと、肉体が持つすべての覇気とエネルギーを、一点の淀みもなく凝縮させていく。

 そこには何の無駄な動きも、小細工の揺さぶりもない。

 ただ、敵を確実に破壊するためだけの、純粋な一点。

 

神撃(しんげき)

 

 放たれた瞬間、周囲の世界から完全に音が遅れて消え去った。

 空気が爆発するよりも疾く、カイドウの肉体が激しく陥没するという結果の破壊だけが、世界の表面に先に生み出される。

 

 ズガァァァァァンッッッッッ!!!!!!!

 

 一拍遅れて轟いた絶大なる衝撃音とともに、カイドウの巨体が強烈に沈み込み、彼が足元にしていた頑丈な甲板の木板が、蜘蛛の巣状に派手にひび割れて粉砕された。

 だが、それでも怪物の肉体は完全には崩れ去らなかった。

 その頑強な膝が、ついに屈辱とともに床へと激しく落ちる。

 片腕を甲板に突き、どうにかその巨体を支えている。

 それでも、彼の獰猛な顔だけは、未だにガセルを呪い殺さんとばかりに上がったままだ。

 男は歯を剥き出しにする。

 

「……クソ、が、っ……」

 

 彼の喉の奥から、悔しさに満ちたかすれた声が漏れ出る。

 

「やる、じゃねえ、か……」

 

 その瞳に宿る、ギラギラとした闘志の光はまだ死んではいない。

 だが、持って生まれた超人的な肉体の方が、ガセルが放った規格外の破壊の威力に耐えかねて、ついに限界を迎えていただけだった。

 ゆっくりと、自らの肉体の重さに押し潰されるようにして、カイドウの巨体がドスンと甲板の床へと無様に崩れ落ちていく。

 激しく軋んでいた床板の音が静まり返り、荒れ果てた戦場に、再び静寂だけが戻ってくる。

 甲板の吹き抜ける穴からは、ただ冷たい夜風の音だけが寂しげに響いていた。

 

 ガセルは放った右拳を静かに下ろし、その場からしばらくの間、微動だにせず立ち尽くしていた。

 ただ、下ろした拳には、あの怪物の肉体を完全にねじ伏せたという、確かな、そして絶対的な手応えだけが熱く残されていた。

 

(……通用した。俺の力が、届いた)

 

 あのカイドウに、真っ向勝負で完全に勝った。

 

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