水平線の向こう、うねる波を割って姿を現した白帆の影は、単なる巡回船のそれとは一線を画していた。
風に大きく孕んだ純白の布地、そこに刻まれた正義の二文字。
その輪郭が潮風に激しく戦ぐたび、まるで混沌としたこの
弱肉強食が理であるこの海において、その白き船体はあまりにも異質であり、かつ容赦のない明確な敵意の象徴そのものだった。
「……ありゃあ、海軍の本隊だな」
見張りをしていた船員の一人が呟く。
騒がしくなった甲板へと足を踏み出したガセルは、眩しそうに僅かに目を細めた。
視線の先、こちらの巨大な船体を包囲するように波を切り裂きながら迫る軍艦の挙動は、驚くほど洗練されており、一切の無駄がない。
風の微量な変化を読み切り、巧みに帆を操り、船体の揺れすらも戦闘の布石とするその操船技術。
それらは、数多の修羅場を潜り抜けてきた熟練の海兵たちによる、極限の練度を感じさせるものだった。
「おい、どうすんだよ?」
ガセルは近くで武器を帯びる船員に、事も無げに問いかける。
「ハッ、決まってんだろ。殺るか殺られるかだ」
この船において、選択肢という甘美な概念は最初から存在しない。
この地獄のような海で、世界の秩序である海軍と相対した時点で、選ぶべき道はただ一つの暴力へと収束する。
そして、その船員の乾いた答えに重なるようにして、周囲の全空気をビリビリと震わせる狂暴な笑い声が響き渡った。
「ハ〜ハハママママ!! いいねェ! ちょうど退屈で反吐が出そうだったところさ!!」
圧倒的な質量と凶悪な闘気を伴って現れたのは、シャーロット・リンリン。
その規格外の巨体が床板をミリミリと軋ませるだけで、その場の空気の密度が一気に数倍へと跳ね上がる。
力という概念そのものが肉体と人格を持って歩いているような存在、それが彼女だった。
「全部まとめて、海の藻屑にしてやるよ!!」
それは作戦の提案などではなく、絶対的な決定事項だった。
ロックスの船に乗る狂人どもの中で、彼女の言葉に異を唱える者など誰一人としていない。
戦いとは彼らにとって日常の呼吸と同じであり、選ぶべき選択肢ではないのだ。
激突は、何の前触れも、あるいは余韻を残す間もなく始まった。
軍艦の砲門が火を噴き、轟音とともに放たれた無数の鉄塊が海面を穿ち、巨大な水柱を幾本も突き立てる。
飛び交う弾丸が空を裂き、互いの船体を容赦なく削り取っていく。
だが、そんな硝煙の応酬は、これから始まる地獄の幕開けの合図に過ぎない。
真に命を奪い合うのは、もっと直接的で、もっと原始的な肉体の暴力だ。
互いの船の距離が肉眼の目と鼻の先まで詰まる。
次の瞬間には、すでにロックス海賊団の数人が、海を飛び越えるようにして宙を蹴っていた。
ガセルもまた、その弾丸の群れの一人として、敵の甲板へと鋭く躍り出る。
ドスン、と着地した瞬間に足元の頑丈な木板が鈍い悲鳴を上げた。
落下の衝撃を逃がしきれず、ガセルの足元から四方へと細かな亀裂が走る。
だが、彼の意識は自身の着地などには目もくれず、すでに次の殺戮の気配へと向いていた。
鋭い視線を周囲へと巡らせる。
戦況の把握は、覚醒した見聞色によって一瞬で完了した。
五感の奥が拾い上げる無数の気配の濃淡、海兵たちの呼吸の乱れ、放たれる殺意の正確な指向性。
それらの膨大な情報が、脳内で自然と立体的な戦術マップとして組み上がっていく。
そして、ガセルの視線が、ある一点の男の前でピタリと止まった。
「ここから先は、一歩たりとも通さん」
ガセルの正面に立ちはだかったのは、仕立ての良いマントを羽織った男。
その肩章が示す階級は、海軍本部准将。
スラリと抜かれた刀の構えには寸分の無駄もなく、どっしりと落とされた腰の構え一つで、彼がこれまでにどれほど凄惨な修羅場を軍人として潜り抜けてきたかが容易に見て取れた。
名は知らない。
だが、この血煙の舞う戦場において、互いの名前など何の意味も持たない。
「……悪いな、海兵さん」
ガセルは肺腑の奥から、軽く熱い息を吐き出した。
「こっちも、今さら大人しく退く気はねぇよ」
「此方もだ。⋯⋯往くぞ!」
言葉は短く交わされた。だが、戦う理由としてはそれだけで十分すぎる。
二人の踏み込みは、完全に同時だった。
硬化したガセルの拳と、准将の放った鋭利な一閃が正面から激突した瞬間、骨に響く凄まじい衝撃波が甲板全体へと波紋のように伝播していく。
純粋な覇気と力のぶつかり合い。
だが、その拮抗の真っ芯に、ほんの僅かなズレが生じた。
「……っ!?」
准将の鋭い目が見開かれる。
ガセルが勝っていたのは、純粋な筋力の重さではない。
見聞色の覇気によって完璧に捉えられた、准将の剣筋のほんのコンマ数秒の遅延。
その絶対的なわずかな差が、次の一手の生死を決定づける。
「甘ぇな」
ガセルは間髪入れずに間合いを詰め、さらに深く踏み込んだ。
肉体の体勢は微塵も崩さない。
力任せの打撃ではなく、戦闘の流れを一切断ち切らないまま、流れるような最適の軌道で次なる打撃へと繋げる。
准将の防御の回避は、もはや間に合わない。
その、拳が肉体に肉薄した刹那。
ガセルの黒く染まった右腕に、禍々しくも美しい淡い蒼光が激しく走った。
バチバチ、と大気を焦がす不穏で乾いた音。
そして遅れて炸裂する、脳髄を直接揺らすような雷鳴の轟き。
「なッ……、これは……っ!!」
准将の毅然とした表情が、明確な驚愕と戦慄へと変貌する。
硬化した拳が届くよりも早く、ガセルの全身から爆発的な雷撃の波濤が奔流となって迸った。
肉体的な打撃ではなく、自然界の災厄そのものが眼前に叩きつけられるかのような絶対的な錯覚。
ドガァァァン!!!
電撃の直撃。
凄まじい衝撃波と同時に、准将の身体が木の葉のように宙へと高く跳ね上げられた。
「ぐ、あぁぁぁっ……!!」
そのまま甲板へと激しく叩きつけられ、男の衣服からはジクジクと焼け焦げた白煙と特有の臭いが微かに立ち上る。
「……能力、者、か……!?」
焦げ付いた息を激しく荒らげながら、准将が血反吐とともに言葉を吐き出す。
「それも……ただの小細工ではない……この、破滅的な威力は……!」
彼はなおも軍人としての矜持で立ち上がろうとするが、激しい電撃によって神経を焼かれた両脚が言うことを聞かず、無様にガクガクと震えるのみだった。
彼が苦悶の中で見上げた先。
ガセルの周囲には、未だにバチバチと不気味な蒼い雷光の残滓がオーラのように揺らめいていた。
「……まだやるか?」
ガセルの声は、どこまでも淡々としていた。感情の起伏がない、冷徹な響き。
「くっ……、舐めるなァァ!!」
准将は歯をボロボロになるまで食いしばり、魂の意地だけで無理やり床板を踏み切った。
海兵としての、背負った正義の矜持が、ここで膝を折ることを絶対に許さない。
だが、彼の決死の特攻が届くよりも前に。
准将の網膜に映る視界の全てが、不自然に遅延した。
確かに目の前で動いたはずのガセルの姿が、すでにそこには存在しない。
「後ろだ」
「……っ!?」
彼が驚愕とともに振り返るよりも早く、背後から絶対的な質量を持った衝撃が突き刺さった。
今度は、先ほどのような派手な雷撃ではない。
極限まで練り上げられた、武装色の覇気のみを純粋に乗せた肉体の打撃。
鈍く、重く、骨の芯まで響くような、逃げ場の一切ない一撃が、准将の無防備な背中へと完璧に叩き込まれた。
「が、はっ⋯⋯!!」
肺胞の空気が強制的にすべて奪い取られる。
男の身体は今度こそ真っ直ぐに宙を舞い、そのまま数メートルにわたって甲板の床を激しく滑っていった。
ズザザザ、とスライドして動きが止まった時には、もはや彼には指一本まともに動かす力すら残されてはいなかった。
「……はぁ、がはっ……はぁ……」
視界が赤黒く激しく揺れる中、それでも男は薄れゆく意識の灯火を燃やし、その目だけでガセルの立ち姿を捉えようとする。
「自然系の能力、者……それに、これほどの、覇気まで、操るというのか……」
それは、到底信じられない怪物を見上げるような絶望の瞳だった。
「その、若さで……何という、男だ……」
その敗者の賛辞に対し、ガセルは何も答えることはなかった。
ただ静かに一歩、また一歩と、倒れ伏す准将の元へと近づいていく。
だが。
「……もういい。終わりだ」
ガセルは准将の寸前でピタリと足を止めた。
握りしめていた拳を静かに下ろし、その視線を倒れる男から完全に外す。
「お前はもう、これ以上戦える身体じゃねぇ」
殺そうと思えば、この場で確実に首を撥ねることなど容易だった。
だが、ガセルはそれを選ばなかった。
今の自分にとって、無力化した海兵をわざわざ嬲り殺す理由など、どこにも存在しなかったからだ。
一方、軍艦の上層にある最も高い特設甲板では、ガセルの戦いとはまったく別種の、次元の異なる怪物たちの戦いが繰り広げられていた。
研ぎ澄まされた静と、全てを破壊する暴。
その二つの極端な概念をそのまま体現したかのような、凄惨な激突。
海軍側の全軍の指揮を執る、冷徹な眼光を宿した一人の若い女海兵とシャーロット・リンリン。
一方はどこまでも冷静沈着に敵との間合いを測り、最小限の体術の動きで最大限の殺傷効果を引き出す、一分の隙もない剣技。
対するもう一方は、技術などという小細工を嘲笑うかのように、ただ持って生まれた圧倒的な肉体の質量と理不尽な暴力のみで、周囲の世界のすべてを力ずくでねじ伏せていく。
ほんの一瞬だけ、互いの覇気が噛み合う奇跡的な均衡が存在した。
だが、そんな綱渡りのような均衡は、怪物の前では長くは続かない。
「……随分と、おいたが過ぎるわね」
放たれるその上品な言葉とは裏腹に、女海兵の放つ一撃には、極限まで研ぎ澄まされた黒い覇気の技術が乗っている。
「ママママ!! 減らず口を叩くんじゃないよ! そのまま潰れな!!」
しかし、そんな一級品の技術すらも、津波のように全てを飲み込んで無に帰す圧倒的な絶対強者の理不尽がそこにはあった。
持って生まれた天性の才の差は、いかなる努力の練度を以てしても覆らない。
勝敗の決着は、あまりにも残酷な必然として訪れた。
ドゴォン!! という鈍い破壊音。
強烈な平手打ちのような一撃をモロに喰らい、叩きつけられた女海兵の身体が特設甲板の床を深く沈み込ませ、そのままピクリとも動かなくなる。
「これでお終いだよ」
リンリンは不敵な笑みを崩さぬまま、ゆっくりとその肉体へ歩み寄る。
その足取りに躊躇いの色など微塵もない。確実に息の根を止め、命を刈り取るための一歩。
天高く振り上げられる、血に染まった巨大な剛腕。
まさにその刃が振り下ろされんとした、その刹那だった。
「おい。もうその辺でいいだろ、リンリン」
横合いから鋭く差し込まれた冷徹な声が、張り詰めた戦場の空気を一刀両断に切り裂いた。
声の主は、いつの間にか上層へと姿を現していた、ガセルだった。
「もう完全に勝負がついている」
ガセルの放ったその一言には、戦況を冷静に見極めた確固たる判断の重みがあった。
「これ以上、無抵抗な奴を無駄に殺す必要はどこにもねぇ」
勝敗の終わりを、私情を挟まずに見極める冷徹な目。
ロックス海賊団という狂人一色の巣窟において、そんなまともな大局の眼を持つ者など、片手の指で数えるほども存在しない。
リンリンの凶悪な腕の動きが、不意にピタリと止まる。
彼女は首をギチギチと鳴らしながら、ゆっくりと背後を振り返り、その獰猛な視線でガセルの姿を鋭く捉えた。
「……あァ? ガセルゥ……」
低く、地響きのように楽しげでありながらも、確かな不快感を孕んだ声音。
「お前、いつの間にそんな偉そうな口を叩くようになったんだい? まるでニューゲートのクソ野郎みたいなことを言い出すなんて」
ジリジリと、彼女の身体から放たれる覇王色の圧が周囲の空気を歪ませ、場のすべてを支配していく。
だが。
「それでもだ」
ガセルはその身を焦がすようなプレッシャーを正面から受け止めながらも、一歩も退くことはなかった。
「勝負は決まった。無駄な殺生は、船の進路を遅らせるだけだ」
重苦しい沈黙が、二人の間にしんと落ちる。
その張り詰めた静寂を派手に破ったのは、やはりリンリンのけたたましい笑い声だった。
「マママママ!!」
彼女は振り上げていた腕をゆっくりと下ろし、ガセルへとさらに一歩、歩み寄る。
「オレに向かって堂々と意見するなんて、随分と出世したじゃないか、雑用係が。だがね、この船ではいつだって力のある奴の言葉だけが正しいのさ」
ガセルを天高くから見下ろす、凶悪な怪物の視線。
「……まさか、おれとここで本気の殺り合いでも始める気かい?」
一瞬。
世界のすべてが完全に停止したかのように、空気が極限まで張り詰める。
ガセルの見聞色の覇気が、脳裏に一瞬先の未来の断片を最悪の形で拾い上げる。
ここでリンリンの挑発に乗って踏み込めば、この船の最高戦力の一人と、今この場で命を賭けた全面戦争に突入する。
「……いや、やめとく」
ガセルはふっと肩の力を抜き、両手を軽く上げて見せた。
「お前には、見聞色での恩があるからな。わざわざこんな何の意味もない場所で、お前と本気で殺り合う気はねぇ」
「……へぇ」
リンリンの細められた瞳の奥で、奇妙な光が明滅する。
「ちゃんと自分の立場と力の差が分かっているじゃないか。あの件を恩に感じておれを立てるってんなら、今回はそれで手を打ってやるよ。お前は有象無象のゴミどもに比べりゃ、随分と見込みがあるからねぇ」
彼女は興が削がれたように鼻を鳴らすと、倒れる女海兵にはもう一瞥もくれず、悠然と背を向けた。
「ここは引いてやるさ」
場を押し潰していた致命的な闘気が僅かに緩み、ガセルは密かに安堵の息を漏らす。
「……どういう、つもり……?」
床に倒れ伏したままの女海兵が、痛む身体を這わせながら、かすれた声で問いかけてきた。
「言った通りだ、海兵さん」
ガセルは彼女の方を振り返ることはせず、ただ淡々と言葉を落とす。
「この戦いはもう、俺たちの勝ちで終わってる。なら、これ以上あんたたちを無駄に殺す必要も、理由もねぇよ」
「……海賊の分際で」
女海兵は苦悶に満ちた声を漏らしながらも、その瞳には未だ衰えぬ強い光を宿していた。
「随分と、甘いことを宣うのね。しかも、あの世界最悪と謳われるロックス海賊団の船員が……」
「……別に」
ガセルは一瞬の間を置き、静かに告げた。
「好き好んで、この船に乗ってるわけじゃねぇよ」
「……名前は?」
女海兵の問い。
「……ガセルだ」
「……ガセルね」
僅かな沈黙の後、彼女は己の誇りを胸に、その名前を告げた。
「私は海軍本部中将、つる。海賊相手に、命を救われた礼を言うつもりは毛頭ないわ。次に海のどこかで出会った時は、必ず私の手で、正義の名の元に捕まえる」
「それは……勘弁してほしいな」
ガセルは小さく苦笑混じりの息を吐き出し、甲板の縁へと歩き出す。
こうして、海軍包囲網との激突は幕を閉じた。
だが、この混沌の嵐の中で交わされた一瞬の奇妙な邂逅は、海軍の頭脳、そしてこの偉大なる航路という広大な海そのものに、決して消えない爪痕として深く刻み込まれることとなった。
ガセルという一人の若き規格外の存在が、静かに、しかし確実に、世界へ向けてその悪名を広げ始める。
♢
──海軍本部、マリンフォード。
世界中の海の治安を一手に統べる、絶対的な秩序の中枢。その厳格な一室には、肌がピリつくほどの重苦しい沈黙が満ち満ちていた。
広い作戦会議室の中央に据えられた、重厚なマホガニーの長机。
その上には、直近の戦闘で上がってきた膨大な報告書が無造作に積み上げられ、背後の壁際には巨大な世界地図と複雑に入り組んだ航路図が貼り出されている。
そこに集められているのは、海軍という組織の最高中枢を担う、当代の実力者たちであった。
海軍元帥、コング。
大将、"智将"センゴク。
中将、"拳骨"ガープ。
同じく中将、"黒腕"のゼファー。
そして、先日のロックス海賊団との交戦報告のために急遽呼び出された、一人の若い女性中将、つる。
静まり返った空気の中、コング元帥が資料の紙を静かに捲る音だけが、室内にやけに大きく響いていた。
やがて、その重苦しい沈黙を破ったのは、最高権力者であるコングその人であった。
「……現場からの報告は、今あった内容で以上か」
低く、地響きのような重い声が室内に落ちる。
その問いに対し、長机の向かいに直立していたつるは、一歩前へと毅然とした足取りで進み出た。
無駄のない美しい立ち姿。
まだ若さを多分に残しながらも、その切れ長の瞳には既に数多の死線を越えてきた歴戦の軍人としての、冷徹な鋭さが宿っている。
「はい。報告の通りです、元帥」
元帥に対しては、明確な軍人としての敬意を込めた声音。しかし、公式の報告を終えた瞬間、彼女はふっと肩の力を抜き、わずかにその場の空気を緩めた。
自身と対等な立場で並ぶ、同期や気知れた実力者たちへと視線を移し、つるは私見を交えて言葉を続けた。
「……正直に言って、想像以上に厄介極まりない連中の集まりよ。あの船は」
その言い方は、もはや上層部への陳情ではなく、前線の脅威のリアルな共有に近かった。
大将であるセンゴクが腕を組み、眼鏡の奥の目を鋭く光らせながら静かに頷く。
「やはり、あのロックスか……」
コング元帥は、手元の資料から特に忌まわしい一枚の手配書を取り上げた。
「ロックス・D・ジーベック。──我々が提示した最新の懸賞金は、四十億ベリー」
そのあまりにも常軌を逸した天文学的な数字の重みが、室内の一同の肩へと重く沈み込む。
「だが、真に恐ろしいのは船長であるロックスの数字だけではないな」
センゴクが、ロックスの手下に連なる怪物たちの資料を順に指差しながら続ける。
「エドワード・ニューゲート……現在の賞金、十五億ベリー」
「シャーロット・リンリン……同じく、十二億ベリー」
ゼファーが、その武骨な腕で資料をめくりながら淡々と読み上げる。
「さらに、主要幹部である"銀斧"が十億五千万、"王直"が九億八千万……。どいつもこいつも、一国を単独で壊滅させかねん化け物揃いだ」
「ふんッ。懸賞金の額がどれだけ高かろうが関係あるか。どいつもまとめて、俺がこの拳で海に沈めりゃあそれで済む話だろ」
唐突に、部屋の端から豪快な声が割り込んできた。
ソファの背もたれに深くふんぞり返ったまま、煎餅をボリボリとかじりながら笑う男、ガープ中将である。
「俺が近いうちに、全員まとめて引きずり捕まえてきてやるよ」
あまりにもあっさりと、世界の脅威を鼻で笑い飛ばしたその一言に、室内の空気が一瞬だけ呆れで停止する。
「……またお前は、此方の作戦を無視した無茶苦茶を口にする」
センゴクが即座に猛烈な頭痛を催したように、深く頭を抱え込んだ。
「相手はあの、世界最悪のロックス海賊団だぞ? 少しは危機感を持て!」
「知るか。相手が誰だろうが、俺は絶対に負けん」
悪びれもせずにぶわっはは、と笑い飛ばすガープ。そのいつもと変わらぬ傲慢な態度に、ゼファーが小さく呆れたようなため息を吐き出す。
しかし、そのガープの軽口によって、張り詰めていた室内の空気がわずかに和らいだのは事実だった。
「そして、だ」
コング元帥の放った重厚な一言で、再び室内の空気がピリリと締まる。
「今回のおつるの報告にあった、あの船の新顔についてだ」
室内の全ての視線が、再びつるの手元の資料へと集中する。
つるはわずかに呼吸を整え、その未知なる怪物の名を厳かに口にした。
「名前は……ガセル。まだ、かなりの若さよ」
初めて海軍の上層部に公式に語られる、その名。
だが、その直後に彼女の口から紡がれた言葉が、その少年の価値を完全に一変させた。
「今回の交戦において、我が海軍の本部准将を単独で完全撃破したわ」
「……准将を、単独でだと?」
それまで静観していたゼファーの声が、わずかに低く地を這うような響きに変わる。
「ええ。小細工なしの真っ向勝負で、ほぼ一方的にね」
つるは当時の惨状を思い返すように、淡々と言い放つ。
「実際に現地で戦闘を目撃した、生き残りの部下たちの詳細な証言よ。奴は、大気から強烈な電撃を自在に発生させ、操る悪魔の実の能力を確認。その威力は、周囲一帯の海兵を一瞬で感電・制圧するほどの広範囲かつ、圧倒的な規模だったそうよ。さらにそれだけに留まらず、基礎戦闘において高水準の武装色、および見聞色の覇気の同時使用を確認しているわ」
その極めて具体的な戦闘データを聞き、センゴクの鋭い目が険しく細められた。
「……電撃を操る
「ええ。おそらくはゴロゴロの実の能力者と見て、ほぼ間違いないわね」
その報告を聞いたガープの口元が、ニヤリと肉食獣のように獰猛に歪む。
「いいじゃねぇか! ロックスの船から、また随分と骨のありそうな面白いガキが飛び出してきたな!」
今回の彼の言葉は、単なる強者への興味というよりは、一刻も早く戦場でその傲慢な鼻柱を叩き潰してやりたいという、狂暴な海兵としての本能に近い響きを帯びていた。
「話はそれだけじゃないわ。ガープ」
つるが、さらに手元の資料を一枚めくりながら言葉を重ねる。
「そのガセルという男、あの残虐非道なロックス海賊団に身を置きながら、無意味な殺生を明確に嫌い、徹底して避けている形跡があるの。現に、戦闘不能になった我が軍の准将の命を、奴は敢えて見逃している」
コング元帥の太い眉が、微かに不審そうにピクリと動いた。
「さらに、その直後よ。奴はあの、誰の言葉も聞き入れない凶悪なシャーロット・リンリンの前に堂々と立ちはだかり対等に言葉を交わして、彼女の放とうとした致命的な一撃を、その場で完全に止めてみせたわ」
今度こそ、室内にいた者たちの空気が、明確に、かつ深刻に変貌した。
「あの、化け物のようなリンリンの暴走を……ただの子供が止めたというのか!?」
「ええ。信じ難いことだけれど、最終的に明確に引き下がったのはリンリンの側よ」
つるは静かに、しかし一点の曇りもない確信を込めて言い切った。
「……なるほどな。単なる力任せの怪物ではない、ということか」
センゴクが、顎に手を当てながら低く呟いた。
「戦場において、自身の利害と引き際を冷静に計算し、あのロックスの幹部を動かすほどの交渉力と判断力を持っている。ただ暴れるだけのバカよりも、遥かにタチが悪く厄介な男だな」
ゼファーもまた、深く同意するように重々しく頷く。
コング元帥は、ガセルの顔写真が描かれた真新しい手配書の束を、机の上にドスンと厳かに置いた。
「まだ世に名前すら出ていない初頭手配の身としては、海軍の歴史上でも極めて異例、かつ破格の額にはなるが……」
そして、冷徹にその決定を下す。
「奴に懸ける最初の懸賞金額は──」
提示されたその驚くべき金額に対し、室内の誰も異論を唱える者は微塵もいなかった。
「妥当だな。それだけの危険因子だ」
「むしろ、奴が秘めているゴロゴロの実の脅威を考えれば、これでも控えめなくらいよ」
ガープだけが、ソファに座ったまま不敵に拳をパキパキと鳴らして笑う。
「なら、話は決まりだ。ロックスの奴も、その新顔のガセルってガキも全員まとめて、俺が捕まえてやる!」
その彼の暴走を、もう誰も止めようとはしなかった。
止めたところで、この男が一度火のついた拳を下ろすはずがないと全員が熟知しているからだ。
センゴクが小さく、いつものように深い溜め息を吐き出した。
「……本当に、お前という男はいくつになっても変わらんな」
その呆れ交じりの呟きに対し、ガープはただ豪快な笑い声を室内に響かせるのみだった。
まさに、その時だった。
「待ちなさい、ガープ」
静かに、しかし室内の一切の雑音をかき消すほどの、はっきりとした鋭い声が横から差し込まれた。
全員の視線が、声の主へと一斉に集まる。
つるは長机の前で腕を組んだまま、わずかに顎を鋭く上げて、ガープへと真っ直ぐに言い放った。
「悪いけれど。そのガセルという男は、この私が直々に捕縛させてもらうわ」
一瞬の、呆気にとられたような間。
そして。
「……ほう?」
ガープの口元が、いたずらを見つけた子供のようにニヤリと意地悪く歪んだ。
「何だァ? おつるちゃん。まさか、その若造に、一目で惚れでもしちまったか?」
「おいおい……あの鉄面皮で有名なおつるちゃんがなぁ……」
ガープのからかうような軽い声音。
しかし、そんな男たちの下世話な軽口に対しても、つるの凛とした表情は一切ピクリとも変わることはなかった。
「……くだらない冗談はやめなさい。違うわ」
彼女は短く、冷徹にその言葉を切り捨てるように言った。
「私はただ、あの男に戦場で一つ──明確な借りを作られた。それだけの話よ」
その重みのある一言で、室内のからかうような空気は一瞬で霧散した。
安っぽい軽口の空気は消え去り、代わりにその場に残ったのは、一人の本部中将としての、あまりにも強固で個人的な譲れない意志。
センゴクが、眼鏡の奥からちらりと彼女の横顔に鋭い視線を向けた。
「借り……か。おつるちゃんがそこまで言うとはな」
つるはそれ以上の私情を弁明することはしなかった。
ただ、真っ直ぐに前方の元帥コングを見据えたまま。
「ガセルは、必ずこの私の手で捕らえてみせるわ」
静かに、だが決して揺らぐことのない絶対の意思を以て、彼女はそう言い切ったのだった。
その言葉は、上層部への単なる命令の請願でも、虚勢の宣言でもない。
正義の名を背負う、一人の海兵としての。
絶対なる決意であった。
♢
──
不気味なほどに静まり返った漆黒の海を、山のように巨大な一本マストの海賊船が、悠然と、かつ威風堂々と進んでいた。
周囲の風は弱く、波も鏡のように穏やかだというのに、なぜかその船の周囲だけは、大気が物理的に凝固したかのように重苦しい圧迫感に満ちている。
まるで、世界の大海そのものが、この不吉な船の存在を本能的に拒絶し、恐れているかのように。
広大な甲板の上では、世界中から集まった名だたる最凶の怪物たちが、思い思いの退屈な時間を潰していた。
数億の賞金首を前に豪快に酒を煽る者、夥しい返り血を浴びた巨大な武器を冷酷に手入れする者、ただ退屈そうに濁った目で空を眺める者。
その誰もが、常人の人間であれば視界に入っただけで恐怖のあまり心臓が止まるような、圧倒的な悪のカリスマたちばかりだった。
──世界最悪の軍団、ロックス海賊団。
その巨大な暴力の中心、船の最深部にある、一際広い船内の一室。
薄暗いランプの光だけが怪しく灯る室内の奥に、一人の規格外の巨体を持った男が、ドサリと巨大な椅子に腰を下ろしていた。
卓上には、世界中から略奪してきた金銀財宝に混ざり、無造作に積まれた最新の新聞の束と、高級な酒瓶が乱雑に転がっている。
彼にとっては、室内の整頓や規律という生ぬるい概念すら、一切必要としないのだ。
その静寂の中で、男は大きな手で一枚の刷り上がったばかりの、世界経済新聞を手に取った。
ガサリ、と紙面を乱暴に捲る音が、静まり返った室内にやけに不気味に大きく響く。
最初は、いつも通り興味なさげに退屈そうな視線を走らせていたその男の動きが、ある一面の記事を目にした瞬間、ピタリと完全に停止した。
「……ほう」
男の喉の奥から、低く、そしてひどく愉快そうな地鳴りのような声が漏れ出た。
その分厚い口元が、ゆっくりと、狂暴な三日月のように歪んでいく。
「初頭手配の……一発目で、この額か」
その呟きには、驚きや警戒の色などは微塵もなく、ただ純粋な、底知れない興味と邪悪な歓喜だけが濃厚に滲み出ていた。
手配書の写真に写る少年の顔を眺める男の瞳が、美味そうな獲物を発見した究極の猛獣のそれに、ギラリと変わる。
そして、胸を震わせるようにして、くつくつと不気味に喉を鳴らして笑い始めた。
「ヴォハハハハ……」
男は、ガセルの顔写真が大きく刷られた紙面を、太い指先でトントンと軽く叩きながら、凶悪に呟いた。
「……そろそろ、この俺の野望のために、本格的に大きく世界を揺らしに動く時か」
その禍々しい声音は、部屋の誰に向けられたものでもなかった。
だが、その男が一言を放つだけで、部屋全体の空気が物理的に爆発しそうなほどの威圧感で満たされる。
この男──ロックス・D・ジーベックが、その重い腰を上げて真に動くとき、世界という大いなる天秤そのものが、根底からひっくり返り、激しく揺れ動く。
その絶対的な恐怖の事実を、この船に乗り合わせる全ての怪物の雛どもが、嫌というほど理解していた。
男が放り投げ、床に散らばった手配書には、こう書かれていた。
──雷禍のガセル。懸賞金二億三千万ベリー