それは突如として訪れ、凪の静寂を破った。
見張り台の上から、潮風を引き裂くような悲鳴に近い怒号が降ってくる。
「前方に船影!! 海賊船だ!!」
その瞬間甲板で各々の凶器を弄んでいたロックス海賊団の怪物どもの動きが、一斉に止まった。
だが、誰一人として取り乱す者はいない。
弱肉強食を地で行くこの偉大なる航路において、海賊船との遭遇など日常茶飯事、あるいはただの退屈しのぎの餌が向こうから飛び込んできたに過ぎないからだ。
問題なのは、その船が掲げる旗の正体であった。
「……何処の海賊団だ」
低く、地鳴りのようなニューゲートの問い。
数秒の耳が痛くなるような沈黙の後、見張り役の船員の喉からひっくり返った声が絞り出された。
「……ッ、ロ、ロジャー海賊団だァ!」
その名が空間に落ちた瞬間、甲板の全空気が目に見えるほどの密度でピキリと変貌した。
一切の雑音、下俗な笑い声が綺麗に消え失せる。
ざわめきすら起きない。
ただそこにいる全員の殺意と闘気が、空間を張り詰めさせた。
「なんだと……」
船首付近にいたロックス・D・ジーベックが低く呟く。
その直後、ロックスのその口元が狂暴な三日月型にひん曲がった。
「ヴォハハハ……!! お前ら、準備しろォ!!」
誰も返事はしない。
ロックスの船において、従順な返事など何の意味も持たない。
ただその言葉が終わるよりも早く、全員の体がすでに戦闘へと切り替わっていた。
無造作に得物を手に取る者。
覇気の密度を肉体に馴染ませる者。
最善の殺傷距離へと静かに位置を変える者。
彼らにとって、これから始まるのはただの小競り合いではない。
世界の覇権を巡る、極限の殺し合いだ。
「潰すぞ!!」
ロックスの獰猛な号令が、大気を爆裂させる。
二隻の巨大な木造船の距離が少しずつ、だが確実に詰まっていく。
水平線の向こうで陽炎のように揺れていた船影が、見る見るうちに明確な戦慄の形を帯びていく。
純白の帆、一切の無駄を削ぎ落とした強固な船体。
その進路には、迷いもブレも微塵もない。
向こうはこちらの存在を完全に視認している。
それどころか最初から此方を正面から叩き潰すべく、狙い澄まして直進してきているかのようだ。
大砲の火蓋を切る音はない。
退屈な牽制の銃撃もない。
ただ真っ直ぐに、己の意地と肉体をぶつけ合うためだけに、その船は怒涛の勢いで突き進んでくる。
やがて、互いの船員たちの顔の輪郭が肉眼ではっきりと捉えられる距離まで接近した。
両船の間に横たわる空気は、触れれば指先が容易に切り裂かれそうなほどに鋭利に張り詰めていた。
沈黙の均衡を先に破ったのは、向こうの船長だった。
「……よォ、ロックス」
男が悠然と、船縁の一歩前へと踏み出してきた。
その口元には不敵でありながらも、どこか楽しげな笑みを浮かべている。
ゴール・D・ロジャー。
その男の姿が視界に焼き付いた瞬間、ロックス側の甲板の緊張がさらに一段深く沈み込んだ。
「相変わらず、好き勝手やってるみてえだな」
それはまるで、馴染みの酒場で声をかけるような軽い調子だった。
だがその言葉の裏に隠された声には、周囲の海面を不自然に波立たせるほどの確かな王の風格が存在している。
「ヴォハハハ!!」
ロックスが腹の底から狂ったように笑う。
「てめェこそ、どの面下げてここまで来やがった、ロジャー!! 人の海で好き勝手に暴れてんじゃねえよ!!」
「お前の海じゃねえだろ、ここは」
交わされる言葉は短い。
だがその会話の裏側で、両者の覇王色が目に見えない火花を散らして激突していた。
大気が激しく軋み、船と船の間の空間がまるで陽炎のように歪んでせめぎ合う。
両船の船員たちは、誰一人として微動だにしない。
今ここで誰かが指一本でも動かせば、それが世界の終わりを告げる全面戦争の引き金になる。
全員がそれを察知していた。
「ロジャー!!」
だがその極限の緊張感を、あまりにも場違いな高音が唐突にブチ壊した。
ロックスの船の後方から、一人の若い女が狂ったように飛び出してきたのだ。
「会いたかったわ!!」
グロリオーサだった。彼女は周囲の猛者たちが放つ、肌を刺すような殺気など一切目に入っていないかのように、一直線に船縁へと駆け寄り、身を乗り出した。
「グロリオーサか!」
ロジャーが、その想定外の乱入に目を丸くして反応する。
「シャッキーはいるか!?」
「いないわよ!!」
一切の躊躇もない、完璧な即答。
「私がこんなに惚れてるのに、何よそれ!! 開口一番に他の女の名前を呼ぶんじゃないわよ!!」
一瞬。
世界の時間が完全に静止した。
さっきまで大気を焦がしていた極限の殺意の軸が、ほんの僅かに、だが決定的にズレる。
だが、そんな喜劇のような一幕が長く続くはずもなかった。
「無駄話は終いだ」
ロックスが静かに、冷酷な一歩を踏み出す。
その足音が響いた瞬間、周囲の空気の温度が急激に低下し、圧倒的な質量となってロジャーたちへと押し寄せた。
「ロジャー。今日、ここでてめェらを完全に潰す」
「やってみろ」
次の瞬間、目に見える異変が起きた。
ロックスとロジャーの間に、黒い電撃のような覇気の衝突が炸裂したのだ。
直接刃を交えてすらいないというのに、甲板の木板がミリミリと悲鳴を上げて軋み、巨大な帆が激しい突風に煽られたように大きく揺れる。
「行くぞ、野郎共!!」
誰かの叫び声が、地獄の開戦合図となった。
同時に、両船の人間が咆哮とともに一斉に跳びかかる。
ガセルもまた、その暴力の奔流の中へと自身の足を踏み出した。
視界の至る所で、ロジャー海賊団の怪物たちが散っていく。誰も彼もが、これまで戦ってきた有象無象とは次元が違う。
構え一つ、眼光一つで、その強さが嫌というほど脳髄に伝わってくる。
だが、その乱戦の渦中で、一人。
微動だにせず、ただ真っ直ぐにこちらだけを見据えている男がいた。
凄惨な怒号と血飛沫が舞う戦場において、その男の周囲だけが、まるで真空のように奇妙に静まり返っている。
シルバーズ・レイリー。
その男と視線がぶつかった瞬間、ガセルの足が自然と止まった。
向こうもまた、ガセルの存在を明確に捉え、静かに一歩前へと歩み出てくる。
視線が交差する。
周囲の狂乱から完全に切り離されたかのように、その一角だけが、張り詰めた静寂の檻に包まれていた。
先にその薄い唇を開いたのは、冥王の側だった。
「……来るか、若造」
低く、どこまでも落ち着き払った声。
ガセルは僅かに重心を下げ、じり、と間合いを詰める。
「レイリー……ロジャー海賊団副船長……」
その名を口の端で反芻しながら、心臓の奥が激しく脈打つのを感じていた。
目の前に佇むこの男は、単なる手強い海賊ではない。
これから先、この海の世界の頂点に君臨し続ける絶対的な存在の右腕。
「私を知っているのか」
感情の起伏が見えない、静かな問い。
「お前らの名前を知らねぇ奴なんて、この海にはいねぇよ」
ガセルは獰猛に笑ってみせた。
それは紛れもない事実だった。
今や、彼らの悪名は偉大なる航路の全てを震撼させつつあるのだから。
「はは。随分と有名になったものだな、我々も」
レイリーが眼鏡の奥の目を細め、小さく自嘲気味に笑う。
その態度には、絶対的な余裕があった。
足元でこれほど凄惨な死闘が始まっているというのに、焦りも、怯えも、気負いすらもない。
だからこそ、ガセルの狂暴な本能が激しく燃え上がった。
「⋯⋯なら好都合だ。今の俺には、丁度いい相手だ」
不敵に、退路を断つように言い切る。
「……ほう。この私が、丁度いい、と?」
レイリーの目が、わずかに興味を示すように鋭く細められた。
「ロジャーよりは弱えんだろ?」
一瞬。
場の空気が、物理的にドスンと沈み込んだ。
ほんの僅か。
だが決定的に、レイリーの全身から放たれる気配の質が変わる。
それまでの静かな海のような余裕が消え失せ、底の見えない不気味な深淵の圧がガセルの肌をチクチクと刺し始めた。
「……いいだろう。若人に格の違いというものを教えてやるのも、先達の務めというものだ。相手になろう」
その一言が落ちた瞬間、二人の間の空間が完全に閉じた。もう、ここからの逃げ場などどこにもない。
「上等ッ!!」
ガセルが爆発的な踏み込みを見せたのと同時に、レイリーもまた、驚くほど無駄のない挙動で滑るように間合いを詰めてくる。
次の瞬間、両者の放つ圧倒的な覇気が正面から衝突し、空間そのものが悲鳴を上げて歪んだ。
だが、その凄まじい余波すらもかき消すように、すぐ傍ではロックスとロジャーによる天変地異のような激突が繰り広げられており、船体そのものが狂ったように揺さぶられる。ガセルはその振動を完全に無視し、意識の全てを目の前の男へと極限まで絞り込んだ。
先手を打ったのは、ガセルの側だった。
右腕を鋭く振るうと同時に、大気から引き裂かれた狂暴な雷がバチバチと奔り、蒼白い極大の閃光が一直線にレイリーの肉体へと叩き込まれる。
だが、その一撃は当たる直前、レイリーの信じがたい見聞色の精度によって、わずかに上体をずらされることで掠めるに留まった。
避けられた、という認識が脳に達するよりも早く、レイリーの姿が視界から完全に消失する。
次の瞬間には、すでに死角の内懐まで間合いを詰められていた。
ゾクリとした戦慄とともに、ガセルは振り下ろされる剣撃を黒く硬化させた武装色の腕で強引に受け止める。
だが、純度の高い覇気を纏った冥王の一撃はあまりにも重く、腕の骨の芯まで叩き込まれる凄まじい衝撃に歯を食いしばる。
しかし、踏みとどまろうとした体勢を強引に崩され、ガセルの巨体は甲板を滑るように後方へと弾き飛ばされた。
だが、ガセルの闘志は微塵も衰えない。着地と同時に再び鋭く踏み込む。
雷の能力による雷撃を全身に纏い、肉体の神経と細胞を強引に加速させながら、爆速でレイリーの懐へと滑り込む。
武装色を極限まで乗せた右拳を叩き込むと同時に、もう片方の左腕から扇状に広範囲の雷を放ち、男の逃げ場を完全に圧殺する。
単純な打撃ではない。
左右から挟み込み、回避の選択肢をすべて潰す、計算された角度。
「これならどうだァッ!!」
渾身の力で叩き込む。
だが。
「甘いな!」
レイリーは片方の電撃を、引き抜いた剣の腹で完璧に受け流しながら、もう一方の拳の軌道を、人間業とは思えない軸のブレない身体の捻りによって、紙一重で外してみせた。
しかし。
流石の冥王といえど、加速した雷の速度を完全には捌ききれなかった。
バチィッ!! と大気を焦がす不快な音が響く。
漏れ出た蒼い電流が、レイリーの右肩口を鋭く掠めていた。
焼けるような嫌な音とともに、彼の衣服の布地が裂け、その白い肌からわずかに赤い血がジワリと滲み出る。
ほんの、爪の先ほどの浅い傷。
だが、それは確かに入ったのだ。
その瞬間、レイリーの眼鏡の奥の目が、明確に細められた。
「……強いな」
先程までの若者に対するそれとは違う。
今度は、目の前の敵を対等な脅威として認めた、確かな実感を伴った重い言葉だった。
「嫌味かよッ……!」
ガセルは荒い息とともに吐き捨てるように返しながら、あえて距離を取らず、そのまま命のやり取りの間合いに居座り続けた。
ここで一歩でも引けば、一瞬で主導権を奪い尽くされる。
だからこそ、死線へともう一歩踏み込む。
全身から絶え間なく雷撃を乱放し、大気を盲目的な閃光で満たしながら、一瞬たりとも足を止めずに攻め立てる。
純粋な速度の暴力で押す。
経験に基づく相手の判断を、数多の雷撃のノイズで狂わせる。
一瞬でも、ほんのコンマ数秒でもその堅牢な防御を崩せば、そこに全ての威力を叩き込める。
その、紙薄の読みは見事に的中した。
視界を埋め尽くす連続の雷撃の奔流の中で、わずかに、本当にわずかにレイリーの剣の捌きが遅れた。
肉眼では捉えきれない、ほんの一瞬の隙。
だが、ガセルの覚醒した見聞色にとっては、それで十分すぎるほどの勝機だった。
さらに深く踏み込む。
武装色の覇気を限界まで練り上げた右拳を、一切の迷いなくその胸元へと叩き込んだ。
ドガァッ!!!
鈍く、重苦しい肉体破壊音が響き渡る。
直撃。
レイリーの頑強な身体が、その衝撃でわずかに後方へと揺らいだ。
完全にその体勢を崩しきれたわけではない。
だが、確かにその肉体に、自分の全力を通した。
その確固たる事実が、ガセルの拳の中に強烈な手応えとして刻み込まれる。
だが、その歓喜の瞬間こそが、この戦いの終わりの始まりだった。
衝撃を受け止めたレイリーの瞳の色が、完全に変わる。
わずかに、だが恐ろしいほど確実に、男の精神のギアが、もう一段上へと跳ね上がった。
次の瞬間、ガセルが身震いするほどの速度で、逆に距離を詰められる。
先程までの戦闘速度とは、文字通り比べ物にならない極限の踏み込み。
視界が、男の放った一閃の剣筋によって白く染まる。
ガセルは全力で両腕を交差し、武装色を凝縮させて防御に回った。
だが、今度はその一撃に込められた重さの次元が違っていた。
衝撃を受け流すことすら許されず、ただ圧倒的な覇気の質量によって正面から力ずくで押し切られる。
衝撃が硬化させた武装色の防御網を容易に突き抜け、ガセルの内臓へと直接叩き込まれた。
「がはっ……!?」
間髪入れずに繰り出される、苛烈極まる斬撃の嵐。
ガセルは必死に防ぐ。
だが、完全には防ぎきれない。衣服が裂け、肉が刻まれ、鮮血が宙に舞う。
ここにきて、両者の間に横たわる絶対的な差が、残酷なほど明確に姿を現した。
技の練度、覇気の精度、そしてこれまでに積み重ねてきた修羅場の数。
その全てにおいて、目の前の男が数段上に位置していることを、肉体の痛みが証明していた。
「おおおおおッ!!」
それでも、ガセルは膝を折らなかった。足だけは止めない。
視界が血の赤で染まる中、最後にもう一度だけ、渾身の力を込めて前へと踏み込んだ。
全身の全電力を右拳に集中させ、これまでの短い人生の全てを乗せるようにして、冥王の胸中へと突き出す。
それに対し、レイリーは静かに、ただ一点の狂いもない軌道で剣を迎え撃たせた。
一瞬だけ、両者の力が互角に拮抗したかのように見えた。
だが、その歪な均衡は、あまりにもあっけなく崩れ去る。
ガセルの渾身の力は絶妙な剣技によって無慈悲に受け流され、その攻撃軌道を完全にずらされた。
そして、全エネルギーを放出しきって完全に無防備となったその胴体へ、レイリーの最後の手加減のない一撃が、完璧なタイミングで吸い込まれた。
ドズン、という重い衝撃とともに、視界が上下反転して激しく跳ねる。
次の瞬間、ガセルの身体は激しく甲板へと叩きつけられていた。
「が、はッ……!」
今度は、すぐに起き上がることができなかった。
全身の神経が麻痺したように言うことを聞かず、指一本動かすことすら凄まじい激痛を伴う。
霞む視界の先で、レイリーが静かに佇んでいた。
その右肩口には、先程の戦いでガセルが刻みつけた浅い傷が、今も確かに残っている。
それは、この戦場でガセルという一人の若者が、冥王シルバーズ・レイリーに一矢報いたという、消えない爪痕そのものだった。
「この若さにして、これ程の領域に達しているか……」
その言葉には、先程のような形式的な賛辞ではなく、心からの戦慄と高い評価が乗せられていた。
ガセルは血に染まった口元を、自嘲気味にわずかに歪める。
「……はっ、俺の、負け、かよ……」
「立てるか、若造」
レイリーは倒れ伏すガセルの元へとゆっくり近づくと、その武骨な手を静かに差し出してきた。
ガセルは顔を歪めるようにして笑う。
「無茶、言うなよ……、身体がバラバラになりそうだ……」
それでもガセルはその差し出された手を借りることはせず、己の腕の力だけで、震える身体を無理やり床板へと押し付けた。
ミリミリと神経を酷使し、膝をつき、激しく息を荒らげながらも、上体を強引に持ち上げる。
完全に倒れ伏した敗者の姿のままでいることだけは、彼のプライドが絶対に許さなかった。
その、執念とも言えるしぶとい立ち姿を見て、レイリーはわずかに眼鏡の奥の目を細めた。
「……しぶとい男だな」
「……」
もはや、気の利いた軽口を叩く余裕すら、ガセルの肺腑には残されていなかった。
レイリーはそんなガセルの様子を見ても、それ以上の追撃や命を奪うような挙動は一切見せなかった。
それどころか、わずかに視線を彼から外し、周囲で繰り広げられている混沌とした戦況を一瞥する。
ロックスとロジャーの、世界を滅ぼしかねない次元の衝突は未だに断続的に続いている。
他の船員たちも、それぞれの場所で血生臭い暴力を撒き散らしている。
だが、少なくともこの一角に限って言えば、明確な決着はすでに着いていた。
再び、レイリーの静かな視線がガセルへと戻る。
「名は?」
それは、どこまでも静かな問いかけだった。海賊特有の威圧も、勝者としての傲慢な押しつけもない。
ただ純粋に、一人の男としての興味として問われていた。
ガセルは一瞬だけ目を細め、その問いに答えるべきかほんの僅かに躊躇したが、すぐに焦げ付いた息を吐き出しながら口を開いた。
「……ガセルだ」
それを聞いたレイリーは、その口元をわずかに優しく緩めた。
「ガセル、か」
短く、その名を己の記憶に刻み込むように繰り返す。
「覚えておこう」
「そりゃ、光栄、だな……」
皮肉を込めて返したつもりだったが、声に力は全く入らない。
レイリーはそれを気にする風でもなく、ふと自身の右肩の傷へと視線を落とした。
浅いが、これは確かにガセルの力が、この海の最高峰に肉薄したという紛れもない証拠だ。
「次は、もう少し楽しめそうだ」
その去り際の言葉に、ガセルは不敵な息を絞り出す。
「……次、は……絶対に負けねぇよ……」
無理にでもそう宣言しておかなければ、己の中の何かが折れてしまいそうだった。
レイリーはそれを聞いて、今度は嬉しそうにわずかに笑った。
「言うじゃないか。楽しみにしてるよ」
それ以上は何も語らず、彼はゆっくりと背を向けて歩き出す。
その背中を追う力は、もう今のガセルには一滴も残されてはいなかった。
だからただ、遠ざかっていく冥王の大きな背中を、悔しさと共に静かに見送ることしかできなかった。
♢
激しい戦いが終わってから、一体どれほどの時間が経過したのだろうか。
少なくとも、先程まで大気を震わせていた爆発的な衝突音や怒号は次第に遠のき、海の上には断続的な戦闘の余波と、硝煙の臭いだけが重苦しく漂う状態へと変わっていた。
互いの組織が壊滅するような完全な決着には至らず、最終的にはある種の境界線で互いに引く形で幕を閉じた、怪物たちの邂逅。
どちらが勝ったとも、どちらが負けたとも言えない。
だが、どちらの船も無傷では済んでいない。
その厳然たる事実だけが、激しく削られた船体とともにそこに残されていた。
ガセルはボロボロになった甲板の縁に、身体の全質量をもたれかけるようにして立ちながら、ゆっくりと焦らずに息を整えていた。
身体の奥深くに残る鈍い激痛は一向に引かず、今すぐにでも気を抜けば床へと崩れ落ちそうな状態ではあったが、それでも己の足で立っていることだけは維持できていた。
視線の先。少し離れた場所には、同じようにいくつかの傷を負いながらも、何事もなかったかのように平然とした立ち姿で佇むレイリーの姿がある。
互いに、これ以上の無意味な戦闘を継続する意思はない。だが、完全な和解などという生ぬるい状況でもない以上、互いに隙を見せぬよう気を抜かずに睨み合う。
そんな奇妙な距離感のまま、沈黙の時間だけが流れていた。
だが、その張り詰めた空気を、再び場違いなほど乱暴に切り裂く声が響き渡った。
「レイリーに傷をつけたのはお前か!」
ドスン、という重い圧迫感とともに、強烈極まる覇気の気配が横合いから強引に割り込んできた。
ガセルは本能的な恐怖とともに、反射的にそちらへと視線を向ける。
そこに立っていたのは、豪快な笑みを浮かべた一人の男だった。
ただそこに突立っているだけで、周囲の空間の重力が狂っているかのような錯覚を覚える。
さっきまで死闘を繰り広げていたあのレイリーともまた違う、より原始的で、より規格外の圧を全身から放っている存在。
「……っ!」
ガセルの喉が、その圧倒的な存在感を前にしてヒュッと詰まる。
全身の細胞が、最大級の警戒信号を脳内に鳴り響かせ、視線が自然と限界まで鋭くなった。
「……ロジャー」
押し潰されそうなプレッシャーの中で、思わずその名が掠れた声となって口をついて出た。
「おう!! 俺がロジャーだ!!」
男は一切の躊躇もなく、豪快にそう名乗ってみせた。
己の存在を誇るでもなく、かといって過小評価するでもなく、ただ事実としてそこに当然のように佇んでいた。
そのあまりにも自然体な態度こそが、逆に底知れない異様さを際立たせていた。
ロジャーはそのまま、じっとガセルの姿をその瞳で見据える。
それは、敵の戦力を冷酷に値踏みするような陰湿な目ではなかった。
子供が新しいオモチャを見つけたときのような、純粋で、真っ直ぐな興味の光がそこには宿っていた。
「お前、そんなに若えのにめちゃくちゃ強いな!! どうだ、俺の船に乗らないか!?」
「……は?」
あまりにも、あまりにも唐突すぎる勧誘の言葉だった。
だが、その男の声音には、一切の迷いも冗談の気配もない。
本気で、心からこの目の前の敵船の新入りを自分の仲間に引き入れようとしている。
そうとしか思えないほどの、異常な純粋さがそこにあった。
ガセルは一瞬の間、完全に言葉を失った。
脳の処理が、目の前の状況の不条理さに全く追いつかない。
だが、その奇妙に弛緩しかけた空気を、さらに狂暴な極大の圧が背後から叩き壊した。
「ロジャーッ! てめえ、うちの船員を堂々と引き抜こうとするんじゃねえ! 殺されてえのか、この野郎!!」
怒気を一切隠そうともしない、地獄の底から響くような咆哮。
振り返るまでもない。この船の絶対的な支配者、ロックスだ。
その声一つで、甲板全体の空気が再び一気に爆発寸前まで張り詰める。
だが、ロジャーはただ豪快に笑い飛ばした。
まるで、極上の面白いジョークでも聞かされたかのように。
「あァ!? やってみろよ、ロックス!!」
その返答には、一瞬の躊躇も、警戒の色すらもなかった。
相手が世界最悪の怪物だろうが関係ない、ただ真っ向から受けて立つという絶対的な意思だけがそこにあった。
その瞬間、二人の巨頭の間で再び大気がビリビリと震え始める。先程までの激突とは比較にならない、文字通りこの海域そのものを消し飛ばしかねない規模の再戦が、今まさに始まろうとしていた。
場の空気が限界まで緊迫し、互いに一歩も引く気配のない両者が次の瞬間に激突するまさにその直前、その絶対的な暴力の隙間に滑り込むようにして、一人の影が割って入った。
剣を構えるわけでもなく、ただ二人の間に飄々と立つ。
それだけで、ぶつかり合っていた覇気の波動がわずかに軋みながら霧散していく。
「やめろ、ロジャー! またここから全面戦争をやり直す気か!」
レイリーの声だった。
その声音には先程までの余裕が消え失せ、明確な制止の重い意思が込められていた。
副船長として、これ以上の不毛な衝突は避けるべきだという冷静な判断だ。
そして、ほぼ同時に、ロックスの側からももう一人の巨躯が動いた。
重い足取りで前へと出たその男は、鬱陶しさを隠そうともしない苛烈な表情のまま、ロックスの正面へと立ちはだかる。
「お前もだ、ロックス!! 少しは落ち着けってんだ、このアホンダラ!」
エドワード・ニューゲートの、低く重厚な声が甲板に響き渡る。
その言葉には、船長に対する遠慮や恐れなど微塵もない。彼なりの大局的な引き際の判断だった。
ロックスはニューゲートを忌々しそうに睨みつけ、その細い目をさらに険しくした。
「ヴォハハハ……!! まあいい、今日はこの辺にしといてやるよ、ロジャー」
言い方こそ一方的で傲慢極まりないものだったが、結果としては、その一言でこの場に明確な区切りがもたらされた。
極限まで張り詰めていた両軍の空気が、ようやく僅かに緩みかけた。
その瞬間だった。
あまりにも場違いなほどに勢いのある、甲高い抗議の声が横合いから乱入してきた。
「ちょっとロジャー! なんでガセルだけ熱烈に誘ってるのよ!! 私も船に乗せてよ!!」
その一言が放たれた瞬間、甲板にいた全員の時間が再び完全に停止した。
敵味方問わず、全ての猛者たちの視線が、自然とそちらの方向へと一斉に向く。
そこには、明確に納得がいかないといった様子で、両頬をこれでもかと膨らませながら腕を組む女の姿があった。
グロリオーサである。
先程までの、世界の命運を懸けたような超ハイレベルな緊張感とはあまりにもかけ離れたその俗世的な乱入に、場の張り詰めた空気が、今度こそ完全に脱力の方向へと崩れ去った。
ロジャーは一瞬だけ、狐につままれたような、きょとんとしたマヌケな表情を浮かべ、次の瞬間には、腹を抱えて大爆笑した。
「ガハハハッ!!」
そして、ロジャーはそのまま笑いながら、あっさりと振り返った。
「それじゃあな、ロックス!! 次に海のどこかで会った時は、俺達が確実に勝つからな!! よし、野郎共、引き上げるぞ!!」
あまりにも一方的で、かつ嵐のような速度の撤退宣言だった。
先程までの重苦しい因縁の空気を、まるごと綺麗に切り捨てるように。
彼はグロリオーサが作った一瞬の空気の乱れを、そのまま完璧な引き際として利用した。
「ちょっと!! ロジャー!! 無視するんじゃないわよ、私の情熱を!!」
背後からグロリオーサの必死の抗議の声が飛ぶ。
だが、ロジャーは二度と振り返ることはなかった。
そのまま豪快な笑い声を響かせながら、自身の船へと軽快な足取りで戻っていく。
それに続くように、レイリーをはじめとしたロジャー海賊団の面々も、油断なくこちらを警戒しつつも、速やかに自船へと引き上げていった。
ロックスはその遠ざかっていく彼らの背中を、苦々しく、しかしどこか満足げに睨みつけていたが、やがて呆れたように鼻を鳴らして笑った。
「ヴォハハハ……!! 締まらねえ野郎だ、全くよォ」
吐き捨てるようなその言葉の裏には、命懸けの対話をどこか楽しんでいたかのような奇妙な余韻が混じっていた。
やがて、二隻の巨大な木造船の距離が静かに開いていく。
船と船の間に、再び鏡のような穏やかな海が戻ってくる。
先程まで、この世界の覇権を懸けて激しくぶつかり合っていたとは到底思えないほどに、あっけなく、静かに。
こうして、世界最悪の軍団と、未来の海賊王の率いる一団との伝説的な遭遇戦は、静かに幕を閉じたのだった。