甘めカプ小説のつもりですが、怪我を負うシーンや治療の際に麻酔が効かないなどセイカちゃんが痛くて怖い思いをする描写があります。
素人なので医療描写ガバガバ、設定もガバガバです。
――――しくじった。
目の前にはオヤブンダストダス。しかし体は鉄の板にでも変わってしまったかのように動かない。
オヤブンダストダスをビルの上から見つけて飛び降りるまでは良かった。気付かれる前に効果バツグンの技を浴びせ一撃。と言う常套手段。高所から飛び降りてもスマホロトムが安全に着地させてくれるのだから完璧のはずだった。
しかしそのスマホロトムを握り締め、地面まであと二、三メートルの所で聞いたのは無慈悲な声。
『充電切れロト〜〜!!』
落下したのがゴミ捨て場だったのは幸いか不幸か。衝撃はいくらか和らげられたものの、脇腹が強烈に熱い。
悲鳴を上げたはずだが、聞こえたのは咆哮のような声だった。それが自分の喉から出たものではなく、オヤブンの物だと思い当たる頃には、まさしくその持ち主であろう山のような影が覆いかぶさっていた。
鼻腔や気道を掻き毟って、肺も胃もひっくり返してしまうような悍ましい悪臭が立ち込める。
毒ガスだと直感的に気付いた時には体はもう動かなくなっていた。
――流石に、しぬかも……。
真っ赤な視界。目の前の影はどんどん大きくなってくる。振り上げられたその腕の、爪のような物が鈍く光って……。いよいよ終わりかと瞼を固く閉じる。
硬い物同士が衝突したような音が聞こえた。間髪入れずに地中深くから響く轟音。
――意識は、途切れていない。
目の前が少し明るくなった気がして恐る恐る薄目を開けた。さっきまで覆い被さっていたはずのオヤブンダストダスの姿は、見当たらない。
――いや、側で伸びて目を回していた。
代わりに目の前に立っていたのは、ペンドラー。
そしてそのトレーナー、独特な装飾の付いた黒いスーツに眼鏡の男。
側にしゃがみ込む気配がした。
そのよく見知った姿に安堵し思わず声が零れ出たように思う……が、あまりにか細くそのまま彼のスーツの黒に吸い込まれてしまったのか、それとも結局声になってすらいなかったのかは定かでは無い。
彼は何にも言わなかった。
いつものように怒号が降ってくるのを覚悟し身構えていたが、殊の外の沈黙に全身の血が引いていくような心地だった。
――ひょっとして、もはや助からないと見て……。
あまりにも突拍子も無い考えが浮かぶ。
彼の手は何か細長い物を握っていた。いよいよ溜まらなくなり、恐ろしい考えを払いのけるべく恐る恐る口を開く。
「……カ…ラスバさ……ん? ……ごめん……なさい」
「喋るなアホ。……ちょっと堪忍な」
その言葉の意図を聞く前に腿に何か固い物を押し当てられる。ボールペンのノック音のような軽い音と同時にヂクリとした痛みが走った。
何をしたのかと問う前にまた声。
「どくけしの人間用言うたとこやな。まあ、ポケモン程都合良くはあらへんけど。……ほな」
カラスバさんがそれを言い終えると同時に影が落ちた。
脇腹に押し潰すような重さ。それに呻くと同時に先程までの熱さはとっくに冷めて痛みへと変わっていたことに気付いた。
傷口に大きな石でも捩じ込まれているような心地だったが、私が零れ落ちないように堰き止めてくれているようにも思えた。
「医者もおるさかい、事務所に連行したるわ。迎え来るまでもうちょい辛抱し」
それから幾許かもしないうちに迎えであろう足音が聞こえてきたが、それが誰であるかを確認する前に目の前が真っ暗になった。
薬品めいた香りに混じるアルコールが鼻腔を突き刺す。 背中から伝わるのは硬い感触。でも滑らかで微妙に柔らかい。いつの間にか硬めのベッドに寝かされているようだった。
瞼を開くと白い天井と聳える銀色のポール、……点滴スタンドが目に入った。そこから伸びている透明な管は、手の甲へと繋がっていた。
助かったと思うも束の間、脇腹に神経を捻じ切るような電流が襲った。
怪我を負ったところだ。思わず身を捩ろうとするも身体が動かなかった。……いや、動かせない。
目の前には、見慣れたマゼンタ。……カラスバさんのグラスチェーンが揺れていた。
「……おはようさん。まぁ痛いわな。……これから傷縫うとこやさかい。……今のは麻酔やな。頑張りや」
またもや電流。ジリジリと、灼け付くように纏わりつく。表皮と皮下組織を引き剥がすような痛み。しかしほとんど身動きは出来なかった。
私の体を押さえ込むカラスバさんは小柄で身長も私と然程変わらないが、やはり男の人の膂力には敵いっこないのだと。圧倒的な力量差を思い知らされる。
「まだ寝ぼけとるん? あきまへんわ。大人しくし」
鋭い眼光が私を突き刺した。
「すみません……。痛くって……」
「自業自得やな。無鉄砲なアホにも付ける薬あって良かったんとちゃうん? 無茶するからこういうことになるんやろ」
「だってぇ……」
それに続く言葉は浮かんでこなかった。
「勝負で勝って泣かすとは言うたけどな、こんなんで泣いてるのを楽しむような趣味は無いんやで。……セイカは強い子やんな? 我慢しとき」
説教混じりにそう言って、細められた彼の目は優しげに思えるのに私を取り押さえるその腕は揺るぎない。
「……始めますからねー」
また別の人物の声。医者だろうか? などと言うようなどうでもいい思考は次の瞬間弾け飛んだ。
脇腹を貫いた一点の痛みが脳内を白く塗り潰し、カラスバさんの指が肩に食い込んだ。
「……麻酔、効いてへんのとちゃいます?」
雷を孕んだ雲のような声が頭上で轟いた。
「……恐らくは、毒の影響でしょう」
「解毒の処置したんやないの?」
「命は繋いだのですが完全に抜けるまでには時間が……。ダストダスの毒は複雑で特定が難しいので断言は出来ませんが、恐らく麻酔薬と拮抗してしまう成分が含まれて――」
「長い説明はええねん。……じゃ、麻酔足してやれへんの?」
「……一応追加はします。しかしこの状態ではあまり鎮痛効果は期待できませんし、それ以上はリスクが。……状態が悪いので加減しながらですが鎮静剤を使いましょうか。痛みを取り除くものではありませんし、これも気休め程度にしかならないとは思いますが」
「それでお願いしますわ」
……気休め程度。それってつまり――
注射器を構えた医者は点滴の管を手に取った。
「少しぼーっとしますよ」
それからすぐに、手の甲が少しひんやりした気がした。
……気休め、程度か。
カラスバさんの方を見遣る。彼の頬が緩む。
それが張り詰めた緊張の糸を少しだけ解してくれる気がした。
「眠なるだけや。……このお医者さん、傷縫うのは上手いで。オレが保証したる」
手足が段々と重怠くなっていく。血液が鉛に置き換わっていくかのようだった。それに引き摺られるように体も沈み込んでいって声も遠のいていく。
――カラスバさんは側にいるはずなのに。
「……安心して任せとき」
その声に、頷く。……うなずいたと思う。多分。
――うなずいたけど。……それで、何を任せるんだったっけ?
辛うじて頭に残っていた朧げな言葉を拾い集めようとするも、その端から崩れ落ちていってもうよく分からなかった。
「では再開しますからね」
――漂う薄布のような意識の一点、どこか一点に何かがある。鋭く、引き裂くような何か。
冷たい風が全身を吹き抜けて背骨を駆け上がるような心地がした。
何だかよく分からないけど何かがやだ。
……とにかくやだ。
けど体を捩っても細長いゴツゴツとした感触が重くのしかかるのみで、体は縫い付けられたように動かない。
「堪忍なぁ。嫌やろうけど気張らなあかんで。押さえとくな」
鋭さは無遠慮に突き抜けていって……それに伴い何かが引き摺り出されていくような得体の知れない気持ち悪さ。
――こわい。
「落ち着きや。ぱっくり開いてんのそのままにしたらあかんやろ?」
……何? 何が、何で? ……なんで――――
「分かっとるやろうけど傷縫っとるねん。痛いやんな。そやけどよう頑張っとるで」
喰らいつくような鋭さと何かが引っ張られるような感触……、そして突き抜けて、また――。
…………いたい? ……いたいの?
「……何か様子おかしない?」
「せん妄でしょうね。こういった薬を使った時などもそうですが、意識が低下している時に起こりやすいんです。一時的なものでしょう」
向こうの方で何かがチラチラと光っている。それは細く尖っていて……。
また鋭さが沁みわたって辺り一帯を支配した。
と同時に頭の中で何かが繋がった。
――――嘴なんだ。
鳥ポケモンの嘴。私を啄んで……。その足で私を踏み付けて…………。
「……何を言わはるん? そんなもんおらへんよ」
足から上は黒、……黒い羽毛? に覆われている……。
――どうしてそこからカラスバさんの声がするの?
「そらオレが押さえとかんとオマエ、大人しゅう出来ひんのやからしゃーないやろ? じっとせな治されへんよ」
黒が押し寄せてくる。私を押し潰そうと……。私の全てを飲み込もうと膨れ上がって……。鋭いのが、嘴が、また――
やだ……、いやだぁ……。
「うん、そやなぁ……。そやけどよう耐えとるで」
私を圧し潰しながら、優しい声で私を嘲笑ってる。
「セイカは強い子やんなぁ……? ちゃんとここまで耐えられたやろ? もうちょい辛抱し」
この黒はカラスバさんで……、怖いのは……? じゃあ、鳥ポケモンは……? 鋭いのは……? ……私の中身を引きずり出そうとしてるのは――カ、カラスバ……カラスバさんが……。
なんで――
「ん? ……そやなぁ。カラスバさんが付いとるさかいな。怖ないよ」
どうして……? ……なんで? 何で!? なんで――
「暴れんなや。お利口さんしとき」
黒が私を取り込まんとばかりに伸し掛かって、重たく地に縛り付ける。
「……嫌なんは分かるけどな、さっきまでもうちょいええ子にしとったやろ?」
ひどい……。酷い……! もうやめてよ……! 何でこんなことするの……!? きらい……。人でなし……!
「……勘弁せぇや。……人でなしでも嫌いでももう何でもかまへんけど絶対離さへんで。これもオマエの為やさかい。ほな、おきばりやす」
もうやだ。……嫌だ。……酷い。酷い……。
――いっそのこと、終わらせてよ……。
「あー、あかんわ。……先生」
「……もう少し追加しましょうか」
――伸し掛かる黒。とは別の、どこからともなく流れ込んでくる暗闇。内側から滲み出るように侵食して、執拗に纏わりついてくる。生温かくて、ドロドロしていて重たい。為すすべもなくその暗闇に溶かしこまれていく。五感も手足も何もかもが溶けて暗闇と一つになってしまったようで、もはや自分の存在がどこにあるかさえ分からない。
全て暗闇の中に溶けてしまってもう何も分からないのに一点を貫かれている嫌な感覚だけはどこかから沸いてくる。
その中でただ一瞬、手に何か柔らかな物が触れた気がして、それに縋るように握り締めた――
「……さ…ん。……セイカさーん。終わったで」
……すごく嫌な夢を見ていた気がする。
内容はよく思い出せなかったが、その余韻のような重怠さと重苦しさが体の内側で蟠って胸を締め付けている。
「……な、……なにを、し……してた、……っけ」
舌にも余韻が纏わりついており、もたついて思うような発音にならない。
「傷縫うたやろ? ……まぁ、覚えてへんならそれがええかも分からんな」
傷? ……その一言で頭の奥で沈んでいた記憶が浮かび上がってくる。
オヤブンダストダスを捕まえようとしたら失敗して……怪我して、……治療の時に麻酔が効かなくて、それで――。
記憶はその辺りから黒く滲むように抜け落ちている。
結局麻酔で寝たのか、……あるいは気絶してしまったのだろうか?
――いや、それよりも。……連れてた子達は?
「……わ、……わたしの、……あの子た……ちは……」
「……手持ちのことか? それならみんな預かっとるし、オマエ以外は無事やから安心し」
……それなら良かった。
重たい首と眼球をなんとか動かして横を見ようとすると、首に違和感を覚えた。皮膚が引き攣れるような痛み。
鉛のような腕を持ち上げ、そこに運ぼうとする――
「あー、あかん。あかんよ」
やっとの思いで声の方向に眼球を動かすと、黒い円の中に山吹色の光が浮かんでいる。
ぼやけて滲んで揺らめいて、二つにも四つにも見えるそれが瞳だと分かるまでには少し時間がかかった。
「点滴、そこに入れ直したさかいな。弄ったらあかんよ」
目の前にはカラスバさんの顔。また視界が滲んだ。
手が伸びてきて、反射的に目を瞑ると目元を温かい感触が拭っていった。
「……傷痛むん? 痛み止め増やして貰おか?」
首を恐る恐る横に振ると、また引き攣れるような痛みが微かに走る。
傷は……?
いや、痛い。痛い気はする。でもこれは痛いからじゃなくて……。
視界が滲んでもうその輪郭すら分からない。目尻から何かが溢れ落ちた。
蟠っていた夢の余韻が、重怠さと重苦しさが胸の奥から膨れ上がってくる。
「……ほなら思い出してもうたんか。もうなーんも怖いことなんかあらへんよ」
確かに思い出したけど、痛かったのは初めだけで。……ならこの苦しさは――?
「……オレが怖なったか?」
え? ……助けてくれた時に初め無言だったのはちょっと怖かったけどそんなんじゃ――
「……ち、……ちが……っ」
やっとの事で絞り出した声は上擦ってしまっていた。膨れ上がってくる物を押し込めようにも、もう収拾がつかない。
それは次第に痛みにも似た苦しさを伴って、気道を引っ掻きながら込み上げてきて、喉が締め付けられるように苦しくなる。そして堰を切ったように、後から後から溢れ出てくる。
「あー。……拭くもん要るな? ……ちょっと待ってや」
腕が引っ張られる。いつの間にかカラスバさんのスーツの裾を握り締めていたようだ。
その拳をまた強く握り直す。
「……い、行っちゃやだ」
今、一人にされたら……悪夢に。
このまま押し潰されてしまう気がして……。
「ちょ、まだそれ握っとったんか。千切れるて! すぐ戻るさかい、離せや……!」
握り締めている拳を温かい感触が包み込む。
「ほんまなんやねんオマエ……。そないな力どっから出るねん……」
ため息混じりの声。きっと呆れが滲んでいた。
「すぐ戻る言うたやん。べしょべしょなった布団で寝るんは嫌やろ?」
ポン、ポン、と慰めるように優しく拳を叩かれる。
「戻ったらいくらでも気が済むまで側に付いといたるさかい。な?」
その言葉に思わず指の力が緩んでしまう。
「……ええ子やから。な?」
力が緩んだ一瞬の隙を突くかのように一気に引き剥がされてしまった。
医務室の戸が閉まった後の沈黙。
そのまま蹲ってその寂しさに打ちひしがれる程の間も無く、……悪夢に押し潰されてしまうような事も無く、再び扉が開く音がした。
「戻ったで」
その声の主を見上げるより先にいきなり柔らかい物がバサッと顔に降ってくる。
「全く、オレに世話焼かせんなや」
そのガラの悪い物言いと先程の粗雑な動作とは打って変わったように拭い方は丁寧で優しかった。
それでも溢れ出した物は止まるどころか拭われた先から溢れ出てきて、終いには嗚咽まで抑えきれなくなってくる。
「……キリあらへんやん。何でそないに泣くねん……。やっぱどっか痛いんか?」
首を振る。抑えきれない嗚咽が漏れ出した。
「あー、もう何がそんなに嫌やねん。大丈夫やて。もう何もせえへんよ。痛いんも怖いんも全部終わったやん」
そんなの分かっているのに。彼にこんなの見せたくないのに。その意思に反して留まることを知らない。
「……はぁ。もうええわ。好きなだけ泣いたらよろし」
突き放されてしまったようだった。きっと心底呆れられているのだろう。
気配が動く。
――それでも。
つい手を伸ばすと指先に厚手の布が触れた。
それを無我夢中で、逃さまいと肩が浮き――。
「傷開くやろ!」
肩に押し付けられる重み。
……まるでそれに力を吸い取られてしまったかのように、何故だか力が入らなくなっていく。
固まってしまった私を見てか、すぐにカラスバさんは私の目線に合わせて屈み、今度は穏やかに言った。
「……堪忍なぁ。……別に離れるつもりやあらへんよ。体勢変えただけや。……気が済むまで側に付いといたる言うたやろ?」
それを聞いた途端、また込み上げてくる。
彼を離したくない。自分の手から離れた途端、彼では無い何かに変貌してしまう気がして……。
もう何でも良かった。
カラスバさんのスーツを掴む。そのままカラスバさんの胸元に顔を押し付ける。
シャツ越しに感じるカラスバさんの体温、よく知っている匂い。そして、心音。
「おぉ……、大胆な子やね。……やあこかいな。まぁ、ええよ。許したるわ。特別やで」
やあこ?
聞き慣れない単語で頭に浮かんだ疑問符は背中を撫でる温かい感触ですぐに朧げにされた。何だか段々情けない気持ちになってくる。
「……好きなだけ泣いたらええとは言うたけどな。そない泣いたら喉痛めてまうやろ。深呼吸し」
しかし息を吸おうとしても収まらない嗚咽がそれを阻む。
「大丈夫や。落ち着き。ゆっくりでええよ。ほな落ち着いてゆっくり息吸うてみ」
背中をゆったりと擦られ促されるまま。嗚咽に遮られながらも深呼吸を繰り返す。
「ええ子。上手やで」
嗚咽が収まってくるにつれて段々疲労と眠気とが押し寄せてくる。背中を擦っていたカラスバさんの手はそのまま、今度は優しく背中を叩き出した。
「眠なってきたなぁ。……ええよ、もうそのまま寝よし」
……寝かし付けられている。
――子供みたいに……?
顔から火が吹き出そうだった。
しかし押し寄せてきた疲労と眠気はもはや抗えるものでは無く、そのままずるずると暗闇に……、今度は温かい暗闇に引きずり込まれていった。
――――カタタ、……タタ、タタン……
小気味良い音が聞こえる。それに耳を傾けていたいのに。一定の感覚で、混ざる電子音がそれを邪魔する。
無機質で冷たい……。酷く耳障りだった。
音が聞こえる方に顔を向けようと首を動かすと何やら突っ張るような不快な感覚が走った。
それを確かめようと、手を持ち上げ――
その手首は、何かに掴まれた。
「あかんて。弄ったら」
横を見遣るとパイプ椅子に腰掛けているカラスバさん。
その目の下にはどこか険しさと黒々とした隈が滲んでいる。その顔色はいつにも増して白く思えて、彼のグラスチェーンの色がやけに毒々しかった。
目が合うと彼はその険を解いて手首を離し、膝のノートパソコンをパタンと閉じた。
「調子はどうや? ……痛いとこあらへん?」
喉が張り付くくらい渇いていて声が出しづらい。
彼は柔らかな表情を崩すこと無く私の返事を待っている。
「……く、びが」
「そこから点滴の管入っとる言うたやろ? ……覚えてへんか」
――そういえば。……何で首? いやその前に。
「……あー。……あ、あ……の、お水……」
「それもあかん」
渇ききった喉からやっとの思いで絞り出した訴えは即答で突っぱねられた。
あまりにも無慈悲だ。
「……えー」
「『えー』やない。あかんもんはあかん」
意地悪ですか? と続けたかったが、口が渇きすぎてそれを言うのすら辛く、代わりに不服の意を込めてじっと見つめてやる。
「……オレの意地悪や思っとるな? アホ。お医者さんの、療養上の指示や」
「い、いつ…まで……」
「そんなんオレに聞くなや。お医者さんが良いって言うまでやわ。……一応言うとくけど傷の手当てしたからそれでもう大丈夫や思っとるなら大間違いやからな」
カラスバさんはそう言って私を睨みつけると、また改めるように瞬きをしてから続けた。
「……先生が言うたはったんやけど消化管まで傷付いてたらしいねん。その傷から中身漏れて、……変なとこ行ったりしてまうと腹膜炎言うてな。……そないなったらただのハライタの比やないどころか――」
「……ふ、……ふくまく?」
「まぁ、何か内臓とかを覆ってる膜に炎症が起こるんやな。……ハライタどころか、腹ん中から全身にバイ菌が撒き散らされたりしてまうかも分からへんのやと。最悪それで……お終いかも分からへん。せやからお水も食事も、一切何も口から入れたらあかん」
「え、じゃあ……」
「全部その管からやな。当分はそうやで。……そもそもの話、必要なモン全部補えるような栄養剤は濃すぎて腕や並の血管やと耐えられへんらしいねん。そやから首なんやな。太くて丈夫な血管やないとあかへんのやと。……ほんでな、また手術するで」
手術。
その一言が胸の淵に重く流れ込んで蟠る。
「……毒の影響もあってな、昨日はせなあかん処置全部に耐えられるような状態やのうて、とりあえず傷を塞ぐことしか出来なかってん。せやから、もう少し具合良うなったらまな板の上のコイキングやな。……『はねる』も出来ひんけど」
そう言って彼は口端を歪めた。
……もしや、ジョークのつもりなのだろうか?
私が黙り込んでいるのを見るなり、彼は気不味そうに咳払いをして続けた。
「……まぁ、覚悟しときってことですわ」
重苦しい胸の淵がしんと冷え切っていくような心地がした。
「ああ、心配せんでええよ。そん時は全身麻酔……、強い麻酔やからな。ええ夢見れるで。……いや、多分夢も見れへんな。そやから怖いも痛いもクソもあらへんよ。……昨日は強い薬使えへんくらい具合悪かったんや」
カラスバさんは宥めるように言った。その口調は柔らかで、何だか微妙に子供扱いされているような気がする。
昨日もこんな風に……。
……昨日? その途端昨日の映像がふっと浮き上がってきた。
――カラスバさんに泣き付いて……?
脳に変な痺れが広がっていく。
――寝かし付けられて……?
顔が熱く火照ってくる。
「んー? どないしたんや? 顔真っ赤やで?」
既に彼の口元は三日月のような弧を描いている。
「……き、……きのう」
「昨日?」
白々しい。分かってる癖に。
「……す、……すみ……ませんでした……」
「何のことやろなぁ……。……あぁ、これか?」
そう言ってカラスバさんはスーツの胸元の皺を見せ付けてくる。
「……これなぁ、オマエがぐいーって握り締めて離さへんかったからなぁ、ちょっと皺になってもうたな」
「……ク、……クリーニン……グ代……は」
「……ええよええよ。子供は大人に甘えたらええねん」
――何でカラスバさんなんかに……!
「……子供じゃ……ないです」
「そうかもな。……まぁ、甘えられる大人が居るっちゅーのはええもんやろ?」
カラスバさんは何食わぬ表情で宣ったが一瞬どこか遠い目をしていたような気がして、……返す言葉が見つからなかった。
……彼には。カラスバさんにはきっと甘えられる大人なんて居なかっただろう。
彼はしばらく私を見つめていたが、私が何も返さないのを見るなりまた口を開く。
「……ほんま、オマエ見とるとオレの寿命が縮むわ」
……何だか悔しかった。
「じゃ……あ、ほっとけば……良いのに……!」
「それ言える立場やないで」
「……そもそも……、助けてなんて……頼んでないし」
その途端、彼の目がすうっと細められた。
思わず口を衝いて出た言葉。
言ってしまった。そう思った時にはもう遅かった。
「……ふうん。ずいぶんしおらしゅうなった思っとったけど結構ピンピンしたはるやん。元気やなぁ……、可愛らしいヤツやで、ほんま。ほならそんな可愛らしいセイカちゃんの為になるお話したるから有り難ーく思えや。有り難すぎて泣いてまうかも分からんけど……覚悟はええな?」
カラスバさんの声は思いの外静かだ。
彼は少し身を乗り出して私の目を覗き込み、また口を開いた。
「……まず、あんま無闇にオヤブン刺激すんなや。セイカが強いのは十分、分かっとるけどな。……ワイルドエリアやったならまだしも、あそこは住宅街やで? オマエのせいで近隣住民や近くに居てはった善良なミアレ市民の皆さんが巻き込まれとったかもしれんのやけどそれについてはどう思うの?」
――それは……、良くなかったと思う。
……こんなはずでは無かった。
「……ほんで、セイカ。……オマエまた飛び降りたやろ? ……オレなぁ、ロトムがおるとは言え、無闇に高い所から飛び降りるなって前も言うたはずやで?」
――そんなのみんなやっているし、ロトムが居るんだから、本来なら問題は、……無いはず。
「……オマエの耳って飾りなんか? それともオレの言うことは聞きたないんか、そもそも分かってへんのかどれや? ……まぁ、聞こえとるやろうし言うこと聞きたないとは言わせへんし、分からんなら分からせるまでや。……言いたいことまだ山程あんねん」
こうなっている以上、一方的に非を認めざるを得ないのが悔しい。こちらにだって言い分はある。
でも口内は干上がって相変わらず声は出し辛かったし、説教をする彼は所々問いかけるようでありながらもその隙は与えてくれなかった。
せめて首を横に振って弁明の隙を作りたくても、管が刺さっている所が引き攣れるように痛んだ。
段々それが自分を戒めているように思えてきて、反抗の意志など萎んでいく。
そんな私にはお構いなく説教は続いた。
「……そもそもの話な、スマホロトムの落下防止機能は安全装置やねん。その意味分かるか? 安全装置言うんわな、百回の内一回、運悪く起きてまう事故を防止するもんであって百回意図的に起こした事故を防止するもんやあらへんで」
……今回は充電切れだっただけで、……これだって運の悪い事故みたいな物で――。
……脳内で必死の弁明を続けるが、弁明にすらなっていないことに気付き唇を噛み締める。
口の中が苦かった。
「……ああ、それとも。……死に場所探してはったの? そやったら邪魔して堪忍なぁ。……いっそのこと、今ここでオレがお望み通りにしたろか?」
首に掛けられた彼の手。
……私を撫でてくれた手とは別物のように、酷く冷たかった。
「……おい、何とか言えや! なぁ!」
それまで淡々と責め立てていた声が荒げられ、同時に彼の指が軽く食い込む。……でもそれだけ。
そうまでして彼はすぐにその手を下ろした。
「……オマエがやってるんは自殺行為や。そうやなくても上手く作動せんこともあるかもしれへん。……運良くクッションがあったからまだ良かったけどそうやなかったら? 打ち所が悪かったら? オマエどないなってた思う?」
自殺行為なんて言われるのは不服だが、……反論の余地など無かった。
「……消えへん謎の地面のシミ、良くてダストダスの餌やで。命が助かっても今よりどうしようも無いアホになるか、一生自分一人では動かれへんようになっとったかもしれん。……そうなりたいんか。なぁ?」
微かに振っても首筋は痛む。
鼻の奥がツンとして、熱い感触が目の奥から込み上がってきた。
「ついさっきまで賑やかやったけど急に静かやね。口も聞けんようになってもうたん?」
目尻から何かが伝い落ちていく。
「……ああ、お返事もできひんくらい深ーく反省したはるんやね」
お説教されて涙だなんて、あまりにも惨めだった。
しかし顔を逸らしたくとも、首に刺さった管はそれすら許してくれない。
言い訳も、否定も、彼から顔を背けることも首の管が許さない。それは彼に逆らおうとする度に戒める首輪のように思えた。
「……今回はもう勘弁したるけど、二度目は無いで」
そう言いながら、彼はずり落ちかけた眼鏡を直す。
その手で彼の表情はほとんど隠れていたが、その隙間から覗いた彼の目が一瞬伏せられて、悲しげに思えたのは気の所為だろうか。
……胸のどこかがチクリと痛んだ。
しかし次の瞬間には彼はいつもの不敵な笑みを浮かべていた。
「しばらくはここで療養させたるからな。……安心しぃや、MZ団に連絡したら是非お願いします言うてたし、セイカの手持ちの子達は責任持ってちゃあんとお世話しといたるからな。……ポケモンに、変な心配させんようにな」
――療養。……実質軟禁のような物ではないだろうか?
「あー、オレって親切やなぁ。至れり尽くせりやなぁ。ほんま高く付くで」
「……な、何……が……目的……です……?」
「……せやなぁ、治ったら治療代も込みで奉仕活動してもらおかな。……逆らったらどないしよな。……治療せなあかん箇所が増えて、治療代が嵩んで、一生オレの側で働いてもらわなあかんかもなぁ」
そう言ったカラスバさんはどこか楽しげだった。
一体どういう意味で言っているかは知りたくないが、治療箇所が増えるのは困る。
しかし彼の側で働く。
――それも満更ではないと、何故だか思ってしまった。