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楠美香にとって、妹は物心ついた時から自分に劣等感を与え続ける存在だった。1歳歳が離れた妹、楠
50m走では、男子に負けないくらいのタイムを叩きだし、運動会のリレーではアンカーを任されて見事クラスを優勝に導いてみせた。テストでは、家で勉強している様子など全く見せずに遊びまわっていたくせに、毎回満点を取った。コミュニケーション能力も高く、友達もたくさんいた。よく家に友達を呼んできて、隣の部屋で勉強している美香には楽しそうに話す声が聞こえて来て、集中を妨げられた。
それに対して、自分は何をやっても平凡だった。50 m走では平均以下のタイムしか出せず、そもそもリレーのランナーに選ばれなかった。テストでは、いつも勉強しているにも関わらず、平均点を取るのがやっとだった。勉強ばかりしているからクラスメイトと遊ぶ時間など無く、家に呼べるような友人は存在しなかった。
両親は、いつも妹の方ばかり可愛がる。テストで満点を取った妹を褒めた後、美香のテストの点数を見て失望したようにため息を吐くのだ。両親に褒められた記憶は、一度もない。両親は弁護士とお医者さんで、どちらも優秀な大学を卒業して現役で働いている、凄い大人だ。そんな両親に認められたくて、褒められたくて。美香は死に物狂いで努力した。そんな美香の傍で、里香は鼻歌混じりに難しいことを軽々こなしてみせるのだ。
美香は、自分が凡人であることを理解していた。だからこそ、努力は人一倍してきたし、正しい子であり続けた。
中学時代、授業が急遽自習になった時、騒いでいる男子を率先して注意した。掃除をサボっているクラスメイトを叱った。帰宅後、校則で禁じられている買い食いをしていたクラスメイトを発見し、翌日先生に報告した。その日、HRで先生が買い食いをしていた生徒を注意し、報告してきた生徒として美香の名前を挙げた。先生に褒められたような気がして、とても誇らしかった。
その翌日から、美香に対するいじめが始まった。上履きを隠された。眼鏡を割られた。机に落書きされた。誰がこんなことをしたのかとクラスメイトに尋ねても、誰も答えてくれない。教室の中に、美香の仲間は一人も居なかった。
ある日、トイレに入っているときに頭上から水の入ったバケツをぶちまけられて、びしょ濡れになったことがあった。美香は、茫然と立ち尽くしながらも、胸に手を置いた。とくん、とくん。拳に心臓の鼓動が伝わってくる。何か嫌なことがあった時、心を落ち着かせるために美香はいつもこうする。自分が生きているんだぞという実感を肌で感じることで、正しいリズムを取り戻すためだ。心の乱れは、正しくない行いにつながる。だから、今感じている怒りや悲しみの感情は、さっさと捨て去らねばいけない。これは良くない感情だから。悪い子には、絶対にならない。ただでさえ凡人な自分が悪い子になってしまったら、もう両親はきっと一生、美香のことを見てくれない。
「──お姉ちゃん、その恰好、どしたの?」
背後からかけられた声に、びくりと肩を震わせ、振り返る。胸に当てた拳が、心臓の鼓動が早くなるのを感じ取った。なんで、どうして。よりによって、里香に見られてしまうのだ。
「な、何でもないわよ。ちょっと水浴びしただけ。私もう教室戻るから!!」
それ以上このことに触れられたくなくて、下手な嘘でごまかして横を通ろうとする。しかし、里香は美香の肩に手を置き、逃走を許さなかった。
「ねえ、誰にやられたの、それ。クラスメイト? お姉ちゃん、いじめられてるの?」
いつも両親や友人と話す時は笑顔の里香が、この時だけは一切の感情を消した表情をしていた。そのことに一瞬驚いたが、その驚きを湧き上がる怒りが塗りつぶした。
「⋯⋯なによ。どうせ私のこと馬鹿にしてるんでしょ!? クラスメイトにいじめられるような奴だって、見下しているんでしょ!! 私の問題は私で解決する。だからほっといて!! 私に関わらないで!!」
肩に乗せられた手を怒りに任せてはねのけ、トイレを飛び出した。里香が追ってこないことを確認し、階段に1人座る。胸に手を当てると、バクバクと激しく高鳴っている。早く、この鼓動を落ち着かせて、教室に戻らなければ。もう少しで休憩時間が終わる。もし遅刻してしまえば、悪い子になってしまう。美香にとって、そのことはいじめられることよりもよっぽど恐ろしかった。
深呼吸を数回行い、何とか心臓のリズムがもとに戻ってきたところで、美香は教室へと戻っていく。その後姿を、里香がじっと見つめていることには気が付かなかった。
いじめが無くなったのは、その出来事があった翌日のことだった。なにやらとても怯えた様子で謝ってきたクラスメイトに、美香はどう対応すればいいか悩んだが、ここで許さないのは心が狭い悪い子だと思われそうだったから、結局全員を許すことにした。なにがあったかは分からないけれど、きっと先生が叱ってくれたのだろう。いじめに関しては担任の先生に相談していた。買い食いをしていたことはすぐ注意していたのに、いじめに関しては何も触れなかったから心配だったが、どうやら杞憂だったらしい。やはり、大人は頼りになる。そんな頼もしい大人たちに認められるためにも、もっと頑張らないといけない。
クラスメイトとは微妙な空気になってしまい、友達は一人もできなかったが、中学時代はその後1年何事もなく過ごすことが出来た。里香は相変わらず成績は優秀で、友達もたくさん多い。しかし何故か、私のクラスメイトだけは里香に話しかけようとはせず、里香の姿を見るといつも逃げるようにどこかへ去っていた。
そして、里香よりも一年早く美香は高校を受験した。公立の、家から一番近い高校だ。美香の学力ではそこが限界だった。里香の受験は一年後だが、両親の気合の入りようといい、私立のいい高校を受験するに違いない。そう思うとなんだか胸がもやもやした。妹にこんな感情を抱くなんて、よくないことなのに。自分がこんな悪い子だから、うまくいかないんだろうか。両親は自分のことを褒めてくれないんだろうか。嫉妬心と自己嫌悪でおかしくなりそうになって、慌てて心臓に手を当てる。この変わらない胸のリズムだけが、美香を落ち着かせてくれる。
高校に入学した美香にとっての転機となったのは、聖書との出会いだった。テストの点が悪く、落ち込んでいた時に神父服を着た男性に声をかけられ、手渡された聖書。最初は難しくて内容がよく分からなかったが、神父の説明も受けながらその内容を理解し、文字通り世界が変わったように感じた。
今まで自分が誰にも褒められず、認められて無かったのは、神に祈りを捧げていなかったからだったのだ。自分に足りなかったのは努力では無かった。神に捧げる祈りが足りなかったのだ。信じる者は救われる⋯⋯それならば、どうか神様。自分のことも、救ってください。
知らない人と話してはいけない。小学生の頃にそう教わったし、実際最初は神父のことを警戒していた。しかし、神父の話す聖書の内容を聞き、その教えに共感するようになってからは、些細な悩みも打ち明けるようになっていた。高校生になっても友人と呼べる存在が出来なかった美香にとって、神父と話す時間だけが幸福な時間だった。
テストの点数がなかなか上がらないという悩みを打ち明けた時、神父は少し悩んだ素振りを見せたあと、神のご加護を得られるペンダントがあると教えてくれた。ただ、とても貴重なモノらしく、無料で渡すことは出来ないらしい。確かに、見せてもらったペンダントはとても綺麗で、安物とは思えなかった。でも、美香はそのペンダントがどうしても欲しかった。もし神様の加護を得ることが出来れば、テストの点数を上げられるかもしれない。両親に褒めてもらえるかもしれない。
幸いにも、提示された値段は高額だったが、払えない金額ではなかった。美香には趣味らしい趣味が無かったし、友人と遊びに行くことも無かったから、お小遣いは無駄に溜まっていた。それを使うならばここしかないだろう。
逸る気持ちを抑え、家へと戻る。息を切らしながら自室に入り、貯金箱から現金を取り出して握りしめ、部屋を飛び出したそのタイミングで不意に声をかけられた。
「お姉ちゃん、そんな慌ててどうしたの? それ、持ってるのお金?」
「⋯⋯里香に関係ないでしょ」
里香は、最近よく一人でどこかに行くことが増えていたので、今日も居ないだろうと油断していた。まさか、こんな時に話しかけられてしまうとは。とっさに持っていたお金を背中に隠す。そのままそそくさと横を通り抜け、家を飛び出した。
ペンダントは問題なく買うことが出来た。かなり高い買い物だったけれど、これで神のご加護を得られるなら安いだろう。胸のポケットにペンダントを装着し、スキップで帰路につく。らしくもなくテンションが上がっているのかもしれない。こんなに楽しい気持ちになったのはいつぶりだろうか。
「⋯⋯ねえ、そのペンダントなに? どこで買ったの?」
その楽しい気分は、家の前でまるで待ち構えるようにして立っていた里香に声をかけられて一瞬で消え失せた。反射的に胸に手を当てようとして、その前に胸のペンダントに触れた。すると、ペンダントに触れた箇所から熱が伝わってきたように感じた。これが神のご加護なのだろうか。いつもなら突っぱねて部屋に戻るところだが、このペンダントは里香も持っていないものだ。美香だけが持っているものだ。少しだけ、自慢したい気持ちが美香に芽生えた。
「ああ、これ? これはね、とっても凄いペンダントなの。神父様に貰ったのよ」
「神父様? だれ、それ」
思えば、神父のことを誰かに話したことは無かった。美香は、どこか得意げに神父との出会いと、ペンダントを売って貰えたことを里香に語っていた。話していくうちに、徐々に里香の表情が消え失せていく。
「⋯⋯というわけなのよ。神父様は素晴らしいでしょう?」
「え? ああ、そうだね。うん、凄い凄い。あたしも会いたいな。その人どこに居るの?」
「あ、あなたに教えるわけないでしょ!!」
これは美香が貰ったものだ。里香に渡してたまるものか。折角手に入れた特別なペンダントまで里香に奪われてしまうのを恐れ、美香はその場で会話を切り上げ、部屋へと戻ることにした。
──その翌日のことだった。いつものように神父に会いに行こうとした美香は、その道中でパトカーのサイレンの音を聞いた。人の気配がやけに多い。なんだか嫌な気配がして、慌てて人混みを掻き分けるようにして、その中央へと向かう。
そこで、美香は見てしまった。バラバラに切り分けられるようにして転がる、神父だったものの死体を。彼の身体には何故かジッパーのようなものが取りついている。それが中途半端に壊され、そこから身体が切り分けられているように見えた。通報があって駆けつけて来た警察が、野次馬を押しのけ、死体を隠すように取り囲む。里香はただ、呆然と立ち尽くすことしかできなかった。
美香は、この日何も考えることが出来なかった。学校をサボるのは悪いことだからちゃんと行ったけれど、授業の内容は何も頭に入ってこなかった。
その日の夜。美香は自室でペンダントを握りしめ、窓を開けて天に祈りを捧げた。神父の冥福をただただ神に祈った。何故、神さまの加護を得たはずの神父があんな無残な死体になってしまったのか。深くは考えたくなかった。これがあれば、大丈夫なはずだ。だって、努力して正しいことをし続けている自分が報われないなんておかしいじゃないか。神様がこの世界に居るならば、きっと自分のことを見て、救ってくれるはずだ。
その祈りが本当に天に届いたのか、それは定かではない。しかしこの日、美香は特別な力を与えられた。
美香は魔法少女、クロソフィアに変身できるようになったのだ。