ルート66   作:三毛猫

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三章 結

崩壊という現象は、派手に見えて実際には静かだ。

音を立てて壊れるものは、まだ構造を保っている。

本当の崩壊は、音もなく進行する。

気づいたときには、すでに取り返しがつかない。

 

ここも同じだ。

亀裂は見えている。

だがそれは結果であって原因ではない。

原因はもっと前、もっと深いところにある。

定義の不整合。

起点の不在。

連続性の欠落。

それらが積み重なった結果として、いま目の前で世界がほどけている。

 

ほどける、という表現が一番近い。

壊れるのではない。

ほどける。

結び目が解かれるように、静かに、確実に。

 

町の輪郭が曖昧になる。

建物が透ける。

看板の文字が消える。

名前が消える。

名前が消えたものは、定義できない。

定義できないものは、存在を維持できない。

だから消える。

単純な理屈だ。

単純だが、抗えない。

 

「終わりだな」

 

声がする。

振り向く。

まだ残っている。

さっきの“最も近い個体”。

完全には消えていない。

完全でないがゆえに、完全には崩れない。

中途半端な存在は、中途半端に残る。

 

「ええ」

 

僕は答える。

 

「あなたも、もうすぐです」

 

事実を告げる。

脅しではない。

 

「ああ」

 

男は頷く。

抵抗はない。

あるいは、できない。

 

「なあ、ひとつだけ聞いていいか」

 

質問。

最後の。

それに答える義務はない。

だが、答えても問題はない。

 

「内容によります」

 

僕は言う。

形式的に。

 

「俺は……俺だったか」

 

問いとしては曖昧だ。

だが意味は明確だ。

自己同一性の確認。

最後の確認。

 

「あなたは“そう定義されていた”存在です」

 

僕は答える。

正確に。

 

「だった、ではない。そういう情報として存在していた」

 

過去形ではない。

ここでは時間の区別は意味を持たない。

 

「じゃあ本物じゃなかったのか」

 

「本物の定義によります。あなたがあなたであると信じていたなら、その意味では本物です」

 

主観的な真実。

それは否定しない。

 

「だが、客観的には違う」

 

ここは譲らない。

 

「起点がない以上、連続性は成立しない」

 

連続性がないものは、人間とは呼べない。

少なくとも、僕の定義では。

 

「……そうか」

 

男が言う。

納得したような、していないような曖昧な声。

だがそれでいい。

完全な理解は必要ない。

必要なのは、崩壊を受け入れることだ。

 

「なあ」

 

男がもう一度言う。

 

「お前は大丈夫か」

 

意外な問いだ。

だが予想外ではない。

ここまで来れば、その疑問は自然に生まれる。

 

「僕は僕です」

 

僕は答える。

さっきと同じ言葉。

同じ構造。

だが意味は少し違う。

 

「本当に?」

 

男が言う。

確認。

あるいは疑念の投影。

 

「少なくとも、今は」

 

僕は言う。

断定はしない。

できない。

 

「今、観測されている僕は、僕として成立している」

 

現在に限定する。

それが最も安全だ。

 

「過去も未来も保証はできない」

 

これは事実だ。

否定できない。

 

「だが、それで十分です」

 

結論として。

十分であるかどうかは、僕が決める。

 

「……強いな」

   

「いいえ」

 

僕は否定する。

 

「弱いから、そうしているだけです」

 

強さではない。

必要だからやっているだけだ。

分析は、防御だ。

崩れないための。

 

「なるほどな」

 

男は笑う。

最初に見たときと同じ笑い。

だが今度は少しだけ違う。

輪郭が薄い。

維持できなくなっている。

 

「じゃあな」

 

別れの言葉。

簡潔だ。

十分だ。

 

「さようなら」

 

僕は返す。

形式として。

形式は最後まで守る。

それが、せめてもの一貫性だ。

 

男の姿が消える。

完全に。

痕跡も残らない。

残るのは、空白だけ。

だがその空白すら、すぐに消える。

 

町全体がほどけている。

建物が消える。

道路が消える。

音が消える。

匂いが消える。

最後に残るのは、風だけだ。

 

風は残る。

なぜなら、風はこの町の定義に含まれていないからだ。

外部のものだ。

外部は影響を受けない。

内部が崩れても、外部はそのままだ。

境界が消えるだけだ。

 

「……終わりだ」

 

僕は言う。

確認として。

観測として。

記録として。

 

ここには何もない。

最初から何もなかった。

そういうことになる。

記録も残らないだろう。

誰もこの町を覚えていない。

覚えていたとしても、それは曖昧な印象に過ぎない。

名前のない場所は、記憶に定着しない。

定着しないものは、いずれ消える。

だからこの出来事は、なかったことになる。

 

「それでいい」

 

僕は言う。

誰に向けてでもなく。

ただの結論として。

 

エンジンをかける。

音が戻る。

境界が戻る。

内と外が分かれる。

世界が再び定義される。

正常だ。

少なくとも、相対的には。

 

車を走らせる。

道路は続いている。

途切れていない。

線は維持されている。

線がある限り、追える。

追える限り、終わらせられる。

 

「人間は定義の集合体だ」

 

僕は言う。

声に出して。

言語化することで、思考を固定する。

 

「だが、定義だけでは人間にはならない」

 

それが今回の結論だ。

定義は必要だ。

だが十分ではない。

必要条件であって、十分条件ではない。

では何が足りないのか。

それはまだわからない。

だが、少なくとも一つは確定している。

 

「起点だ」

 

僕は言う。

始まり。

連続性の出発点。

それがなければ、どれだけ精巧でも、本物にはならない。

 

「……そして」

 

少しだけ間を置く。

珍しく、意図的に。

 

「僕には、それがあるのか」

 

問い。

自分に向けた。

答えは出さない。

今は出せない。

出す必要もない。

結論は、まだ先だ。

最終地点で出せばいい。

そこまで行けば、すべてが揃う。

おそらくは。

 

車は進む。

止まらない。

今度は正しい意味で。

止まらないことが目的ではない。

終わるために進む。

そのために、走る。

 

道路は続く。

どこまでも。

少なくとも、今は。

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