ルート66   作:三毛猫

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三章 転

本物という言葉は便利だ。

だが便利であるがゆえに、曖昧でもある。

本物とは何か。

偽物ではないもの、と答えるのは簡単だが、それは定義になっていない。

否定による定義は境界をぼかす。

 

本物を定義するためには、本物である条件を提示しなければならない。

だがその条件は往々にして主観的だ。

記憶が一致していること。

関係性が連続していること。

身体が同一であること。

どれもそれらしく聞こえるが、絶対ではない。

記憶は改竄されるし、関係性は断絶するし、身体は変化する。

それでも人は、それらを総合して“本物”と呼ぶ。

 

総合。

つまり加算だ。

だが加算で成立するものは、分解も可能だ。

分解可能なものは、再構築できる。

再構築できるものは、コピーできる。

コピーできるものは、本物ではない。

あるいは、本物と区別がつかない。

区別がつかないなら、それは同じだろうか。

同じではない。

少なくとも、僕はそう定義する。

 

違いがある限り、それは違う。

どれだけ微細であっても、その差異が存在する限り、同一ではない。

問題は、その差異を検出できるかどうかだ。

僕はできる。

少なくとも、この状況では。

 

歩く。

町の中心へ。

中心は存在する。

存在しない場合でも、存在するように振る舞う点がある。

そこが中心だ。

人の流れ。

視線の集中。

音の集積。

それらが収束する場所。

そこに起点がある。

起点があるなら、そこから崩せる。

理屈は単純だ。

単純だが、実行は容易ではない。

 

だが今回は例外だ。

なぜなら、この構造はすでに綻びているからだ。

完全ではない。

完全ではないものは、壊れやすい。

壊れやすいものは、壊せる。

 

広場のような場所に出る。

広場と呼ぶには曖昧だが、人が集まっている以上、そう定義して差し支えない。

同じ顔。

同じ声。

同じ仕草。

だが、同じではない。

微細なズレが積み重なっている。

そのズレが、むしろ全体の均一性を強調している。

皮肉な話だ。

均一であろうとするほど、均一ではなくなる。

 

「来たか」

 

声がする。

 

振り向く必要はない。

すでに視界に入っている。

他の個体とは違う。

輪郭が濃い。

情報量が多い。

定義が安定している。

あるいは、安定しているように見える。

 

「あなたが一番、元に近い」

 

僕は言う。

確認ではない。

断定だ。

 

男は笑う。

初めて見る表情だ。

この町で、表情が明確に変化する個体は珍しい。

 

「元、か」

 

男は言う。

 

「そんなものはない」

 

否定。

だがその否定は弱い。

完全な否定ではない。

 

「では、なぜあなたは他と違う」

 

「違うように見えるだけだ」

 

可能性としてはある。

だが、その“見える”という現象自体が重要だ。

観測される差異は、実在する差異と同義だ。

少なくとも分析においては。

 

「名前は?」

 

僕は聞く。

基本に戻る。

基本は強い。

 

「……ジョン」

 

やはり。

同じ定義の上にある。

 

「姓は?」

 

「ジョンソン」

 

テンプレート。

だが発音が違う。

抑揚がある。

感情が乗っている。

これは他の個体にはなかった特徴だ。

 

「記憶は?」

 

僕は続ける。

男は少しだけ間を置く。

 

「ある」

 

短い返答。

だがその“間”が重要だ。

処理が行われている証拠。

単なる再生ではない。

 

「どこまで?」

 

僕は問う。

 

「……ここに来る前まで」

 

興味深い。

前がある。

つまり、連続性がある。

 

「具体的には?」

 

「……覚えている」

 

答えになっていない。

だが答えられないわけではない。

選んでいる。

 

「言えない?」

 

僕は確認する。

 

「言わない」

 

訂正。

意図的だ。

これは他の個体にはなかった性質だ。

意志がある。

選択がある。

つまり——定義の外側にある何かが介在している。

 

「なるほど」

 

僕は頷く。

仮説が更新される。

これは単なる再構築ではない。

より複雑な構造だ。

 

「あなたは何だ」

 

僕は聞く。

核心だ。

 

男は笑う。

今度ははっきりと。

 

「お前と同じだ」

 

即答。

迷いがない。

だがその答えは間違っている。

 

「違う」

 

僕は否定する。

 

「僕は僕だ」

 

単純だが重要な主張。

自己同一性の確立。

だがそれは、証明されていない。

 

「証明できるか?」

 

男が言う。

逆転。

問いが返される。

 

「できる」

 

僕は言う。

躊躇はない。

 

「どうやって?」

 

方法を問う。

合理的だ。

 

「差異で」

 

僕は答える。

 

「僕は僕以外と違う。その差異が、僕を僕たらしめている」

 

論理としては成立している。

だが完全ではない。

差異は相対的だ。

相手がいなければ成立しない。

 

「なら、俺も同じだ」

 

主張。

だがそこには穴がある。

 

「あなたの差異は不安定だ。他と比べて“少し違う”だけだ。それは定義の範囲内だ」

 

完全な逸脱ではない。

誤差の範囲だ。

誤差は、同一性を否定しない。

 

「じゃあ何が違う」

 

男が問う。

良い質問だ。

答えはすでにある。

 

「起点です。あなたには起点がない」

 

男の表情がわずかに歪む。

初めての変化だ。

 

「人間は連続性で定義される」

 

僕は続ける。

 

「過去から現在へと続く流れ。その起点が必要だ」

 

だがこいつにはそれがない。

記憶はある。

だが、それは生成されたものだ。

連続していない。

 

「最初がない。だから、どれだけ精度が高くても“本物”にはなれない」

 

決定的な差異だ。

埋められない差だ。

 

「……なら、本物はどこだ」

 

問いは戻る。

だが答えは変わらない。

 

「いない。最初から」

 

あるいは、消えた。

どちらでもいい。

結果は同じだ。

 

「じゃあ俺は何だ」

 

再びの問い。

今度は少しだけ弱い。

 

「定義です」

 

僕は答える。

 

「定義の集合体。人間だったという情報の残骸」

 

残酷だが正確だ。

 

男は黙る。

周囲の個体も静かになる。

音が消える。

均一だったノイズが、完全に途切れる。

 

「……お前は?」

 

男が言う。

 

矛先がこちらに向く。

予想通りだ。

 

「僕は僕です」

 

僕は答える。

だが、その答えは先ほどと同じだ。

進展がない。

 

「それは定義じゃないのか」

 

鋭い。

だが当然だ。

ここまで来れば、その疑問に至る。

 

「そうです」

 

僕は認める。

 

「僕もまた、定義の集合体だ」

 

否定しない。

否定できない。

 

「名前、記憶、役割それらで構成されている」

 

ここまでは同じだ。

だが違いがある。

 

「だが僕には起点がある」

 

そう信じている。

少なくとも現時点では。

 

「本当に?」

 

男が言う。

 

疑問。

だがそれは、こちらに刺さる。

記憶。

連続性。

起点。

それらは本当に保証されているのか。

改竄されていないと言い切れるのか。

欠落していないと証明できるのか。

 

「……問題ない」

 

僕は言う。

即答する。

間を置かない。

それが重要だ。

迷いはノイズになる。

 

「少なくとも、今の僕は僕だ」

 

現在に限定する。

過去や未来は不確定だ。

だが現在は観測できる。

観測できるものは、存在する。

 

「なるほど」

 

男が言う。

 

「じゃあ、壊してみろ」

 

挑発。

だが合理的だ。

この構造を崩せるかどうか。

それがすべての証明になる。

 

「言われなくても、そのつもりです」

 

視線を上げる。

周囲の個体。

すべて同じ定義の上にある。

だがその中心にいるこいつが、最も“近い”。

だからこそ、ここを壊せば全体が崩れる。

 

「終わりにしよう」

 

僕は言う。

宣言。

これは分析ではない。

実行だ。

 

定義は不完全だ。

不完全な定義は、必ず矛盾を含む。

矛盾は破綻を生む。

破綻は崩壊を引き起こす。

やることは単純だ。

その矛盾を、露出させる。

 

「お前は誰だ」

 

僕は言う。

 

問い。

だがこれは単なる質問ではない。

定義の強制だ。

 

男は答える。

 

「ジョンだ」

 

即答。

 

「違う」

 

僕は否定する。

 

「それは名前だ」

 

名前はラベルだ。

本質ではない。

 

「じゃあ何だ」

 

男が言う。

 

「定義を示せ」

 

要求。

完全な定義を提示しろという無理難題。

だが、それができなければ存在は維持できない。

 

男が黙る。

言葉が出ない。

定義が崩れている。

 

周囲の個体が揺れる。

同期している。

中心の不安定さが、全体に波及している。

 

「お前は誰だ」

 

もう一度言う。

反復。

圧力をかける。

 

「……俺は」

 

男が言葉を探す。

だが見つからない。

元がないからだ。

起点がないからだ。

定義が閉じていないからだ。

 

「俺は……」

 

そこで止まる。

終了しない文。

未完の定義。

 

「不完全だ」

 

僕は言う。

確定。

 

「それが答えだ」

 

音がする。

ひび割れる音。

空間に亀裂が入る。

視界が歪む。

同じ顔が崩れる。

輪郭が解ける。

定義が維持できなくなっている。

 

「終わりだ」

 

僕は言う。

これは宣言ではない。

分析結果だ。

 

本物はいない。

最初から。

あるいは、すでに消えている。

残っているのは定義だけ。

その定義も、いま崩れている。

 

「……そうか」

 

男が言う。

最後の言葉。

納得とも、諦めともつかない。

 

「ああ」

 

僕は答える。

短く。

それで十分だ。

 

男の輪郭が消える。

完全にではない。

だが維持できない。

存在がほどける。

 

周囲も同様に崩れていく。

町が揺れる。

看板が消える。

名前が消える。

定義が消える。

存在が消える。

 

残るのは何もない空間。

あるいは、最初から何もなかった場所。

 

「……なるほど」

 

僕は呟く。

 

本物は存在しない。

少なくとも、ここには。

だがそれでも、人は存在していた。

しているように見えた。

それは事実だ。

事実は否定できない。

 

「定義だけでは足りない」

 

結論。

だが完全な結論ではない。

まだ一つ、問題が残っている。

僕自身だ。

僕の定義は、完全か。

僕の起点は、保証されているか。

証明はできない。

だが今は、問題にしない。

問題にするのは、最後でいい。

 

「次だ」

 

僕は言う。

 

崩れゆく空間の中で。

分析は終わった。

あとは、結論を出すだけだ。

ここは終わる。

だが、旅は終わらない。

終わらせるまでは。

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